F1の未来/Part2 | 大陸的F1編集後記

F1の未来/Part2

かつてアイルトン・セナ・ダ・シルヴァは自分自身のために走った。
だが結果として彼はブラジルの貧困層に夢を与えた、
もっと大げさに言えば彼らに生きる勇気を与えた。

では日々の生活にも窮するような貧困層が、

どうして彼らの想像を絶するようなお金持ちの家に生まれたセナを、

自ら自分たちのヒーローと位置づけたのか?


それはセナのレースに対する純粋な思い、

損得を超えた純粋な「ただ誰よりも速く走りたい!」

という一途な思いを彼らが感じ、

そのスピードという世界にだけに自らの人生を賭けたことに共感を覚えた。

そしてその結果としてセナは彼らのヒーローに成りえたのだ。

ライバーのそんな純粋な思いは現在のF1では反映されることは難しい、
利益を上げることを何よりも願う金の亡者がたむろするF1では当然のことだが...
今のF1は僕には「モーター・スポーツ」ではなく、
「モーター・ショー」としか思えない。

マシンの開発はまさしく「競争」そのものだと思うが、

「競争」をするということはそこにアイデアや努力があり、

他人よりも早く走ろうとする行為だと僕は理解している。

もちろんそこに一定のルールが存在することには異論はない。

ただ開発を牽制するような、進化を妨げるようなルールには納得がいかないのだ。


極論だが、仮にも「スポーツ」という言葉を使うのであれば、

選択肢は2つしかないと思う。


ひとつはまったくのイコールハンデで、同一条件のマシンで走り、

ドライバーの腕だけを競う競技。

ただこれは別にF1でなくても、すでに下位のクラスの競技で実施されているので、

あえてF1をそうする意味や必要性はないと思う。


残るひとつは大げさだが、人類の英知と資産をかけて、

それこそ究極のマシンを作り、究極のドライバーに運転させるという方法だ。

僕にはこれこそが本当の意味での「Formula 1」だと思えるのだが。


もしも、それを無駄だというならば、

やはりレースなんて本質的には消費以外の何ものでもないのだから、

潔く止めてしまうべきではないか?むしろ僕はそう思う。


自分自身が身を置くレースの世界の真っ只中で、

自分自身に矛盾を感じているのも事実。

しかし、一旦コックピットに収まりシールドを下ろす瞬間のドライバーの視線は、

一切の邪念はなく、ただひたすら速く走りたい!そう訴えている。

そしてその思いが僕を捕らえて離さない

だからこそF1F1らしくあって欲しいと切に願うのである。


果たしてF1の未来はどこへ

時代の目撃者として、一人のF1ファンとして、

そして写真家・宮田正和としてできること、

いや宮田正和じゃなければできないことは何だろうか?

熟考したいと思う