出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -17ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 読書週間中(11/9まで)は、『まなの本棚』のブックレビューをし続けています。

 今回はその3回目。テーマは「読み聞かせ」。

 

 愛菜ちゃんは、小さい頃『コンビニエンス・ドロンパ』という絵本を読んでもらっていました。

 おばけのコンビニエンスストアに、夜中、いろいろなおばけがやってくるお話だそうです。

 

 「くさきも ねむる うしみつどき・・・」なんて、「くさき?」「なにみつどき?」って意味もよくわからなかったけれど、父がわざと怖~い声色を使って読んでくれて。ゾッとするんだけどそのリズムが心地よくて、キャーキャー言いながら「お願い! また読んで!」ってせがんでいたなあ、なんて思い出します。

 (芦田愛菜、『まなの本棚』より)

 

 何を言っているかは分からないけれど、なんとなく伝わってくる言葉の感じ。これを繰り返しながら、子どもは言葉の意味を覚え、言葉に色がついてくるのでしょう。大好きな家族の声だから、なお一層。

 愛菜ちゃんのこういう原体験が、言葉が大好きで、言葉に共感し、言葉から想像を広げていく今の彼女の基盤をつくったんだな、と思いました。

 

 

 

 

 『まなの本棚』ブックレビューの第2回目は、「本との出会い」。

 「本との出会いは人との出会いと同じ。気付いたら出会っている」と言う愛菜ちゃんは、また、こんなふうにも言っています。

 

 私自身、誰かに「これ読んでみて」と言われた本よりも、「何だかこの本に呼ばれてる!」って直感して手に取った本のほうが、出会うべき一冊だったってことが多いのです。

 (芦田愛菜、『まなの本棚』より)

 

 私も、多分、愛菜ちゃんと同じ感覚なのかな、と思うのですが、「これ読んでみて」と言われると、本屋さんで本を選ぶ時間が奪われたことにちょっぴり悲しくなるのです。

 一冊の本を読み終えた時に抱くのは、充実感と共に、「また次の新しい本と出会える」という期待感。そして、本屋を歩きながら、新しい出会いを探す至福の時間。その出会いを人に決められるということは、政略結婚させられるみたいな感じです。

 本は、次の本と出会うために読んでいる。これって、浮気性なのでしょうか。

 

 

 ずっと気になっていた本、芦田愛菜ちゃんの『まなの本棚』。これまでの自分なら、おそらく買わなかった本です。

 でも、本屋に行くたびに、手に取っては「今日はやめとこう」を幾度も繰り返し、最後は、「こんなに気になるんだったら、買ってしまおう」と、思い切って購入しました。

 私とは年齢差35歳、オジサンと可憐な少女。なのに、この本の中には、妙に共感できる言葉、なるほどとうなずかされる言葉が盛りだくさんです。

 そこで、11月9日に読書週間が終了するまで、愛菜ちゃんの言葉を取り上げながら、この本をブックレビューし続けます。

 

 第1回目の今日は、「愛菜ちゃんが本を好きな理由」。本のprologueにあった言葉です。

 

 理由その1。ページに並んだ活字から自分の想像で物語の世界を作り上げていけること。

 

「この物語に出てくるこの女の子はこんな服を着てこんな髪型かな?」「住んでる街はこんな場所かな? お家はこんな感じで部屋の中は何があるかな?」・・・・・・そんなふうにどんどん思い描いていくことができます。

 

理由その2。自分とは違う誰かの人生や心の中を知れること。

 

 もしかしたら、お芝居で誰かの人生を演じることと、本を読むということは、自分以外の誰かの考え方や人生を知る「疑似体験」という意味で、とても近いものなんじゃないでしょうか。だから、私は本を読むことが好きだし、お芝居することが好きなのかもしれません。

 

 愛菜ちゃんは、たぶん人間への興味がいっぱいで、知りたくてたまらない。

 寺山修司さんは「書を捨てよ街に出よう」と言いましたが、愛菜ちゃんにとっては、書で出会おうとも街で出会おうとも、どちらも同じように生き生きと動いている大切な存在なのでしょう。

 

 

 読書週間なので、読書の話題で。内田樹さんの言葉から。

 

 「読んでいる私」と「読み終えた私」は砂場で両側からトンネルを掘っている二人の子どものようなものです。掘り進めていくうちに、だんだん向こうからも掘り進む手が近づいてくるのが分かる。最後の薄い砂の壁が崩れると、手と手が触れあい、風が吹き通る。一冊の本を読み終えるというのは、そういうふうに「私が読み終えるのを待っていた私」ともう一度出会うことなんです。

 (内田樹、『街場の文体論』)

 

 突拍子もないたとえのように見えながら、「言い得て妙」です。

 本を読んでいると、本の右側と左側の重みの違いも手伝って、だんだん終わりに近づいているということは分かるのですが、その重量の変化に比例して終わり感が進むのではなく、最後の1ページを読み終わったところで、終わり感がぐんと跳ね上がります。それが「トンネルの中で手が繋がった」感です。

 

 私だけの感覚かもしれませんが、途中で読むことをやめた本は、たとえ残り1ページであっても、自分の本になってない気がします。その最後の1ページまで読み終えて、やっと自分の本になり、自分の本棚にしまわれる。それが私の本の行方です。

 たくさんの情報に囲まれる現代、「つまらない本は途中でもやめて、別の本を読めばいい」と言われる方もいらっしゃいますが、どんな本でも、最後までは読み通したい。読み通さないと気持ち悪い。最後の1ページを読み終えた時に、新しい出会いがあるかもしれない。

 私は、いつの間にか、そんなふうにできあがってしまいました。

 

 

 「おかえり、栞(しおり)の場所で待ってるよ」

 きょうから始まる読書週間(11月9日まで)の標語は、栞をはさまれた書物が読む人に語りかける。これまでのものに比べてひときわソフトな印象だ。

 (朝日新聞、「日曜に想う」(2019.10.27)より)

 

 しおりは、山道で枝を折って道しるべにする「枝折る(しおる)」が由来という。本もまた、人生に迷ったときの道しるべになってくれる。

 (毎日新聞、社説(2019.10.27)より)

 

 「おかえり、栞の場所で待ってるよ」

 読んでいる途中の本が、その続きを読まれるのを待っているという意味。

 そして、もう一つ。読み終えた本が「枝折り」となり、人生に迷ったときに、いつでも待ってくれているという意味。

 

 いい標語だな、と思い、過去の標語が気になって調べてみました。

 その中から、私のお気に入りたち。

 

  本と旅する 本を旅する(2013年)

  ホントノキズナ(2012年)

  気がつけば、もう降りる駅。(2010年)
  しおりいらずの 一気読み(2006年)
  本を読んでる君が好き(2005年)
  ゆっくりと各駅停車、本の旅(1993年)
  風もページをめくる秋(1991年)