人種が隔離されていた米国軍隊【前編】-第一次世界大戦 | 太平洋戦争史と心霊世界

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水兵と星条旗 


 アメリカ社会にはジム・クロウ法という人種隔離政策が1964年まで存在していました。米国軍隊内でもそれは例外ではなく、2つの大戦中アメリカでは、部隊も白人と黒人といった人種的な分離がなされていました。

 

 第一次世界大戦がヨーロッパではじまると、アメリカ合衆国は19174月に参戦しました。

 

 アメリカ黒人層も、自分たちがアメリカ人であることを内外に示す絶好の機会であると捉えました。

 

当時黒人は全人口の約10%を占めていましたが、米軍内での比率は13%でした。それだけ黒人たちも、自分たちの地位向上が改善されるのに期待し、熱心に参戦しました。

 

それに先立ち、様々な人種的問題が生じてくるのですが、黒人たちは最初に各州にある特設のキャンプに送られ、そこで白人将校から訓練を受けました。

 

ところが将校養成キャンプは、最初白人のものしかありませんでした。そこでニュートン・パーカー陸軍長官はカレッジを卒業している黒人を集めて特別のキャンプを設立しました。

 

191710月までにここで将校の辞令を受けた黒人は、陸軍大尉106名、中尉329名、少尉204名に上りました。


米軍機 

 

しかしこの事が、多くの人種的紛争や摩擦の種となりました。軍隊では階級の上下を明確にすることにより秩序が保たれ、同じ階級内では平等がゆきわたっています。

 

そのため当然黒人将校に、白人が恭順の意を示さねばならない場面も出てきます。実際には白人が黒人将校に挨拶もしない、或いはやむなく形だけの挨拶をする、というのが実情でした。これが国内での暴動の原因ともなりました。

 

テキサスのヒューストンにある黒人部隊では、町で実施されている人種別車両(ジム・クロウ・カー)に兼ねてから不満を抱いていました。ある日その不満がついに爆発し、黒人兵士の何人かが白人専用の車両に乗り込んだところ、追い払われました。

 

これを聞いた別の黒人部隊が街へ戻って警官たちと衝突し、18人を殺害するという暴動に発展しました。軍法会議の結果、黒人兵19人が絞首刑、41人が終身刑となりました。

 

ところで黒人部隊自体は西部戦線に派遣され、予想を遥かに上回る活躍ぶりを見せていました。一例では最初に投入されたのは陸軍歩兵第36連隊で、1917末フランスに上陸してフランス軍に合流し、各地を転戦しました。

 

戦果もめざましかった半面、損害も一番多い部隊でした。部隊内で賞状や勲章を受けた者は、174名にものぼりました。

 

戦闘ではめざましい戦果を上げた半面、国内では相変わらず差別的に扱われるといった状況では、その矛盾ぶりに不満が出ないはずはありません。

 

このように移民国家であるアメリカは、国内にも収拾のつかない分裂を抱えるといった、複雑な状況を抱えていました。