■嘆くお年寄り

あるドキュメンタリー番組を
観たときのことです。

高齢になっても現役として
仕事を続けるお年寄り
が、
ある日、ミスをしました。

本人いわく
「もう自分はボケてきた。
だから、もうダメだ」
とのこと。

それを聞いた周囲の人たち
(そのお年寄りより若い大人たち)が
そのお年寄りに寄ってたかって
言いました。

「ボケてないですよ!」

「絶対違いますよ!」

「まだまだそんなことないですよ!」


それを聞いたお年寄りは
それに反論します。

「いいえ、私はもう
ボケてきちゃったんですよ。
いよいよダメになってきたんです。」


これに対して周囲の人は
さらに反論します。

「絶対ボケてませんから!」

「そんなこと言ってはいけません!」

「何言ってるんですか。
ボケた人の言うことじゃないですよ!」


それを聞いて
そのお年寄りは
とうとう泣き出してしまいました

「もうダメなんですよ...
ボケちゃったんだから...
お~ん、おんおん(泣き声)。」


泣き出すお年寄りに向かって
周囲の人はまた声をかけます。

「泣かないでくださいよ!」

「そうですよ、泣かないでください!」

「元気出してくださいよ!」

「ボケてないのに、
何を嘆いているんですか、この人は。」


そして、泣くお年寄りを
囲む人々は互いに顔を見合わせて
「しょうがないね、この人は」と
笑い出す


お年寄りは、一人泣き続ける。

お年寄りの周囲の人たちは
皆が皆「自分は善いことしてる」
みたいな雰囲気。

私は見ていて、
気持ちが悪くなりました。

だって、
よってたかってそのお年寄りに
心理的に集団暴行しているように
見えたからです。

■何が起きていたのか

現役としてずっと仕事を続けてきて
今までしたことのないような
ミスをしてしまった。

そのミスをきっかけに
「自分はボケた」
言いたくなったお年寄り。

そんな弱音を吐きたくなるほど
心が疲れてしまった状況。


そうして実際に
信頼できると思っている人たちに
「もう自分はボケてきた。
だから、もうダメだ」と
弱音をこぼした。

そしたら、即座に否定された。

疲れて弱音を吐いただけなのに
それを許してもらえない状況。

自分がボケたかどうかは
自分にしか決められないことだけど
相手が多いと
数の力で押し切られてしまって
どうしても自分がボケたことに
させてくれない。

悪意でなく善意で言って
くれているとは、わかる。

でも、
今は落ち込みたいのに
励まされてしまって
それもできない


今は相手に頼りたいのに
その相手は頼らせてくれない。

この思いのやり場がなくなり
もう泣くしかなくなってしまった。

涙は表現しきれない感情を
表現しているもの。

涙は他者への非難。

孤立無援。

仕事は自分にしかわからない。

その仕事で疲れてしまったことも
自分にしかわからない。

せめて共感してもらいたかったが
してもらえなかった。

孤独を感じ、ただただ悲しい。

私には、
彼らのやりとりが
こんな風に見えていました。

■相手に役立つ接し方を

対人関係の問題は
相手の課題に
土足で踏み込むことで
起きることがほとんど
です。

例えば、
レストランに入って
他の人が自分の注文を
勝手に決めてしまったら
嫌なように。

お年寄りが「自分はボケた」と
するかどうかは
そのお年寄りの課題であって、
その周囲の人たちの課題では
ありません。

お年寄りが
「自分はボケた」と言ったら
即座に「ボケてませんよ!」と
否定しているのは、
お年寄りの課題、すなわち、
お年寄りしか決められないことを
他者が決めてしまっている状況
です。

一方で、
お年寄りを見ている人が
そのお年寄りをどう見えるのか、は
その人の課題です。

だから、
「ボケたと思ったんですね。
私はあなたがボケたとは
ぜんぜん思えませんので
お互い思うことが違いますね。」
と自分の課題として扱うなら
問題はありませんでした。

しかし、
そうしなかったので
お年寄りの心はもっと
疲れてしまったのです。

そして、
お年寄りは仕事において
今までしたことのないような
ミスをしてしまったことに
ショックを受けている状況です。

そのショックをどうにかしたいので
今は落ち込みたい
のですが、
それをさせないように
周囲の人が励まします。

コモンセンス(一般認識)としては
励ます=善いこと、と感じがちですが、
落ち込みたい人を励ましたら、
それは例えば、
具合が悪いから病院に行って
診てもらおうとする人に
「病気じゃないから大丈夫ですよ!」
と病院へ行くことをやめさせようと
しているような状況に
なってしまいます。

かなりの越権行為です。

本人が落ち込みたいのであれば
気が済むまで落ち込ませて
あげることです。


そうでないと
受けたショックを解消する
機会を失ってしまいます。


解消できなければ
今後そのショックを
ずっと抱えていくことになります。

それはパソコンの記憶容量の
一部をずっとそのためだけに
使うようなことに似ています。

例えば、
本来は100%自由に使えるのに
そのショックで10%を使うから
今後は残りの90%でやりくり
していくことになる感じです。

それもわからず
励ます=善いこと、というだけで
励まし続けるのは、
励ますことで得られる優越感に
自己陶酔しているだけです。

つまり、
こうして励ますことは、
「相手のため」と見せかけた
自分のための行為
なのです。

なかなか厳しい行為だと
感じます。

だから、落ち込みたい人には
「大変なミスをしたら
落ち込みたくもなりますよね...
疲れてしまいますよね...」と
共感を示すことで、
落ち込むことに問題はありませんよ
と示してあげることです。

そうして安心して落ち込めれば、
それが心の一休みとなって
ショックなどの心の疲れは癒されて、
いずれ戻ってきます。

それをさせてくれたり、
それを見守ってくれたりする人は
ありがたい人です。

さらに、
もう表現方法がなくなって
泣くしかなくなったお年寄りを、
「泣かないで」と慰めたり
顔を見合わせて笑うのは、
そうした人が
優越感を得られて嬉しいだけであり、
お年寄りの役には立っていません


「泣かないで」と慰めることも
コモンセンスでは”善いこと”と
感じがちなので、
それに従って「泣かないで」と
慰めたのでしょうが、
泣くしかなくなって
泣きたいと思って泣いてる人の
その”泣く”まで止めようとするのは、
さらなる否定でしかありません。

緊急事態でもない限りは
その人は泣きたいのですから、
泣きたいだけ泣かせてあげることが
その人の役に立つことです。

泣くことで
感情が整理されていき、
泣き終えたときに
その成果を共有してくれたら
その要望通りに共有してあげることで
その「泣く」は完了します。

「泣く」の目的
果たされた、ということです。

「泣かないで」とは
それをさせないようにすることなので
私には、厳しいことをするな、と
見えてしまうのです。


相手に役立つ接し方をすることで
その相手は「自分は一人ではない」
と感じます。

逆に、相手を
否定することばかりをしてしまうと
その人は孤立無援を感じます。

するなら
相手に「自分は一人ではない」と
感じてもらえるようにしたいものです。







お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。





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