生きるしあわせを増やすのに
「敵」は不要です。



なぜなら
対等な関係で生きようとすると
相手はすべて
「敵」ではなく「仲間」に
なるからです。

敵対関係は存在せず
ただ自分との距離が違う人々が
いるだけになるからです。

「敵」が必要な人は
上下関係で生きる人だけです。



孤立すると
自分の優劣が
わかりません。

何かと比較しないと
わからないからです。

そこで「敵」を
見つけます。

見つからないときは
「敵」を作り出します。

その「敵」よりも
自分が上をいくことで
自分の優秀を感じて
安心しようとするわけです。



「敵」とは
自分の特等席に座る他人です。

本来、その席に
座るに最もふさわしいのは
自分であるはず。

だからその「敵」を
排除せねばならない。

でも、
そこに他人を座らせたのは
他でもなく自分自身です。

そうして
上下関係で生きる人は
対等な関係で生きる人よりも
面倒な生き方を選びます。



例えば
「自分はあの人に価値を感じない」と
話す人がいたとします。

価値を感じないのであれば
話題にすら上がらないはずです。

窓の外を見て
珍しいものがなければ
誰かに話したくなることが
ないように。

でも、話題したということは
「自分には価値のある人」と
扱っていることになります。

「あの人に価値を感じない」と
言える自分の優秀さを
示そうとすることなどに
利用しています。



「あの人に価値を感じない」と言って
「あの人」を
自分の特等席に座らせる。

なぜ価値を感じないのかを
説明することで、
「あの人」より自分が上だ、
特等席に座るにふさわしいのは
自分だ、と証明します。

特等席に座らせて
どいてもらって
自分が座る。

この手間をかけて
「上下の上」を手に入れます。



私が小学生の頃、
父宛ての電話が
かかってきたときのこと。

父親がその電話に出て
話をしてます。

自分の部屋などなく、
家は広くもないので
私も父親も居間にいました。

電話で話す父親は
相手がお客さんなので
腰が低い感じ。

私は別に聞きたくもないけど
同じ部屋なので話が
聞こえてきます。

電話の用件が済んだようで
父親は電話を切りました。

切るやいなや、
父親は私に説明を
始めました。

電話の相手が
どんなにイヤな人なのか、
なぜ自分が腰低く話していたのか、を。

聞きたくもない話なので
自分には関係ないから
聞きたくないと話しますが
「そんなこと言うなよ」と
放してくれません。

家の中に逃げ場所などないので
逃げられません。

また、私への攻撃でもないので
逃げたりすれば
大問題扱いされて
また「見捨てるぞ」と脅されて
屈服させられることは
簡単に予測できました。

なので、
自分に大きな損害は
ないだろうと
ただ聞いていました。



父親は、
話を横で聞いていた私には
お客さんが上で
父親が下、と
見えていたと信じてたようです。

別にそんなふうに
見ていなかったけど
決めつけられてました。

自分を「上下の下」と
見られていたのを
本来あるべき「上下の上」に
自分を据えるためには
説明せねばと思ったようです。

面倒な話です。



「あいつは悪いヤツだ」
「でもお世話になってるから
イイヤツだ」

相手を悪いヤツと言える自分は
優秀だろう?

お世話になってると言える自分は
優秀だろう?

何度もそう訊かれているようで
気持ち悪かったです。

逃げられない私に
気が済むまで話すと
満足したようで、
私を矛先から解放してくれました。

たまたま近くにいただけの
私を自分の癒しに
一方的に利用するのは
やめて欲しいと、思いました。



似たような感じで
父親は母親に対して
「自分は優秀だろう?」と
訊くことがよくありました。

すると母親は
「はい、優秀ですよ」と
答えます。

父親は
このやりとりを
母親以外にも
したくなったのですね。

すればするほど
自信と力を感じられるから。

でも
家族以外の人に
することはありませんでした。

すれば相手は
自分から離れていくと
わかっていたのでしょう。

自分との契約を
取り付けたい営業の人など
自分との関係を簡単には
断つことができない人には
してましたけど。

無理なことが
できる相手かどうかも
見極めていたんですね。



上下関係で生きる人は
「相手より自分優先」と
なりがちです。

家族の中でも
自分が安心だと
家族がいくら不安でも
知らん顔だったりします。

何かするときは
自分が「上下の上」であることを
強化できるときです。

そのときは
「敵」がいて、
その「敵」が
いかに特等席にふさわしくないか、
いかに自分がそこにふさわしいかを
示しそうとします。

そして、
一時的な安心を手に入れます。

一時的なので
再び安心するためには
「敵」が必要なので
再び「敵」を求めることとなります。



対等な関係では
「相手は自分の仲間」なので
自分より優秀かどうかで
相手を見上げたり
見下したりしません。

力を貸したり
力を借りたりするだけです。

どちらか上か、
どちらが下か、で
不安を感じることもありませんから
「敵」も必要ありません。

趣味や嗜好、
考え方や価値観が
違うだけで、
どれが善でどれが悪かも
ありません。

好きな相手には近づきたいと思うし
そうでもない相手には
近づきたいと思わないだけです。

「敵」がいらない生き方です。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。



《関連記事》
上下関係の人の心理その5:自分の無能を証明する
Serenity Prayerに学ぶ
家族を犠牲にして得たしあわせは一時的なもの
本当に悪いのは誰?に構ってるヒマなどない
親への愛憎からの解放
いつも対等を忘れない、忘れたくない