アクセル (改革) と ブレーキ (安定) | お試しブログ

アクセル (改革) と ブレーキ (安定)

1726年ころ、
恩納 (うんな / オンナ) 村に住んでいた女流歌人・恩納ナベは、歌を詠みました。


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恩納松下 (うんなまちしちゃ) に

禁止 (ちじ) ぬ碑 (ふぇ) 立ちゅす

恋忍 (くいしぬぶ) までぃん

禁止やないさめ

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↑その歌の意味は→「恩納村の 万座毛 (まんざもう) 入口にある松の木の下には、毛遊び (もうあしび) を禁止する看板が立っておるが、まさか?男女の恋愛までも封印するつもりなのか」という歌を詠んでいました。



その時、恩納村の崖 (ばんた) = 万座毛 (まんざもう) には、毛遊び (もうあしび) 禁止の立て札が設置されていました。



万座毛 (まんざもう) の語源は、万人が座る毛 (もう) の事です。毛 (もう) とは、古い日本語で『野、原、山』を意味していました。

今となつて毛遊び (もうあしび) は、野、原、山で行われる「合コン」と解釈されていますが、本来は『月星信仰』の1つで、旧暦の七月十五夜、月見会 (ちちみくぁい) など‥ 満月の下『うートートー』と言い、御祈りをしていました。*月星信仰は道教の風習

万座毛 (まんざもう) の名付け親は、第2尚氏の13代・尚敬 王 (在位1713 - 1752年) が、1726年に恩納 (うんな) 村の崖 (ばんた / がけ) を訪れた際、その崖を気に入り、万座毛 (まんざもう) と名付けていました。

尚敬 王の時代に『儒教色』が浸透しており、その時代は「古い信仰 = 道教色」と『新しい教え = 儒教色』との分岐点 (転換期) でした。



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前回のブログで、

改革家の羽地朝秀 が『孔子廟 (こうしびょう) 』を建てた事について、http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12160099047.html 見ました。

『孔子廟 (こうしびょう) 』は、儒教の祖・孔子 (こうし) を祀った廟 (びょう) で、学門施設に通じていました。

儒教 (じゅきょう) は 「宗教」 というより学問 (がくもん) で、日本の各仏教の中にも含まれ、儒教 (学問) に重きを置く人を儒学者・儒者、儒生と呼び‥→‥ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/儒教  
宋学 → 朱子学 ≒ 水戸学、陽明学、国学なども儒教 (学問) の1種、あるいは変型と云われています。

有名な『孔子廟』として、

東京都文京区 「御茶ノ水駅」 近くにある湯島聖堂 (ゆしませいどう) が知られています。

湯島聖堂 (ゆしませいどう) は、元禄時代、5代将軍・徳川綱吉によって建てられた『孔子廟』で「日本の学校教育発祥の地」の掲示があるといいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/湯島聖堂


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改革家の羽地朝秀 は、質素倹約家で財政破綻で国家存亡の危機にあった琉球の政治情勢や経済を立て直しましたが、これまでの琉球の芸能や日常的な風習の禁止に繋がる場合も見られました。

これまでの琉球の芸能や日常的な風習は『道教色』をしており、羽地朝秀 の行う改革は『儒教色』をしていました。

その時代は「古い信仰 = 道教色」と『新しい教え = 儒教色』との分岐点 (転換期) の始まりであったように思われます。

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古くから中国では「儒教と道教」の教えがあり、儒教は学問 ⇔ 道教は生活。役割をし てんびん座「儒教 (学問) と道教 (生活)」でバランスをとっていた説があります。


100% ではなくとも、儒教は真面目 (マジメ) ⇔ 道教は遊び (ゆとり) 、マジメさゆえ → 儒教は短命 ⇔ 道教は長生き など‥要素があります。実際に儒教 → 儒学者は短命の人が多く、マジメさゆえ熱く、白黒はっきりさせる、一方的で過激思想に走る人が多いようにも思います。

この文章は儒教を否定しているように見えますが ⇔ そうではなく、古い信仰 (道教色) にあった殉死を廃止する、古い信仰と権力者の癒着を分離する (政教分離) など‥ 儒教には間違いを正す改革的要素が含まれており、非法や不正で腐敗していた国家体制を立て直す場合、儒教のような真面目 (マジメ) さも大切ですが、儒教はマジメさゆえ熱く、白黒はっきりさせる、一方的で過激思想に走る場合もありました。 そのため「儒教 (学問) と道教 (生活)」でバランスをとっていた説があります。



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ある日、
躍り奉行の湛水 (たんすい) 親方は三線 (楽器) を演奏し、回り人々に古典的な琉球音楽を普及していました。

ところが、
当時、摂政を務めていた改革家の羽地朝秀 は怒りました。羽地朝秀『日琉同祖論』の考えを持っており、秘密裏に日本の芸能を奨励して同化政策を勧めていました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日琉同祖論

湛水 (たんすい) 親方は、羽地朝秀 に芸の才能を見いだされ日本の謡曲、茶道、華道を学ぶように使節として日本へ派遣されていました。



久し振りに帰国した 湛水 (たんすい) 親方は、日本の芸能ではなく琉球の古典的な芸能に重きを置いていたので、羽地朝秀 の怒りに触れました。*湛水 (たんすい) 親方は、日本に負けない思いで琉球の音楽 / 芸能を磨いていたつもりでしたが、秘密裏の同化政策とは違う方向に進んでいました。

その政策に納得いかない 湛水 (たんすい) 親方は、琉球の『躍り奉行』という役職を捨て、首里 (都) を離れ仏門に入り、そのとき 「湛水 (たんすい) 」 という名前になったようです。

三年後、
摂政の羽地朝秀 が若くして亡くなると、再び茶道頭として首里 (都) に呼び戻されました。


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内容は複雑化していますが、
当時の琉球は ← 後ろに日本がいましたが、その事は中国側には秘密 (ひみつ) で、摂政の羽地朝秀 は『知日派で中国色』をしていました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12160099047.html

羽地朝秀 の中国色した改革は『儒教的 (学問色) 』で、これまで琉球に定着していた『道教色 (生活観) 』の否定に繋がる場合も見られました。



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琉球は 「明清交替」 後も引き続き →

清 (しん) の 冊封体制下になる事が決まりました。*当時、琉球の摂政 (総理大臣) は羽地朝秀

清 (しん) の 冊封使節団の中に、汪楫 (おうしゅう) という文官がいました。
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汪楫 (おうしゅう) は『中山世土』と記された編額を琉球にプレゼントした事で知られています。

汪楫 (おうしゅう) は、琉球と日本が通じているか ⇔ いないか? 調査もしていましたが、琉球側の為政者 (役人と政治家) は必死でその関係を隠しました。


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汪楫 (おうしゅう) は、琉球に『孔子廟 (こうしびょう) 』がある事を知り、とても感動しました。しかし同時に、琉球に『関帝廟 (かんていびょう) 』がない事を残念に思いました。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/関帝廟 

横浜の中華街、神戸の中華街でよく見られる『関帝廟 (かんていびょう) 』は、道教の祖・関羽帝を祀った廟 (びょう) で、中国では『孔子廟 (こうしびょう) 』とともに重要視されていたようです。



『孔子廟 (こうしびょう) 』は、儒教の祖・孔子 (こうし) を祀った廟 (びょう) で『関帝廟 (かんていびょう) 』は、道教の祖・関羽帝を祀った廟 (びょう)



汪楫 (おうしゅう) は、琉球に『関帝廟 (かんていびょう) 』を建てる事を勧めて、その資金も提供し、那覇の久米村に設置されました。



簡素な造りではあるけど那覇の天妃宮の内部に壇 (だん) を設置して『関帝廟 (かんていびょう) 』の役割をしていると云われています。



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後ほど、
琉球も『孔子廟 (こうしびょう) 』と同時に『関帝廟 (かんていびょう) 』の重要性を実感するようになります。


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極端な分別法として、

孔子廟は儒教色 ⇔ 関帝廟は道教色、

儒教はアクセル ⇔ 道教はブレーキ

儒教は分離、道教は吸収、

儒教は学び、道教は遊び、

儒教は白黒ハッキリ、道教は あいまいなパンダ色、

儒教は熱い、道教は弛い、

儒教は意志を曲げない、道教は欲張り
→ 儒教は短命、道教は長生き、

日本の仏教の中にも、儒教色と道教色の2つがあると云われています。儒教色 (分離) が強くなった時代に神仏分離 → 廃仏棄釈運動に通じた事もあったようです。

その昔、中国でも朝鮮でもあり、もしかすると 汪楫 (おうしゅう) は、琉球に中国色 (儒教色) があると感動したと同時に中国色 (道教色) がない事に驚いたのかもしれません。

アクセルも大切だけど、ブレーキも大切だと?‥ 感じたように思われます。