
第二次世界大戦が勃発した時、黒人の大多数は第一次世界大戦での苦い経験を思い出し、冷めた傍観者の立場を取っていました。
しかし一部には、戦争に協力することによって自分たちの社会的地位が向上するのでは、というかすかな期待も持つ者もありました。
大戦当初、軍隊内での黒人の地位や待遇は、第一次大戦当時とあまり変わらず、人種隔離が続いていました。
「ある基地の礼拝施設には、『プロテスタント、カソリック、ユダヤ人、黒人』の礼拝時刻表が掲示されていた」
「軍隊に入った黒人の多くは、従来と同様、雑役や輸送の任務を与えられていたが、特に危険な作業をさせられることもあった。
1944年7月17日、サンフランシスコ近郊ポートシカゴで爆発事件が起こり、320人が死亡したが、その三分の二は黒人だった。白人司令官は、十分な訓練も受けていない黒人兵に競争させながら弾薬の積み下ろしをやらせたのである」
国内の分裂は戦争遂行においても、むろんマイナスに働きますが、アメリカ一般市民の心はそう簡単に変わるものではありませんでした。
「南部ではドイツ人の捕虜より黒人の待遇の方が悪い街があったり、白人の警官が黒人兵士を殺して罪に問われない事件があったりした」
「1942年4月3日付の『ニューヨーク・タイムズ』は、電話ボックスをどちらが先に使うかをめぐる黒人と白人の争いに端を発した衝突で3人の兵士が死に、5人が負傷した事件を報道したが、このような事件は全国各地で発生していた」
第二次大戦の末期になると、軍隊内の人種隔離は黒人の士気をくじくことが憂慮され、一部の政策転換が行われました。
「1944年2月、海軍は士官を除く乗組員が全員黒人という軍艦を二隻会場任務に就けたが、同年8月、すべての補助艦船に黒人を乗船させることにし、1945年夏までに海軍基地ではすべての施設の人種隔離が解かれた」
「陸軍では、黒人将校の数が少なく、彼らだけを集めて独自に訓練を行うことができなかったので、当初から白人と一緒に訓練が行われた。
雑誌『タイム』は、『黒人と白人の士官候補生が、ジョージア州の訓練キャンプで肘を突き合わせて行進し、教室で隣に座り、同じ食堂で食べ、同じ兵舎で寝ている』と報告している」
空軍でも当初、黒人の採用に躊躇が見られましたが、大戦末期には600人の黒人パイロットが活躍しました。
大戦において黒人の軍隊での貢献は、第一次大戦同様に高く評価されるものでした。工作隊には最初から黒人部隊が採用されましたが、期待以上の成果を収めました。
「ヨーロッパ戦線ではノルマンディー上陸後のDデイ作戦のあと、5万人もの黒人工作隊が戦闘部隊の前進を助けて、物資の補給や破壊された道路、橋の修復などで働いたし、太平洋戦線では約1万人が、飛行場や道路の建設に当った」
大戦末期の45年1月、ヨーロッパ戦線では白人部隊と黒人部隊が統合されることとなりました。前線では戦闘により部隊の兵士が戦死して減っていきますが、一つの部隊を維持できないほど減った時には他の部隊を統合して新しい部隊を編制し直します。
そんな中で行われた混成編成でしたが、この部隊により黒人部隊の士気も高まり、部隊自体も目覚ましい戦果を上げました。
アメリカ社会では第二次大戦の体験を持って以後、人種関係改善の重要性が認識されるようになりました。そして1950年代から60年代にかけて、黒人層の待遇の改善を求める公民権運動が盛り上がりを見せます。
・『歴史物語 アフリカ系アメリカ人』、猿谷要、朝日選書、2000年
・『アメリカ黒人の歴史』-奴隷貿易からオバマ大統領まで、中公新書、2013年
・『エスニック・アメリカ』-多文化社会における共生の真実、明石紀雄・飯野正子、有斐閣選書、1984年