『破戒』に対する共感と反感(2)
今回は、前回紹介した『破戒』に対する被差別部落の人たちの反応を記した三つの文章のうち、(2)をもう一度引用し、それに対する私の考えを述べてみることとする。
H君――
実際、私は、藤村の小説『破戒』が映画になると聞いて驚きました。「どうしてあんなもを」と反問して、「あのヒューマニティ、あの人間的なものに打たれるんですよ」と答えられた時、私は驚きを超えて、一種の恐ろしさを感じました。
というのは、私は今日、日本の人民がうち建てようとしている民主主義は、小説『破戒』を縫いとっているあの、小便臭い人道主義の否定の上に立つものだと確信しているからです。そしてまた、あの藤村の、あの人間的なものこそ逆に、今日の非人間的なものの一切を産み出しているものだと信じるからであります。・・・
H君――
あなたは小説『破戒』の芸術的価値を高く評価しておられましたけれど、私たち芸術の門外漢にとっては、小説『破戒』はむしろ存在してくれない方がよの(ママ)です。私は小説『破戒』を書斎から店頭から掘りだしてきて、一束にして焚書の刑に処したいとさえ考え勝ちです。・・・
芸術評価の問題は別として、小説『破戒』を貫いている藤村の差別観は、主人公丑松に決定的に顕われてきます。被圧迫階級としての自己を意識しえない丑松は、自己の悲劇を、社会、経済関係に見ることができないで、結局自らを蔑すむ卑屈の世界から飛躍することができないままに、日本を離れて、束縛のないテキサスに逃れることになります。丑松は自己満足によって新しい生を肯定することができたとしても(観念的に)、一体千人の丑松はどうなるのでしょうか。そして、その数三百万といわれる被圧迫部落身は―
H君――
さきほどの疑問をふたたび提出しましょう。小説『破戒』をそのまま再現した映画『破戒』から、日本の人民は一体なにを汲みとりうるでしようか。
丑松の悲劇に安直な同情の涙を流したあとで「部落民でなくてよかった」と思い直し、それからもう一度差別を再確認して帰ってゆくでしょう。
藤村が小説『破戒』を描いたのも人間的な同情でした。拍手を送った読者も人間的な同情をよせるでしょう。そして、映画『破戒』のスクリーンもうまくいって人間的な同情を捲き起すこともありうるでしよう。しかし、この人間的な同情から生れるものはなんでしよう。またしても差別と差別と差別と。人間的な同情は、今日以後もう止しましよう。人間的な同情なんて優越するものの差別の言葉にしかすぎないではありませんか。
(『部落解放への三十年』近代思想社、1948年、183―186頁)
上記の文章は、松本治一郎・部落解放全国委員会の名前で出された『部落解放への三十年』の中に収録されている「製作者H君への公開状」(以下、「公開状」と略す)である。この「公開状」は、『破戒』の映画化の計画を進めていた東宝のプロデューサー筈見恒夫(「公開状」では「H君」)に意見を求められた部落解放全国委員会常任中央委員の朝田善之助が手紙の形で筈見に送ったもので、実際に朝田の考えをまとめて文章にしたのは、朝田が「わたしたちのメンバー」と呼び、のちに「オール・ロマンス差別糾弾要項」を執筆することになる京都市役所に勤務していた中川忠次であった(1)。この公開状は、1946年の11月に発行された部落解放近畿協議会の『部落解放』創刊号に公表されたものであったが、松本治一郎・部落解放全国委員会『部落解放への三十年』に収録されたことにより、師岡佑行が指摘しているように、「その発表の形式からいって、解放委員会の見解としてうけとめられたにちがいなかった」(2)。
朝田らがこの「公開状」の中で強く主張したのは、藤村が部落に対してぬきがたい差別観を持っていたということであり、そ
の根拠としてあげたのが、1923年4月4日の『読売新聞』に掲載された藤村の「眼醒めたものの悲しみ」(雑誌『文庫』
1906年6月号に掲載された「山国の新平民」の誤り。以下、引用文中のカッコ内は原文の記述―宮本)のなかの「つまりあ
あいう風に世の中から嫌われている特別な種族ですから、独立した実業という方面には随分これ迄でも発達しえられたのでせう
けれど、知識と云う方の側にさういう種類(種族)が発達し得るかどうか、それが私の深い興味を惹いたのでした(あった)」
という一節だった。そして、朝田らは、このような「部落民はやはり世の中から嫌われる特別の種族」という「差別観」に立
った藤村には、「部落民の苦悩が理解できるはずはありません。テーマの成熟にともなって、彼の胸に具体化され、描きあげら
れてゆく主人公が、部落民の生々しい苦しみで縫いとられないことは当然です。」と批判し、前回紹介した井元とはまったく正
反対の評価を下したのだった。
たしかに、作家の川元祥一が的確に指摘している通り、丑松が生徒と教員たちに自分の身分を告白する場面で描かれているよ
うな姿は、部落民にとって「正視しえないし、冷静に読むことはできない。これ程の凌辱をなげつけられてたまるか。丑松よ土
下座だけはよしてくれ。という思いが藤村の言葉に向っていく」(3)。したがって、朝田らが「私は小説『破戒』を書斎から
店頭から掘りだしてきて、一束にして焚書の刑に処したいとさえ考え勝ちです。」と思うのは当然のことであり、また、藤村の
「人間的な同情」に関する指摘も、藤村の限界を見すえた部落の側からの鋭い批判といえるものであった。
しかし、井元の発言のところで述べたように、丑松の「身元あばき」に対する不安やおびえ、恐怖、「素性」を告白するか、告白しないかと激しく揺れ動く心など、「部落民の生々しい苦しみ」を藤村は正確に掴んでいたのであり、それゆえに「諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれた」のだった。
さらにまた、丑松は、土屋銀之助の「君のことを新平民だろうなんて――実に途方も無いことを言う人も有れば有るものだ」
という発言に対して「僕が新平民だとしたところで、一向差し支えは無いじゃないか」ときりかえし、勝野文平の「猪子蓮太郎
だなんて言ったつて、高が穢多じゃないか」「あんな下等人種の中から碌なものの出よう筈がないさ」という差別発言に対して
も、「それが君、どうした」、「噫、開化した高尚な人は、予め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業等に従事している。野蛮
な、下等な人種の悲しさ、猪子先生などはそんな成功を夢にも見られない。はじめから野末の露と消える覚悟だ。死を決して
人生の戦場に立っているのだ。その概然として心意気は――ははははは、悲し
いしゃないか、勇ましいじゃないか」と反論し、精いっぱいの抵抗を試みている。
このような「テーマの成熟にともなって」、猪子の死に直面した丑松は、「我は穢多を恥とせず」、「我は穢多なり」という
猪子の思想を実行しようと決意するのだったが、土方鐵が「文学作品として、丁寧に読んでいくと、作品の必然としての、丑松像から、この告白の場面での、ことばや、姿勢・態度は大きくはずれている」(4)と指摘しているように、丑松は、「私はその卑しい穢多の一人です」と告白し、板敷に額を伏せて許しを乞うみじめな姿においてしか、その決意を実現することができなかった。このような「作品のそのものの、当然の帰結を、主人公が裏切っている」(5)という『破戒』という作品の本質が浮きぼりになっている問題については、藤村が「差別観」をもって書いたとだけではいいきれないものがあり、『破戒』が書かれた日露戦争下という時代の状況とともに、「異邦人の末」ではなく、「古の武士の落人」で穢れていない血統で部落の「お頭」と言われる「家柄」という出自や、「国語や地理を教へる」「首座教員」という丑松の立場の設定、さらには部落民衆に注ぐ丑松の差別的な視線などの重要な問題がそこに横たわっていると思われる。
注
(1)朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』(朝日新聞社、1979年、1
72頁)。
(2)師岡佑行『戦後部落解放論争史』第2巻、柘植書房、1981年、15
2頁。
(3)川元祥一『部落の心が語られるとき』(明治図書、1977年、146頁)。
(4)土方鐵『解放文学の土壌―部落差別と表現―』(明石書店、1987年、
93頁)。
(5)同 上。