支石墓(新町支石墓群/新町遺跡展示館と志登支石墓、志摩歴史資料館添え) | 筑前由紀のプチトリップ

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新町遺跡(支石墓群)展示館

福岡県糸島市志摩新町71-1


支石墓ってつまり墓石。

現代でも西洋も東洋も、埋葬地に墓石を立てたり寝かせたりする。

これは人類の普遍的な性質なんだろう。


支石墓は、アジア全般に見られる埋葬方法らしい。

しかし定説では、大陸から朝鮮半島経由で日本に伝わってきた事になっている。


何でもかんでも、文化は大陸から伝わってくるもんだと決め付けてかかる学者さんの声が未だに大きいらしい。

弥生時代の始まりは、稲作が大陸から日本に伝わった時期だとされているけど、なんで?


(あとちょっと別件。表の「日本列島が大陸から分離する」って記述から、大陸移動説について。

大陸移動説も私は納得いかない。

海の上に陸がプカプカ浮いているわけではない。

海の下にも地は続いていて、それが海上にあるかないかで陸と呼ぶか呼ばないかであるはず。

だから、「パンゲア大陸という元は一続きのある大きな大陸があってそれが分裂した」とかでなしに、そもそも全部繋がってる丸い地球の表面に、海がどうやって出現したかとか、海水をないものと考えた際にどのような凸凹がどうやって出来たのかを考えるべきではなかろうか。)


「支石墓=朝鮮半島を通して伝わってきたもの」

とされていて、だから

「支石墓に埋葬されている人骨=渡来人」

と思われていたのに、新町遺跡の人骨は縄文人(先住民)だったそうな。


それで、「定説に疑問を投げかけるものが見付かった❗️」ってなってるって話なんだけど、いやいや、それもどうなのよ。


支石墓と稲作と青銅器がある瞬間からに全く同時に伝わって来てるはずないし、縄文人と呼ばれる骨格の人と弥生人と呼ばれる骨格の人が入り混じってる時期だってあって然るべき。

そもそもの前提があまりにも極端過ぎるとしか私には思えなくて、「謎」ってなる事こそが謎。

そりゃあ、そんな事もあるでしょうよという感想。



凝り固まった前提を知らない方が、今実際に残っているものを素直に受け取れるのではないか。


そんな風に思ったりもするけれど、そうは言っても全く何も知らないし何の指針もないまま見たって、それこそ独りよがりの思い込みの産物しか生まれて来ないだろう。

だからやっぱり、教えてくれる存在は大事。





新町遺跡展示館には人骨はなかったけれど、志摩歴史資料館にはあった。

これがまた凝っていてね!

横から見れるし、


階段登って上からも覗ける。

そして、すぐ近くの天井にはなんと、

同じものがあって下からも見れるっていう(笑)


両手に沢山の腕輪を付けた状態で埋葬されていた女性の人骨。

腕輪の大きさからして、手が小さい子供の頃から付けっぱなしだった様子。


壊れ易い貝の腕輪を付けたまま生活出来るような、そんな役職=巫女だったのではないかと考えられている。


左脚の付け根に矢の先が残っているんだと。


それで、「2,300年も前から人々は争いをしていたのです」は謎。

いや、そんなん、野生動物だって争ってんだから、人だって争ってるでしょうよ。

むしろ、どうして争ってないと思った?

「弥生時代になると人々は海を渡ってきた武器というものを知ります」も、何でその発想になるのかが分からない。

例えば、カラスが石を落として殻を割ったり、猿が棒を使って穴の中の生物を追い出したりする。

古代の人だって、近場の物を道具として使っただろうし、自分達で武器を生み出していくのでは?


武器があるから争いが始まったって、どう考えても逆。

人類は文化を持つ前から争いはあるし、争いがあるから武器は生まれた。って考える方が自然だと思うんだけどなぁ…。


志登神社に近い場所にある支石墓群。

草に埋もれている。


前日(10/22)のバスハイクでもガッツリ古代の墓だったので、支石墓の事を書いていると早く10/22の方の感想を書きたい気になる。

でもまだ、残りあと2つ、9月バスハイク編続く。



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