実家には明治時代からの書籍が幾つか保存されているのですが、その中に大正15年に発行された「高等小学読本・第三学年用下」という教科書があります。現代では中学三年の教科書に相当します。
この内容の中から興味深いトピックを抜出しご紹介しますが、国旗と陸軍軍旗、海軍軍艦旗を取り上げている章があります。
教科書に採用されているという事は、当時の明治~戦前昭和の人々は誰でも、日章旗や軍旗にまつわる知識を、早くも子どもの頃から涵養されていたのでしょう。当時の国民性を観察するうえで、教科書とは興味深い資料です。
以下より「高等小学読本・第三学年用下」からの引用です。旧漢字・旧言葉遣いは現代語に適宜修正してあります。
「高等小学読本・第三学年用下」、もくじ
第三課 国旗と軍旗・軍艦旗
「純白の地は皓潔(こうけつ)の性、真紅の紋は至誠の情、白は平和沈静を表し、赤は熱烈活動を示す。抑、列国いずれも国旗の制なきはなく、国旗はすなわち邦家(ほうか・注1)の歴史、国民の理想を語る。」
【注1】邦家(ほうか):国。国家。特に、自分の国。
「白地日照の旗は我が国体の徽章、国民精神の記号、翩翻(へんほん・注2)としてその風に閃(ひらめ)くを望めば、何ぞそれ鮮明にして純一に、端正にして偉大なる。」
【注2】翩翻(へんほん):旗などが風にゆれ動くさま。
「他国と交通せざる時代には、未だ国家の標号を要せず、広く世界に交り、列国に封するに及びて、すなわち国旗なかるべからず。古(いにし)え我が国にはその定めなかりき。
幕末の世、繁(しげ)く海外と交渉するや、安政元年、幕府令して、日章旗をもって日本総船印として外船に紛れざらしめ、後数年使節を北米合衆国に遣わしたる時、これを国旗として用いしめぬ。
国旗の起源かくの如しといえども、紋章の由(よ)って来れる所は遼遠なり。畏(かしこ)くも皇祖の御名は大日孁貴(おおひるめむち)また天照大神(あまてらすおおみかみ)と申し奉り、歴代の天皇は天(あま)つ日嗣(ひつぎ・注3)にまします。」
【注3】日嗣(ひつぎ):天皇の位を敬っていう語。
「大神一たび磐戸(いわと)を閉じたまえば六合晦冥(かいめい・注4)なりきというは、天日と徳を等しくしたまいしなり。」
【注4】晦冥(かいめい):あたりが暗くなること。また、暗やみ。
「小野妹子(おののいもこ)の使して隋に行くや、国書にいわく、『日出所(ひいずるところ)の天子、日没処(ひぼっするところ)の天子に致す。』と。日本をもって名とする我が国が、国旗の紋とすべきもの、日章を措(お)いてはた何かあらん。」
ボロボロになっても使用し続ける陸軍旗
「陸軍の歩騎兵には連隊毎に一旒(いちりゅう)の軍旗あり。古代にあっては、新田の中黒、足利の二つ引き両の如き、一門一黨(いちもんいっとう)の私旗にすぎず。
天皇の御旗としては錦旗ありしかど、武家跋扈の世には御旗の風弱くして、皇軍の儀容を示す機会も少かりき。維新の際に至りて、帝威頓に揚(あが)り、燗(かん)として錦旗の輝く処、四民これを仰ぎて、世は直ちに明治の昭代となれり。
明治三年、陸軍の旗章を定められ、同七年一月二十三日、近衛歩兵第一第二連隊の編制成り、車駕(しゃが・注5)日比谷練兵場に親臨(しんりん・注6)ありて、連帯旗受
興せらる。その式極めて厳粛に、連隊にては年々その当日を記念日として軍旗祭を行う。」
【注5】車駕(しゃが):天子が行幸の際に乗るくるま。
【注6】親臨(しんりん)天子や貴人が、その場所にみずから出向くこと。
「我が国民は平時は煕々(きき)たる春日の如く穏和なれども、戦時は熾烈の光に敵国を懾伏(しょうふく・注7)せしむ。我が軍旗はよくこの意気を表せり。」
【注7】懾伏(しょうふく):)勢いに恐れてひれ伏すこと。
「けだし軍旗は軍隊の精神のある所、天皇の威霊の宿ります所なり。その厳として立つ処は大元帥陛下の御馬前に同じ。
これを失えばすなわち軍隊の全滅なり。将卒総(す)べて傷つき倒るとも、なお一兵の存する時、彼は死をもって軍旗護衛の任に当たらざるべからず。
されば硝煙弾雨に汚れ裂け、碧血迸注(へきけつほうちゅう)の痕を印し、ほとんど旗竿のみ残れるが如くなりても、軍旗はさらに改造せず、苦戦の記念、名誉の表彰として、永くこれを保持すという。」
海軍旗
「海軍には軍艦に軍艦旗を掲ぐ。こは明治二十二年に定められたものにして、その旗章は日章に添うるに光線をもってしたるものなり。
朝夕の揚卸(あげおろし)には、君が代の軍楽もしくはラッパを吹奏し、番兵は捧銃(ささげじゅう)し、甲板にある者はこれに面して敬礼を行うの制たり。」(藤岡作太郎)
「高等小学読本・第三学年用下」、第三課 国旗と軍旗・軍艦旗のページ。