F1の未来/Part1 | 大陸的F1編集後記

F1の未来/Part1


さて、ミシュランの撤退を受けて様々な意見があり、

ある方からのコメントに考えさせられてしまった。

改めて「F1とは何ぞや?」と、

今こそ見直さなければならないと思った...


SPORTSの語源はフランス語のDESPORT

「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」だと言われている。

元来モータースポーツはヨーロッパ貴族階級の遊びであり、

F1ドライバーはいうなれば彼らのお抱えの戦士だった。

その遊びから、貴族社会の変遷と共にドライバーの個性が注目されるようになり、

マシンと共にドライバーに重点が置かれる近代F1レースへと変化を遂げてきた。


では「Formula 1」というカテゴリーは一体何なのか?

Formula 1」の「1(One)」の意味するものは何か?

本来ならレースとして一番最高峰のはずなのに、今や規制に次ぐ規制で、

状況は下位のカテゴリーと何ら変わらないことになってきている。


基本的にF1も興行の一種であることには間違いない。

そして興行であるならば、興行として成功するための努力はするべきだ、

ただその手法が、そして方向性が間違っているような気がするのだ。


かつて安全性を理由に、マシンのスピードを押さえるために、

スリックタイヤが規制されて、グルーブタイヤに変更された、

しかしサーキットによっては従来よりも速いタイムが記録されていった。

これは一番いい実例だと思うのだが、

チームは規制を相手に創意工夫によって、

現実には規制前よりも良いタイムを叩き出してきた。

これでは速度を落とすことを目的とした規制は何の意味も成さない。


人は規制をされたからといって、現状に満足はしない。

隙間やルールの盲点をぬって、新しい手や策を考え、

必ず記録を更新してくる、これは歴史を見れば明らかな事実だ。


だとしたら安全性を訴えるのであればマシンの制御よりも、

サーキットの改善の方がどれだけ効果的か?

エスケープゾーンを広げ、ランオフエリアのグラベルを増やす、

それでも充分だと僕は考える。


そして排気量やエンジン形式を規制して、

パワーダウンさせた車をドライブすることは、

果たしてドライバーにとって楽しいことなのか?

現実にドライバーに車に対する要求を聞くと、

ほぼ100%近くが、もっとパワーがあってもいい、

いや、いくらでもパワーはあったほうが嬉しいと答えている。


彼らとてつもないパワーのモンスターマシンを走らすことが誇りだし、

何よりも好きなのだ!

命がけというリスクも、

対価としてあれだけの年棒やステータスをもらっているのだから、

当然承知しているはず。


余談であるが、想像して欲しい。

彼らは車の運転が僕よりもちょっとばかり上手いだけで

(ちょっとか~?いやもう少し上手いかも笑)

想像を絶する富とステータスを手に入れている!

もしも彼らが救急車の運転手にでもなって、

人命救助でもしてくれたなら、それはそれで立派な社会貢献かもしれないし、

僕も納得できるかもしれない(笑)

だがレースではただの消費活動に加担しているだけで、

直接的に誰の命が救えるわけでない...


では世界中でこれほど多くの人々がどうしてF1に魅入られるのか?

それは人間の持つ「心」が最大の理由だと思う。

人は誰でもそうだと思うが、「感動したい!」「喜びたい!」、

危険なもの、スリルのあるものには怖いもの見たさも手伝い惹かれてしまう。


自分の想像を絶するハイパワーのマシンを自在にコントロールするドライバー、

(例えば最盛期のターボエンジン搭載車では1000馬力を超えていた。もちろん馬力だけではなくパワーウェイトレシオが一番肝心なんだが...)

自分自身ができないことを可能にする相手に、人は誰でも憧れ夢を持つ。


それが安全のためという大義名分で、

そしてただ単に追い越しのシーンが少ないから、

視聴者が面白くないからと...

そんな理由づけでこんな規制を実施するなんておろかではないか!


危なくたっていい!

莫大な資金がかかってもいい!

何故ならそれがF1だから。

そして大の大人が夢見ることのできるレースだから続く。