対等な関係をつくると
自然と自分の価値を感じます。



それは「これだ!」と
驚くようなものじゃなくて

当然なものに驚かないように
自分が自分であると
まんまるな感覚を感じるものです。

対等な関係は
自分も相手も
否定をすることがないので
あるがままゆったりで
安心しやすかったり
自信を感じやすかったりして
居心地がよいです。

「これでいいんだ」
「やりたいこと、何でもできそう」
「こんどは何が起きるかな?」

そんな穏やかな
平和な状況が広がります。



上下関係で生きる人は
あれが上で
これが下で、と
評価を下して生きています。

上には下が
下には上がありますから
評価をする自分にも
同時に評価を下しています。

あの人は自分より上、
別のあの人は自分より下。

そんな感じで
上下を規定していくことで
自分の位置も規定されていきます。

その規定が崩れないように
努力を注ぎますが
すべてが思い通りに
いくわけではないし、

時間の経過とともに
状況は変わっていきますから

更新することに
いつも苦労しています。

上だと思っていた人が
下に見えたり、
下だと思っていた人が
上に見えたりすれば
緊急事態です。

自分の上下関係マップも
修正の必要を感じますが
その修正に納得できないときは
横車を押すような苦しい思いを
感じます。

もともと対等なのに
いろんな理由をつけて
上下関係にしていますから
対等な関係で生きる人より
やること多いです。

そんな中で
自分の価値を感じられるのは
「自分が上」と感じられるときだけ。

相対的な評価なので
必ず「下になる人」が必要です。

「下になる人」が見つからなければ
「自分の下にできる人」をみつけて
自分の下にします。

基本的に不安や怖れの中で
生きていて、
その不安や怖れがやわらぐと
一時的な安心や自信を感じます。

地上では普通にできる呼吸も
水の中にいたら
泳いで顔を
水面から上に出さないと
できないような状況に
似ています。



私は
親が上下関係で生きることに
どっぷりな人で
自然と私も
上下関係で生きる人に
なってました。

幼稚園も
小学生でも
その後も
基本的に自分が上で
他人はすべて下。

自分に役立つこと
してくれる人は
下の上。

自分に役立つこと
しない人は
下の中。

自分に迷惑かける人は
下の下。

自分と対等な人は、いない。
すべて上か、下か。

自分の上に見える人でも
「上と評価できる自分の方が上」
みたいにして、
何が何でも自分を上に
していました。

そんな感じで
上下関係マップを
自分の中に作っていました。



自分に利益をもたらす人は
その利益をもらえるだけもらう。

自分に不利益をもたらす人は
とっとと遠ざける。

人間関係は
都合が悪くなったら
すぐに切ればいい。

切ってまた新たに
つくればよいだけ。

自分を変える必要なんて
まったくない。

そんな
自分の利益にしか
興味がない人になっていきました。



大学のときに
「お前って、
ほんと人の話を聞かないよね」と
言われました。

自分は
他人にやさしく献身的で
いつでも自己犠牲をいとわない
スーパーヒーローだと
信じていたのですが
現実は違いました。

まさに
独り善がり、です。

周りから人は
どんどん離れていき
孤立していきました。

それじゃ人が離れてくよ、と
世話を焼いてくれる人も
いましたが、
その世話がうっとおしくて
差し伸べてくる手を
払いのけてました。



その後、
営業職に就いたり
DV・虐待する人と
結婚したりして、
自分が上だとか
相手が上だとかで
処理することが
難しくなっていきます。

上だ下だと
評価することが
平和にしあわせに生きることに
役に立たなくなって
きたからです。

苦しい思いを
重ねていく中で
気付いたのは
「親の生き方は正しい」を
身を持って証明したい欲を
自分が持っていることでした。

上下関係で生きる私の親は
正しい。

モノのように扱われて
いるのに、
まだ親の役に立とうと
している自分がいました。

「親が大切」は
とっくに捨てていると
思っていたけど、違いました。



親が正しいことを証明して
親に喜んでもらえば
自分には価値があると
信じていたのですね。

証明できない自分は
価値がないとも
信じていたわけです。

もしくは
この身をもって明確に
上下関係は役に立たないと
親に示すことで
「もっとしあわせになれるよ」と
教えたかったのかもしれません。

気付いて
愕然としましたが

その欲を持っていると
わかったことで

無意識にやっていたことを
意識してやめることが
できました。

それまでに30年くらい
かかりました。
長い道のりでした。



上下関係で感じる価値は
「加速度」のようなものです。

加速したときや
減速したときに
その「差」を感じます。

車なら
シートに背中を
押される感じだったり、
シートから背中が
離れる感じだったり。

加速も減速もなければ
何もありません。

価値も「差」がなければ
ないことになってしまいます。



一方で
対等な関係で感じる価値は
言葉の意味のようなものです。

言葉には意味があります。
意味のない言葉はありません。

同じように
存在するすべてのものに
価値はあります。

価値がないように見える
道端の石ころでも
木の実を割ったり
水面に投げて遊んだり、
何かの役に立ちます。

役に立たないと
見えるものは
特定の目的に対してだけであって
それ以外の何かには
必ず何かの役に立ちます。

上下関係では
「価値が感じられない」や
「価値が見えない」などと
否定することでも

対等な関係では
存在を否定することがないため
自然と価値も否定しません。

否定しないから
普通に価値が見えてきます。

共同体感覚を高めて
感じるしあわせを増やすなら
対等な関係を形にできるように
選択して生きていきたいですね。





お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。


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