太平洋戦争史と心霊世界 -11ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


大正末期の高等小学校の教科書 


 実家には明治時代からの書籍が幾つか保存されているのですが、その中に大正15年に発行された「高等小学読本・第三学年用下」という教科書があります。現代では中学三年の教科書に相当します。

 

 この内容の中から興味深いトピックを抜出しご紹介しますが、国旗と陸軍軍旗、海軍軍艦旗を取り上げている章があります。

 

教科書に採用されているという事は、当時の明治~戦前昭和の人々は誰でも、日章旗や軍旗にまつわる知識を、早くも子どもの頃から涵養されていたのでしょう。当時の国民性を観察するうえで、教科書とは興味深い資料です。

 

以下より「高等小学読本・第三学年用下」からの引用です。旧漢字・旧言葉遣いは現代語に適宜修正してあります。



もくじ 

「高等小学読本・第三学年用下」、もくじ


  

 

第三課 国旗と軍旗・軍艦旗

 

 

「純白の地は皓潔(こうけつ)の性、真紅の紋は至誠の情、白は平和沈静を表し、赤は熱烈活動を示す。抑、列国いずれも国旗の制なきはなく、国旗はすなわち邦家(ほうか・注1)の歴史、国民の理想を語る。」

 

【注1】邦家(ほうか):国。国家。特に、自分の国。

 

「白地日照の旗は我が国体の徽章、国民精神の記号、翩翻(へんほん・注2)としてその風に閃(ひらめ)くを望めば、何ぞそれ鮮明にして純一に、端正にして偉大なる。」

 

【注2】翩翻(へんほん):旗などが風にゆれ動くさま。

 

「他国と交通せざる時代には、未だ国家の標号を要せず、広く世界に交り、列国に封するに及びて、すなわち国旗なかるべからず。古(いにし)え我が国にはその定めなかりき。

 

幕末の世、繁(しげ)く海外と交渉するや、安政元年、幕府令して、日章旗をもって日本総船印として外船に紛れざらしめ、後数年使節を北米合衆国に遣わしたる時、これを国旗として用いしめぬ。

 

国旗の起源かくの如しといえども、紋章の由(よ)って来れる所は遼遠なり。畏(かしこ)くも皇祖の御名は大日孁貴(おおひるめむち)また天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し奉り、歴代の天皇は天(あま)つ日嗣(ひつぎ・注3)にまします。」

 

【注3】日嗣(ひつぎ):天皇の位を敬っていう語。

 

「大神一たび磐戸(いわと)を閉じたまえば六合晦冥(かいめい・注4)なりきというは、天日と徳を等しくしたまいしなり。」

 

【注4】晦冥(かいめい):あたりが暗くなること。また、暗やみ。

 

「小野妹子(おののいもこ)の使して隋に行くや、国書にいわく、『日出所(ひいずるところ)の天子、日没処(ひぼっするところ)の天子に致す。』と。日本をもって名とする我が国が、国旗の紋とすべきもの、日章を措(お)いてはた何かあらん。」



陸軍旗 

ボロボロになっても使用し続ける陸軍旗



「陸軍の歩騎兵には連隊毎に一旒(いちりゅう)の軍旗あり。古代にあっては、新田の中黒、足利の二つ引き両の如き、一門一黨(いちもんいっとう)の私旗にすぎず。

 

天皇の御旗としては錦旗ありしかど、武家跋扈の世には御旗の風弱くして、皇軍の儀容を示す機会も少かりき。維新の際に至りて、帝威頓に揚(あが)り、燗(かん)として錦旗の輝く処、四民これを仰ぎて、世は直ちに明治の昭代となれり。

 

明治三年、陸軍の旗章を定められ、同七年一月二十三日、近衛歩兵第一第二連隊の編制成り、車駕(しゃが・注5)日比谷練兵場に親臨(しんりん・注6)ありて、連帯旗受

興せらる。その式極めて厳粛に、連隊にては年々その当日を記念日として軍旗祭を行う。」

 

【注5】車駕(しゃが):天子が行幸の際に乗るくるま。

【注6】親臨(しんりん)天子や貴人が、その場所にみずから出向くこと。

 

「我が国民は平時は煕々(きき)たる春日の如く穏和なれども、戦時は熾烈の光に敵国を懾伏(しょうふく・注7)せしむ。我が軍旗はよくこの意気を表せり。」

 

【注7】懾伏(しょうふく):)勢いに恐れてひれ伏すこと。

 

「けだし軍旗は軍隊の精神のある所、天皇の威霊の宿ります所なり。その厳として立つ処は大元帥陛下の御馬前に同じ。

 

これを失えばすなわち軍隊の全滅なり。将卒総(す)べて傷つき倒るとも、なお一兵の存する時、彼は死をもって軍旗護衛の任に当たらざるべからず。

 

されば硝煙弾雨に汚れ裂け、碧血迸注(へきけつほうちゅう)の痕を印し、ほとんど旗竿のみ残れるが如くなりても、軍旗はさらに改造せず、苦戦の記念、名誉の表彰として、永くこれを保持すという。」


海軍軍艦旗 

海軍旗

 

 

「海軍には軍艦に軍艦旗を掲ぐ。こは明治二十二年に定められたものにして、その旗章は日章に添うるに光線をもってしたるものなり。

 

朝夕の揚卸(あげおろし)には、君が代の軍楽もしくはラッパを吹奏し、番兵は捧銃(ささげじゅう)し、甲板にある者はこれに面して敬礼を行うの制たり。」(藤岡作太郎)



読本、内容 
「高等小学読本・第三学年用下」、第三課 国旗と軍旗・軍艦旗のページ。


ガーベラ  


  シルバーバーチなど高級霊の語った霊界通信をもとに、霊界の様相などを解説しています。

 

人間の人生は誕生と同時に、前途にあらゆる可能性が広がっているかように見えます。しかし実は人生の大まかに進む道筋は決められており、100%何でもあらゆる事ができる人生というものはありません。

 

シルバーバーチ曰く、人間は生前に大まかな人生の計画を立て、誕生後はそれに従って決められたプログラムを遂行していくそうです。


  花 花   花 花   花 花   花 花

 

 

赤字はシルバーバーチの言葉)

 

「物資界に生まれ出るに際しては、大体において今回はこうしたいという確たる目的を心に決めております。が、いざ物的身体に宿ってしまうと、種々雑多なエネルギーの相互作用に巻き込まれます。

 

中にはその初心の霊的目的に気づかないまま、愚かな道にはまり込んでしまう人もいます。自由意思がある以上、それもやむを得ません。

 

そこで背後霊というものが用意されていて、自己実現にとって最善の道へ導こうと努力します。あなた方のもとを訪れる人の中には、そうやって背後霊に導かれて来ている場合があるのです。

 

その時こそあなた方の活躍の好機です。その人にとっても起爆剤に点火される決定的な出会いとなるかも知れません。

 

 そうした指導をするに際して私達が使用するエネルギーやテクニックは極めて微妙で、地上の言語ではとても説明できません。が、基本的には、地上で使用する身体は自分で選んでおり、歩むべき道もあらかじめ承知しております。

 

しかも、順調に運べば見事に開花してサービスに役立てることの出来る霊的才能をたずさえていることもあります。

 

 しかし、人間には自由意思が許されています。いよいよ重大な岐路にさし掛かった時、約束したはずの道を嫌がって気楽な人生を選んでしまえば、それはそれでやむを得ないことです。

 

そういう選択をした者が、死後に後悔して、もう一度やり直すということも現実にあることです」

 

 

 

【解説】以上のシルバーバーチの言葉を箇条書きにしてみました。

 

・人間は生前に、あらかじめ人生の計画を立てて誕生してきます。しかしいざ地上に誕生すると、霊的感覚が非常に鈍くなるため生前の計画をはっきり思い出せなくなります。従って人生計画を大きく離れて、逸脱した人生を送ってしまう人も中には出てきます。

 

・「背後霊」とは守護霊とも呼ばれることがあります。人間一人には背後霊一霊が必ず付いており、何かにつけその人間の面倒を見、アドバイスを送っています。

 

・地上で使用している肉体も、あらかじめ生前に立てた人生計画に適うような身体を自ら選んでいます。身体にも美醜などの外見、病気になりやすい体質など、様々な個人差が生じますが、これらも人生計画を遂行する上で必要な要素だったということになります。

 

・生前立てた人生計画よりも、気楽な人生を選択することも可能です。しかしその場合、現世で解決すべき課題がクリアできなかったという事態になりがちです。その場合、再度地上に誕生し、クリアできなかった人生の課題をやり直さねばなりません。


木 
 

 

 

「そうやって道を間違えた場合に、その人生を途中で切り上げるということは致しません。

 

背後霊にもそういう権限はありません。力量もありませんし、そうしたいとも思いません。あくまでもサービスと指導へ向けて努力します。自己実現をしようとしている魂に余計な干渉はしません」

 

 

 

【解説】生前の人生計画から大きく道を外れた場合も、やり直すために寿命を縮めて途中で死ぬということはありません。寿命とは生前から大まかに決まっているものであり、それを大幅に変えることはできません。

 

また自殺をした場合は自ら人生を放棄したのですから、再度地上世界で苦しい人生を送らねばならないことになります。

 

 背後霊も本人にアドバイスは送りますが、こうしろ、ああしろという命令はできません。霊界では本人の意思が最大限尊重されますので、背後霊とも他人に口出しすることは厳しく禁じられているのです。


麦 
 

 

 

――自分の身体を自分で選んだということは、親も自分で選んだということですか。

 

「むろんです。賢明なる子は親のことをよく知っております」(賢明なる親はわが子のことをよく知っている、というシェークスピアのセリフを言いかえている)

 

 

 

【解説】自分の身体は生前自分で選びましたが、自分の親もまた生前に自分が選んだ人となります。

 

 ですから自分が選んだ親に対し、あれこれ不満を言うのは本来ならば筋違いともいえる行為です。が、何分生前の記憶をみな喪失しているため、自分の選択に自分で不満を述べるといった、矛盾に満ちた状態に置かれがちになります。

 


 

『シルバーバーチ最後の啓示』、7章 四つの団体の代表を迎えて


 

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海軍士官 
 

  陸軍では陸軍大学校出身者が指導部の中枢を占めましたが、海軍では海軍大学校はそれほど重視されていませんでした。そんなわけで、海軍での出世にはハンモック・ナンバーが大きな影響を及ぼしました。

 

 「ハンモック・ナンバー」とは海軍兵学校での卒業席次順です。特に卒業席次1位のクラスヘッドが重視されていました。


  海軍では理数系が重視されたため、兵学校での卒業席次も理数系に強い学校秀才型の人間に有利でした。従って個性的、或いは独創的な人物は避けられ、役人型の大勢順応型が海軍の中枢部を占めました。

 

 海軍での昇進システムは、クラスを卒業席次順に数クラスに分け、後のクラスの選抜者を前のクラスに割り込ませる選抜制度をとっていました。



海軍人事の選抜制度 

海軍人事の選抜制度。後のクラスの選抜者(成績優秀者)を前のクラスに割り込ませる。


 

 この点について海軍兵学校長を勤めた井上成美は、兵学校卒業席次と昇進についての研究を行っています。その結論は34年を過ごした海軍兵学校での成績が、卒業後25年の昇進に匹敵するほどの大きな影響を持つ、ということでした。

 

 海軍では77名の海軍大将が存在しましたが、皇族3名、戦死後の昇進者5名、海兵以外からの昇進者15名を除くと、55名が兵学校出身者となります。それを成績順分けると以下になります。

 

10番以内:39人(首席9人)

11番以下:15人。3割に満たない

 

 その3割に満たない層から、以下の著名軍人が輩出されました。

 

・野村吉三郎(26期):59人中43

・末次信正(27期):113人中68

・米内光政(29期):125人中68

・及川古志郎(31期):188人中76

 

 海軍では機械を操作する能力、つまり理数系が重視されたため、理系の学校秀才型の軍人が重鎮のポストを占めたのは、合理的な人事の取り方でした。

 

 しかし艦艇に乗り組む現場では、戦闘や突然の気象変転など、不測の事態での臨機応変の対応を余儀なくされる場合が多くなります。この場合、じっくり熟慮する学校秀才型よりも、即断即決の出来る軍人が求められます。

 

 典型的な例として、キスカ島無血撤収を成功させた第一水雷戦隊司令官、木村昌福少将41期)がそれに相当します。



木村昌福 

海軍少将、木村昌福(18911960年)。最終階級は中将。


 

 木村司令官は濃霧を利用し、わずか1時間足らずでキスカ島の将兵約5,600人を収容させました。彼のハンモック・ナンバーは118名中107番、後ろから数えた方が早い席次でした。

 

 そのため昇進面でもパッとせず、鎮守府の警備艇のような日の当たらない部署への転勤を繰り返していました。

 

 大佐時代には、すでに42期や43期など下のクラスの後輩に出世を越されていました。

 しかしキスカ島撤退に当たっては上層部の意向に反し、何回も延期を重ねて決行を待った木村司令官は中央の「赤レンガ」組にはない、独断専行を重視した作戦で成功を収めたのでした。

 

『海軍と日本』、池田清、中公新書、1981年


Nature1 


  当ブログでは高級霊の霊界通信『シルバーバーチの霊訓』を毎週取り上げています。その中でも、病気関連の話は結構トピックが割かれている分野です。

 

でも正直なところ、自分自身が病人となるまでは、一体どのような姿勢で病気に対峙すればよいのか、『シルバーバーチの霊訓』の中でその解釈が曖昧なままとなっていました。

 

 シルバーバーチは地上世界にいる場合はそれが修行期間であるのだから、生きている間は精一杯頑張りなさい、と回答しています。

 

一方で死とは苦しい地上世界からの解放であり、喜ばしい事であるという見解です。現在の社会では「死」とは忌まわしいイメージが付きまといますが、霊界視点ではその価値観が180度ひっくり返り、「死」は祝賀行事イベントとなってしまっています。


人が死ねば、彼・彼女の前世や現世で関係のあった知人らが出迎え、やっと霊界に帰って来たかと死者を祝福します。霊界視点では地上は重く苦しい修行の世界であり、霊界は全てが美しく幸福な世界です。

 

地上にいる間は一生懸命生き、死期が来れば従容として死を迎え霊界へ向かう。これが霊界視点での理想的な生き方です。

 

じゃあ一体いつ生きようと言う姿勢から、死ぬぞという心持ちに切り替えればいいんだろうか、というのが私には分からなかったんですね。 

 

この時期は多分、人によってまちまちになるんではないでしょうか。自分が病気をしてみて、そう実感しました。


Nature2 

 

私自身は「生きよう」という姿勢から、「いよいよ死ぬぞ」という気持ちに切り替えるのは病気が悪化して、もう自力で飲食できないという状態になった時かな、と現在では考えています。

 

自分で食べられないということは、もう自分で生きられないということですからね。そういう生活では自分の意志も反映されにくくなりますし、そうなるとそれは、自分の人生じゃない、ということにもなってくると思います。

 

だから不治の病であっても、いつか来る死を恐れず、受容する。その上で生きよう、病気が良くなるぞと前向きに考えるのが、生きるための建設的な姿勢なのでしょう。

 

しかし病名を宣告されると、何が何でも生きたいとがむしゃらになる人と、もうだめだと自暴自棄になって、人生を投げてしまう人も中にはおられます。

 

これが途中で「死を受容しながら前向きに生きる」派に転向する人達もいますし、最期まで「死にたくない」派、「どうでもいいや」派のまま死んでしまう方々もいらっしゃいます。

 

「何が何でも生きたい」派と、「自暴自棄」派はやはり、人生を最後まで全うするうえで、霊界通信の視点から言っても、ちょっと問題が出てくるのではないのかな、と思います。どう問題が出るかはまた次回書こうと思います、長くなりますので。

 

とはいえ、私自身も病気が発覚した時点で、一瞬ですが「もうどうでもいいや」と正直思ってしまいましたけど。何でも体験してみないと分からない部分ってありますね。(;´▽`A``


水兵 


 第二次世界大戦が勃発した時、黒人の大多数は第一次世界大戦での苦い経験を思い出し、冷めた傍観者の立場を取っていました。

 しかし一部には、戦争に協力することによって自分たちの社会的地位が向上するのでは、というかすかな期待も持つ者もありました。

 

 大戦当初、軍隊内での黒人の地位や待遇は、第一次大戦当時とあまり変わらず、人種隔離が続いていました。

 

 「ある基地の礼拝施設には、『プロテスタント、カソリック、ユダヤ人、黒人』の礼拝時刻表が掲示されていた」

 

 「軍隊に入った黒人の多くは、従来と同様、雑役や輸送の任務を与えられていたが、特に危険な作業をさせられることもあった。

 

1944717日、サンフランシスコ近郊ポートシカゴで爆発事件が起こり、320人が死亡したが、その三分の二は黒人だった。白人司令官は、十分な訓練も受けていない黒人兵に競争させながら弾薬の積み下ろしをやらせたのである」

 

国内の分裂は戦争遂行においても、むろんマイナスに働きますが、アメリカ一般市民の心はそう簡単に変わるものではありませんでした。

 

「南部ではドイツ人の捕虜より黒人の待遇の方が悪い街があったり、白人の警官が黒人兵士を殺して罪に問われない事件があったりした」

 

194243日付の『ニューヨーク・タイムズ』は、電話ボックスをどちらが先に使うかをめぐる黒人と白人の争いに端を発した衝突で3人の兵士が死に、5人が負傷した事件を報道したが、このような事件は全国各地で発生していた」


ドーントレス 

 

第二次大戦の末期になると、軍隊内の人種隔離は黒人の士気をくじくことが憂慮され、一部の政策転換が行われました。

 

19442月、海軍は士官を除く乗組員が全員黒人という軍艦を二隻会場任務に就けたが、同年8月、すべての補助艦船に黒人を乗船させることにし、1945年夏までに海軍基地ではすべての施設の人種隔離が解かれた」

 

「陸軍では、黒人将校の数が少なく、彼らだけを集めて独自に訓練を行うことができなかったので、当初から白人と一緒に訓練が行われた。

 

雑誌『タイム』は、『黒人と白人の士官候補生が、ジョージア州の訓練キャンプで肘を突き合わせて行進し、教室で隣に座り、同じ食堂で食べ、同じ兵舎で寝ている』と報告している」

 

空軍でも当初、黒人の採用に躊躇が見られましたが、大戦末期には600人の黒人パイロットが活躍しました。

 

大戦において黒人の軍隊での貢献は、第一次大戦同様に高く評価されるものでした。工作隊には最初から黒人部隊が採用されましたが、期待以上の成果を収めました。

 

「ヨーロッパ戦線ではノルマンディー上陸後のDデイ作戦のあと、5万人もの黒人工作隊が戦闘部隊の前進を助けて、物資の補給や破壊された道路、橋の修復などで働いたし、太平洋戦線では約1万人が、飛行場や道路の建設に当った」

 

大戦末期の451月、ヨーロッパ戦線では白人部隊と黒人部隊が統合されることとなりました。前線では戦闘により部隊の兵士が戦死して減っていきますが、一つの部隊を維持できないほど減った時には他の部隊を統合して新しい部隊を編制し直します。

 

そんな中で行われた混成編成でしたが、この部隊により黒人部隊の士気も高まり、部隊自体も目覚ましい戦果を上げました。

 

アメリカ社会では第二次大戦の体験を持って以後、人種関係改善の重要性が認識されるようになりました。そして1950年代から60年代にかけて、黒人層の待遇の改善を求める公民権運動が盛り上がりを見せます。

 

 

・『歴史物語 アフリカ系アメリカ人』、猿谷要、朝日選書、2000

・『アメリカ黒人の歴史』-奴隷貿易からオバマ大統領まで、中公新書、2013

・『エスニック・アメリカ』-多文化社会における共生の真実、明石紀雄・飯野正子、有斐閣選書、1984