何のために生きるのか。
それは誰の許可も要らない。
自分の自由に決められる。

そして、それは
誰か、ではなく
自分で決めないと
決まらないもの。





ビビッときた。
雷に打たれた感じ。
天から降ってきた。
神託を得るかのような体験。

そんな体験があっても、
自分で「そうだ、これだ」と
決めない限りは
生きる目的にはなりません。

どんな経緯があっても
何のために生きるのかは、
自分自身で決めています。





生きていることは
前提です。

生きていないと
その目的は決められません。

矛盾みたいに感じるかもだけど、
生きているから
生きる目的を決めることができる。





自転車があって
それに乗ってどこへ行くかは
自由です。

どこかへ乗っていかなくても
自転車は消えません。

その自由も、消えません。


生きることだって
目的がわからない状況でも
生きています。

目的が空白だったら
そこに何を入れるかは
自由な状況です。

空白が埋まっているよりも
空白のままの方が
自由度は高い状況ですね。




決められないから
決まらずに
さまよい続ける。

あれか
これか

やってみて違ったらどうしよう。
お金と時間を消耗するだけに
終わるのはイヤだな...

やってみて
そんな姿を見た人々に
嘲笑されたらヤダナ...

何にしてもいいよ、と
わかっていても
自分で決めるとなると
苦しくなってしまう...




何のために生きるのかを決めること自体を
生きる目的にしてしまうと
思考ばかりが先行してしまって
生存に必要な未来予測を
多くしてしまいがち。

生存に必要な未来予測って
命の危険がありそうなことに
意識や注意を向けて
想像すること。

うれしくなったり
楽しくなったりする未来じゃなくて

悲しくなったり
痛い思いをする未来ばかりを
想像してしまう。

行く先に危険ばかりが見えたら
進めなくなっちゃいます。

だから
何のために生きるのかを決めること自体を
生きる目的にしない方が
楽しく生きることに役立ちます。




自由に決められる自分を感じて、
自由に決めてみる。

例えば、
音楽で世界に革命を起こすために生きる、
そう決めて3歩歩いてみる。

人生のミニチュアを歩いてみる。

しっくりきたら、
それが生きる目的かもしれない。
その先を実際に見ていきたい。

違和感があったら、何かが違う。
違う目的にして、再度歩いてみる。

思考以外の心の感じや体感覚も
感じてみて、何のために生きるのかを
見てくのも、いいですよね。





今の自分の状況に応じて
「こんなふうに生きたい」
は変わります。

執着と無執着の間を
適度に揺れながら
アップデートしていけたら
何のために生きるのかは
楽しく決めていけますね。





お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。



《関連記事》
自信がない、は、ただ情報が足りてないだけ
勘違いなんかコメディにしてしまえっ
失敗続き、よりも、トライ&エラー、という状況
いつも自律神経系に生かされてる感謝
平凡な日常をレベルアップ