蛮夷である楚王ですら部下に諫言される蛮族ムーブについて | ziro-4のブログ

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この記事は「『ヒストリエ』のメムノンについて(前編)」(参考)の付属です。

 

・蛮夷である楚王

「(楚の国主である)熊渠は「わしは蛮夷だから、中国の爵号や諡号にかかわらなくてよいのだ」と言って、長子康を立てて句亶王とし、次子紅を鄂王、末子執疵を越章王とした。それらは、みな江辺の楚の蛮地であった。 (司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.279)」

 

・蛮夷である楚王ですら部下に諫言される蛮族ムーブ

「  (魯の宣公十一年に)楚が陳の夏氏を討った時に、楚の荘王は、(陳の大夫夏徴舒の母で御叔の妻であった)夏姫を妾に迎え入れようとした。すると、申公巫臣は、「いけません。君には諸侯を呼び集めてその君を試した夏徴の罰を討たれました。しかるに今、夏姫を妾に迎え入れようとなさるのは、色をむさぼり美人を得るがための戦争ということになります。色をむさぼるのを淫と申し、淫を大罰と申します。周書に、『徳を明らかにし罰を慎んだ』とありますが、その心構えが文王の周室を建設されたいわれであります。徳を明らかにするということは、大いに徳を尊ぶことであり、罰を慎むということは、できるだけ努力して刑罰を除くということです。もしも諸侯の軍勢を率いて、その結果大罰なる淫乱を求めたというならば、罰を除くように慎むということではありません。君にはどうかお考えください」と諫めたので、王は思い止まった。(左丘明 『新釈漢文大系 31 春秋左氏伝 二』  「成公二年」 鎌田正訳 明治書院 1974年 p.694)」

 

女を奪うために戦争するのは古代中国の価値観的にちょっとあれだったらしい。

 

ちなみに、こういう風に王が夏姫を娶ることを道理を説いてやめさせた巫臣は、この後に夏姫を娶ろうとした公族の動きも不吉な女だからやめた方が良いと言って阻止した後に、夏姫を自分のものにした上に国外逃亡するクソ野郎です。