自分を責め
自分を傷つけて
「自分なんてダメだ」
「生きててもしょうがない」と
自分を否定する。

その否定から
理想とは?を導き出して
実現のための一歩を踏み出す。

そうできるけど、そうせずに
「自分の重要度を高める」を
目的にしてその実現に
その否定を利用する。



私はこんなに苦しんでる。
それを見てあなたは何もしないのか。
そう訴えて、同情や謝罪を手にする。

手にすることで
自分の重要度を確かめる。

でも、この道は
往けば往くほど、苦しくなりますね。




私が中学生の時、
学校でひどい成績をとりました。

私の話を聞こうとせずに
親に、親自身の欲を満たすことに
私が利用されてることを
なんとか知らせて
助かりたいと思ったからです。


勉強ができなくなった

何かあった?と心配する

見た目では普通
それなら心の問題?

親は自分の接し方を見直し、
私に耳を傾けようとするはず

少しは私の話を聞き、
私の希望を考慮するように
なってくれるだろう

そんな期待をもって
やりました。



あんまりひどい成績だと
学校は親を呼び出し
三者面談みたいなことして
状況改善をしようとします。

家庭に問題があるのか。

家庭内暴力
経済的な問題
日常的な子供の世話

そんなことを
聞き取り調査するような
ものだったと思います。

そこまでコトが大きくなれば
親も反省せざるを得ない状況の
はずと信じて。



成績が悪い、というだけで
教師から殴られたりしましたが
このまま犠牲を出し続けるより
状況はよくなると信じてました。

それに、心の状態は
お勉強どころではなかったので
休む機会を持ちたい、というのも
ありましたね。



思ったとおり
ひどい成績だったため
親が学校に呼び出されました。

それを知ったときの
親の驚いた顔は、
おもしろかったです。


自分は悪くないと信じていたのに
学校に呼び出される、という
不名誉な事態になった事実を
受け入れられない、
そんな顔してたからです。

してやったり。(苦笑)



部屋に入ると
学年主任みたいな教師と
担任教師とあともう1人か2人
いました。

席について話が始まると
私が期待した通り進まない状況に
愕然としました。


お呼びだてしてすみません。
お越しくださりありがとうございます。

お子さんの面倒は
ちゃんとみてますか?

遅刻多いですが
朝起こしてますか?

食事させてますか?

夜寝させてますか?

お子さんと普段から
遊んだりしてますか?



なんだ、この扱いは。
親を責める会ではなかったのか...?


親はこんな質問に
すべて
「はい、ちゃんとやってます」と
答える。
実際は違うのに。

そして
お子さんの話は聞いてますか?
という質問にも

親は「はい、聞いてます」と
優等生のように、
おもねるように、答える。



違いますよ、それ。
ウソですよ、それ。
本人が言ってるのだから
間違いありませんよ。

そう言いたくなって
「聞いてもらってませんよ」
と言ってしまいました。


教師たちは
「今ご両親と話してるから黙ってて」
と、取り合ってもらえず。



形だけの聞き取りが終わると、
教師たちは
次のように続けました。


そうですか、わかりました。

今後も成績が改善しないと
またお呼びすることに
なるかもしれません。

引き続き、
お子さんの面倒を
ちゃんと見てくださいね。



は?
何この会。

子供の成績がひどくて
その原因が家庭にも
あるかもしれない、

そう思って親呼び出して
聞き取りしてるんでしょ?


子供の話より
親の「はい」を
信じるのか?


親、どこまで強いんだよ...
守られすぎだろ...


ひどい成績にした甲斐が
なかったのか...



もう終わり、というときに
父親が教師たちに向かって
質問しました。


すみません、
ちょっと聞いていいですか。

今回の聞き取りは
親の私たちが悪いわけではないと
確認するためのもの、
ということで良いのですよね?



は?
何言ってんのこのヒト。


さすがに教師たちも
「親が悪いかもしれないから確認した」
のように答えるだろうと思いました。

しかし、教師たちは
こう答えてました。

「はい、もちろんです。
ご両親はお子さんの面倒を
ちゃんとみてると思ってますが、
その確認だけしたかったから
お呼びしたんです」と
なんだか配慮しすぎな回答。

父親は
うれしそうに満面の笑顔で
「私たちが悪い、ということでは
ないのですよね。
その確認だけしかたっただけです。」
と、すんごくうれしそう。

唖然とするだけで
かける言葉も、ない。



私はこのとき、
自分の気持ちや感情、
感覚や考え方を大切にして
生きたいと思っているけど、
叶わないんだと思いました。

いくらそう訴えても
「それはダメだ」と
親にも学校にも言われてしまう。

本音を話したいけど
本音を話すと痛い思いをしてしまう。

だから本音じゃなくて
親や学校が喜ぶような
ことだけ話すようにしないと。

そんな確信を持ちました。
悲しいですね...



ひどい成績をとっても
何も変わらなかった。

こんな自分に誰がした!?
親のあんたらだ!

そう懸命に訴えても
最後に見るのは
傷だらけの自分。

自分を犠牲にして
自分の重要度を高めるのって
割に合わない、ですね。




成績良くなると親の手柄。
成績が悪いと私だけの責任。
進むも地獄、戻るも地獄、みたいだ。

その後もこんな状況は
変わらず続いていきました。


とっとと親に依存しない生活を
すれば良かったのですが、
当時の中学生の自分はどうにも
できなかったのですね...

今、そんな過去の自分を見て感じるのは
「よく生き抜いてくれた」という
深い感謝の思いです。



自分を犠牲にして
自分の重要度を示す活動は

自分も
自分を大切に思う人にも
苦しい思いをさせてしまうことになります。


重要度を高めることを目的にするより
「自分の重要」を形にすることを
目的にして生きる方が

未来の命は豊になっていきますよね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。


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