太平洋戦争史と心霊世界 -12ページ目

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


水兵と星条旗 


 アメリカ社会にはジム・クロウ法という人種隔離政策が1964年まで存在していました。米国軍隊内でもそれは例外ではなく、2つの大戦中アメリカでは、部隊も白人と黒人といった人種的な分離がなされていました。

 

 第一次世界大戦がヨーロッパではじまると、アメリカ合衆国は19174月に参戦しました。

 

 アメリカ黒人層も、自分たちがアメリカ人であることを内外に示す絶好の機会であると捉えました。

 

当時黒人は全人口の約10%を占めていましたが、米軍内での比率は13%でした。それだけ黒人たちも、自分たちの地位向上が改善されるのに期待し、熱心に参戦しました。

 

それに先立ち、様々な人種的問題が生じてくるのですが、黒人たちは最初に各州にある特設のキャンプに送られ、そこで白人将校から訓練を受けました。

 

ところが将校養成キャンプは、最初白人のものしかありませんでした。そこでニュートン・パーカー陸軍長官はカレッジを卒業している黒人を集めて特別のキャンプを設立しました。

 

191710月までにここで将校の辞令を受けた黒人は、陸軍大尉106名、中尉329名、少尉204名に上りました。


米軍機 

 

しかしこの事が、多くの人種的紛争や摩擦の種となりました。軍隊では階級の上下を明確にすることにより秩序が保たれ、同じ階級内では平等がゆきわたっています。

 

そのため当然黒人将校に、白人が恭順の意を示さねばならない場面も出てきます。実際には白人が黒人将校に挨拶もしない、或いはやむなく形だけの挨拶をする、というのが実情でした。これが国内での暴動の原因ともなりました。

 

テキサスのヒューストンにある黒人部隊では、町で実施されている人種別車両(ジム・クロウ・カー)に兼ねてから不満を抱いていました。ある日その不満がついに爆発し、黒人兵士の何人かが白人専用の車両に乗り込んだところ、追い払われました。

 

これを聞いた別の黒人部隊が街へ戻って警官たちと衝突し、18人を殺害するという暴動に発展しました。軍法会議の結果、黒人兵19人が絞首刑、41人が終身刑となりました。

 

ところで黒人部隊自体は西部戦線に派遣され、予想を遥かに上回る活躍ぶりを見せていました。一例では最初に投入されたのは陸軍歩兵第36連隊で、1917末フランスに上陸してフランス軍に合流し、各地を転戦しました。

 

戦果もめざましかった半面、損害も一番多い部隊でした。部隊内で賞状や勲章を受けた者は、174名にものぼりました。

 

戦闘ではめざましい戦果を上げた半面、国内では相変わらず差別的に扱われるといった状況では、その矛盾ぶりに不満が出ないはずはありません。

 

このように移民国家であるアメリカは、国内にも収拾のつかない分裂を抱えるといった、複雑な状況を抱えていました。


葉 


 最近PCを使うと目が非常に疲れて困っていました。どうしたものかと対策を考えていましたが、PCのブルーライトをカットするというメガネを家電店で購入したところ、眼精疲労が激減!

 

 ついでに首や肩こりも軽減されました。PC画面から出るブルーライトは眼精疲労の原因になると言われています。PC画面の光は、射るように目の奥に差し込んできますが、メガネでその痛い光がカットされているのが感じられます。

 

 「効果がない、デタラメだ」という話もネットに出回っています。プラセボ効果も幾分入っているのかもしれませんが、私の場合は明らかに効果がありました。効果の度合いも人によって差が出るのかもしれませんね。


メガネ1 

 私自身は目が悪いので、約3,000円のメガネに装着するアタッチメント式のグラスを買いました。コンタクトレンズをしている時は、普通の伊達メガネに上のグラスを装着して使っています。ブルーライトを50%カットする製品です。



メガネ2 

 このような、ブルーライトをカットする伊達メガネもあります。こちらは2,000円くらい。ブラウンの色が付いている方が、よりブルーライトをカットするらしいです。

 

 それにしても、私の場合はこのメガネが有るのと無いのとでは、目の疲労度に雲泥の差が出ます。

 今まで家電店で見かけても、胡散臭くてホントに効くの?という感じでスルーだったのですが、もっと早く買えばよかった・・・。ヽ(;´ω`)ノ

 

 PCで目が疲れて困るという方、一度試してみてはいかがでしょうか?

 

 それと、以下に無料でブルーライトをカットできる方法というのもがあります。



PCメガネ不要!無料で出来るブルーライトカット方法

http://matome.naver.jp/odai/2134899470957440901


説明書 

ブルーライトカットメガネの説明書


ソロモン諸島  ラバウル(ニューブリテン島)、ブーゲンビル島、ガダルカナル島


 太平洋のソロモン諸島に位置するガダルカナル島は「ガ島」と呼ばれていました。太平洋戦争下では連合軍の攻撃により補給路を断たれ、餓死者が続出したガダルカナル島は飢餓の島、つまり「餓島」(がとう)とも言われていたことは有名です。

 

 ソロモン諸島には他にも「墓島」(ぼとう)と呼ばれていた島がありました。ガダルカナル島の北に位置するブーゲンビル島です。

  1943
(昭和18)年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で撃墜死されたことでも島の名は知られています。

 

 「ブーゲンビル」なのに、何故「ブ島」でなく「墓島」(ぼとう)なのかというと、ブーゲンビル島はもともとドイツ領だったためです。それで当時の島名も日本では、ドイツ語で「ボーゲンビル島」と呼ばれていました。

 

 墓島、つまりブーゲンビル島では、駐留していた将兵6万人以上のうち、2万人以上が飢餓や病気で衰弱死しました。そのほとんどが20代でありました。

 

 第二次大戦下ではブーゲンビル島はオーストラリア領でしたが昭和173月、日本軍は豪軍と米軍の連絡航路を断ち切るための作戦として、ブーゲンビル島を占領しました。(FS作戦)

 

 ブーゲンビル島では飛行場が建設されました。隣島のニューブリテン島・ラバウルからブーゲンビル島を経由し、ガダルカナル島へ連合軍への攻撃が実施されていました。ブーゲンビルは両島の中間基地の役割を果たしていました。


陸軍 

 

 ところがガダルカナルが連合軍に押され、ブーゲンビル島へと撤退が始まると、今度は米軍のブーゲンビル島への攻撃が始まりました。

 

 タロキナから上陸し島を席巻する勢いの米軍に、これを邀撃する日本軍の兵力は、わずか米軍の6分の一です。

 

米軍との激しい交戦に日本軍は壊滅的な損害を被り、守備隊であった歩兵第23連隊長・浜之上俊秋大佐は大本営に撤退を具申しました。しかし大本営はこれ拒否、浜之上連隊長はその後内地へ召還されたのち、左遷されています。

 

浜之上連隊長は手記により、大本営の作戦は机上の空論であると批判していました。

 

「之(これ)は戦斗(せんとう)よりも、虐殺に等しい例であった。遂に全滅に陥るとは必然。致方(いたしかた)はない。一片の恥を忍んで、敵の射程外に部隊を移動し、攻撃を準備する外(ほか)に道はない」

 

米軍はタロキナにその後飛行基地を建設し、ブーゲンビル島に駐留し続けましたが、以後は日米両軍の激しい衝突は生じませんでした。日本軍にとっては戦闘どころか、補給路を断たれ第一に食料の確保に苦心惨憺する有様でした。

 

こうして昭和208月の終戦まで、ブーゲンビル島ではガ島同様、栄養失調で大量の餓死者が生み出されていました。

 

南太平洋の島々では戦いにおいて、日本軍は最初にFS作戦(米豪遮断作戦)による日本軍の島嶼占領、次に連合軍の反撃、やがて日本軍の撤退・または小島での孤立化、最後に連合軍の飛び石作戦で補給路を断たれ、飢餓化という経緯を辿っています。

  餓島、墓島は、さしずめその典型的な例といえます。

 

 

 

【動画】[証言記録 兵士たちの戦争]ブーゲンビル 
墓島と呼ばれた戦場 ~都城・歩兵第23連隊~(
43分)

http://urx.nu/a0LI

 

 

 

・『ラバウルの黒い雨』、川上 清、文芸社、2013

・『戦艦大和最後の証言』、久山忍、産経新聞出版、2010

・ウィキペディア『ブーゲンビル島の戦い』



■「死んでもハイカラなじいちゃん」

 

599 :本当にあった怖い名無し 2005/05/18() 21:20:54 ID:Vm2Do4nhO


海 

 

数年前に癌で亡くなったじいちゃん。

 

随分可愛がられてはいたけど、自分が遠くで暮らしていたから、なかなか会えずにいた。 癌が見つかって、余命三か月と言われ。

 

急いで見舞いに帰省した。

 

一族のなかで一番頼りなくて、いつも心配かけていた私。激ヤセしたじいちゃんに、今はこんな仕事してるんだよ、頑張ってるよ と報告した。

 

「そうか~もう心配いらんなぁ」 と、じいちゃんにこにこ。

 

自宅に戻って1週間

じいちゃんは亡くなった。

 

1年後、じいちゃんの夢を見た。

 

クルーザーのデッキで、ワイン片手に女の子はべらせて

ご機嫌なじいちゃんΣ( ̄□ ̄;)

 

「じいちゃん、なんや元気そうやなー」

「おお、ワシ元気に死んどるでえ!」

 

生前からハイカラで旅行好きで、女にモテてたから

死んでも変わらないんだね。

家族に言ったら、それは間違いなくじいちゃんだ

あんたを気にして見に来たんだねえ

と。

 

初盆も近い日の話。



  梅 梅     梅 梅     梅 梅     梅 梅

 

 

【解説】他界して幽界に滞在する祖父の霊


霊界一覧図 

 

人間は他界すると、まず幽界に行きます。幽界は地上とそっくりな世界で、霊界に徐々に馴染んでいくためのテスト環境的な場所です。

 

幽界に慣れた他界者は、次のステップとして霊界に移動します。霊界は他界した霊が仕事や学習をしたりして色々活動する、本来戻っていくべき最終地点です。

 

ということで、他界者はまず地上に似た幽界から生活を始めます。ここでは地上で物質欲が満たされなかった他界者は、想念で欲しい物を創り出して欲求不満を解消します。

 

地上で満たされなかった欲求を解消した他界者は、望めば何でもかなう環境にやがて飽きが来ます。そして仕事や他者への奉仕を望むようになり、自発的に上層界の霊界へと移動していきます。

 

この祖父の霊は、幽界でもまだ低界層の方に滞在していると思われます。夢が正夢だとすると、彼は欲しい物をこしらえて、幽界の生活を楽しんでいる最中なのでしょう。(^_^;)

 

クルーザーや女の子など、幽界・霊界では人や物も思念から作り上げることが可能です。それらが必要なくなると、やがて自動的に消失します。

 

幽界でも上層へ行くと、このような遊び事に飽きた霊が集まってきて、やがて上界層の霊界へ移動するようになります。


 
整列する士官 


 近未来に死亡時期が確定してしまうと、人間は「いつ死んでも構わない」という自暴自棄状態に陥りやすくなる、という内容です。

 

 最初に海軍予備学生として、昭和204月に戦艦大和に乗り組み、沖縄特攻(天一号作戦)に出撃した吉田満氏の手記を取り上げます。吉田氏は大和沈没後に救助され、その後は回天基地に駐在していました。

 

 「(大和特攻後)それからの五カ月を陸上の特攻基地勤務に過ごした私は、そこで終戦を迎えた。まっ先にきたのは、いかに生きるべきかという自問だった。いつでも死ねるという自暴自棄な気楽さによりかかっていた身には、平和の日々は明るくまぶし過ぎた」

 

 「終戦。復員。私を迎えたものは、肉親の涙であり、和やかな生活の慰めであった。だが私は、はからずも戦陣の粗暴と荒涼をなつかしむ自分を見出して愕然とした。

 

いつでも死ねる、いつでも死んでやる。それは何と毒々しい誘惑だったろう。そのおかげで、日常のこまかなつとめを、如何に平然と無視することが出来たろう。

 

だが今ここにあるのは、父母につかえ、一つの文字を心して書き、大過なき一日をよろこばねばならぬ自分にほかならぬのだ」

 

 当時の特攻隊員でも、このように「もうどうなってもいい」という、人生に自暴自棄的な心情を抱いた者も多かったのかもしれません。

 

「生」の対極は「死」です。結局「何が何でも生きたい」という生への望みが絶たれると今度は裏返って、「いつ死んでもいい」という反作用的な心境に到達しやすくなります。

 

従って日常生活もどうでもよくなってきますから、特攻隊員も日頃の勤務に身が入らないという状況が、ままあったのかもしれません。


機体のマーク 

 

一方、米軍も日本軍の特攻隊に劣らず、勇猛果敢であったという話も少なくありません。これは昭和204月の坊ノ岬沖海戦での、戦艦大和の乗組員の証言です。

 

「はっと気づくと、(大和の)高角砲が狂ったように弾丸を打ちあげている。銃も焦げよと機銃兵たちも奮闘している。

 

敵機は勇猛であった。操縦桿をにぎるパイロットの顔がみえるまで接近してくる。

 

――大和魂をもつ日本兵は、世界一勇敢な兵隊である。

 

 と聞かされてきたが、アメリカ兵たちも日本兵にひけをとらない。敵機たちは猛烈な対空砲火にひるまず急襲してくる。

 

 陽光のなか最新鋭の機体がキラキラときらめく。かぞえきれないかずの敵機が真っ青な空のなかに乱舞する。鳥のようだ」

 

 米軍には特攻作戦はありませんでしたが、日本軍との戦闘は勇敢さでは互角とも言えました。米兵は死ぬかもしれないが、万が一つに生きる可能性を掛けて、日本軍に攻撃を挑んできました。

 

 生きる希望があるという事は、まだ未来が継続する可能性があるということです。そのため戦闘以外の日常業務も未来への足掛かりの一環として、意欲的に取り組むことが出来ます。まだ未来があるという楽観的心情が維持できると、士気の向上にもつながるでしょう。

 

 ところが日本軍のように特攻隊員を養成し、彼らの未来を閉ざすことは現場の士気を大きく低下させることになったのではないでしょうか。特攻隊員に選出された時点で、既に彼らには非常に限定された生存期間しか残されておりません。

 

 そこで「もう死ぬんだからどうでもいいや」という心境に達し、前述しましたが日常業務もおざなりになってきます。

 

 結局、苦肉の策から日本軍は特攻隊を編み出しましたが、その反動として現場の士気の低下という隘路をさらに招いてしまいました。

 

 

『戦艦大和最後の証言』、久山忍、産経新聞出版、2010

『戦中派の死生観』、吉田満、文藝春秋、1980