どうも、tougoです。やっと感想が書ける。ほんとにこれは慶應に入学する、または、してる人に読んでほしい。
今回もバカ長い。けど興味あるなら見てってください。
今日紹介するのは福沢諭吉の「学問のすすめ」です。橋本治って人が書いてます。
橋本先生はウィキで調べたところ、東大文学部卒業らしい。東大の人が書いてるとはw
この本の何がいいかっていうと、まず、分かりやすい。
学問のすすめは読みやすいが、理解しにくいんです。これはこの本でも述べられていましたが、今の読書の仕方と明治時代の読書の仕方が違うからなんです。今ははやくはやく読んで、ささっと片付けてしまいますが、昔は一文一文、しっかり立ち止まって、考え、理解できたら次に進む読み方です。福沢諭吉はそういう読み方をする読者を対象としているので、現代人の僕たちは理解しにくいと橋本先生は言ってました。
その理解しにくい部分を取り上げて、解説してくれるので、よく理解できるんです。
さて、僕がここ好きだなーとか、気になった点をあげて、この感想を閉めようと思います。
まず、初っぱなから下ネタw
橋本先生、すげーわ。
「天は人の上に人を造らず」をもじって、
「天は人の上に人を載せて人を造る」だって。クソワロタ。
次に、日本史で神仏分離令が出されて、その後、なんで廃仏毀釈が起きるのか疑問だったけど、やっとわかった。
神仏分離令で、仏教と神道を分けて、その上で、神道のほうが仏教より上って明治政府がしたかった。(神道を、できたばかりでぐらぐらな明治政府の後ろ楯にするため)
でも、できたばかりでぐらぐらな明治政府の命令は各地に伝わる中で伝言ゲームみたいになっていき、
仏教と神道を分離しろ。仏教より神道が上だよ。→仏教をぶっ潰せ。神道こそ正義
になったんだね。
実際、その後、明治政府は廃仏毀釈をやめろって言ってるらしい。
前にも書いた気がするが、慶應義塾大学の前身の慶應義塾は東京大学の前身の蕃書調所よりも前にあったんだって。慶應の歴史やばすぎ。
福沢諭吉のいう、実学とは金儲けのための学問ではない。実学か虚学かは人の心に納得を呼び起こすかどうかで決まる。人の心に納得を呼び起こすのが実学、呼び起こさないのが虚学。虚学はあまり身には沁みないけど、それに携わっていると生活が成り立つ学問であり、江戸時代の官学としての朱子学などがそれにあたります。虚学は決められた学問を学ぶ学問なので、発展がありません。だから、安定した時代には意味を持ちますが、明治時代という新しい時代には価値がありません。
新しい時代に必要なのは、人を納得をさせ、新しい時代を作り上げていく、成長する学問、つまり実学です。それを福沢諭吉先生は学べと言っています。
福沢諭吉の学問のすすめは初編が一番大切です。この本には初編の原文すべてがのっており、これを読むのがすごい好き。たぶん、古典やってなくても読めるけど、すこしでも古典やってる人ならなおさら面白いと思う。こういうときのために古典をやるべきなのかーって思ってしまった。受験生のときは、古典なんてくそとか思ってたのに。
明治時代以前の自由とはわがまま勝手にやって他人に迷惑をかける意味でした。江戸時代にはこれが許されていた。というのも、「お前たちがバカになったままでいてくれれば、幕府の支配体制は揺るがないんだ」という、徳川幕府の愚民政策の結果でした。
バカなやつは権力と暴力で押さえつけるのに最適ですからね。
福沢諭吉は、「明治時代になってもそのままじゃ困るでしょ?」と言います。
学問のすすめは「金持ちになるために学問をしろ」ではなく、「政治に目を向けるために学問をしろ」という本です。
福沢諭吉は啓蒙思想を広めた人ではない。
啓蒙家です。蒙とは頭が悪いから暗くなって回りが見えない状態(つまりバカ)で、啓とは開くという意味で、啓蒙とはバカな状態に光を当てて照らし、バカから脱出させる意味です。
学問のすすめは読者に考えさせる本です。福沢諭吉は明確な答えを教えてくれません。答えを教えたら指導者になったしまうからです。福沢諭吉のテーマは独立ですので、指導者になってしまったら読者は指導者に依存してしまいます。これではだめだから、自分で考えさせるように本を編集しています。この文才はすごすぎる。
福沢諭吉は「勉強して、よき国民になれ」と言う。
「愚民の上にからき政府あり」は、「勉強しないと怖い人がくるよ。」
「良民の上には良き政府あるの理なり」は「勉強するといいことがあるよ」になる。
民主主義はバカばかりになる。これを漢字四文字で表すと衆愚政治です。なぜ、バカばかりになるかというと、民主主義を成り立たせる人間の多数がバカだからですね。
なら衆愚政治をどう改善するか?答えは明白ですよね。バカをこの世から一匹残らず駆逐してやればいいんですよ。駆逐っていうのは殺すんではなくて、バカから脱出させて、その人が持つべき教養を持たせるようにするってことです。福沢諭吉は大のバカ嫌いだったようです。だから、「駆逐してやる、一匹残らず!バカどもを駆逐してやる!」っていうエレン・イェーガー的な考えをしてたんだと思います。
ここがすごく共感できました。僕も以前一橋の過去問の感想をあげたときに「多数決の原理が機能するようにすること」を目標にあげてましたよね。これって一緒のこと言ってると思うんです。
それに僕も一匹残らずバカを駆逐したいし。
福沢諭吉は私立の人です。今でいう私立は私立学校という使われ方をしますが、明治時代はちがいます。私立の反対は官立ですから、福沢諭吉の私立とは、「政府に寄っ掛からず、政府の手先にもならない一個人、一私人」という意味で、「官とは繋がらない在野の人」ということです。
学問のすすめは「ただ学問をすすめている本」で、「これさえ読めば君も博識という本」ではありません。
福沢諭吉は争い事が嫌いです。僕も好きではないと思います。(今まで受験戦争してたやつがなにをいう!)
神のみの桂馬も争い事が嫌いです。
こういうところも共感できます。
福翁自伝って福沢諭吉が脳溢血(のういっけつ)になる前の彼が書き上げた最後の著作なんだね。知らなかった。
福沢諭吉にとって、明治政府に関わるやつは、攘夷とか言ってるバカばかりなんだね。だから彼は政治にかかわろうとしない人だった。
世の中バカばっかりだったら政界に進出して社会を変えるなんて無意味だと考えたのでしょう。
だから、在野の立場で国民をバカから脱出させようとした。
学問のすすめを読んで、ドキッとしたり、グサッとしたりする意味を発見したら、その読者は、学問のすすめの向こうに、「まだ近代になっていない現在」を発見してしまうのです。
福沢諭吉は常に「バカではダメなんだ、勉強しようよ」と学問のすすめの中で言っています。
僕は学問のすすめを読んでドキッとしました。ああ、まだまだ日本人は近代から抜け出せてないんじゃないか?と思ってしまいます。これはこの前の映画でも感じられましたね。
今、大学進学率が5割になったけれども、それでもまだ5割。残りの半数は大学を卒業してもいない。高学歴の部類に入る人はさらに少なくなってしまう。こんな状態で選挙をやれば自ずと結果はわかりますよね。まだまだなんですよ。日本は。
依然として日本には蒙(バカ)があふれている。だから、そのバカが土台の政府もバカなのかもしれない。「愚民の上にからき政府あり」ですからね。
日本が軍国主義に走ったのもあれは軍部が勝手にやったんだなんて責任転嫁はできない。僕たちがバカだったから政府もバカになるのだから。
もう二度と同じ過ちは繰り返してはいけないんだから、今度こそ、僕たちが蒙から抜け出さないといけないと思う。そのためには、勉強するしかないんですよね。
とにかく面白いかったです。まだまだ色々考えることはありますが、この辺にしないとまだ書かないといけない記事があるんで。
僕の紹介した本読んでくれた人とあって、話がしたいなー。そんな人はいないの?
では、また。
【追記】福沢諭吉は本当に日本のことを心配してたんだと思う。そして、日本を大切に思っていた。そういう点では右翼的な人だったと思える。
福沢諭吉は独立をテーマとしていた。福沢諭吉の独立には二つの意味があり、ひとつは前も言ったようになにかに依存する状態からの独立。
もうひとつは埋没した状態からの独立。この点において、福沢諭吉先生はすでにファシズムを抑止するための解決策が学問をすることであると言っていたのかもしれない。
ファシズムの温床になったのは埋没した個性のない大衆だった。これは明治という新しい時代になった当時の日本人の焼け野原的な状態と同じだと思う。江戸幕府という強力なスタビライザーがなくなる一方、人々は平等を手にしたが、「で、どうなる?」状態だった。そこで福沢諭吉は学問をして、自分にふさわしい教養を身につけ、埋没状態から脱出しろというんですね。もし、これを日本人が本当に実践していたなら、軍部の台頭なんか起きなかったのかも知れない。そう思うと福沢諭吉の言ってたことには先見性があるように見えますよね。
↑今日のくそガイダンス中に考えてたことです。くそだったから考えが捗る、捗る。
なんかイライラしてきた。あんな長い時間拘束するなよな。
今回もバカ長い。けど興味あるなら見てってください。
今日紹介するのは福沢諭吉の「学問のすすめ」です。橋本治って人が書いてます。
橋本先生はウィキで調べたところ、東大文学部卒業らしい。東大の人が書いてるとはw
この本の何がいいかっていうと、まず、分かりやすい。
学問のすすめは読みやすいが、理解しにくいんです。これはこの本でも述べられていましたが、今の読書の仕方と明治時代の読書の仕方が違うからなんです。今ははやくはやく読んで、ささっと片付けてしまいますが、昔は一文一文、しっかり立ち止まって、考え、理解できたら次に進む読み方です。福沢諭吉はそういう読み方をする読者を対象としているので、現代人の僕たちは理解しにくいと橋本先生は言ってました。
その理解しにくい部分を取り上げて、解説してくれるので、よく理解できるんです。
さて、僕がここ好きだなーとか、気になった点をあげて、この感想を閉めようと思います。
まず、初っぱなから下ネタw
橋本先生、すげーわ。
「天は人の上に人を造らず」をもじって、
「天は人の上に人を載せて人を造る」だって。クソワロタ。
次に、日本史で神仏分離令が出されて、その後、なんで廃仏毀釈が起きるのか疑問だったけど、やっとわかった。
神仏分離令で、仏教と神道を分けて、その上で、神道のほうが仏教より上って明治政府がしたかった。(神道を、できたばかりでぐらぐらな明治政府の後ろ楯にするため)
でも、できたばかりでぐらぐらな明治政府の命令は各地に伝わる中で伝言ゲームみたいになっていき、
仏教と神道を分離しろ。仏教より神道が上だよ。→仏教をぶっ潰せ。神道こそ正義
になったんだね。
実際、その後、明治政府は廃仏毀釈をやめろって言ってるらしい。
前にも書いた気がするが、慶應義塾大学の前身の慶應義塾は東京大学の前身の蕃書調所よりも前にあったんだって。慶應の歴史やばすぎ。
福沢諭吉のいう、実学とは金儲けのための学問ではない。実学か虚学かは人の心に納得を呼び起こすかどうかで決まる。人の心に納得を呼び起こすのが実学、呼び起こさないのが虚学。虚学はあまり身には沁みないけど、それに携わっていると生活が成り立つ学問であり、江戸時代の官学としての朱子学などがそれにあたります。虚学は決められた学問を学ぶ学問なので、発展がありません。だから、安定した時代には意味を持ちますが、明治時代という新しい時代には価値がありません。
新しい時代に必要なのは、人を納得をさせ、新しい時代を作り上げていく、成長する学問、つまり実学です。それを福沢諭吉先生は学べと言っています。
福沢諭吉の学問のすすめは初編が一番大切です。この本には初編の原文すべてがのっており、これを読むのがすごい好き。たぶん、古典やってなくても読めるけど、すこしでも古典やってる人ならなおさら面白いと思う。こういうときのために古典をやるべきなのかーって思ってしまった。受験生のときは、古典なんてくそとか思ってたのに。
明治時代以前の自由とはわがまま勝手にやって他人に迷惑をかける意味でした。江戸時代にはこれが許されていた。というのも、「お前たちがバカになったままでいてくれれば、幕府の支配体制は揺るがないんだ」という、徳川幕府の愚民政策の結果でした。
バカなやつは権力と暴力で押さえつけるのに最適ですからね。
福沢諭吉は、「明治時代になってもそのままじゃ困るでしょ?」と言います。
学問のすすめは「金持ちになるために学問をしろ」ではなく、「政治に目を向けるために学問をしろ」という本です。
福沢諭吉は啓蒙思想を広めた人ではない。
啓蒙家です。蒙とは頭が悪いから暗くなって回りが見えない状態(つまりバカ)で、啓とは開くという意味で、啓蒙とはバカな状態に光を当てて照らし、バカから脱出させる意味です。
学問のすすめは読者に考えさせる本です。福沢諭吉は明確な答えを教えてくれません。答えを教えたら指導者になったしまうからです。福沢諭吉のテーマは独立ですので、指導者になってしまったら読者は指導者に依存してしまいます。これではだめだから、自分で考えさせるように本を編集しています。この文才はすごすぎる。
福沢諭吉は「勉強して、よき国民になれ」と言う。
「愚民の上にからき政府あり」は、「勉強しないと怖い人がくるよ。」
「良民の上には良き政府あるの理なり」は「勉強するといいことがあるよ」になる。
民主主義はバカばかりになる。これを漢字四文字で表すと衆愚政治です。なぜ、バカばかりになるかというと、民主主義を成り立たせる人間の多数がバカだからですね。
なら衆愚政治をどう改善するか?答えは明白ですよね。バカをこの世から一匹残らず駆逐してやればいいんですよ。駆逐っていうのは殺すんではなくて、バカから脱出させて、その人が持つべき教養を持たせるようにするってことです。福沢諭吉は大のバカ嫌いだったようです。だから、「駆逐してやる、一匹残らず!バカどもを駆逐してやる!」っていうエレン・イェーガー的な考えをしてたんだと思います。
ここがすごく共感できました。僕も以前一橋の過去問の感想をあげたときに「多数決の原理が機能するようにすること」を目標にあげてましたよね。これって一緒のこと言ってると思うんです。
それに僕も一匹残らずバカを駆逐したいし。
福沢諭吉は私立の人です。今でいう私立は私立学校という使われ方をしますが、明治時代はちがいます。私立の反対は官立ですから、福沢諭吉の私立とは、「政府に寄っ掛からず、政府の手先にもならない一個人、一私人」という意味で、「官とは繋がらない在野の人」ということです。
学問のすすめは「ただ学問をすすめている本」で、「これさえ読めば君も博識という本」ではありません。
福沢諭吉は争い事が嫌いです。僕も好きではないと思います。(今まで受験戦争してたやつがなにをいう!)
神のみの桂馬も争い事が嫌いです。
こういうところも共感できます。
福翁自伝って福沢諭吉が脳溢血(のういっけつ)になる前の彼が書き上げた最後の著作なんだね。知らなかった。
福沢諭吉にとって、明治政府に関わるやつは、攘夷とか言ってるバカばかりなんだね。だから彼は政治にかかわろうとしない人だった。
世の中バカばっかりだったら政界に進出して社会を変えるなんて無意味だと考えたのでしょう。
だから、在野の立場で国民をバカから脱出させようとした。
学問のすすめを読んで、ドキッとしたり、グサッとしたりする意味を発見したら、その読者は、学問のすすめの向こうに、「まだ近代になっていない現在」を発見してしまうのです。
福沢諭吉は常に「バカではダメなんだ、勉強しようよ」と学問のすすめの中で言っています。
僕は学問のすすめを読んでドキッとしました。ああ、まだまだ日本人は近代から抜け出せてないんじゃないか?と思ってしまいます。これはこの前の映画でも感じられましたね。
今、大学進学率が5割になったけれども、それでもまだ5割。残りの半数は大学を卒業してもいない。高学歴の部類に入る人はさらに少なくなってしまう。こんな状態で選挙をやれば自ずと結果はわかりますよね。まだまだなんですよ。日本は。
依然として日本には蒙(バカ)があふれている。だから、そのバカが土台の政府もバカなのかもしれない。「愚民の上にからき政府あり」ですからね。
日本が軍国主義に走ったのもあれは軍部が勝手にやったんだなんて責任転嫁はできない。僕たちがバカだったから政府もバカになるのだから。
もう二度と同じ過ちは繰り返してはいけないんだから、今度こそ、僕たちが蒙から抜け出さないといけないと思う。そのためには、勉強するしかないんですよね。
とにかく面白いかったです。まだまだ色々考えることはありますが、この辺にしないとまだ書かないといけない記事があるんで。
僕の紹介した本読んでくれた人とあって、話がしたいなー。そんな人はいないの?
では、また。
【追記】福沢諭吉は本当に日本のことを心配してたんだと思う。そして、日本を大切に思っていた。そういう点では右翼的な人だったと思える。
福沢諭吉は独立をテーマとしていた。福沢諭吉の独立には二つの意味があり、ひとつは前も言ったようになにかに依存する状態からの独立。
もうひとつは埋没した状態からの独立。この点において、福沢諭吉先生はすでにファシズムを抑止するための解決策が学問をすることであると言っていたのかもしれない。
ファシズムの温床になったのは埋没した個性のない大衆だった。これは明治という新しい時代になった当時の日本人の焼け野原的な状態と同じだと思う。江戸幕府という強力なスタビライザーがなくなる一方、人々は平等を手にしたが、「で、どうなる?」状態だった。そこで福沢諭吉は学問をして、自分にふさわしい教養を身につけ、埋没状態から脱出しろというんですね。もし、これを日本人が本当に実践していたなら、軍部の台頭なんか起きなかったのかも知れない。そう思うと福沢諭吉の言ってたことには先見性があるように見えますよね。
↑今日のくそガイダンス中に考えてたことです。くそだったから考えが捗る、捗る。
なんかイライラしてきた。あんな長い時間拘束するなよな。