今回の「本州最南端と衣通姫とを結ぶ南北のライン」は、昨年7月に投稿したカミムスビの子らを結ぶライン | 久米の子の部屋  の最後に、次のように書いたことの裏付けを取っていて見つけました。

 

    

奈良の波多神社所伝の志路木薬は、

京都の久米の地の金札宮の白菊と繋がるのでは?

 

 

金札宮の元々の鎮座地は、かつて山城国“紀伊”郡石井郷の久米村であった地ですが、そこから真南にラインを引いていくと、ちょうど本州の最南端であるクレ崎(紀伊半島の先)に当たります。

 

金札宮は、豊臣秀吉による伏見城築城の際に移されてしまいましたが、元々の鎮座地は板橋小学校の位置なのだそうです。

旧・金札宮鎮座地の東経が135.76161698206252 

 クレ崎(本州最南端)は135.76246774262773

 

もし、これが意図されてたことなら、かなりの精度の高さです。

 

私は、「久礼」地名が示してくれる朝鮮とクメとの繋がり | 久米の子の部屋  を書いたころから、クレと久米とは関係がありそうだと睨んでいますので、久米村の真南にクレ崎があることは偶然とは思えません。

 

本州の最南端のクレ崎のことを知ったのは、金札宮と同じく天太玉命を祀る半木神社の東経が135.761771であることをGeoHack - 半木神社 で知ったからでした。

半木神社 - Wikipedia から一部引用しようかと思いましたが、たまたま見つけた半木神社 由緒書き.pdf の内容が貴重に思えましたので、全文載せてみました(※pdfの出所ははる家 | HARUYA【公式】ベストレート保証のようです)。

 

 

賀茂別雷神社末社 半木神社略記
 

鎮座地 京都市左京区下鴨半木町九十六番地(京都府立植物園内)
 

御祭神 天 太 玉 命 一柱一座
 

御事歴  

当神社の御鎮座地を衷心とするこの地方は、 住古上賀茂神社御祭神の外祖父・賀茂建角身命を祖とする賀茂族が大和国より移動を開始し、現在の上賀茂の神山の山麓を定住の地と定め、 現在の荒神橋付近に至るまでの加茂川と高野川に挟まれた広大なる土地の開墾に従事し、更に加茂川西岸、現今の西賀茂・大宮・紫竹・小山等の地区をも開墾した。 折しも加茂川の東沿岸には天然生の桑樹が存したのを幸いとして、 当時既に賀茂族と婚姻関係を結んでいた秦族とが協力して養蚕の業を営み、続いて絹織物の製造に従事した。 ここに於いて奈良時代には既にこの地方は「錦部里」 と呼ばれていた。
平安時代に入って、後一条天皇の御代、寛仁二年(一〇一八)十一月二十五日朝廷より正式に賀茂別雷神社の社領として、四ヶ郷の土地の御寄進があったが、その中に錦部郷と称してこの地方の名も存した。それは前述の如く、 賀茂族が既に開墾していた土地を、朝廷に於いてその所有権が確認されたことを意味するものである。
その後、 四国の阿波国に当時同じく養蚕・絹織物染織製造に従事していた忌部氏の部族の人々が祖神として崇め、且つ職業の守護神として信仰を捧げていた天太玉命の御分霊を勧請鎭祭し、農業・養蚕・絹織物染織業の守護神として仰ぎ奉ったのが、 現在の半木神社の起源である。
時が経て世は移り変わり現在は全くその旧態は存しないものの、半木神社は大正十三年(一九二三)この地に京都府立植物園が営まれてより、現在植物園の守護神として、 且つ懸る所以によって養蚕。絹織物染織業界の守護神として廣く崇敬を集めており、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外末社としてお祀りされている。
例祭日 四月二十日(春祭)・十一月二十日(秋祭)

 

旧・金札宮鎮座地の東経が135.76161698206252 

    半木神社の東経が135.761771

 

平安京は風水の考え方に沿って造られたそうですから、この精度は意図されてのことなのでしょう。

 

(ならば、同じ東経の神社が見つかれば、金札宮の持つネットワークみたいなものを知ることが出来るかも? )という軽い思いつきで半木神社 - Wikipedia に載っている東経135度45分(42.375秒は省略)で検索したところ、東経135度45分22.91秒の玉津嶋神社が顕れました。

 

出た~‼と思いましたね。何故ならば、本記事の頭で「奈良の波多神社所伝の  

は、京都の久米の地の金札宮の白菊と繋がるのでは?」と書きましたが、玉津嶋神社は志路木薬を用いたと伝わる衣通姫を祀っているからです。

 

ただ、和歌山県和歌山市和歌浦中のほうの玉津嶋神社ではなく、福井県小浜市松ヶ崎1丁目4が鎮座地なのですが。

 

玉津嶋神社 で境内由緒書より書き写されたものは、元の文字が薄くなっていて読み取れない箇所が「■」となっていたりするので、御大典記念福井県神社誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション 189コマ目から引用します。

 

由緒沿革

社伝によれば、「当地方最古の歴史を有する御社であり、元三味線堀より移したものである。古は玉津島神社又は玉津大明神等と称していた。祭神は衣通姫命であって、往古玉津舜坂と称する前にあった」と言われている。そもそも玉津島大明神の御鎮座は、人皇七六代近衛天皇の御時世康治元年(一一四二)である。久安五年(一一四九)二月五条三位藤原俊成卿が諸国御遊覧の際に当所を通行された。その時ひとりの老翁に案内されて猿田彦神を祀った一小社のある勝景の地に到ったところ、老翁は衢(みち)神であることを告げていづくともなく去って行った。俊成卿は感悦して暫く逗留され、玉津島神御影と御和歌をこの社に納めて、玉津島明神を祀り崇敬された。即ちこの所を、玉津舜坂と号する。その後、寶治二年(一二四八)秋ごろ庄官が村内の疫病平癒の祈願とされたところ、その夜束帯の老翁と美麗な女性が庄官の枕元に立たれた。そのときの神告を得て、津田の辺にこの社を移し奉ったところ疫病の憂いがなくなった。そこで神殿を新たに造営し、建長二年(一二五〇)三月正遷宮を執行したと言う。

(引用終わり)

 

元々は、衢(みち)神である猿田彦神を祀った地だったのですね。

 

猿田毘古神 – 國學院大學 古典文化学事業 に、「動物の猿を太陽神の使いとする信仰」「境界を守護する境界神・防塞神という面がうかがわれる」等書かれているのを読み、福井県小浜市の玉津嶋神社の真南を見てみると、クレ崎(本州最南端)だったという次第です。

これは、おそらく、偶然ではないような…?

 

 

偶然ではないといえば、藤原俊成は、文治2年(1186年)の後鳥羽天皇の勅命により、自分の邸宅地に、和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている衣通郎姫を勧請しています。

その、新玉津島神社の位置が、東経135.75908500751459(京都市下京区烏丸通松原西入ル玉津島町309)。

福井県小浜市の玉津島神社が、東経135.75363184497098。

 

『千載和歌集』の撰者である藤原俊成が衣通郎姫を祀るのは、和歌三神の一柱として数えられているだけではなく、最初の藤原宮が、衣通郎姫のために造営されたと伝えられるからでしょうか。

 

衣通姫 - Wikipedia から一部引用します。

(前略)

『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の実妹・弟姫おとひめとされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田(現在の滋賀県米原市)の住まいへ允恭天皇が差し向けた中臣烏賊津に対して、実姉が皇后であることを理由に入内を固辞したが、入内するまで退かないと烏賊津が7日間も庭に平伏したため、入内することとなった。しかし、実姉が皇后であるため、允恭天皇の宮とは別の宮である大和の藤原宮(現在の奈良県橿原市)に住んだ。

(後略 引用終わり)

 

冒頭には、「衣通姫(そとおりひめ、そとほりひめ、そとおしひめ)は、記紀にて伝承される女性。『日本書紀』では衣通郎姫そとおしのいらつめ、『古事記』では衣通郎女・衣通王そとおりのみこと表記され、叔母と姪の関係にある別の人物の名である。」と書かれています。
本稿では、「衣通姫」「衣通郎姫」と表記を統一しませんが、それは、引用元に従ってのことです。

 

 

上の菊池容斎氏作の衣通姫の画像は、File:Sotoorihime.png - Wikimedia Commons からお借りしました。原典は、  新日本古典籍総合データベース『前賢故實』(画像)とのことです。
 

中臣烏賊津 (なかとみ の いかつ)は、『日本書紀』の、仲哀天皇が急逝するシーンに登場する「中臣烏賊津 」とは同名異人であるとも、伝承の混乱であるとも言われているそうです。

 

中臣烏賊津 - Wikipedia に、「『新撰姓氏録』の中臣志斐連、神奴連の系譜では、天児屋命からの世代数にはそれぞれ若干の異同があり、烏賊津に該当する人物は、「伊賀津」と「雷大臣命」の2名になるが、壱伎直、生田首の雷大臣は世代数や系図からも崇神天皇の二世代前の人物である伊香津臣命(伊香迹臣命)であり、類似した名称を持つ人物である。」とあるので、「烏賊津=雷なのか」などとボンヤリ考えながらグーグルマップを眺めていて、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と菅大臣神社が、南北に位置することに気付きました。

 

菅大臣神社 - Wikipedia の「歴史」の項を引用します。

社地は今から約1000年前、菅原道真公の紅・白梅殿という邸宅や、また菅公生誕の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。仏光寺通を中心に南北二町、東西一町が当時の邸宅(後略 引用終わり)


賀茂別雷神社 - Wikipedia によると    

東経135度45分10秒   135.752778

 

菅大臣神社 - Wikipedia によると

東経135度45分21.9秒  135.75600771920324

 

清涼殿落雷事件を起こしたと伝わる菅原道真の邸宅が、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の南側に位置することは意味深長だと思いましたが、グーグルマップで位置を確認すると、ズレを感じました。

もしかしたら、このズレの原因は、社地の縮小にあるのでしょうか…?

 

それとも、上賀茂本山のほうだろうかとグーグルマップで位置を確認しているときに、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭神とする大田神社に気づくことができました。


大田神社 (京都市) - Wikipediaの「歴史」の項によると、「創建は不詳。賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない。」とのこと。

 

 

大田神社(京都府京都市北区上賀茂本山340)の経緯度は

35.05977549047149, 135.75852092187347

 

新玉津島神社の東経  135.75908500751459

 

天鈿女命は、天の岩戸の前や猿田彦との対峙において胸乳をあらわにしたと伝えられていて、美しさが衣を通して輝いたという衣通姫とは真逆のイメージがあります。

 

けれど、大田神社 | 賀茂別雷神社(上賀茂神社:かみがもじんじゃ)公式Webサイト に記される「鎮座年代不詳なれど賀茂に於ける最古の社」という御由緒は、福井県小浜市の玉津島神社の「当地方最古の歴史を有する御社」という社伝と通じるところがあります。というより、小浜の玉津島神社が大田神社を真似た…? 

 

こんなふうに妄想してしまうのは、猿田彦神を祀ったお社に納めるのは、パートナーである天鈿女命であるべきなのでは?と私などは思ってしまうからです。

 

もしかしたら、藤原俊成・定家親子は、単に藤原宮と中臣烏賊津繋がりで衣通姫命を祀ったのではなく、もっと深い理由があったのでは?と想像して検索してみると、史学研究集録 (22) - 国立国会図書館デジタルコレクション に、清武 雄二氏の『藤原部の研究 』を見付けました。4コマ目の「論文要旨」を引用します。

 

論文要旨
藤原部は允恭妃衣通郎姫の名を後世に伝えるために大伴氏によって国造を媒介に設置された部民である。しかし、藤原部の史料は允恭朝以降、天武朝の藤原部連賜姓記事までは一例もみえず、藤原を冠する宮や王族の存在も認められないことから、藤原部を五・六世紀に設置されたいわゆる名代子代の実例とする通説は疑問である。藤原部の伝承は中臣烏賊津使主の活躍が顕著なことから、天武朝に妃を輩出した中臣氏の作為によるものと思われる。その歴史的実態は大伴氏が六世紀代に設置した屯倉に付属する 「クニ」毎の田部であり、婚姻を媒介として中臣鎌足に継承され、後に鎌足の封戸となったものである。 鎌足没後、封戸はその娘で ある天武妃に継承され、その家産組織に属する田辺史氏に管掌された。藤原部の設定は藤原賜姓以降、天武朝下における中臣(藤原)氏の氏上であった大嶋が意図したもので、自氏出身の妃が所有する封戸に部民の伝統性を付与することにより、中臣(藤原)氏と王権との密接な関係を主張し、自氏の政治的地位の安定を図ったものと考えられる。新たな部姓集団である藤原部の創出過程は七世紀後半の地方支配が王族・諸臣の家産組織を内在させる方式であったことを背景とする。
(引用終わり)

 

中臣(藤原)大嶋について、ある程度のことは、中臣大島 - Wikipedia を読めば知ることができるのですが、また、史学研究集録 (22) - 国立国会図書館デジタルコレクション  の8コマ目から引用します。

 

(前略)

一方、大嶋は持統四年正月戊寅朔条の持統即位と同五年十一月戊辰条の「大嘗」の際に、神祇伯として「天神寿詞」をよんでいることが留意される。これらの記事は践祚・大嘗祭や「天神寿詞」の初見であり、岡田精司氏によると、 大嘗祭は天武朝に定められて浄御原令で成文化した祭儀であり、神祇伯も浄御原令で成立したものである。また、田村圓澄氏は、皇祖神たる天照大神が天武朝に構想されたことを前提として天孫降臨神話が形成されたとしている。こうした律令制的な王権神話・祭儀の形成には最初の神祇伯たる大嶋が中心的に関与していたことは確実である。大嶋は、「帝紀及上古諸事」を執筆した段階で諸氏の保有する祭祀伝承を基に天孫降臨神話や「天神寿詞」を完成させたものと思われる。 藤原部設置伝承もまた、大嶋が自らの職掌を媒介として祭儀に関する原説話を改変・挿入することで成立をみたものといえよう。
 允恭妃の藤原宮居住を伝える記述が藤原に居住する天武妃 (藤原夫人)の存在を投影させた作為によることが明らかな以上、藤原宮の歴史的実在は全く否定されることになる。

(後略 引用終わり)

 

中臣(藤原)鎌足の母は大伴智仙娘(大伴咋子の娘)で、大嶋も子孫かと思いきや違うのですね。

 

※7コマ目からお借りしました


『中臣氏系図』所引「延喜本系」によると、大嶋の祖父である糠手子の母は米頭羅古娘(狭井麻呂古の娘)が、御食子と国子は山部歌子娘の那爾毛古娘が産んでいます。

 

拙ブログでは、久米寺の位置から想像する藤原氏の思い |  他、何度か書いてきたことですが、那爾毛古娘は伊予来目部小楯の孫なのです。

 

そして、伊予といえば、藤原部の設置とは関係がない、姪のほうの衣通姫(軽大娘皇女)が亡くなったとされる地です。

 

もし、軽大娘皇女の伝説が残る地と伊予の久米の地に関係性が見出されるようなら、玉津島で山部赤人が歌を詠んだ理由も、聖武天皇時代の宮廷歌人だったからだけではないのかも? と妄想しました。

 

そこで、軽大娘皇女 - Wikipedia で知ることができた「姫原」に注目しました。「生涯」の項から引用します。

 

(前略)

同母兄であった木梨軽皇子と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の死後、木梨軽皇子は失脚、伊予国姫原へ流刑となる。軽大娘皇女はその後を追い、伊予の国で2人は自害して果てたという(衣通姫伝説)。

『日本書紀』においては2人の仲が発覚した直後の允恭天皇24年に軽大娘皇女本人だけが伊予姫原へ流されている。

また、同じ伊予国(現在の愛媛県四国中央市)の妻鳥(めんどり)には「東宮陵」=東宮さんとも呼ばれる=があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、松山市姫原に流罪された軽大娘皇女とは一度も逢うことなく、この地で果てた。との伝説が残る。

現在では愛媛県松山市姫原の軽之神社に軽皇子と共に祀られており、近くには兄妹の比翼塚が建てられている。
(後略 引用終わり)

 

 

元は久米氏の先祖が祀られていたと伝わる勝山と姫原が、南北に位置し、直線距離は2.5km程度の近さであることが分かりました。

阿沼美神社 - Wikipedia の阿沼美神社 (味酒町)の方の「歴史」の項から引用します。

社伝によれば、越智守興が天智天皇3年(664年)に創建したとされる。味耳命の後裔である久米氏の氏神でもあったとされる。もとは現在松山城の建つ勝山の頂上にあり、「勝山三島大明神」とも称していた。慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城を築く際、味酒村に移されたことから「味酒神社」と称するようになった。
(後略 引用終わり)

熊津(万葉仮名では久麻那利)における白村江の戦いの、翌年の創建なんですね。

久麻那利と久米。何か関係があるのでしょうか? 気になります。

 

今回、それ以上に気になったのは、こちらの系図です。(允恭天皇 - Wikipedia の「系譜」から一部お借りしました。)

 

 

 

世を逃れている二皇子(後の顕宗・仁賢天皇)を見つけ出し、皇子がいない清寧天皇の元に連れて行った伊予来目部小楯は、伊予で生活する軽大娘皇女の近くにも居たことになりそうです。

 

このことに気付いたとき、二つの妄想が湧き出てきました。

 

〇木梨軽皇子と軽大娘皇女との間に子供が生まれ、その子供は伊予来目部の助けを受けて成長したのでは?

 

〇顕宗天皇の別名が「来目稚子」(顕宗即位前紀)とあるのは、実は、伊予来目部が育てたのでは?

 

顕宗天皇(弘計王)は、兄である仁賢天皇(億計王)より先に即位しています。

 

顕宗天皇 - Wikipedia の「亡命と帰還」の項によれば、「皇太子の億計王は身分を明かした大功を理由として弟の弘計王に皇位(王位)を譲ろうとするが弘計王はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。」とのことです。

 

もし、顕宗天皇の実の父親が木梨軽皇子で、仁賢天皇の父親が市辺押磐皇子だったとすると、顕宗天皇のほうが清寧天皇と血縁が近いことになります。

 

…これらのことは、顕宗・仁賢天皇に実在を疑う説があることを知ったうえでの妄想なのですが、宝賀寿男氏は、「扶桑国の歴史的地理的な位置づけ」            

    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/husousinpo/husousinpo1.htm において、「僧・慧深の供述は、顕宗天皇在位とその時期の確認のための貴重な同時代資料と言えよう。」と書かれています。

そして、オケ・ヲケ(※顕宗・仁賢天皇)の叔母である飯豊青尊を、清寧皇后とみられるとしています。

 

 

今回の記事は、和歌山市和歌浦の玉津島神社と日前宮(日前神宮・國懸神宮)を繋いだ先が、遠里小野(旧名難波来目大井戸)ー金札宮(山城国紀伊郡石井郷久米村)と繋がることから書き始めました。

 

「志路木薬のライン」という題で記事を書いていたのですが、行き詰ったこともあり、こちらを先に仕上げました。

 

藤原俊成が祀った玉津嶋神社(福井県小浜市)は、金札宮と南北に位置することを考え合わせると、偶然のラインではないように思えてきましたので、次回あたりにご紹介したいと思っています。

 

昨今の天災についての報道に胸に痛めながら、ラインは、天災の兆しを知ろうとする努力の副産物ではないかと思うようになりました。

 

藤原俊成の息子である藤原定家と天文学との関係は、『明月記』よくある誤解 などで知ることができます。

そろそろ本稿を終わらせたいと思いますので、興味を持たれた方は、「明月記」について書かれた記事をお読みください。

 

それから、レイラインと太陽の軌跡 — astronomy-engineで天文計算を実装した話 - 輝く未来へ 秋葉原にオフィスを構える株式会社シーテン というページを見付けましたので、とりあえずメモしておきます。