宇佐神宮のほぼ中央に池がある。
上宮から見ると、下って亀山神社を更に行った先。
ごく小さく、御田植祭斎場。
少し右に歩くと、御霊水と書かれた場所に着く。
欽明天皇の29年(569年)、いろいろな神異があった。
菱形池のほとりの泉のわく処に、鍛治をする老人や、八つの頭のある龍があらわれて、この姿を見た者は忽ち病気になったり、死んだりした。
この神の祟りをおさめようとして、大神比義という老人が来て3年あまり断食をして神行すると、欽明天皇32年(571年)の、2月初卯の日、この泉のかたわらの笹の上に光りかがやく3才の童子があらわれて「われは誉田の天皇広幡八幡麿なり」と申され、忽ち黄金の鷹になって駅館川の東岸の松の上に、とどまったという。(宇佐神宮由緒記より)
左上の童子が「われは誉田天皇(=応神天皇)だ!」って、金色の鷹になって飛んで行ったそうな。
ちなみに、仲哀天皇の時代に松にとまった鷹はタカミムスビって事になっているし、ヤマトタケルは死んで白鳥になったという。
神様が変化するのはよくある事(笑)
中には3つの井戸。
水はくんで持って帰っても良い事になっているけど、飲用の基準は満たしていないから神棚へのお供え等に使ってね。って。
六角形の影向石(神が現れたとされる石)。
八幡大神が神馬に召され天翔けられた時の馬蹄の跡が残されているとのこと。
この辺?
それにしても神様、豊満宮竈門神社の玉依姫にしろ、神馬に乗ってやってきて蹄の跡残しがち🐎
池の中ほどには水分(みくまり)神社⛩
水を司る五神、高龗神(たかおかみのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、天汲匏持神(あめのくひざもちのかみ)、国汲匏持神(くにのくひざもちのかみ)を祀る。
能楽殿があるけれど、
通行禁止なので行けない。
逆側から見るとこんな。
紅葉と朱色の橋が良い。
さて。
欽明天皇の29年(569年)に神異が始まり、欽明天皇32年(571年)に八幡神が姿を表したのは分かった。
しかし、
欽明天皇32年(571) に応神天皇の御神霊が初めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御巡礼ののち、神亀2年(725)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。
って、現れてから祀られるまでに、随分と時間がかかっているなぁと感じる。
宇佐神宮のHPにある年表をみると、
まずは和銅5年(712)に鷹居社建てられ、それを霊亀2年(716)小山田社に移し、それからやっと神亀2年(725)に現在地に鎮座となっている。
注目すべきは、鷹居社・小山田社の前後にどんどん寺が建てられている事。
仏教が本格的に日本に入ってきたのが、欽明天皇13年(552)。
それから、神道勢力である物部尾輿と中臣鎌子らと、西国では皆が仏教を信じているので日本もそうすべきと主張する蘇我稲目とでバチバチと対立したという。
年表、用明天皇2年(587)に用明天皇の病の事が書かれているが、奈良の法隆寺はもともと用明天皇が自らの病気平癒のためにと建立を発願したとも言われている。
仏教勢力が強くなっている様子が宇佐神宮の年表から伝わってくる。
そして、隼人を攻め放生会を始めた後に、八幡大神の社殿と、後に境内に移ってくる弥勒禅院が同年に建てられている。
放生会は、元は仏教行事なのだけど、そこで神を乗せた輿を担ぐなどして神仏混ぜ合わせたのが功を奏したという事なんだろう。
神道と仏教、どちらかを排除するのではなく、上手く融合し、共存の道を歩むことになる先駆けがここ宇佐神宮にあった‼️
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