もう1つの明治維新 その9 | お試しブログ

もう1つの明治維新 その9

獅子 (シーサー) に石敢當 (いしがんとう)  、ヒンプン、鬼の股 (ウニヌマタ)、土帝君、フーフダ、石の魔よけ、貝の魔除け、塩、木、草、葉、紙、土など‥ 沖縄県には、数多くの「魔除け (まよけ) 」が存在する。


「魔除け」は家の門や部落の入口、屋根の上や四方の回りかど、置いたりしています。


中でも「魔除け」の方が怖いのでは?‥ とも思える「魔除け (まよけ) 」が存在する。


その魔除けは 「島くさらし (別名・看過牛 / クヮンクヮー) と呼ばれています。


島くさらし (別名・看過牛 / クヮンクヮー) と呼ばれる「魔除け」の風習は、主に2月上旬に行われる悪疫払いの行事で、屠 (ほふ) った牛の血をススキや草木で編んだ左縄 (ひじゃいなー) に浸して、


縄と縄の間に牛の骨を結び、家の門や部落の入口、門や柱、木などに縄を結んでいる。

沖縄県のみならづ、奈良時代、平安時代にも「牛を殺生する祭祀」を禁じる『お触れ / 法案』の文献が何度も見られる事から、日本全国に古くから牛に関する儀式があったように思われます。*豚や山羊の血を使用 (代用) する場合もあるが、本来は牛の血が正しいと云われています。

関係しているかは?‥

奈良県の大神神社 (おおみわ / 大三輪) にも、木と左縄の門があるようです。


http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12030310891.html 江戸時代まで流行していた疫病神・牛頭天王 (ゴズてんのう) と牛頭天王の8人の王子 → 八王子権現の信仰や「犠牲の牡牛」とも通じているかもしれません。

ー・ー

魔除けである 「島くさらし」 は、別名・看過牛 (クヮンクヮー) とも呼ばれています。看過とは、手+目→ 看 (み) て→過 (す) ごす→看過 (みす) ごす儀式 → 災いが過ぎ越していく”の意だとも云われています。

オカルト説によると、
看過牛 (島クサラシ) の魔除け儀式は、旧約聖書などに見られる古代イスラエルの「過ぎ越し祭」と同じで、看過という言葉の意味と同じなので‥と、いう人もいます。

古代イスラエルの 「過ぎ越し祭」 では、子羊の血や朱色 (血の色) を門や木柱に塗っていたといいます。https://kotobank.jp/word/過越の祭-844982

いまおもうと 「看過牛 (島クサラシ) 」 は奇妙な風習ですが、農薬などがない時代は農作物や疫病など、祟りだと思われていたようです。


ー(・・? ー・ー


当初は本当に看過牛 (島クサラシ) の魔除け風習は、ユダヤ教やキリスト教の 「過ぎ越し祭」 と関連しているのか? 思ったりもしましたが、どうやら、明教 (マニ教) ≒ 東方ミトラス教の名残りだとおもうようになってきました。

あの時の

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12017637610.html 古代ローマでは、新興宗教団体のキリスト教徒がミトラス教徒を弾圧した事と関連しているようです。


http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミトラ教

確かに、中国や日本の古い信仰には、キリスト教に似た風習や儀式が存在し、キリスト教とミトラス教は似ていると云われています。*東方キリスト教の聖地・長安は東方ミトラス教の聖地でもありました。


遣隋使、遣唐使の船も東方ミトラス教の聖地・長安を訪れていました。


明教、祆教、景教、3つは、西方起源の「三夷教」として中国の古い信仰で、長安で流行していた明教 (マニ教)、祆教 (ゾロアスター教)、景教 (ネストリウス派キリスト教) といった西方起源の「三夷教」の3つ信仰すべてに ミトラス教 が隠れていたと云われ、祆教 (ゾロアスター教) から派生したミトラス教 → 景教 (ネストリウス派キリスト教) → 明教 (マニ教) = 東方ミトラス教という仕組みになります。

牛を屠殺信仰する ミトラス教 は各宗教に隠れながらも 東西南北 さまざまな形態、伝路により仏教の中の弥勒信仰にも通じていました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12017637610.html

その後に誕生した『明 (みん) 』の国名の由来は、教 (マニ教) の「」で、 明教 (マニ教) は 祆教 (ゾロアスター教) とミトラス教から派生した弥勒信仰と阿弥陀信仰、景教 (ネストリウス派キリスト教) とも混合したり、分裂したり、隠れたりもしているといいます。*明教 (マニ教) や弥勒信仰の源 (みなもと) にはミトラス教が隠れています。


ー (・・?  ー・ー


実はというと‥
首里城の入口にも『明 (みん) 』の時代に建てられた朱色の門 (通称・守礼門) があります。


『明 (みん) 』朱色にかなりこだわっていました。
*国姓も「朱」


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 ー【牛について】ー
牢屋 (ろうや) には『牛』、家屋 (かおく) には『豚』という文字がついているのだが、紀元前は太古の昔から、人々は身近な動物である『牛や豚』を屋敷近くに囲い生活していた名残りだという。

今となつて、牢屋 (ろうや) というと『罪人』をイメージしますが、もとは牛を囲う家屋を意味していたようです。*英語では野球投手 (ピッチャー) の住まいを「牛 / Bull  牛」と「牢屋 / pen」→『ブルペン (牛小屋) 』と呼んでいます。

ー・→

牛、豚、羊、犬など‥ 身近な動物の中でも、特殊 (special ) や特別、特権、牛耳る、など‥ 文字から『牛』が隊長、リーダー的な存在であった事が解ります。しかし、よく解らない出来事としてリーダーである『牛』を犠牲 (ぎせい) にするという意味があります。
*犠牲にも牛‥

犠牲とは、 神、精霊などを祀るときに供える生き物を供犠 (くぎ) とし、ラテン語の sacer+facere (聖なるものにする) にして生贄 (いけにえ) にするという宗教儀礼で、主に牛、豚、羊、など‥ 動物が供犠、生贄に用いられ、場合によつて、人身御供 (ひとみごくう) と呼ばれる人が人身供犠になる事もあり、殉死もその一種だといいます。

実は、スペイン (カトリック教国) の「牛追い祭り」も、ミトラス教の名残りとも云われています。

(・・?  いったい彼ら (キリスト教徒) は何のために牛 (ミトラス教の象徴) を追いかけるのか?


紀元前 (キリスト以前) の古代ローマ帝国では「ミトラス教 / 牡牛信仰」が流行していました。


https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ミトラ教

ミトラ教 / ミトラス教」は、ゾロアスター教から派生した牡牛信仰で、ペルシア系アーリア人が古代ローマに「ミトラ教 / ミトラス教」を流行させていました。

『紀元後 / AD 』の392年、
古代ローマ帝国のテオドシウス帝はキリスト教以外のすべての宗教の信仰を禁止し、キリスト教をローマ帝国の唯一の宗教 = 国教としました。

そのとき、新興宗教団体・キリスト教徒はミトラス教徒を弾圧したので、ミトラス教徒は 西洋 ~ 東洋 へと → 引越した‥ という。かつての日本列島にも、古代ローマの新興宗教団体・キリト教徒に弾圧された3つの東方ミトラス教徒がたくさん逃げて来ました。
*牛や鳥をトーテムとする隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) や明教徒 (マニ教徒)、景教徒 (ネストリウス派キリスト教徒) といったペルシア由来の3つ東方ミトラス教徒です。



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後ほど、本当にスペイン人 (ザビエル) が東方ミトラス教徒を追いかけて来ました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12235586514.html

(゜.゜)!そして、驚きべく事にザビエルが日本初の教会を建てた地は、鳥や牛に関する東方ミトラス教徒の名残りが多く見られました。


「鵜 (う) ≒ とともに眠る女性」が見つかった土井が浜遺跡のすぐ近くに『特牛 (コットイ) 』と呼ばれる珍名地域があるといいます。

(゜.゜)!その事は、牛や鳥をトーテムとする隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) やペルシア由来の3つ東方ミトラス教徒の風習 / 名残りの予感がしてきました。

ー?ー

谷川健一氏の本には、
谷川氏の郷里・熊本では牡牛 (おうし) の事をコッテ牛と呼び、琉歌にも特牛 (クティ) 節、万葉集には「牡牛 (ことひうし) の 三宅の浦に さし向ふ鹿島の崎に‥‥→」とあり、屯倉 (みやけ / 三宅) に貢ぎ物を運ぶ特牛 (おうし / 牡牛) は、殊負 (ことおひ) が特牛 (コットイ) になったと考えられ『特牛 (コットイ) 』の港から対岸の角島 (つのしま / 都濃島) に渡る船があったのでは? と載っています。

奈良の平城京から出土した746 (天平18) 年代の木簡には「長門国豊浦郡都濃島所出稚海藻」とあり。また万葉集にも、都濃島牛 / 角島牛を献上した島と詠われているといいます。

もともと日本に牛はいなく、
中国の「『三国志』魏書東夷伝倭人条」(魏志倭人伝)のなかに「日本には牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」との記述があることから、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代までの日本に牛はいなかったが、奈良時代までには大陸から牛が運ばれていたのでは? と考えられているようです。

内容は飛んでいますが、
もともと日本に『牛 (ミトラス教の象徴) 』はいなかったが、地理的にも大陸から近く、最初に3つ東方ミトラス教徒がやって来た地域の可能性が見えてきます。

(゜.゜)!そして、驚きべく事に、本当にスペイン人が『牛 (ミトラス教の象徴) 』を追いかけて来ました。http://ameblo.jp/yuukata/entry-12235586514.html その時は、新年そうそう でありましたので、控えめにザビエル (スペイン人) に関する情報を流しました。


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(・・;) その前に、
 ー【大内氏について】ー
大内氏は百済の聖明王の第3王子である琳聖太子 (りんしょうたいし) の後裔と称している。

琳聖太子が日本に渡り、周防国多々良浜に着岸したことから「多々良」と名乗り、後に大内村に居住したことから大内を名字としたとする。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大内氏

しかし、百済の聖明王の第3王子・琳聖太子 (りんしょうたいし) は、実在が不確かな人物とも云われていますが、日本の権力者は出自が朝鮮半島由来と事を隠す人が多いけど、大内氏は強調していたので、本当に百済に縁 (ゆかり) ある一族だと意見が多いです。

1555年 / 下剋上の戦国時代に日本の中国地方や北部九州を拠点としていた大内氏は家臣の陶晴賢 (すえはるかた) に亡ぼされ、陶晴賢は毛利家に滅ぼされました。

そして、西日本方面は毛利家の時代に突入します。

その後、大内氏は毛利家の家臣になったり、日本全国に分散した大内氏もいたようです。*特に茨城県や福島県に多いとも、http://folklore2006.jp/162.htm

常陸国・牛久藩の山口氏も大内氏の子孫と云われています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/牛久藩


(・・?  やはり?

http://ameblo.jp/yuukata/entry-12235586514.html
常陸国 (鵜の里) と牛の里?

ー?ー

前回のブログは、新年そうそう でありましたので、少し控えめにザビエルに関する情報を流しました。

‥>
ザビエルは日本初の教会を京都に建てようとしましたが、当時の京都は「応仁の乱」の影響でかなり荒廃していたので、京都をあきらめ 西日本を支配していた大内氏の拠点である周防 (すおう) 国に日本初の教会を建て、本格的な布教活動はそこから始まりました。
‥>

新年そうそう なので、少し控えめに流しましたが、実は ザビエルは最初から西日本を本格的なキリスト教 / 布教活動の拠点としようとしましたが、当時、西日本一帯を支配していた大内氏に断られたので京都に向かっていました。

当時、京都の町は「応仁の乱」の影響によつて かなり荒廃し、もはや実質的な権力は西日本に移り、博多方面から九州・中国地方にかけては『西の京』と呼ばれるほど大内文化が花開いていました。そのため、どうしても大内氏の許可が降りなければ日本へキリスト教を布教する事ができないほど、実質的な権力は大内氏が持っていました。

ところが、あまりにも京都の町が荒廃している様子を見たザビエルは、1度断られた大内氏のもとを訪れ、京都の朝廷に渡す予定であった金銀財宝を大内氏に渡し、本格的な布教活動を許されました。
*大内氏は、キリスト教徒になった人ではなく、布教活動を許可した人。

それではなぜ?
ザビエルは大内氏にキリスト教の布教活動を断られたか? というと、当時の大内氏 / 大内義隆は『男色』をザビエルに否定されたので、布教活動を許さなかったという。

当初、そうした情報は本当なのか? とも思いましたが、net 上で「大内義隆 男色」と検索すると、そうした情報がたくさん出てきます。その情報によると、当時の大内氏は妻子もいたけど『男女両色』で、美男子の陶晴賢 (すえはるかた) を家臣としていたという。

 ⇔ 一方、

 雷 雷 雷 

爆弾  新年そうそう 雷むかっ
おちょくているかと、お怒りになる人もいるかもしれません。しかし、その事は日本の古い信仰 (隠れミトラス教徒) と新興宗教団体・キリスト教の関係を考える当時の大内氏、非常に重要です。世界的にも、キリスト教原理主義者であるほど‥ など、その事は大きな政治問題でもあります。

(・・;) もう一度、
あの事 を思い出して見ました。



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もともと、
日本に猫 (ねこ) はいなかった。

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12181318081.html ところが、ある事をキッカケに猫 (ねこ) が日本にやって来ました。


6世紀ころ、印度 → 中国 → 朝鮮半島の百済を経て 正式に 仏教が日本にやって来たと云われています。

 ⇔ ところが、

彼らは、仏教徒を装おう 隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) でした。

‥>
「猫 (ねこ) と 祆教」 その2
http://ameblo.jp/yuukata/entry-12186405756.html

「猫 (ねこ) と 祆教」 その1
http://ameblo.jp/yuukata/entry-12185758461.html
‥>

秘密裏に祆教 (ゾロアスター教) ≒ 東方ミトラス教を日本 (明日香 / 飛鳥) に持ち込んだのは、古代豪族・蘇我氏でした。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12010501047.html


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これまでの文を振り返って見ると、

日本に初めてやって来た仏教 (隠れミトラス教) は、百済の聖明 (せいめい) 王から送られていました。https://kotobank.jp/word/聖明王-546467

大内氏は、百済の聖明 (せいめい) 王の第3王子である琳聖太子 (りんしょうたいし) の後裔と称している。

そして、当時の大内氏 / 大内義隆は『男色』をザビエルに否定されたので、布教活動を許さなかったという。

ー!ー

実はというと!

仏教徒を装おう 隠れ祆教徒 (ゾロアスター教徒) ≒ 東方ミトラス教徒 が拠点としていた明日香 (あすか / 飛鳥) には『男色』した石人像がありました。

そして、多くの人々は「明治維新」というと『薩長土肥』の西日本を image すると思いますが、鉄砲に例えると、それは鉄砲ので、その引き金は、大内氏の残党が移り住んだと云われる茨城県や福島県、東日本にありました。*常陸の水戸黄門と会津の山鹿素行です。

「明治維新」の明は明教 (マニ教) ≒ 東方ミトラス教の明で、明から亡命して来た朱舜水の影響を受けています。

朱舜水の朱子学 (明教と儒教) → 水戸黄門と山鹿素行 → 忠臣蔵 という儒教色に通じます。*吉田松陰も山鹿流の軍法を学んでいます。

さらに、

江戸時代まで「封印」されていた『玉手箱』を「開封」したのは朱舜水 → 水戸黄門と → 通じます。


「封印」されていた『玉手箱』は摂津国の湊川にありました。*楠木正成 → 後醍醐天皇 → 通じます →


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江戸時代まで、日本の神様は魔王でした。
*怨霊信仰

神さま魔王 を消すと 神さま は消え ⇔ 魔王神さま を消すと 魔王 も消えた。
*光を照すと蔭も現れ、蔭を消すと光も消える。

神さま魔王 の関係は「」の関係でした。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12165724042.html

ー・ー

最近では、楠木正成や後醍醐天皇は「朱子学思想」を持っていて、さらに朱舜水が『朱子学思想』を強化し → 明治維新に通じた。とも云われていますが、それも間違いではないけど、江戸時代の儒学者が「心酔」した『楠木正成 像』を思い描いた部分もあるようです。


ー (・・? ー・ー


例えば、鎌倉幕府を亡ぼした後醍醐天皇、足利尊氏、新田義貞、楠木正成がいましたが、当時の足利尊氏と新田義貞は「武士」⇔  楠木正成は『兵士』でした。

楠木正成は、辰砂 (丹生 / にう) などの鉱山や水運関係の職業をしており、鎌倉幕府に不満を持ち『兵士』になっていました。
*武士と兵士は地位が異なる

朱子学は、とても難しい「学問」で、江戸時代の武士でも読むのが難しかったと云われています。はたして? 鎌倉時代に「武士」ではなく『兵士』であった楠木正成が朱子学思想を持っていたのか? 疑問も生まれてきます。

また、朱子学思想は「大義のため身をささげる」とか、忠君誠心にも通じやすく、江戸時代の儒学者が必要以上に「心酔」した『楠木正成 像』を思い描いた部分もあるとも云われています。


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網野善彦氏の本によると、
確かに後醍醐天皇は朱子学思想による王政復古の考えを持っていましたが、実際のところ、楠木正成と後醍醐天皇の「思想」の先生は真言律宗の僧・文観の影響が大きかったようです。
https://kotobank.jp/word/文観-143133

そして、その 文観 もまた、

どことなく『男色』した エロい信仰 を持っていました。

net 上で「真言密教立川流」と検索して見ると、そうした情報がたくさん出てくると思います。

実はその「密教」は『秘密仏教 ≒ 景教』で、弘法大師・空海 (真言宗の祖) が再び、流行させたとも云われています。

真言宗の「密教」→『秘密仏教 ≒ 景教』も東方ミトラス教の1つになります。

朱舜水が新たに持って来た「朱子学」も、明教 (マニ教) と儒教を合わせた 東方ミトラス教 の1つでありますが、日本の仏教は中国経由の仏教が多く、中国の仏教には『儒教色と道教色』の2色が含まれていました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-12161100443.html 合理的な「儒教色」と空想的な『道教色』、そのどちらか一方に傾くと、自分で自分を破壊する事 (廃仏毀釈など) もあったようです。



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またまた、長い「古代 (こだい / 誇大) もうそう」をしてしまいましたが、キリスト教や儒教もその色が強くなるほど『男色』は許されない事でした。


(・・?  弘法大師・空海 (真言宗の祖) は、

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元祖『男色』? 

まことに信じられない お話ですが、

日本の古い信仰は、
エロすタナとす?

キリスト教徒はミトラス教徒を追いかけているのか? スペイン人は牛を追いかけて来ました。