出会った言葉たち ― 披沙揀金 ― -18ページ目

出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 齋藤孝さんの『可動域を広げよ』(日経プレミアシリーズ)。

 あなたの「100年人生」は大丈夫ですか?

 年をとるにしたがって、心も体も凝り固まっていませんか?

 そう問いかけてくる本でした。

 特に、本書の中で紹介されていた、所ジョージさんの次の言葉が心に残りました。

 

「面白いかどうかじゃなくて、面白がれるかどうかなんだよ。面白がれば、何だって面白くなるんだよ」

 

 この言葉に感化された私は、今日、妻と娘と一緒にスーパーに行き、妻が買い物をしている間、鮮魚コーナーで、娘と「魚の名前あてゲーム」をして楽しみました。

 私は、ほとんど魚の名前が分かりません。先日は、ホッケの開きを「アジ」と言って、呆れられました。そんな私を相手に、優越感に浸る娘。いつもなら、時間つぶしにぶらぶらするだけの時間が、思いのほか面白い時間になりました。

 

 ちなみに所さんは、テレビの収録のない土日は、自身のやりたいことをとことんやるそうです。朝早くから畑を耕し、歌を作る。趣味は車にバイク、エアガン、ファッションなどなど。60歳を超えてもいつも楽しそうな秘訣は、こうやって何にでも面白がって興味をもつことなのでしょうね。

 

 

 カスタマーハラスメント(カスハラ)が社会問題になっています。接客業などにあたる人へのカスタマー(顧客)の理不尽な要求、高圧的な態度のことです。

 

 ・・・それにしても「カスハラ」とは情けない響きである。ささいな店員のミスを居丈高に怒鳴る客を目にした時のような情けなさというべきか。この国のお客は、いつの間にそんなに偉くなってしまったのだろうか。

 (毎日新聞、「余録」(2019.10.25)より)

 

 この国のお客は、いつの間にそんなに偉くなってしまったのでしょう。

 

 内田樹さんは、今の子どもたちと、30年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは、社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかにある、と言います。

 つまり、昔は、水やりだとか、ご飯を食べたあと、お茶碗を台所に持っていくとか、そういうことを行い、「よくやったね。」と褒められて、社会の一員となっていった。ところが今は、「いいから、あなたは何もしないでちょうだい。」と言われる始末。その代わりに、子どもたちの消費活動は早い時期に始まります。

 

 正味の人間として社会関係の場に出現した場合、四歳の子どもを交渉相手として対等に遇してくれる大人はまずいません。けれども、お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない。そこで使われるお金の多寡だけが問題で、誰がそれを使うかということには誰も顧慮しない。・・・(中略)・・・ですから、社会能力がほとんどゼロである子どもが、潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。

 (内田樹、『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』より)

 

 「金を出しているんだから、あなたはサービスを提供すればいい」、そういう意識が、もしかすると子どもの頃から密かに増長されているのかもしれません。

 お金では買えない、もっと大切な物 ─人とのつながりだとか、人としての品格だとか─ があるということに、拝金主義の大人も、その予備軍の子どもたちも、早く気付いてくれますように。

 

 

 死んでしまった「ぼく」は、天使から、もう一度、下界で生きるチャンスを与えられます。しばらくは、お試し期間。それをクリアすれば、再度この世に戻れるという仕組み。

 ところが「ぼく」は、人の体を借りて過ごす時には結構うまくやっているのですが、いざ本当に、もう一度自分の人生を生きるとなると、たちまち自信を無くします。

 そんなぼくに天使は語りかけます。

 

「ホームステイだと思えばいいのです」

「ホームステイ?」

「そう、あなたはまたしばらくのあいだ下界で過ごして、そして再びここにもどってくる。せいぜい数十年の人生です。少し長めのホームステイがまたはじまるのだと気楽に考えればいい」

「できるかな」

 せいぜい数十年の人生。

 長めのホームステイ。

 そんなふうに考えられればたしかに楽だけど。

 (森絵都、『カラフル』より)

 

 『カラフル』 ─ 本当はこの世界も、自分も、たくさんの色に満ちているのに、自分で自分に縛りをかけて、一色の世界に染めてしまっているのかもしれない。もっと気楽に、自分の色を出して。そんな気持ちにさせてくれる物語。

 

 19日、20日と、地域のお祭りでした。

 「ちょうさ」と呼ばれる太鼓台(山車)が、村内を練り歩きます。

 祭りの主役は神輿。ちょうさは、そのお供なのですが、私たちは小さい頃から、祭りの二日間はこのちょうさを担いで歩いてきました。ちょうさを中心に地域がつながっています。

 「お祭り騒ぎ」という言葉の通り、喧噪がまちを包み、はしゃぐ若い衆を観衆が盛り上げます。年に一度、この日だけの大騒ぎです。

 朝の冷えた空気を切り裂くように太鼓の音と掛け声とが響き、

 1日が始まり、

 ちょうさと共に練り歩き、酒を呑み、

 昼の陽気に汗が光り、

 まだ歩き、呑み、そして日は暮れていく。

 ただ、それだけのことが、昔から繰り返されてきました。

 

 20日の夕刻は、真っ赤な夕焼けの中を歩きました。

 ハレの日は、幕を閉じようとしています。

 明日から日常に戻ります。

 

 いつもあの日が終わってしまえば何事もなかったように消えてしまう。だからこそ尊いという価値観がある。(イチロー)

 政治について、全般的に取り上げられているニュースを聞いていると、「何をやっているんだ?」と思うこともありますが、一人ひとりのお考えに触れると、「さすがよく考えているな」と学ばされることも多くあります。

 

 石破茂さんは、その著書の中で、こう語っています。

「民主主義とはプロセスです。面倒だからといってプロセスを省くことは、広くコンセンサスを得て国民の多数に支持をいただいて物事を前に進めていく、という民主主義の理念と相容れないものとなりかねないのです。

 (石破茂、『政策至上主義』より)

 

 国政においても、いろいろな立場から、それぞれの正義や善を述べられています。何が正しいかを見極めるのは、本当に難しい。

 でも、安易に「これは善。あれは悪」と決めつけるのではなく、手間もかかるし、なかなか決着もつかないけれども、それぞれの意見をしっかり聞き、時間をかけて自分の頭で考えていく。まずは、自分自身が民主的な人にならなければならないということを考えさせられました。