31代用明天皇の息子、聖徳太子の異母兄弟、来目皇子が祀られているという久米神社を探す。
到着した神社の階段のところに可愛い花が咲いていた。
サフランモドキ(ピンクの花)とツユクサ(青い花)。
扁額には「埴安神社」。
間違いだったけど、せっかくだからサラッと見てお参りして、去る。
場所が分からなくて、バスを止めて地元の人に「久米神社はどこか」と尋ねる。
すると「お伽藍さんのこと?」と。
おお!地元独自の呼び方良いね👍✨
久米神社
福岡県糸島市志摩野北3262
祭神
久米皇子、志賀海積三柱神
(来目皇子、綿津見三神)
久米神社の階段の前にあるこれは、昔はこの辺りの人達が共同で使っていた、久米の一つ井というらしい。
うう〜ん、読めない💦
社殿の外も中も、パッと見で「久米神社」と書かれているようなものはない。
何か字が書いてある物を見付けてズームして写真を撮ってみたものの、「八幡太郎義家図」と、ただの絵の説明で神社には直接関係なさそう。
と思いきや、バスバイク参加者の1人で私と同じようにこれを撮った人がここに「久米神社」の文字を見出した!
おお。
そうして「ここが本当に久米神社だと分かったね」と微笑み合うのであった☺️
(※久米神社として他の複数のサイトに載っている写真を見ても、ここが久米神社で間違いはない。)
近くに来目皇子遺跡もあったようだけど行かず。
ランチタイム🍚
東京からお越し方(含む方々)と食べた。
具体的に何を話したって忘れちゃったけど、なんかこう、元気な感じが良かった。
糸島海鮮丼の小を頼んだんだけど、丼も味噌汁も美味しかった☺️
ところで久米神社について。
古代、朝鮮半島にあった「任那加羅」がどのようなものかが分からない。
これは、私個人がわからないんじゃなくて、歴史的にもはっきりしてないって事なのかな。
来目皇子についても、私が理解出来ているのか分からないんだけど、以下、私がざっくりこうなんじゃないかと思った内容。
神功皇后の頃に朝鮮半島内に日本の領土が出来ていて、それが新羅によって奪われた。
取り返すべく派遣されたのが、来目皇子。
来目=久米の名前は、神武天皇に付き従った大久米や久米部から来ているが、これは皇子の乳母の姓による。
来目皇子は領土奪還叶わず若くして亡くなってしまったけれど、それを悼む人達によって祀られた。
これ掘り下げようとするとめちゃくちゃ大変で収集が付かないから、以下に、久米神社を取り上げてるサイトのリンクを貼って終わりとする。
久米神社
野北村久米にあり。祭神久米皇子,志賀海積三柱神,即ち中つ小童,上つ小童,底つ小童これなり。
野北村南方に川を隔てゝ山あり其地を総て久米と称す。其地に古墳あり俗に久米様と称ふ。山下に御社ありて志賀三神相殿に久米皇子を齋き奉る。社家の伝にいふ此地は皇子薨去の地なりと。
祭日は旧七月六日,十一月二十日なり。宮崎元胤著久米山稜考あり。
筑前國志摩郡野北村の南の方に川を隔てて山あり久米の社と称す。祭る所は志賀三神,相殿に久米皇子を斎き奉る。社家の伝に云ふ,此の地は皇子逝去の地也と。毎歳霜月廿日に神祭し奉るに里民等饗宴して是に仕ふること尤も嚴なり。此の御社の近所に一株三幹の古杉あり,俗に久米皇子の御母様の御墓なりしと云ふ。其地広き畠にして古代より是を崇めり。また御社の右方に佛殿あり是を伽羅牟と云ふ(地蔵菩薩を安置せりとぞ,是古の久米寺の旧跡か)。當社の本地なりと云伝へたり。此の所は甚閑静の地にして古昔繁昌の時ぞ偲ばれ侍る。御社の前石階下に清泉あり,是を久米の一ツ井云とふ,尤も清潔なり。また山下西方に谷を隔てて小墳あり此所を地籠と云ふ。これより天保の頃に古鏡刀剣の類をも掘出せし由を伝う。また戌亥(北西)の方に中局と云ふ所にも石櫃の埋ありて顯にも窺れ侍る由なり。己元胤の畏も考へ侍に卅四代推古天皇の御紀に十年壬戍來目の皇子云云とあり。船舶を集めとあれば,此時海上安全の為に志賀三神を斎ひ賜ひしにも有べし。偖この郡の久米郷の名は和妙抄,また式及元亮二年の民部省圖帳等に見れて今の岐志村芥屋村西貝塚等の諸村を云へり(後年此説を改めて芥屋は鶏永郷,貝塚は鶏永塚にして久米郷に含ますと改正せり。)扨神部を帥ひ賜ひしは專らとは天津神國津神また海原の諸神等を祭崇め賜ふ為なるらめ。
因に云ふ。志摩郡船越の津の戌亥の方に三韓に向ふ淨地の濱地あり(其地広大なり),其所を齋と云ふ。(神代と云ふも其近にあり)。古昔神齋の跡と云ふ。毎歳八月朔日には此村の少年等産土神の社内に集りて陳道と称して東西に立分れ,古門を守り式を為す事于今絶ず。此は古老の伝に昔皇后の諸神を祭り賜ひし旧跡と云ふも,竊に考れは神后は本よりにて此皇子も神部をして祭り賜ひしならむか。
扨て此皇子は用明天皇の御子におはして坐て上宮の廐豊聽耳命の御弟に坐せり。御母は庶妹間人穴太部王(ハシヒトハナホヘミヤ)に坐り。此の皇子重き御身ながら此筑紫の島のはてなる荒波寄る鄙までも玉體を厭ひ賜はず,新羅降伏の為に出御,遠き海原を頓て渡り賜むとして其の事果し賜はなとする程に御病に臥て此里にしも春の霞と惜此世を立去ましぬるは,昔を偲び奉上ると記れたり。時に父天皇是を聞し召して大いに驚たまひ,皇太子及び蘇我大臣を招して曰く,新羅を征賜ふ大将軍來目の皇子其大事に臨まし未遂して薨ぬ。大に悲み賜ふと有るは此の皇子の御上のこと御悼く思召になも。依りて其御屍を周芳國なる娑婆に殯し賜ふ。後にまた河内なる埴生山の岡に葬ふ由を記され侍る。然れば志摩郡の久米の里なる陵墓は御屍の納り賜ぶには坐ねど,當昔暫し殯し奉りし旧跡なれば,玉體に餝賜しお手習の物等をも納め奉りて後葉の印とし賜しにも有べし。然れば假初の御奥に坐て如斯形ばかり此の地に遺し有ぞ彌よ尊く覚ゆ。
今此の地の久米の社の祭禮霜月廿日には毎歳神座をなし奉る時の軸物ありて,行弘正貞翁が皇子の尊號を懇に記し残せり。然れば此翁も皇子の陵墓は此地と諚定めてや有けん。其は兎まれ新羅に向ふ絶景の浄地にして旧跡なるは本よりにて,久米の郷名も古書に残りて,彼の皇子此の部に屯し賜ひ,息子薨賜ひし地なれば,總て此邊を久米とは称し侍るにや。其の地に久米樣と俗にも云ひ伝ふる所の陵墓さへ御座せは,己れは先此の地ぞ皇子薨去の地にして且つ殯し奉りし所なりとは思ひ訣め侍るになも。詣て奉らば誰人か當昔の事とも偲はさるへき。あはれ此の事よ。嚴矛の中取もちていとも畏き御邊に聞え奉らん人もかな。(中略)久米の王と白す御名は御乳母の姓に寄て云るが,姓氏録久米ノ朝臣久米ノ臣久米ノ王之後也。また姓氏録に登美直人出レ自ニ謚用明ノ皇子春日ノ王他とある。春日王を一本には來目ノ王とあり。此れは來目を春日と寫し誤れるか。また埴生(はふ)は河内の丹比の郡にあり(此志摩の郡の内にも埴生を氏とする人有り)。本郡久米郷は必ず此の皇子の屯し賜し地より云ふか。猶登美眞人の事は續記四十に見ゆ。暫く記して此陵の事を世に顯し白すなも。
明治四辛未年九月九日 宮 崎 元 胤謹記
追 考
久米に坐す志賀の神祠をしも俗に加羅宮と傳る由なるは此の地に戒藏庵と云ふ小佛堂も侍るにて能く思慮するに,當昔佛法興隆の御世にしも侍れは,久米皇子の菩提の為に造立し給ひし繁昌の加羅牟なりしかば,遂には御社もなきが如く衰まして寺のみ繁へ海藏院とか何とか称し侍りしか,今將世と共に佛殿も衰侍りて,形ばかりの小庵となり侍るにや。斯る本来の違る例は世に多き事ともなり。久米の社は加羅宮をこそ云へなどと云ふ人も有と聞へければ,因に聊か思ふ旨を記し侍るになも。
大正三年久米星原附近の畑を開墾の際数多の土器及銅矛を発掘せりといふ。
25目次
656久米神社
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