アドラーは
劣等について
3区分に分けてます。

それは
・劣等性
・劣等感
・劣等コンプレックス
です。



劣等性とは
単なる事実のことです。

例えば
眼が悪い
足が遅い
体重が多い/少ない
筋力が弱い
持久力が少ない
覚えが悪い
などです。

計測して
標準とされる範囲から
外れるもの、という感じです。



劣等感とは
劣等性を見て
「自分は他より劣っている」と
主観的判断を下すことです。

例えば
眼が悪くて
教室の一番後ろから
黒板の字が読めないとしても
何も問題ない、と捉える人は
劣等感を感じません。

逆に
見えてる人のように
自分は見えないから、
自分は劣っている、と捉える人は
劣等感を感じるわけです。



そして、
劣等コンプレックスとは
劣等感を「できない理由」に
利用することです。

例えば
眼が悪くて
教室の一番後ろから
黒板の字が読めない。

「だから」
私は勉強ができないのだ。

裏返せば、
眼さえ良ければ
自分は勉強できる、と
主張しているわけです。



劣等性は、悪ではありません。
ただの事実であり、
中立なものです。

劣等感も、悪ではありません。
ただの感情です。

しかし、
劣等コンプレックスに依存すると
いくらしあわせへの道があっても
進むことが困難になってしまいます。


理想に向けて
「今自分にできることは何か」と
創造性を使うのではなく、

「今自分の劣等感を感じてる
この劣等性を正当化する理由は何か」と
創造性を使うことになるからです。




劣等感と理想は
常にセットで存在します。

その劣等感は
理想がどれだけ自分に大切かを
教えてくれます。

しかし、
理想を実現することではなく
「できない自分を正当化する」を
目的としてしまったら、
しあわせを増やすことは難しいですね。




あるセミナー講師の人がいました。

その人は
・喋るのは得意
・文章を書くのは苦手
という人でした。

これだけでは
何も問題はありませんよね。


でも、この人が
ことあるごとに言うことが
「本を書きたいけど、書けない」
でした。

文章が書ける人=優秀
文章が書けない人=劣悪
みたいな価値観を持っている
感じですよね。

そう思っても
本を本当に書きたいなら
書けない言い訳を
セミナー会場で話すことより
日々こつこつ書けばよいだけです。



でも、
「本を書きたいけど、書けない」と
ことあるごとに言うので、
その目的は何なのか、
気になってました。

それは
劣等コンプレックスと考えると
しっくりきます。


いろんな劣等感を
この人は抱えている。

それらの中から
「本を書けない自分」を
正当化する理由を創作していた。

今の自分は劣悪に見えるかもだけど、
本当は優秀なんだよ、わかってよ、と。

なるほど...



自分は昔から書くのが苦手
「だから、今本が書けてない」

書こうとして考えると筆が進まない
「だから、今本が書けてない」

夜、よく眠れない
「だから、今本が書けてない」

みんないろいろ問題起こす
「だから、今本が書けてない」

酒を飲んじゃう
「だから、今本が書けてない」

いろいろ誘われて時間がない
「だから、今本が書けてない」



「本当は自分は、優秀なんだ」と
懸命に言っているように
見えてしまう。

その裏で
「書けない自分」=劣悪な自分を
常に感じてもいそうです。

いくら優秀を見せても
本体は変わらないわけですから
いつまでも続くわけです。




劣等感と
劣等コンプレックスは
混同してしまいそうですが

これを分けて見られると
理想を実現するために
本当に必要なことが
見えてきます。

劣等を感じたら
この3区分を
意識することで
しあわせへの道筋を見失わず、
ちゃんと見ていけますよね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。


《関連記事》
敗北の存在を認めると流れが変わる~疾病利得
自分を変えたい人が最初にすること
アドラー5原則:目的論
アドラー心理学:人生のタスク
あなたのせい、より、あなたのおかげ、と言いたい