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「選択的夫婦別姓」とんでもなし。親子別姓が強制される。
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(1) 「選択的」夫婦別姓とは、欺瞞である。
言うもさらなりであろうが、「殆ど生まれながらの右翼」と自称し、恐らくは「自他共に認める(であろう)」私(ZERO)は、「我が国が選択的夫婦別姓を導入する」ことには、絶対的に反対である。
まあ、「絶対」なんて形容詞を多用するのは、「当人の頭の悪さの発現・発露」と考える私(ZERO)は、「絶対温度」と「絶対値」ぐらいにしか「絶対」なんて使わないように心掛けて居るのだが、今回は敢えて「絶対」を使って、強調の意志を示している。
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(2) 私的「選択的別姓」反対理由
私(ZERO)が、「選択的夫婦別姓に、絶対的に反対する理由(*1)」は、大きく言って以下の三点である。
- ①我が国戸籍制度の破壊である
- ②どう足掻いても「親子別姓」を免れない
- ③我が国の婚姻制度の破壊たり得る
それぞれ補足しておこう。
先ず、「①我が国戸籍制度の破壊である」は、ほぼ自明であり不可避と思える。なにしろ我が国の戸籍制度は「夫婦同姓」を前提としているのだから、「選択的」であろうが「強制的」であろうが「夫婦別姓」とすることに依る「我が国戸籍制度の大幅変更」は不可避である。この点は、「夫婦別姓推進論者」でも、否定は出来まい・・・多分。
その上で、「夫婦別姓推進論者」は、かかる「戸籍制度の大幅変更」を、「些細なこと」又は「良いこと」として、その弊害・障害を軽視乃至無視している、らしい。「我が国戸籍制度の改革であり、進化である。」ぐらいに思っている輩も、中には居そうだな。
否寧ろ、「我が国戸籍制度の改革」をこそ目的として「選択的夫婦別姓推進/擁護」を主張する者も、居そうだ。
些か邪推を巡らすならば、「歴史を遡ると神代の昔に至ってしまう」我が国の「家名を辿れば相当昔まで(*2)遡れる」戸籍制度ってのは、先祖崇拝を基本とする儒教からすると「気が狂いそうになるくらい妬ましく、羨ましい」だろう事は、想像に難くない。コレに「日本の伝統は全て日本の軍国主義の源」と考える左翼だか「GHQ残党(*3)」だかが合流すれば、そりゃ「選択的夫婦別姓推進/擁護」の大合唱も、沸き上がろうというモノだ。
ま、「GHQの政治的残党」は未だしも、「日本が妬ましい潜在的儒者」がどれ程居てどの程度影響力を持つかは、少なからず疑問ではある。
だが、そんな「陰謀論」を「邪推として巡らしたくなる」程に、昨今の「選択的夫婦別姓推進/擁護論」は、異常で異様で異形である。【敢えて断言】
「②どう足掻いても「親子別姓」を免れない」ってのも、昨今の「選択的夫婦別姓推進/擁護論」が随分と軽視してくれる点である。流石に「子供の姓はどうするか?」は議論の俎上に登り、婚姻の際に定めるとか、出産の際に定めるとか、揉めたら裁判で決するとか、一応の「議論」はあるようだ。
有り体に言って「アリバイ作り」の域を全く出ていないが。婚姻の際に決めようが、出産の際に決めようが、裁判で決めようが、「子供が、母か父か何れかの姓しか選べず、他方とは異なる状況を強制されている」点には殆ど考慮されていない。
「父と母が別の姓である」ってだけでも、従来従前の家族制度からすれば異常事態である。そんな異常事態に「選択的夫婦別姓を選択した夫婦の子」は「否応なしに巻き込まれる」。しかも当人の意志とも意向とも全く関係ない方法で「母か、父か、何れかの姓に、決まる」ことになる。
その母と父は、自らの意志で「選択的に」夫婦別姓を「選択した」/「選択できた」にも関わらず、だ。
普通に考えて、左様な「夫婦別姓を選択した夫婦の子供」は、相当に深刻な「アイデンティティーの危機」を余儀なくされる。先ず、半分ぐらいは「グレる」と予想される。またそれは、ある意味「当然の結果」だろう。
言い替えるならば、「選択的夫婦別姓」は、前述の「我が国戸籍制度の危機」で在るばかりでは無く、「我が国民の家族制度その物の危機」となる可能性がある。
左様な「可能性」を「軽視する」事は出来るかも知れないが、否定することは、チョット出来そうにない。
ごく僅かでも左様な「可能性」を認めるならば、そんな「我が国民の家族制度その物の危機」を犯してまで得られる「選択的夫婦別姓」のメリットを、「選択的夫婦別姓推進論&擁護論」を唱える者は、審らかにすべきである。
「婚姻の自由度」だの「個人の自由の拡大」だのの美辞麗句で、「家族制度そのもの危機」というリスクを冒せるだけのメリットと、説けるモノなら、説いて見やがれッてんだ。
「孝行は百行の基」とさえ言う。家族制度は、社会基盤の根幹であろうが。
上記①、②に比べらば、「③我が国の婚姻制度の破壊たり得る」は、「些事」と言っても良いぐらいの「軽さ」ではある。「家族制度の危機」の一環でもあるし、な。
唯、コレを②とは別項目としたのは、同じく「家族制度の危機」ながら、さらなる「危機」への「布石」と思えるから。即ち、「選択的夫婦別姓」は「婚姻制度の破壊」たり得、「同性婚」への入口たり得る、と考えるからである。
言うもサラなりながら、私(ZERO)は「"同性婚"なぞ、言語矛盾である」とまで断定断言し、我が国に「同性婚」制度を導入することに強く反対している。
「結婚」とは、現状にの日本国憲法にも明記されているとおり、「両性間」にのみ成り立つモノであり、同性同士の「カップル」が、如何に愛し合い、生計を一にし、同居して長かろうとも、それを「結婚している」とは言わない/言えない。
精々の処、「同棲している」と言うだけであり、「内縁の配偶者」とすら言えないし、言うべきでは無い。
故に、「同性”婚”なぞ、言語矛盾である」と、私は断定断言し、主張する。
世界には「同性同士のカップルに婚姻を認める、”同性婚”制度が、ある」と言うことは知っている。そう言う制度が新しいことから、「同性婚」と言う言葉もコンセプトも新しいモノである、と言うのは事実だろう。
だが、「新しい」と言うだけだ。我が国に於ける「夫婦別姓」もそうだが、「新しい」と言うだけで、「我が国が採用し、制定する」理由とはならない。
少なくとも私(ZERO)は、「夫婦別姓」制度が(選択的であろうと強制的であろうと)、「婚姻制度の破壊」たり得るが故に、「同性婚制度への布石」となることを恐れ、警戒し、危惧する。
それ故になお一層、「選択的夫婦別姓」制度に反対する。
- <注記>
- (*1) 言うまでも無かろうが、「制度的・強制的・夫婦別姓」には、もっと反対である。
- 「絶対的」よりも強い形容詞が、チョット思い付かないのだが。コレだから「絶対」なんて、滅多に使うモノでは無いのだ。
- (*2) 流石に「神代の昔」まで遡れるのは、皇族ぐらいだろうが。
- (*3) 無論、「仮称」である。大東亜戦争後今年で80年になるのだから、大東亜戦争直後のGHQの、直接的意味での「残党」ってのは「ナチの残党」レベルに数が少ない、筈である。
- だが、その「GHQの日本統治」を理想とし、その「衣鉢を継ぐ」輩、謂わば「精神的後継者」「精神的末裔」としての「残党」は、今も厳然と居る、と思うぞ。
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(3) 素晴らしき「選択的夫婦別姓」世界
「選択的夫婦別姓」なる制度の「選択的」というのは相当な虚偽乃至欺瞞であり、それは「強制的親子別姓」となることは、一寸考えれば明らかな処であるが、それはたかだか「親子二代」=二世代の話、でしかない。
「選択的夫婦別姓」が導入され、その執行が(米国の「禁酒法」などと異なり(*1))長期に渡った場合、当然ながら世代を経ることとなり、「何世代にもわたって夫婦別姓である夫婦から生まれた子や孫や曾孫、玄孫」が産まれ、増えていく、事になる・・・筈だ。
「別姓を選んだ夫婦には出産も養子も禁じる」なんて、かなり非人道的な規制をしない限り(*2)、それは、必ずそうなる。今現在「夫婦別姓を認めている国」もあと百年ばかりその「夫婦別姓」を続けていれば、そうなるだろう。
さて、そんな「夫婦別姓」世界を想定し、想像するのは、「夫婦別姓」を擁護し主張する者の「義務である」とすら、私(ZERO)には思えるのだが、そんな「夫婦別姓」世界を想定した例は寡聞にして(私(ZERO)は)知らないから、此処で些か想像力(邪推、かも知れないが)を巡らしてみようではないか。
言い替えるならば、「夫婦別姓」世界は、「素晴らしいか?」という設問でもあれば、「現状よりはマシか?」って言う疑問・質問でもある。
先ず、左様な「夫婦別姓」世界では、御先祖様とか家系とか言った概念が希薄になる事は、間違いなかろう。「○○家累代の墓」ってのは、今の一般的墓石銘であるのだが、左様な表記の意味も薄れて行くだろう。そんな「○○家累代の墓」には「入らない」として、個人名の墓を独立させて立てるとか、散骨などで「墓石の無い墓」を選ぶ者も、増えるだろう。
そう言う傾向は今現在もあるし、「夫婦別姓」世界はその傾向を加速し強調する「だけ」かも知れないが、「加速・強調する」事は間違いなさそうだ。端的に言えば、「家の軽視&個の強調」ってことになろう。
それこそ正に「夫婦別姓」が目指した処、ではあろうから、「夫婦別姓」擁護論者達には「願ったり叶ったり」ではあろうが。
だが、それは、「累代○○家」=「御先祖様」の軽視であるから、当然ながら「子孫に軽視される」結果を惹起する。
「○○家累代の墓」ならば、「○○家」の名を受け継ぐ子孫から相応の庇護を受ける事が期待できそうだ。が、「○○△夫の墓」では、余程の功績事績が後世に残る様な者で無い限り、「無縁仏」となる公算大であろう。
言い替えるならば、「夫婦別姓」を擁護する者は、「己が墓が無縁仏となる」可能性を増大させていることを自覚し、覚悟すべきだろう。
- <注記>
- (*1) 米国=アメリカ合衆国って国が、その由緒来歴が故であろうか、妙に「理想主義に走る」事が偶にあり、「禁酒法」ってのがその典型例である、と、私(ZERO)は考えて居る。
- (*2) 且つ、そんな規制が厳格に守られない限り。
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(4) 「選択的夫婦別姓」は、現世利益・現世代利益のみを求めた、近視眼的利己主義の産物である
家族制度とか、家系と言ったモノが意味を持たない様な新興国や、全ての伝統を否定した革命で成立したような国(コレもある種の「新興国」だ。)ならば、「夫婦別姓」を導入しても、問題は小さいだろう。
だが、我が国は、日本は、その歴史を遡ると「有史以前」の「神代の昔」まで遡ってしまうような、歴史と伝統の塊みたいな国だ。家系にしたって、皇室なんざぁその家系を「神代の昔」まで遡れてしまう。下手な国・・・否、大抵の国は裸足で逃げ出すような古来の伝統である。
即ち、我が国は、「世界で一番、”夫婦別姓"制度を採用してはならない国」なのである。
さ、あらばこそ、「GHQの精神的末裔」共やら「実は儒教主義だが、儒教的伝統には欠けている」某国やら某国やらからすれば、我が国に「選択的夫婦別姓」を導入させたくて仕方ないのだろう・・・と、邪推も巡ろうってモノだ。
左様な陰謀論の正否は兎も角、我が国が「選択的夫婦別姓」をもし導入するとするならば、世界でも一番最後であるべきであろうよ。
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ジェンダーが、「フリー」な訳無い。考えろ。男は子供を産めなかろうが。
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(1) 「ジェンダーフリー」なる主張・思想
「ジェンダーフリー」って、「宣伝文句」がある。どうも、「良いこと」乃至「無条件に良いこと」かの様に考えて居る人が、世間には相当数「居る」らしい(*1)。
そりゃ、「間違いと気違いは、何処にでもある/居る」ってぐらいだから、「ジェンダーフリーとは、無条件に良いこと」と考える間抜けな大馬鹿が「存在する」事は、まあ致し方ない部分が多々あろう(コレも「多様性」の一環、でもある。)が、あんまり数が多いと、チョイと困ったことも出て来るから、偶には釘ぐらいは刺しとかないとな。
要は、タイトルにも取った通りだ。「ジェンダーが、”フリー”な訳が無い。」。僅かでも知性と良識があれば、殆ど自明なことだ。
- <注記>
- (*1) その「筆頭」とは言わないが、一例が、日本共産党だ。そりゃぁ「殆ど生まれながらの右翼」たる私(ZERO)なんぞとは、相性が悪かろうよ。
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(2) ジェンダーってのは、人間では男と女、だけだ。
「ジェンダー」とか、片仮名で表記して何か「新しいモノ」かの如く見せかけているが、平たく言って「性別」である。人類・ホモサピエンスの性別は男=雄と女=雌、しかない。コレは基本的に、生物学的に、無い。
無論、極一部、奇形としての「男でも女でも無い性別」の人が居る事は知っている。私(ZERO)は会ったことも無いし、聞いたことも「ほぼ無い」ぐらいだから、相当に少数なのだろう、とは当たりもつく。
故に、「人類・ホモサピエンスの"ジェンダー"は、男と女だけ。」と断定断言しても、何の違和感も、少なくとも私(ZERO)には、無い。
処が、所謂「ジェンダーフリー」を主張する方々は、この「ジェンダー」が幾つもあると主張される。それも、3つとか4つとかでは無くて、十も二十もあるのだと。「俄には信じ難い」なんざ通り越して「頭がどうかしている」としか私(ZERO)には思えないのだが。
人類に限らず、生物種を例にとっても、「雄と雌の二元論的性別」以外の性別を持つ種ってのは、確か「中性」とか「雌雄同体」ってのがあるぐらい。勿論「性別が無い、単一性の生物」ってのも居るが、4つ以上の性別を持つ生物なんてのを、私(ZERO)は知らない。
無論、理系とは言え生物選択者では無かった私(ZERO)が「知らないだけ」って可能性は、認めなければならないが。
それにしたって我らが人類の「性別」とも言うべき「ジェンダー」が、十も二十もあるという、論拠根拠が何であるか、と問い質す前に、「なぁにバカなこと言ってんだオイ。」ってのが先に立つのが正直なところだ。
況んや、そのジェンダーなるモノが、自己申告で自己決定できるなんて主張は、「唯の詭弁」以上のモノには全く思えない。「覗き目的で女湯に侵入した生物学的男性が、”自分は女だ!”と主張している」のと、一体何が違おうか?イヤ、全く、毛筋ほどにも「相違がある」とは思えない。
ああ、外科手術と医学の発達により、「性転換」がある程度可能になり、「トランスジェンダー」と呼ばれる人々がいることも知っている。男から女に「性転換」して女性スポーツに参加し、五輪メダルを取っちまうような事例も在るのだから、な。今の所、逆(*1)は居ないようだが。
また、左様な「トランスジェンダー」は、「人工的に作られ、増やされた、奇形」と見ることも出来る。
「人工的に作られ、増やされた、奇形」の為に、従来従前の常識的な「性別」が見るも無惨に破壊されるのが、「良い」とか「正しい」とか言う、感覚というかセンスというか、考え方が、私(ZERO)なんぞにはサッパリ判らない。有り体に言えば、「理解しよう」という気さえ起きないな。
確かに「新しい」かも知れないが、それだけだ。新奇と言うより、珍奇だろう。
- <注記>
- (*1) 女から男に「性転換」して、男性スポーツに参加し、メダルを取った例を、私(ZERO)は知らない。
- 「知らないだけ」かも知れないが。
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(3) 「ジェンダーフリー社会」とは「デストピア」である。
で、更に判らない、と言うか「理解を絶する」のが、①「自己申告でジェンダーは決定される」って主張と②「ジェンダーフリー」=「ジェンダー間に差違は在ってはならない」って主張と③「多様性推進」=「DEI」≒③A「会社役員、議員などの"選ばれる人"には"各ジェンダーから一人以上ずつ選ばれる"べきだ」って主張は、大抵同じ人、同じ集団から出ている、ってことだ。
コレに先述の④「ジェンダーは、十も二十もある」って主張が「合流」すると、コレはもう「この世の地獄を作ろうとしている」としか思えない。
分けても、①と③Aと④の「同時実現」は「相性劣悪」だ。その意味するところは、各政党は「全てのジェンダーフルセットの、少なくとも候補者を揃えなければならない」であり、更には、「役員会や議会は、全てのジェンダーフルセットでなければならない」である。十も二十もあるという「ジェンダー」にどんなモノがあるのか私(ZERO)は知らないし、知ろうとも思わないが、十も二十もあっては「極少数しか居ないジェンダー」も必ずある筈で、そのジェンダーである議員なり役員なりってのは、「人数の割には過大な発言力・影響力を持つ」事になる事は間違いようが無い。
大体、斯様な事を「同時実現した」場合、会社役員なり議員なりになる手っ取り早い方法は、「新たなジェンダーを創設し、自分がその第1号にして唯一の人間になる」事になる。「ジェンダー」の数は、更に増えるだろうな。
それで会社や議会が真面に動くと、考えられるとは、何と楽観的・・・と言うよりは、「ジェンダーフリー」ってお題目のためには、そんなことは目をつぶる、って事なのだろう。
会社はそれで下手うてば「潰れる」から淘汰されるだろうが、議会はそれで下手やっても「潰れない」から、かなり厄介だぞ。
ああ、「議員の4分の1は必ず女性にする」とか言う「クオーター制」ってのも、そんな「同時実現社会=デストピア」と同工異曲、同じ穴の狢、だけどな。
「クオーター制」の下で「男性から女性にトランスジェンダーして女性議員になる」って事例は、未だ無さそうではあるが・・・「未だ無い」ってだけ、だろうな。
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(4) 考察「完全なるジェンダーフリー社会」
さて、此処でチョット視点を変えて、章題にしたとおり「完全なるジェンダーフリー社会」を想像してみよう。此処で言う「ジェンダー」とは、世の「ジェンダーフリー」論者が言うように「男と女」どころではなく、十も二十もある「ジェンダー」であり、その相互間の差別どころ格差も「無くなった」という「完全なるジェンダーフリー社会」だ。
世の「ジェンダーフリー」論者は、コレを「バラ色の未来」と描いてみせて止まない、らしいのだが、それでは「会社も議会も真面に機能しない」事は前章で述べたとおりだ。
だが、そんなモノでは済まないだろう。前章では「会社役員や議員などの"選ばれた人”」だけを「ジェンダーフリー」にした、だけである。「完全なるジェンダーフリー」という以上、雇用も賃金も「ジェンダー格差」は許されない。ありとあらゆる、少なくとも「雇用を希望する人が居る」職業は「全ジェンダーフリーフルセット」であることが要求されよう。例外は、「特定ジェンダーから雇用を希望する人が居なかった場合」のみとなる。
無論、雇用された後の給与も「ジェンダー間の格差」は認められない。十も二十もある「ジェンダー」には、それぞれ得意不得意がありそうだが、そんなジェンダー由来の得手/不得手の結果としての「給与格差」も「無くす」ことが求められよう。
コレが、販売員の売り上げ実績のような「比較的容易に、短期間の内に定量的に評価が出来る指標」があるならば、歩合制なり成功報酬なりで「平等だが、能力に応じて評価が為された給与」と出来ようが、長期にわたる研究とか、各種のサポート業務とか「目に見える成果の出にくい」職業ではそうも行かない。そう言う傾向は今でもあるのだが、「同一労働同一賃金」の美名の下、「労働時間に応じた一律給与」になることは、想像に難くない。
となれば、「不得手な労働を時間をかけてゆっくりやる」方が「得手な労働を短時間で完全に仕上げる」よりも、給与が高くなる。高くしないと、「ジェンダー間給与格差の是正」にならない。
であるならば、当然,,、会社として競争力が低下するのは明白だろう。喩え得意で短時間で終わるような仕事でも、ゆっくり時間をかけて、端的に言って「怠けた」方が、「金になる」のだから。「有能な働き者」が「怠け者」になるのに、そう時間はかかるまい。先述の「会社役員のジェンダーフリー化」ほどには「目に見えて劇的な損害/被害は、無い」かも知れないが。
ああ、そうだ。「指揮官」ってのは、ある意味究極的な「選ばれた人」だよな。隊長や司令官ったら、唯一人で、幕僚とか参謀の補佐は受けるが、決定決心し、命令を下すのは、隊長/司令官/指揮官唯一人の権限と責任において、だ。
「指揮官をジェンダーフリー化」した日には、隊長/司令官/指揮官は一人ではあり得ず、「ジェンダーフルセット」の十人だか二十人だか知らない「大所帯」の「司令官隊(*1)」になろう。仮に「多数決で命令を下す」って事が予め決められたとしても(イヤ、「多数決」自体が、「ジェンダーフルセット」で実施された場合は、ある種の「ジェンダー格差」とならざる終えないはず(*2)だ。)、どう贔屓目に見ても、「即断即決なんぞ夢のまた夢」であり、「兵は拙速を尊ぶ」なぞ薬にしたくても出来ない。仮に極めて優秀な、「必ず正しい判断をするジェンダーフルセット司令官隊」であったとしても、命令を発するまでの遅れが故に、「相当に弱い軍隊」とならざるを得まい。特に、後手・防御になると、それは顕著になるだろう。
況んや、誤判断する普通の人間であれば、「判断の正誤に関わらず、判断が遅い」ジェンダーフルセット司令官隊が指揮する軍隊は、さらに弱い、ことになる。
「弱い軍隊は、平和主義の証」とか抜かすバカも居そうだが、「弱い軍隊」は戦争誘因だ。
言い替えるならば、「完全なるジェンダーフリー国家」は「相当に戦争に弱い国」であり、即座にでは無いかも知れないが、何れ戦争には負け続けて、遠からず滅亡する、ことになろう。
他でも無い。「完全なるジェンダーフリー化した軍隊」が、その誘因となるだろう。
即ち、「ジェンダーフリー化は、亡国への道である」と言うことであり、「ジェンダーフリー推進論」とは「亡国論」に他ならない。
- <注記>
- (*1) 少なくとも分隊。下手すると小隊だ。
- (*2) 即ち「ジェンダーフリー軍隊のジェンダーフルセット司令官隊」は、元来「全員一致で無ければ、命令を下せない」。
- 即ち「全員一致に意見集約されるまで、命令が出ない」訳だ。負けるための軍隊みたいなモノだな。
- ああ、「先手を取って攻撃開始する」だけなら、出来るかも知れないな。それで「勝ちきる」事が出来れば良いの、かぁ?
- だとすると、「指揮官をジェンダーフリー化した」軍隊は、随分な攻撃偏重・先制攻撃金科玉条・防御必敗の軍隊に、なりそうだな。
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(5) 「男が普通に妊娠出産する」か、「女は普通、妊娠出産しない」世の中になら無い限り、「ジェンダー」が「フリー」な訳が無い。
無論、この章題で言う「ジェンダー」とは、「性別」のことであり、「男」と「女」しか無いのが、基本だ。
その上で、「妊娠出産」ってのが人類にとって生物学的に(また、社会的にも、経済的にも)一大イベントであり「大事業」であることは殆ど「万古不易」なのであるから、現状及び見通せる限りの将来にわたって「妊娠出産するのは、女性」である限り、少なくとも「完全なジェンダーフリー」になんぞ、なる訳が無い。
章題にした二者の内、「男が普通に妊娠出産する」の方は、見通せる将来にわたっても、またちょっとやそっと延長し延翼したぐらいでは到底実現不可能な事である(幸いなことに。)。
だが、もう片方の、「女は普通、妊娠出産しない」方ならば、現在の技術でも一応実現可能だ。即ち、妊娠・出産を自然懐妊&分娩に依らず、人工授精と人工子宮による「試験管ベイビー」にのみ依ることで。
これ即ち、古典的デストピア小説である「素晴らしき新世界」の描き出している世界である。まあ、あの小説は、「試験管ベイビーにのみよる完全な人口管理」と、胎児の頃からの化学的・心理学的条件付けに依る鉄壁の階級社会を描いている訳だから、「男女間のジェンダー格差」はひょっとしたら「無い」かも知れないが、別種の格差が厳然として「ある」世界であり、その「厳然たる格差」故に、古典的・先駆的な「デストピア小説」たり得ている。
「ジェンダーフリー」という主張・思想から、「素晴らしき新世界」に描かれるデストピアまでには、相応に距離があるのは事実だ。
だが、その距離は、恐らくは「ジェンダーフリー」主張者が考えるほどには遠くないだろう。
また、「ジェンダーフリー」なる主張が、「素晴らしき新世界」に描かれるデストピアへの第一歩たり得ることは、自覚・自認すべきであろう。
まあ、無理だろうけどねぇ。
「ジェンダーフリー」が「無条件で良い」なんて考えられてしまうようなオツムテンテンのお花畑には。
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万葉集という奇蹟 ー日本人、日本語と日本の文字についての一考察
「今、この瞬間、この本を開いて読んでいる貴方に、お目出度う!」って主旨の(細部は異なったと思う)、インパクト大なオープニングは、確か「人類が知っていることすべてのの短い歴史」って科学エッセーだった(と思う。)。コレに続いて、何故「お目出度う」かを縷々語ってくれるのだが、要は「この地球という太陽系第三惑星に、生命が生まれ、進化し、知性を得て、文字やら本やら印刷機やらを発明し、その過程で貴方の先祖が絶滅すること無く綿々と子々孫々を(*1)”生き延び”させて、今そこに居る/ある貴方、として結実させている。」ってことが語られる(余り「要は」になってないか。)。
かなりつづめて意訳するならば「貴方という奇蹟に、お目出度う。貴方の存在そのものが、奇蹟的なんです!!」って、まあ、ポジティブなオープニングだよな。
そんなインパクト大なオープニングを思い出したのは、タイトルにしたとおり、我が国最古の文献(の一つ)である「万葉集」が、「とんでもない奇蹟」と思われた、から。「奇蹟繋がり」って訳だ。
- <注記>
- (*1) ”繁栄”とは行かないかも知れないが、
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(1)日本という奇蹟
渡邊昇一氏と言えば、既に故人で、戦前の生まれ。大東亜戦争中は確か小学生だったと言うから、少なくとも「戦中派」で、「戦前派」かも知れない。まあ、大東亜戦争も今年で戦後80年だから、「戦後派」が世の大半を占めるようになって久しいし、「戦前派/戦中派/戦後派」って分類自体が最早「死語に近い」のかも知れないが。
その渡邊昇一氏の説によると、我が国・日本の歴史は「遡れば神話=”神代の昔”に至ってしまう」ってのが一大特徴であり、戦前戦中の日本人はコレを大いに誇りにした、とのことである。
「大いに誇りにした」って事の真偽は、「戦後派」である私(ZERO)には(少なくとも実体験としては)確かめることが難しそうだが、「ありそうなこと」とは言い得る。
また一方で、「遡れば神話=”神代の昔”に至ってしまう国史=国の歴史」と言うのは、「国の成立が、文字による記録よりも古いから」と言うことであり、「それほど国が古くからある」という事実の反面、「文字による記録が遅れた」と言うことでもあろう。
左様な事実・史実を、「それほど国が古くからある」と考え、誇るのが「戦前派/戦中派」であり、「文字による記録が遅れた」と「自省(*1)」するのが「戦後派」って言い方も出来そうだ。ま、どちらも「コインの両面」という、少なくとも一面はあるからな。
いずれにせよ、「文字による記録より以前から国が在った(且つ、21世紀の今日まで続いている)」というのは、中々無い事であり、ある種「奇蹟」と言っても、差し支えなかろう。
- <注記>
- (*1) と言うより「卑下」な気がするが・・・
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(2)万葉仮名という奇蹟
「我が国日本では、文字の導入が遅れ、文字による記録が遅れた。」と言うのは、少なくとも「一面の事実」であろう。だが、万葉仮名って、「結構ユニークな文字(乃至、文字の使い方)」を考えたとき、「文明が低い、遅れているから、文字の導入が遅れた」と、少なくとも断定断言すべきでは無いように、私(ZERO)には思われる。
言うまでも無かろうが、万葉仮名ってのは、一言で言えば「漢字を平仮名として使った文字」である・・・些かどころかかなり省略的・短絡的な言い方ではあるが。
それだけでも「表意文字を表音文字として使った」という、中々稀有な事例、と言えそうではあるが、厳密には日本語は大凡五十音であるのに対し、万葉仮名は「一音節を一文字で書く」原則は変えずに「同じ音節に複数の漢字を当てる」ことをしており、音は大凡五十であるのに対し、万葉仮名は千字近くの漢字が用いられていると言うから、チョットしたモノである。
文科相ご推薦の当用漢字は二千字足らず。当たり前だが、万葉仮名が表音文字として千字近くを使っているのに、表意文字としての二千字足らずの当用漢字で、"日本語が書ける"と主張する/している(*1)文科相(旧文部省)ってのは、「頭がおかしい」か、「日本語を知らない」か、「日本人ではない」かの、いずれかであろう。
それは兎も角、万葉仮名の本質は、「五十音を表すのに千字近い漢字(表意文字)を使う」と言う「表音文字としての不完全性」では無い様に、私(ZERO)には思われる。
万葉仮名の本質は、「千字近い漢字(表意文字)を、表音文字として使う」という荒技を使ってでも、「話語としての日本語を、文字で表そうとした」その執念というか、日本語愛というか、日本語に対する信念というべきモノ、なのでは無かろうか。
「中国・支邦・大陸伝来の文字である漢字は利用した」が、「日本語は、厳然として守り、漢語・漢文は”借り物”程度で済ました。」のであり、「話語としての日本語を、漢字で表記する方法をとった」のである。
コレは・・・「日本語という言語が骨身に染みた不抜のモノとして厳然としてあった」と言うことであり、それが、「相当に広範の日本人に見られた事象である」と言うこと、では無かろうか。
少なくとも「文字を我が国でも導入しよう」と考えた、当時の知識人や支配階級、恐らくは豪族とか貴族とか(或いは、僧侶や、宗教家、呪術的指導者なども入るだろう。)呼ばれるような日本人は、「強固頑迷と言って良いほどの、断固たる日本語話者であった」と考えるのが「妥当な推論」ではなかろうか。恐らくは、「文字を導入しよう」と考えて居る以上、漢字どころか漢文も読めて、書けるような日本人が、「話語としての日本語」は、断固として守ろうとした、のでは無かろうか。
推測ばかりで、些か歯切れが悪い感はある。が、「妥当な推測の積み重ね」で、斯様に考えられる。
「漢字という表意文字を借りて、表音文字として利用してまで、日本語を、日本語の音のまま表記し、"日本語を書く"ことを可能にしたのが、万葉仮名である。」と言えるから。
コレは・・・かなりの奇蹟、だと思うぞ。
- <注記>
- (*1) 「常用漢字」とかで、幾分増えはしたが、事態はさして変わらない。
-
(3)「読み人知らず」という奇蹟
そんな「奇蹟の文字・万葉仮名」で書かれ、編まれたのが万葉集である。言うまでも無かろうが、我が国最古の文献にして、和歌を集めた歌集である。その和歌の読み手は、有名な歌人(*1)は勿論のこと、天皇、貴族、下級官僚、防人のような庶民まで含み、「読み人知らず」として「作者不詳」な和歌も相応にある。
とまあ、さらっと書いたが、コレって、良く考えたら、トンデモナイコト、では無かろうか。
先ず、「和歌を詠む」という習慣というか風習というかが、当時の日本人の相当広範囲に普及浸透していた、事を伺わせる。「読み人知らず」や「庶民の作」とされる和歌が、「実は皇族、貴族、歌人の”コスプレライト”である」可能性も、忘れるべきではないかも知れないが、「上は天皇陛下から下は一庶民に至るまで、和歌を詠む(事がある/事が出来る)」というのが、少なくとも「建前としては厳然とあった」と言うことである。
先にも引いた渡邊昇一氏は、斯様な「万葉集に見る和歌の普遍性、普及」を、「和歌の前の平等」と表現し、「誰が詠んでもその和歌は、和歌として評価され、詠み人の出自来歴に依らない」ことを、絶賛・賛美している。
その賛美を、「そのまま額面通りに受け入れる」心算は私(ZERO)には無いが、「和歌を詠むと言うことが、相当に相応に広い範囲にあったであろう」事には、チョット疑義の余地は無さそうだ。
「和歌を詠むと言うことが、相当に相応に広い範囲にあった」且つ、「優れた和歌は、和歌として高く評価され、詠み人の出自来歴は問わない」、逆に言うと「貴人や有名人の和歌と雖も、”貴人の和歌””有名人の和歌”だけでは、大して評価されない」であり、渡邊昇一氏の言う「和歌の前の平等」である。
コレもある種の、奇蹟であろう。
- <注記>
- (*1) 歌人は、当時の知識階級・インテリゲンチャ(ってのも死語かな)だったと、言えよう。
-
(4)「万葉集」という大奇蹟
しかも、「和歌を詠むと言う風習・習慣」は、「文字の普及する以前から厳然として存在した」筈である。そうで無いと、「万葉集」は「日本最古の文献(の一つ)」として成立しない。
先述の通り、大陸伝来の漢字を「日本語の文字として活用」したのが万葉仮名。その万葉仮名が我が国初の文字であるならば、万葉集の背景である「和歌を詠む風習/習慣」は、文字の普及よりも遙か以前から厳然としてあった、と考えねばなるまい。
「文字の普及・伝搬と共に、和歌を詠む習慣が普及・伝播した」のでは、万葉集が我が国最古の文献にはなりようが無い。その場合、万葉集の成立は、日本書紀・古事記よりも数世代は遅くなったであろう。
それ即ち、「文字として書き記すことが出来ない(*1)和歌を、詠み、唱えると言う風習/習慣が、相当広範に、既に在った。」と言うことである。
此処で、和歌を「単なる文学」とか「趣味の芸事」と考えると、恐らくは誤るだろう。「天地をも動かし、鬼神をも泣かしむる」とは、優れた和歌の褒め言葉で在るが、恐らくコレは古代日本人にとっては「厳然たる事実」であり、「和歌を詠む」と言うことは、ある種の宗教的/呪術的儀式でも在った、と考えるべきだろう。
なればこそ、ある種の宗教的/呪術的儀式であるからこそ、文字なんぞ未だ無く、書き留め、書き記す事が出来なくても、「和歌を詠む」事は広く一般に普及し普遍化していた、のである。
「優れた和歌が、口伝で継承され、伝播する」こともあったろう。和歌は文学で在ると同時に、呪文であり、願文で在った。左様に考えるべきでは無かろうか。
左様に考えないと、我が国に文字が伝来して最初期に編まれた書物が、「日本書紀」「古事記」と言った歴史書(*2)と並んで「万葉集」という和歌集で在った事や、それも「大陸伝来の文字である漢字をそのまま使いながら、表音文字に使って話語としての日本語を表記する」万葉仮名で書かれていることは、左様に考えないと、説明がつかない、のでは無かろうか。
言い替えようか。古代日本人に、文字は無かった【多分事実】。文字は無かったが、日本語は話語として厳然として存在しており【推測】、その日本語で和歌を詠むことは、宗教的/呪術的儀式という点も含めて広く日本人の間に普及していた【推測】。
そこへ、大陸伝来の文字が入ってきた【多分事実】。大陸伝来の漢文のまま表記することも行われた【事実】が、それと同時並行して「表意文字である漢字を表音文字として使うことで、話語としての日本語を表記する」事も実践された(万葉仮名)【事実】。コレにより、当時既に多く読まれていた和歌を記録/表記できるようになり【推測】、「万葉集」へと繋がった【推測】。
「万葉集は、和歌を、漢文表記すると言うことをしなかった。」
これだけでも十分、大奇蹟ではなかろうか。 (*3)
況んや、その和歌の作者が「上は天皇から下は一庶民まで」包含している(事になっている)なんぞ、二重の大奇蹟であろう。
「奇蹟って奴ぁ、良く起こるらしいぜ。」byコブラ
- <注記>
- (*1) 「文字が無い」時代ならば、そうならざるを得ない。
- (*2) 歴史書は、言ってみれば「権力者の権力の根拠」で在るから、「文字として書かれた最初期の書物」としては、相応に一般的なようだ。
- それにしたって、日本書紀の「一書に曰く」って「異説併記」は、トンデモナイというか、凄いモノだが。
- (*3) それだけ、「話語としての、音声としての和歌が、重要重大であった。」と言うことであり、その背景が恐らくは「呪文・願文としての和歌」だったのだろう。
所謂「失言」報道とか、「差別反対」とかってのは、多くの場合ひどいモノだが、このときもひどかったよなぁ。
内心の自由も思想信条の自由も言論の自由も、民主主義の根幹であろうが。
-
蛇と呼ばれた兵器
年始一発目の記事で『干支に因んだ兵器を記事にする』ってのも、もう一巡以上している。12年前の「巳年に因んだ兵器」の記事は『蛇の道は蛇」として、米国はベル社の「コブラづくし」を記事にした。まあ、攻撃ヘリの嚆矢にしてロングセラーのAH-1コブラが、AH-1Wスーパーコブラになって、AH-1Zバイパー(マムシ)に発展しているから、「蛇ではあるが、コブラばかりでは無かった」のだが。
だが、蛇ってのは我々ヒューマノイドたる人間=2足歩行&2本の手からすると、相当な異形・異型であり、それ故に崇拝や嫌悪の対象となりやすい、様である。キリスト教の聖書では「原初の人間」たるアダムとイブを唆して「知恵の実」を食べさせ、「楽園を追われる」原因を作った(*1)のが蛇だし、ゴルゴンの髪の毛とか鵺の尻尾とか、「妖怪・妖物としてのシンボル(乃至アクセサリー)」として蛇が使われることも、ままある。
我が国の神話でも「八岐大蛇」って大妖怪が居たりするのだが、一方で神である/神として祀られる蛇も枚挙に暇が無い。
「八岐大蛇」だって、倒された後に「草薙剣」って後に「三種の神器」の一つとなる「レアアイテム」を「ドロップ」している(*2)のだから、「妖怪と言うよりは、ある種の神である」と考えた方が無難だろう。
だが、神にせよ妖怪にせよ、ある種の「パワー」があることは「認められている」訳だから、それにあやかっての「兵器の名前」となることも、良くあること。先述し一回り前に記事にもした、米国はベル社の航空機(戦闘機&攻撃ヘリ)たる「コブラ」シリーズも、その一つ、だろう。
で、他には、無いかと、つらつらおもんみるに・・・
- <注記>
- (*1) キリスト教の教義で、私が一番嫌いなのは「原罪」だが、2番目ぐらいに嫌いなのが、この「失楽園」神話だ。
- なぁんだって人が知恵を付けたら「楽園を追われる」なんて罰を受けなければならないのか?知恵こそ、人を人たらしめているモノでは無いか?
- ホモ・サピエンスって現世人類の学名の原義は、「考える人」だぞ。
- 「技だよ、シャバスさん。力じゃ無い。
- 神は獣が地上の王となることを、望み給わなかった。」ってのは、ジャック・ヒギンズの数多ある作品のどれかの名科白。此処で言う「技」は、「身体を使う知恵」って意味だろう。
- (*2) こう言う表記が、「極めてゲーム的」なのは承知しつつ。まあ、判りやすい向きには、判りやすかろう。
- 私には、やっぱり、違和感の方が先に立つが。そんなに所謂RPG(ドラクエの類い)は、やってないしな。
-
(1)「俺の名は、コブラ」ノースロップYF-17 コブラ 超音速ジェット試作戦闘機(米)
「コブラ」って蛇は、蛇の中でも有名な方だろう。我が国で言うとアオダイショウとかシマヘビとかヤマカガシの方がずっとメジャーでよく見かけるし(*1)、毒蛇として恐れられるのはマムシとハブぐらい。だが、どれも「コブラ」のネームバリューには、到底適いそうにない。
一つには、コブラが「毒蛇としてはかなり大きい(*2)」事。もう一つには「その蛇毒が強いこと」。更には「インドの蛇使い」に象徴されるとおり、「鎌首を持ち上げ首回りのヒダを広げる、独特の威嚇ポーズ」の故、であろう。
だから、「左腕にサイコガンを持った一匹狼の宇宙海賊(*3)」の名前にもなれば、「最後には銃にモノを言わせる、現代のワイアットアープ的刑事(*4)」の名にもなる。ベル社が一連の「コブラ」シリーズを開発・製造・発売したのも、そんなコブラのイメージを利用して、だろう。
だが、ベル社以外にも「コブラ」名前の航空機を作ってしまう会社もある。その一つが、ノースロップ社であり、YF-17って試作ジェット戦闘機に「コブラ」の名を付けた。
「言い得て妙」と言って良かろう。何しろ、ベル社の一連のコブラシリーズが、名前負けとは言わないまでも(イヤ、言えそうなのもあるか。)「名前だけコブラ」って感じなのに対し、YF-17はその独特の機首廻り形状、即ち「主翼付け根から機首方向に鋭く突き出た主翼延長部」があることから、コレが「首回りのヒダを広げて威嚇するコブラの鎌首」と、見えないことも無い。
LEX Leading Edge eXtention(*5)と呼ばれるこの「主翼形状」というか「前方追加フィン」は、「主翼面積の増大」的な揚力向上効果を狙うと共に、この鋭く突き出た部分で発生する「翼端渦」によって主翼上面の気流を制御し、特に大迎角時の失速特性などを改善する(*6)、空力的工夫であり、原理的には主翼前縁の切り欠きたる「ドッグツース」にも相通じるモノがある。
YF-17は、米空軍の主力戦闘機たるF-15が余りに大きく高価であることから、「作戦機数を揃えるための軽量安価な戦闘機」として立案された軽量戦闘機計画LFP Lightweight Fighter Programにノースロップ社が応じる試作機として開発され、「コブラ」と名付けられた。
だが、まあ、軽量戦闘機計画について言えば、「相手が悪かった」と、結果から言えば言えそうだ。何しろ同計画の試作機を同じく受注したライバルは、ジェネラルダイナミクス社のYF-16。後にF-16ファイティングファルコンとして、未だ製造販売が続くロングセラーとなったのだから。試作に敗れたYF-17は「Y」が取れない「YF」のまま終わり、「コブラ」は制式採用も量産もされずに終わった。
が・・・「高翼面荷重だが、離着陸性能は良い」ってYF-17の(LEXの成果でもある)特徴は、「F-14では大型で高価過ぎる」と、米空軍と良く似た悩みを抱えていた米海軍(*7)に注目され、マクダネルダグラス社(F-14のメーカーでもある)がそのコンセプトを引き継ぎ、F/A-18ホーネット(さらには、F/A-18E/F スーパーホーネット)として開発し、米海軍に制式採用され、輸出も(F-16程の盛大さはないが、)されている。
つまりは、YF-17コブラの「コブラらしい形状」は、F/A-18にしっかりと受け継がれ、今も空に、その鎌首を広げているのである。
何しろ、F-14トムキャット亡き後、F-35BやF-35CライトニングⅡが配備されるまで「米海軍唯一の艦載戦闘機」となったのがF/A-18ホーネット&F/A-18E/Fスーパーホーネットだ。「F/A」の機首記号が示すとおり「戦闘機兼攻撃機」であり、一時期米空母の飛行甲板は「F/A-18(シリーズ)の独占状態」に近かった。それほどの「大繁殖」を見せたのがF/A-18シリーズなのであるから、YF-17の「コブラらしい鎌首形状」は艦載戦闘機(兼攻撃機)の「一つの理想形状」であった、と言えそうだ。
たぁだ、「揚力も稼ぐが、抵抗もデカくなる」とか、「ステルス性に欠ける(RCSを増大させる)」なんて特性も、「コブラ似の鎌首形状」=LEXにはあり、そのために最新型艦載機のF-35ライトニングⅡにはLEXは受け継がれなかった。残念ながら。
- <注記>
- (*1) 第一、我が国にはコブラなんて生息していない。基本的には。
- (*2) 大型の蛇は、ニシキヘビなどもそうだが、毒なぞ使わず、長い胴体で絞め殺す事で獲物を獲っている。だから、大型の長い蛇には、毒蛇は殆ど無い。
- (*3) 寺沢武一のデビュー作にして最高傑作「コブラ」の主人公
- (*4) シルベスタ・スタローン主演「コブラ」。役名は、確か、マリオン・コブレッティ刑事
- (*5) LERX Leading Edge Root Extentionとも呼ぶらしい。
- (*6) 結果として、離着陸性能や空戦性能を向上する。
- (*7) 言うまでも無いだろうが、米海軍は世界で一番艦載機を保有している海軍である。それも、断トツに数が多い。
-
(2)「コルト・パイソン・357マグナム。頼もしい、俺の相棒だ。」 コルト パイソン357マグナム 回転式拳銃(米)
357マグナムと言えば、真っ先に思い浮かぶのは、ルパン三世の相棒、早撃ち0.3秒のクールなガンマン、次元大介のスミス&ウエッソンM19コンバットマグナムである。【敢えて断言】
当時「最強の拳銃弾」であり、後にその座を「44マグナム」に譲り渡して、こちらはクリント・イーストウッド演じる「ハリー・キャラハン刑事」@映画「ダーティーハリー」シリーズ(*1)の愛銃スミス&ウエッソンM29(や、後には44オートマグ)や、加納錠治刑事@漫画「ドーベルマン刑事(でか)」の愛銃スタームルガー・スーパーブラックホークなどで、ある種「一世を風靡した」感がある(*2)。
だが、357マグナムへの注目度が減ったからと言って、別に357マグナム弾が弱装化された訳ではない。対人戦闘では相応の威力を誇っており(と言うよりは、元々、拳銃弾の「対人戦闘力」なんてのは、「多寡が知れている」ので、44マグナムぐらいになったところで「大したことない」のである。)、コレを使用する拳銃(主として回転式拳銃(*3))はその後も開発・採用・販売されている。
「コルト・パイソン357マグナム」も、その一つ。漫画・アニメ「シティ・ハンター」の主人公・冴羽リョウの愛銃として有名だ。外観的には、銃身(*4)の上側全長にわたって「冷却用の空気穴」が並んだヘヴィ・バレルが一大特徴だろう。
後は、近代的なリボルバーの御多分に漏れずスイングアウト式でスピードローダーを使いやすい(*5)レンコン型弾倉と、ダブルアクション(*6)もシングルアクション(*7)も可能なトリガー(及び撃鉄他)が特徴。
更には、コルト社は、このパイソンを大型化して44マグナム弾に対応した「コルト アナコンダ 44マグナム」を開発、生産、販売した。既にコルト社はその生産を停止しているモノの(ってぇか、コルト社自身が2015年に倒産している。(*8))、「コルト社を買収したチェコのメーカーCZ社が復刻版を生産する」なんて事もあるようだから、未だ人気は高い、様だ。
尤も、銃社会アメリカでさえ「警官が44マグナム弾を使う大型拳銃を携帯・使用する」訳には行かなくなっており(*9)、44マグナム弾は今や狩猟や鑑賞などの「趣味の弾丸」になってしまっている、らしい。
とは言え、それでも再販されるコルト・パイソンやコルト・アナコンダは、嘗ての大ベストセラー(で、今でもことある毎に再版品やパチモンが出て来る)コルトSAA(シングルアクションアーミー)回転式拳銃やコルトM1911A1ガバメント自動拳銃にも比肩しうるほどの「根強い人気」を誇る「拳銃界のロングセラー」と、言えそう(*10)だ。
- <注記>
- (*1) シリーズが進むと、徐々に重火器が強化拡大されるのは、ある種のインフレ現象か。チャールズ・ブロンソン主演のDeath Wishシリーズにも、そう言う傾向あるよな。
- (*2) 「ある」と言ったら、「ある」【断言】。
- (*3) 「マグナム弾を撃てる自動拳銃」ってのは、44オートマグを皮切りに、幾つも開発されているが・・・「回転式拳銃に取って代わる」ほどのモノは未だ無いようだ。
- (*4) 長さは幾つかバリエーションがある。代表的なのは4インチだろうが、私(ZERO)としては6インチ以上欲しいな。
- (*5) そりゃ、まあ、中折れ式でも、スピードローダーは使えるが。
- (*6) 引き金を引くだけで、撃鉄が起き、弾倉が回転し、撃鉄が落ちて、発射できる。
- (*7) 先ず手動で撃鉄を起こす。すると弾倉も回転する。引き金を引くと、撃鉄が落ちて、発射できる。
- コチラの方が古い方式だが、引き金が軽くなり、命中率が向上する(と期待できる)ので、今でも大抵の回転式拳銃は「シングルアクションでも撃てる」。
- 中には、「ダブルアクションで無いと撃てない」って、チョットへそ曲がりな回転式拳銃も、無いでは無い。
- 「シングルアクションで無いと撃てない」銃ならば、今でもあるなぁ。西部劇で有名なコルトSAAは「古い銃だから、シングルアクションオンリー」なんだが、未だにレプリカや復刻版が売られていたりする、らしい。私(ZERO)も好きな銃、だけどね。最初のモデルガンだし。
- (*8) 回転式拳銃を発明した米国でも老舗中の老舗の銃器メーカー。M1911ガバメント自動拳銃や、M16(後にM4)軍用自動小銃で、米軍御用達の感さえあった、大メーカーだったのだが・・・アメリカって、銃社会の割には、ホイホイ銃器メーカーが潰れる。また、新しい会社が出て来るのだけれど。
- 私としては「創業百年以上」って会社が山ほどある、日本の会社形態の方が「正しい」と思うぞ。
- 「継続は力なり。」
- (*9) と言うよりは、MP5の様な短機関銃や、ショットガン、軍用自動小銃(アサルトライフル)が普及した、って方が、正しいかな。
- (*10) そりゃ、米軍制式採用以来百年以上を数えるガバメントや、それより更に半世紀は遡れるSAAには、とても適わないが。
-
(3)「吸血鬼より出でし蛇毒」 デ・ハビランド ヴェノム亜音速ジェット戦闘機(英)
ヴェノムVenomとは、蛇やサソリなどの毒をさす。転じて「悪意」と言う意味もあるが、原義は「蛇毒」って意味だから、「蛇ではない」と言い得るが、まあ、「蛇繋がり」ではある。
デ・ハビランド ヴェノムは、戦後第一世代ジェット戦闘機に当たる、英国開発の亜音速ジェット戦闘機。まぁだイギリスが「一国で戦闘機の開発を行えた」頃の話で、第二次大戦戦後間もなくの頃に開発された。
元々は、やはり戦後第一世代に数えられるデ・ハビランド ヴァンパイヤ(*1)亜音速ジェット戦闘機の改良型として企画され、主翼付け根に空気取り入れ口(エアインテーク)を配置して、短い中央胴体内に遠心圧縮式のジェットエンジンを一基備え、細い双胴の後端付近に双垂直尾翼と、双胴間を繋ぐような水平尾翼を持つ。その形態・レイアウトは、正にヴァンパイヤで「試行」された、黎明期のジェット戦闘機形状。原理的に直径が大きく太くなる遠心圧縮式ジェットエンジン(航空機用としては、やがて軸流式が主流になる)に適した形態であり、ぶっちゃけ「ヴァンパイヤ戦闘機のエンジンを強力な物に換装(ゴブリン⇒ゴースト(*2)し、主翼を純粋直線翼から「前縁だけ後退角(*3)」を付けて「若干後退翼(*4)」にしたのが、ヴェノムである。
まあ、それだけ、「ジェット戦闘機としても黎明期であり、試行錯誤の時代であった。」とも言えそうだし、「英国単独での戦闘機開発」もさることながら、「矢継ぎ早の戦闘機開発」=「同一世代戦闘機の”乱立”状態」とも言えるだろう。
これが、「戦後第二世代戦闘機」となると、「超音速」が一大特徴となり、米国のセンチュリーシリーズ(F-100から始まるF-百番台戦闘機。)に代表されるように「米国では未だ乱立状態継続(*5)」される訳だが。対して英国となると・・・BAC ライトニング超音速ジェット戦闘機が「辛うじてある」程度、になる。
計画機とか入れると、もう一寸増えるけどねぇ。
であるならば、デ・ハビランド ヴェノム亜音速ジェット戦闘機は、「未だ英国が航空機開発、就中戦闘機開発に於いて、単独で主要な役割を担えた時代の象徴」と、言えなくもなかろう。
ある種の「縁起物」って訳だ。正月らしかろう。
- <注記>
- (*1) 「戦後」って所に、些かならず疑問符はつくが。グロスター・ミーティアに続く、英国開発のジェット戦闘機で、初飛行は第2次大戦中である。
- (*2) 化け物繋がり、だな。
- (*3) ヴァンパイヤは「直線先細翼」だったので、「後縁だけ前進角を無くした主翼形状」とも、言えそうではある。
- (*4) 後に、「ちゃんとした後退翼」になった、ホーカー・ハンターが登場する。
- (*5) 制式採用された戦闘機だけでも、F-100、F-101、F-102、F-104、F-105、F-106とある。
-
スフェン教の研究ー「片田舎のおっさん、剣聖になる」に於けるスフェン神に関する一考察
来年一月にはアニメ化されて放映されるという、元は「ラノベ」こと「ライトノベル」である「片田舎のおっさん、剣聖になる」については、既に幾つも記事を為し、「スピンオフ小説」とも言えそうな(でも、時間線は別だぞ。)「小説」まで本ブログでは取り上げた。
今回は、同作品の背景の一つで在り、上述の「スピンオフ小説」「片田舎の衛兵隊長、剣術師範になる」の「重要なキーワード」ともなった(と思う)「スフェン教」について、考察しよう。
スフェン教は、原作の主人公「おっさん」こと「片田舎の剣聖」ベリル・ガーデナント氏が住んでいるレベリス王国の隣国・スフェンドヤードバニアでは国教となっている宗教で、レベリス王国首都のバルトレーンに相応の(*1)大きさの教会も構える、「結構な大宗教」である。
あれやこれやを敢えて無視して、その宗教的・教義的側面だけに注目するならば、スフェン教とは、以下のような宗教であるらしい。
① スフェン神は、唯一神である。
② スフェン神は、元は人間の剣士であった。
③ スフェン神は、数多の神のみわざ=奇蹟(*2)を実践して見せた。
④ スフェン神の実践した最大の奇蹟が、死者蘇生である。
⑤ スフェン氏はスフェン神となり、今も唯一神として人々を導き、救っている。
⑥ スフェン教会は、スフェン神のみわざたる奇蹟を受け継ぎ、伝承し、少なくともスフェンドヤードバーニア国内では一手専売している。
⑦ 奇蹟を、「治癒魔術」とか「強化魔術」とか称するのは、忌むべき異教徒ないし異端である。
さて、その上で、こんな疑問は抱かなかっただろうか。何を隠そう、私(ZERO)は抱いた。
-
【疑問1】スフェン神が「唯一神にして元人間」とするならば、スフェン神は「創造主・造物主」ではあり得ない。そもそも、「人としてのスフェン神が生誕する以前は、”神無き世界"にならざるをえない。
ウーン、「創造主・造物主ではない唯一神」ってのは、かなり無理がある、と言うか、無茶だろう。言語矛盾に近い。
何故ならば、「創造主・造物主ではない唯一神」ってのは、「唯一神ではない創造主・造物主」が前提とならざるを得ない(*3)。仮にそれを前提とするならば、「創造主・造物主ではあるが、神ではない」存在を前提としなければならない。
時系列を追うと、こうなろう。
(1) この世は、「神ならぬ創造主・造物主」によって作られた。
(2) この世に後のスフェン神となる人(スフェン氏、かなぁ。)が生まれる。
(3) スフェン氏は剣士となり、数多の奇蹟を起こす。
(4) スフェン氏はスフェン神となり、この世界を統べる唯一神として人々を教え導いている ←今、ここ。
こうやって時系列を整理して気づいたのだが、話の構造がキリスト教に似ているんだな。スフェン教って組織自体も、「カソリック・キリスト教」をモデルにしている様だし。
キリスト教では創造主・造物主としての「父なる神」が居て、「神の子」としてイエス・キリストをこの世=地上に送り出す。後に人としてのイエス・キリストは処刑されてしまうが、神として蘇っている。序でにイエス・キリストを生んだ母・マリアまで「聖母」になっている(*4)。
キリスト教、と一言で言っても新教プロテスタントと旧教カソリックに大別される(*5)他、数多の分派流派があり、中には「父なる神」と「イエス・キリスト」と「聖霊(*6)」とを一体不可分のモノと主張する「三位一体説」(*7)を唱える宗派もある、そうだ。
左様に考えるならば、「唯一神にして元人間」と言うスフェン神の設定も、相応に「理屈が通る」可能性がある、訳だ。たぁだ、創造主・造物主たる、キリスト教で言う「父なる神」のカウンターパートの存在感が、随分と希薄ではある、が。
「そんな奴、居る/居たのかぁ?」と疑問に思うぐらいに。
あれかな、創造主・造物主たる「父なる神のカウンターパート」と言うべき存在は、スフェン教的世界観では「この世を創り出しただけで、去ってしまった」とか「消滅してしまった」とか、なのかな。その後の「創り出されはしたが、導くべき神の居ない"末法"の世」に、唯一の光明となったのが(未だ人間だった頃の)剣士・スフェン氏で、数多の奇蹟を実現して、とうとう入神というか昇神と言うか、「この世の唯一神」になった(*8)、とか、そう言う「話」なのかな。
宗教的教義とか説話とかってのは、ある種の「ファンタジー」であるから、「何でもアリ」ではある。世間一般に「キリスト教の主神にして、唯一絶対神」として知られるイエス・キリストと、創造主にして造物主である「父なる神」と、その神のみ使い(*9)である聖霊とが、(実は)同一人物って「三位一体説=トリニティー」説が大手を振って罷り通ってしまうのだから「失われた創造主・造物主」ってのも、アリと言えば、アリだろう。
であるならば、先述の「スフェン教的世界観」は、以下のように修正されよう。
(1) この世は、「神ならぬ創造主・造物主」によって作られた。
その後、「神ならぬ創造主・造物主」は、人と世界を導くこと無く去ってしまわれた。
(2) 「神無き」この世に、後のスフェン神となる人(スフェン氏、としよう。)が生まれる。
(3) 人として成長したスフェン氏は剣士となり、数多の奇蹟を起こす。
その奇跡の中で至高のモノが、死者蘇生である。
(4) スフェン氏はスフェン神となり、この世界を統べる唯一神として人々を教え導いている ←今、ここ。
「こっちの世界」のキリスト教との最大の相違点は、上記(1)から(2)の間の「神無き世」だろう。仏教の末法思想に近いモノを感じるが、「この世界も人も作ってくれた創造主にして造物主が、今は居ない」って宗教は、一寸心当たりが無い・・・まあ、私(ZERO)は宗教研究家でも何教かの熱心な信者でも無く、敢えて言うならば仏教徒にして日本神道の徒(*10)であり、理系人間だが世界史選択者であり、世界史/歴史、分けても戦史については興味関心を抱いている「歴史マニア」ってだけだから、この「心当たりが無い」も、余りアテには出来ないが。
ただ、斯様な「神無き世」をその前提とするスフェン教の成立背景ってのを考えると、相当に絶望的な、暗い時代背景しか、一寸思い浮かばない。「神に見放された時代」ってのは、「絶望的で暗い」としか、一寸考えようが無い。何らかの理由/環境でそんな絶望的&暗い状況に陥った集団から発生した宗教、と想定される。
更には、そんなスフェン教が「国境として保護され、普及し布教されている(らしい)スフェンドヤードバーニア国」も、少なくとも過去には似たような絶望的&暗い状況に陥っていた(*11)、と考えるのは、「妥当な推論」と言えそうである。
原作の小説によると、スフェンドヤードバーニア国はレベリス王国の北にあるそうだから、相当に寒いかも・・・と考えるのは「北半球的発想」だな。南半球では、北に行くほど暑くなる。第一、地軸が傾いているとも限らない(*12)・・・普通は「傾いている」ものではあろうが。
また、そんな「神無き世」を「歴史的前提」とするスフェン教なればこそ、「神として存在し、人と世を導くスフェン神」ってのが大変重要であり、スフェン教会がスフェンドヤードバーニア国内では「独占」している治癒魔術(や強化魔術(*13))よりも、「教え導く神としてのスフェン神」こそが、重要・重大、「肝」なのであろう。
なればこそ、「導いてくれる人は、もう二人居る!!」と断定・断言・宣言する、フィッセル・ハーベラーの前では、「スフェン教の霊験」も雲散霧消するしか無かった、訳だ。フィスちゃん、強い。
まあ、その「導いてくれる二人」の片割れ、ルーシー・ダイヤモンド魔法師団長は、半分(以上?)神様みたいなモノだが。
多分、不老不死だぞ。ルーシー師団長。
以上の考察から、スフェン教の背景として、以下の諸点がある、と推察される。
<考察1> スフェン教は、「神無き世」と思わせるような絶望的な、暗い状況を背景として発生した宗教である、と推察される。
コレは同時に、スフェン教を国教とするスフェンドヤードバーニア国の(少なくとも)歴史に、「絶望的な暗い状況」があったことを示唆する。
<考察2> スフェン教に於ける「救済」とは、「奇蹟(治癒魔術、強化魔術)」よりも、「死者の魂」を含む「人」を、「教え導く」事である、と推定される。「教え導く」事で、スフェン教発生以前の「神無き世」からの脱却を保証することが、スフェン教の「魅力」であり、「強い宗教的動機付け」となっている、と推定される。
コレは、「国家や指導層にとって誠に好都合な宗教である」と同時に、「スフェン教会自身が、極めて政治色の強い集団」とならざるを得ない事を示唆している。
「坊主に政治やらせると、ロクな事が無いんだよ!」by立川談志
まあ、技術レベルも政治体制も「ヨーロッパ中世レベル」ってのは、ファンタジー世界の定番だから、無理ないかも知れないが。「政教分離」とか、「早過ぎる」だろう。
- <注記>
- (*1) 極秘裏に死体を集めて怪しげな儀式が出来てしまうほどの
- (*2) スフェン教で「神のみわざ=奇蹟」とされるモノは、少なくともレベリス王国では「治癒魔術」「強化魔術」として理論化体系化され、研究・研鑽・訓練・伝授されている。
- (*3) 或いは、「この世は自然発生的に何者にも依らずに誕生した」とか、「永遠なるモノはこの世で在り、それは不変である」と考えるか・・・どっちもかなりの無理がありそうだが。
- (*4) が、マリアの夫である筈のヨセフは「聖父」になることも無く、「大工であった」事以外はほぼ忘れ去られている・・・
- ってぇか、「処女懐胎」ってのが本当ならば、下賤な話、「ヨセフはマリアとシていない」ってことで、ヨセフは不能者である疑いさえ、払拭し難い。
- あ、「同性愛者」って手があるか。「ポリコレ」って奴かな(無論、皮肉)。
- (*5) ばかりでなく、血で血を洗う様な宗教戦争を、何度も繰り返しているし・・・一部は今も続いている。
- (*6) 聖母マリアに「神の子を宿した」事を告げた、そうだ。「唯のメッセンジャーじゃないか?」と、異教徒たる私(ZERO)は思ってしまうんだが。
- (*7) かかる「三位一体説」や、それに準じた発想でもある「父なる神」というコンセプトが、「造物主・創造主ではないが神の子たるイエス・キリスト」を主神に据えての「唯一絶対神の宗教である、キリスト教」を、成立させている。
- 先述の「言語矛盾に近い無理」を通している、訳である。
- (*8) 普通に考えれば、「死んだ」のだろうが・・・仏教のブッダや、回教のマハディーとかが、似たような形で「人が神となった」事になっている、そうだ。
- (*9) ではあろうが、やっぱり単なるメッセンジャー、だよなぁ。
- (*10) 日本人であるならば、意識/無意識に関わらず、「日本神道の徒」であることは、一寸免れようが無い、とは考えている。
- (*11) 無論、「正に、絶望的&暗い時代であったからこそ、スフェン教が成立し、布教され、そのまま国教となった」可能性もあろう。
- 即ち、「スフェンドヤードバーニアこそ、スフェン教発祥の地である」可能性が。
- (*12) レベリス王国やスフェンドヤードバーニア国がある惑星の自転軸が公転面に鉛直である可能性も、無いではない。
- でも、その場合、「四季は存在しない」事になるな。「四季」という概念が無い、ないし相当に希薄であろうし、暦を発見/発明するまで相当にかかる、かも知れない。
- (*13) それらは、先ず間違いなく巨大な利権を意味する。
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沖縄二紙、心底、「強請の名人」だ。ー【琉球新報社説】オスプレイ発火 いつまで欠陥隠すのか
再三書いている通り、タイトルにも取ったが、「沖縄は、強請の名人だ。」と発言した米軍人だか米高官だかが発言撤回と謝罪に追い込まれた、って事があった。もう十年以上前のことになるかな。
この発言に、当時の私(ZERO)は、「成る程な。」と理解も納得もしたものだが、その後も沖縄二紙の主張とか社説とか見ていると、「成る程、強請の名人だ。」と思うことが、再三ある。
下掲する琉球新報社説も、その一例である。
つまり、少なくとも沖縄二紙の主張・言説が、他ならぬ「沖縄は、強請の名人だ」発言を、補強し助長し強調している、のである。
☆
(1)【琉球新報社説】オスプレイ発火 いつまで欠陥隠すのか
オスプレイ飛行再開 欠陥機は退役するべきだ
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-3765908.html
公開日時
2024年12月16日 04:00
運用停止が繰り返されるのは、欠陥機であることの証明だ。日米両政府はオスプレイの飛行を即時中止し、退役させるべきだ。
米海軍航空システム司令部は現地時間6日、米軍が使用する全種類の垂直離着陸輸送機オスプレイの一時的な運用停止を提言した。海軍、空軍、海兵隊が応じた。宜野湾市の米軍普天間飛行場に配備されているMV22オスプレイも飛行を見合わせていたが、4日間の運用停止を経て、11日に再開した。
AP通信によると、今回の措置は11月20日に米西部ニューメキシコ州の空軍基地で墜落につながりかねない事故が発生したことを受けたものだ。機体内部の部品の金属疲労が関与した可能性があるという。
2023年11月、米空軍のCV22オスプレイが鹿児島県の屋久島沖で墜落、乗員8人全員が死亡した。報告書では、機体左側にある「プロップローター・ギアボックス」の内部で破断した歯車の破片で別の歯車がすり減り、ローターに動力が伝わらない状態になったことが原因としている。
APによると、破損した部品は異なるものの、今回のニューメキシコ州での事故に、屋久島沖での墜落事故との類似点が見つかったという。
全ての機体で起こり得る懸念がある。一時的であれ、米軍全体が運用停止の提言を受け入れたことは、相次ぐ事故を深刻に受け止めている故ではないのか。
オスプレイの事故は頻発しており、飛行停止措置も相次いでいる。22年8月にはクラッチに関する不具合が問題となり、米空軍が全てのオスプレイを飛行停止した。屋久島沖での事故後も全ての機体の飛行を停止した。いずれも一時的な措置だが、飛行停止と再開が繰り返されることは、構造的な問題が解消されていないためだと考えられる。
米民主党の連邦議会議員3人は11月末、オスプレイによる事故が相次いでいることを受け、米国防総省に安全対策が講じられるまでの間、飛行停止を求める書簡を出した。米国内からも安全性に疑いの目が向けられている。
今回の措置について、米側から日本側に十分な説明がなされたとは言い難い。陸上自衛隊のオスプレイが飛行を見合わせたのは10日からで、海兵隊が運用停止した6日から大幅に遅れた。
にもかかわらず、海兵隊機の飛行再開に対し中谷元・防衛相は「機体を徹底的に点検した上で再開したと説明を受けている」と容認する姿勢を示した。対米従属と言わざるを得ない。
飛行再開を容認することは、その真下にいる沖縄県民をはじめ日本国内の住民を危険にさらすことにほかならない。欠陥機の運用を続けることが、安全保障の面でも有用なのか疑問が湧く。乗員の生命すら危うい。欠陥機の飛行を容認してはならない。
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(2)イチャモンも、大概にしろ。落ちぬのは、飛ばぬ飛行機だけだというに。
上掲社説の様に主張するのであれば、「発火したことの無い航空機」ってのを挙げて見せやがれ、ってんだ。
「発火したことの無い航空機」が仮に「実在した」としても、取扱を誤れば「発火する」事は、賭けても良いな。
第一、「崩れる安全神話」と銘打った平安名純代記者の署名短期集中連載記事を掲げたのは、琉球新報では無かったか?左様な仰々しいタイトルで「安全神話を崩した」筈のオスプレイの「欠陥が未だに隠蔽されている」と言うのは、一体如何なる状況・状態であるのか?
未だ「オスプレイの欠陥が隠蔽されている」状況であるとすれば、(正にその様に、上掲琉球新報社説は主張しているのだが。)「崩れる安全神話」なる平安名純代記者の署名短期集中連載記事では、「オスプレイの安全神話は、崩れなかった」と琉球新報自身が認めた、と言うことであり、それ即ち琉球新報と平安名純代記者の取材能力の低さを自認・公認・公言した、ということでもある。
まあ、当該署名短期集中記事「崩れる安全神話」を、真面な精神と些かの知識を持って読めば、自明なところではあるが。
更には、当時「崩れる安全神話」という署名短期集中連載記事に登場したリボロ氏はじめとする複数の「専門家」も、ロクデモナイシロモノであることは、既に弊ブログ記事にもしたところだ。そうそう、「ホバリング高度制限があることは、輸送機として致命的な欠陥だ。」と公言・断言・断定しやぁがった「専門家」は、未だご存命かね?そんな「専門家」が当時にであれ現世であれ「実在した/実在する」ならば、だが。
言い替えよう。「オスプレイ欠陥機説」は、オスプレイの陸自配備どころか、沖縄配備以前から、再三再四再五再六沖縄二紙が主張し続けてきたところで在り、「リボロ氏」はじめとする複数の「専門家」を動員していたが、私(ZERO)の知る限り見る限り、「これがオスプレイの欠陥だ」と審らかに明示したモノは、一つも無い。「飛行機ならば当たり前」とか、精々の所「チルトローター期の特性として、そうなる」って話を「欠陥だぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」と言い募るだけ。正に、章題にした通りだ。
だから、言うのである。「沖縄は、強請の名人だ。」と。
欠陥でも無い事象を「欠陥」と言い募り、金だか利権だか政治的優位だか謝罪だかを「強請り取ろうとしている」から、だ。
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本当に、「強請タカリの名人」だ。県内土でも文句言い、県外土でも文句言い。ー【琉球新報社説】宮城島土砂搬出 島を削り基地造る愚行だ +1
何度か書いているが、「沖縄は強請の名人だ。」と発言して、米軍人だか米高官だかが物議を醸し、謝罪と発言撤回に追い込まれた、って事があった。
が、それ以来特に注意深く沖縄二紙を観察しているのだが、「なるほど、”沖縄は強請の名人だ”って言葉には、一理も二理もあるな。」と思わされることが、結構ある。
これは他でも無い沖縄二紙の、沖縄二紙自身の言説が、「沖縄は強請の名人だ」説を裏書きし、裏付け、補強増強している、のである。
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A.【琉球新報社説】宮城島土砂搬出 島を削り基地造る愚行だ
宮城島土砂搬出 島を削り基地造る愚行だ
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-3668288.html
公開日時
2024年11月21日 04:00
自然が豊かな島を削って運び出した土砂を美ら海に投じ、県民の幸福に逆行する新基地を建設する。あまりにも愚かな行為であり、即刻中止を求めたい。
米軍普天間飛行場の返還に伴う辺野古新基地建設で、沖縄防衛局はうるま市与那城の宮城島にある採石場から埋め立て土砂に用いる岩ずりの搬出を開始した。陸路で中城湾港に運んだ後、海路で新基地建設現場に向かうものと見られる。防衛局は9月から土砂調達の調査を進めていた。
面積約5.5平方キロ、人口570人(今年10月現在)が暮らす宮城島が新基地建設に用いる土砂の供給源となるのだ。大型ダンプの往来が増加すれば、地域の住環境に悪影響を与えよう。自然環境にもダメージを与えることにならないか。島の土砂が基地建設に用いられることに複雑な思いを抱く住民もいるはずだ。
大浦湾側の軟弱地盤改良のため沖縄防衛局が2020年、県に提出した設計変更申請書で、県内での土砂調達可能量は当初の670万立方メートルから約6.7倍の4476万立方メートルに増えている。
当初の土砂採取地は国頭地区と本部地区だったが、設計変更申請で南部地区(糸満市、八重瀬町)と宮古島市、石垣市、南大東村と共に宮城島が新たに加わった。宮城島の土砂調達可能量は30万立方メートルと見積もっている。
防衛局は現在、本部町と国頭村で土砂搬出を実施しており、宮城島が今回追加された。大浦湾の軟弱地盤を改良するため、県内全域から土砂をかき集める新基地計画は無謀というほかない。
軟弱地盤改良は難工事が予想されており、土砂使用量もさらに増える可能性がある。県外から特定外来生物流入を食い止めるために土砂の持ち込みを規制する「土砂条例」は、県内の土砂を対象にしていないが、そのことを理由に県内での土砂採取の比重が高くなれば環境への負荷は一層深刻なものとなる。
土砂採取に関しては、沖縄戦犠牲者の遺骨が混入する可能性がある南部土砂の使用に強い反対がある。沖縄戦体験に基づく県民の平和志向の表れであろう。県議会は21年4月、戦没者遺骨を含む土砂を埋め立てに使用しないよう国に求める意見書を全会一致で可決した。那覇市、名護市、糸満市など県内自治体で同趣旨の意見書可決が相次ぎ、この動きは県外にも広がった。
同様に新基地建設のような、沖縄の自然を傷付ける施策に県民は抵抗してきた。宮城島や隣の平安座島などでは1970年代、石油備蓄基地(CTS)反対運動を展開した経験がある。今回の土砂搬出も宮城島の歩みに照らせば受け入れられるものではない。
土砂搬出についてうるま市やうるま市議会が現時点で具体的な対応を示していない。島の自然を守り、地域の歴史や住民感情に沿うよう搬出反対の意思を示すべきだ。
B.【沖縄タイムス社説】宮城島から辺野古土砂 島の土を基地に使うな
宮城島から辺野古土砂 島の土を基地に使うな
https://www.excite.co.jp/news/article/OkinawaTimes_1476182/
沖縄タイムスプラス
2024年11月22日(金)04:00
名護市辺野古の新基地建設を巡る土砂搬出のため沖縄の豊かな自然と風景が壊され、生活環境への悪影響が懸念される。
新基地建設で、沖縄防衛局は、うるま市の宮城島から埋め立て土砂の搬出を始めた。
沖縄本島北部以外からの搬出は初めてである。
防衛局が、搬出開始を県やうるま市に対して通知したのは当日の午前だった。宮城島の採石場では、土砂を積んだダンプカーが次々と入っては出て、幅の狭い道路を抜けて、中城湾港に向かった。
本島と海中道路を通じて結ばれる宮城島は、面積が5・5平方キロ。四つの集落から成り、伝統文化が息づき、農地が広がる地域だ。
昨年の台風による土砂崩れで、伊計島へつながる農道は一部で片側交互通行になったまま。日常的に観光客らで300メートル近く渋滞することもあるという。
ニュースで詳細を知って採石場前を訪れた島に住む80代の女性は「畑仕事をしていて、行き交うダンプの数に驚いた」と語った。
小さな島にダンプが何百台も往来すれば、深刻な渋滞が発生するのではないか。事故が起きる懸念も高まる。
防衛局は、中城湾港全体を管理する県には、使用申請を出さず、同じ国の機関の沖縄総合事務局が一時的に使用し、管理権を持っている区域を拠点にするという手段を取った。
当日に連絡するというのは、いかにも形だけのやり方だ。
地元軽視に他ならない。
■ ■
軟弱地盤改良のため防衛局が県に提出した設計変更申請で、県内調達可能量は当初の670万立方メートルから4476万3千立方メートルへと約6・7倍に増えた。
変更前の土砂採取地は、北部地域だったが、国の代執行で承認された南部(糸満市、八重瀬町)、宮古島、石垣島、南大東島と共に、新たに宮城島が加わった。宮城島の調達可能量は計画全体で必要な約2020万立方メートル(東京ドーム約16・3個分)の約1・5%だが、30万立方メートルにものぼる。
宮城島、伊計島周辺海域は過去に赤土流出があっただけに、モズク生産など漁業への影響も心配される。
土砂の採取が全県的に広がれば、ダンプによる騒音や粉じん被害が拡大する。島の形が変わるほどの大規模な採取により、沖縄の自然や風景が変わってしまうのではないか。地域社会へ及ぼす影響を危惧する。
■ ■
大浦湾の軟弱地盤の改良工事は難航が予想される。新基地は供用開始まで12年以上かかるとされ、政府は普天間飛行場の返還期日さえ示していない。
県民が求めているのは、基地の整理縮小や負担軽減である。危険性除去を早期に図るという観点から計画は、破綻していると言わざるを得ない。
沖縄戦の戦没者の遺骨が混じる可能性のある本島南部の土砂はもちろん、島の土を使って新たな基地を造ることは、県民の政府への不信と新基地への反発を強めるだけだ。
-
C.この前は、「県内土には、遺骨が混じっている(可能性意がある)」で、その前は、「県外土では、病虫害を持ち込む(可能性がある)」だった。
前回も、前々回も、それ相応に「尤もらしい理屈」だったが、前々回の「県外土では、病虫害を持ち込む」を正とするならば、「県内土を使うしか、選択肢は無い。」。
その上で、「県内土には、遺骨が混じっている」のを懸念するならば、大東亜戦争終結後の沖縄では一切の土木工事が停止・禁止される、筈だ。無論、そんなことにはなっていないからこそ、沖縄のインフラも整備され、住居建屋も橋梁道路も、新築新造されている。
鉄筋コンクリ建ての立派な琉球新報本社ビルも、「病虫害の恐れがある県外土」か「遺骨が混じっている恐れがある県内土」かの、どちらか(乃至両方)が使われていることは、一寸疑義の余地が無い。
で、今度は、「島を削って基地を造るな」とさ。成る程、このロジックならば、琉球新報本社ビルや、戦後造られた沖縄のインフラ設備などは、「非難の対象」にはならないな。少しは、「頭を使った」って事かな
だが、琉球新報のことだから、喩え魔法で無から土砂を生じさせても、その土砂で「基地を造るな」と主張することは、先ず間違いないな。ああ、沖縄タイムスも、同様だ。つまりは、ヤクザのイチャモンで在り、強請タカリの同類だ。
成る程。「強請の名人」であろう。
だが、その「基地反対論」に、身内以外の賛同を得るには、左様な強請タカリの理論では、無理だろうよ。
ああ、そうか。件の米高官だか米軍人だかが撤回に追い込まれた発言は、些か言葉足らずだったのだな。
「沖縄二紙は、強請の名人だ。」と、ちゃんと正確に明記・限定すれば、正しい発言で在り、謝罪も撤回も不要だったろう。
無論、「強請の名人」ってのは、何も沖縄二紙に限ったこと、でも無いがな。