第2回 『破戒』に対する共感と反感 ①

前回は島崎藤村の『破戒』における「同情」の問題に関する志賀直哉の批判を紹介したが、それでは、そのような「同情」にもとづいて書かれた『破戒』を、被差別部落の人たちはどのように受けとめたのであろうか。よく知られている三つの文章を紹介し、『破戒』を考える場合の有意義な論点をさらに浮きぼりにしてみたい。

 

(1) 諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれたことがあると思ふ。この作品は、申す迄もなく部落問題を取扱ひ、しかも解放的思想と理解に充ちあふれたものである。しかも単にそれ許りでなく、明治文学史上にも画期的意義を有する不朽の作品であり、貴重なる芸術品である。・・・

(部落問題研究所編・刊『水平運動史の研究』第4巻資料篇下、1972年、247頁)

 

(2)H君――

 実際、私は、藤村の小説『破戒』が映画になると聞いて驚きました。「どうしてあんなもを」と反問して、「あのヒューマニティ、あの人間的なものに打たれるんですよ」と答えられた時、私は驚きを超えて、一種の恐ろしさを感じました。

 というのは、私は今日、日本の人民がうち建てようとしている民主主義は、小説『破戒』を縫いとっているあの、小便臭い人道主義の否定の上に立つものだと確信しているからです。そしてまた、あの藤村の、あの人間的なものこそ逆に、今日の非人間的なものの一切を産み出しているものだと信じるからであります。・・・

 

H君――

 あなたは小説『破戒』の芸術的価値を高く評価しておられましたけれど、私たち芸術の門外漢にとっては、小説『破戒』はむしろ存在してくれない方がよの(ママ)です。私は小説『破戒』を書斎から店頭から掘りだしてきて、一束にして焚書の刑に処したいとさえ考え勝ちです。・・・

 

 芸術評価の問題は別として、小説『破戒』を貫いている藤村の差別観は、主人公丑松に決定的に顕われてきます。被圧迫階級

としての自己を意識しえない丑松は、自己の悲劇を、社会、経済関係に見ることができないで、結局自らを蔑すむ卑屈の世界か

ら飛躍することができないままに、日本を離れて、束縛のないテキサスに逃れることになります。丑松は自己満足によって新し

い生を肯定することができたとしても(観念的に)、一体千人の丑松はどうなるのでしょうか。そして、その数三百万といわれ

る被圧迫部落身は―

 

 H君――

 さきほどの疑問をふたたび提出しましょう。小説『破戒』をそのまま再現した映画『破戒』から、日本の人民は一体なにを汲みとりうるでしようか。

 丑松の悲劇に安直な同情の涙を流したあとで「部落民でなくてよかった」と思い直し、それからもう一度差別を再確認して帰ってゆくでしょう。

藤村が小説『破戒』を描いたのも人間的な同情でした。拍手を送った読者も人間的な同情をよせるでしょう。そして、映画『破戒』のスクリーンもうまくいって人間的な同情を捲き起すこともありうるでしよう。しかし、この人間的な同情から生れるものはなんでしよう。またしても差別と差別と差別と。人間的な同情は、今日以後もう止しましよう。人間的な同情なんて優越するものの差別の言葉にしかすぎないではありませんか。

 (『部落解放への三十年』近代思想社、1948年、183―186頁)

 

(3) 『破戒』は明治39年に出版されたが、この辺の人はずっと後になってから『破戒』のことを知ったな。こういう純文学は格調が高いからわしらの生活には縁がない。文字や文学に親しむちゅうこと少ないもんでな。藤村は『破戒』を書くにあたって、何回か荒堀に来ていたそうだが、書いてしまったら一ぺんも足を向けたことがない。部落調査にくる学生さんみたいなもんで。こういう衆には腹が立つ。

 わしは若い頃、『破戒』を読んで、藤村のことをかたきのように思ったさ。ざっくばらんに〈橋むこう〉なんて、書かなくたってよいじゃあないか。われわれを踏み台にして名をなし、いい生活をしていやなやつだと思ったね。部落ではえらい関心を持つもんはいませんな。その後、この小説から部落のことがはやって、小諸の懐古園に来た人に〈橋むこうはどごだ〉とたずねられたことが何度もあった。わしは癪にさわったので、ぜんぜんそっぽの方を教えてやったもんだ。・・・

(『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老聞き書き』三一書房、1972年、84頁)

 

 (1)の文章は、1938年の全国水平社第15回大会で、当時絶版となっていた「『破戒』の再版支持」のための緊急動議が総本部によって提出された際の書記長・井元麟之の説明である。この緊急動議は、藤村から全水本部に宛てた「此のたび、『藤村全集』の定本版の発行に当りぜひ『破戒』もその中に入れたい念望であるが万一同書のうち時代に適せぬ言葉があるのは訂正したいと思ふ。大会に於て各地代表の方の意向も聞き相談して戴けないだらうか」という「親書」に応えたもので、再版における「詳細な具体的方法を総本部に一任としたい」ということを付け加えて、「満場一致可決」された。

このような全国水平社の「『破戒』の再版支持」の背景には、高榮蘭が「『破戒』の再刊を通し、『挙国一致』のための国民融和をはかろうとする狙いがあった」(1)と指摘しているように、1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争の全面化に対応するための「『挙国一致』に「積極的に参加せねばならぬ」という水平社の「非常時に於ける運動方針」(1937年9月)があった。そのために、水平社側と藤村・出版社と協議を経て再版された『破戒』では、総力戦遂行に際して障害となる恐れがある部落に対する人種主義的な記述は、他のことばに言い換えられたり、削除されたりするなどして、除去されることになった(2)。

 こうしたことからすると、「『破戒』の再版支持」の緊急動議での井元の発言には、多分に政治的な意味合いが含まれていることを考慮に入れる必要があるが、「諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれたことがあると思ふ。」という発言は、井元自身の体験に基づくものであった。井元は高等小学校二年の時に書いた「煩悶」という題の作文について、次のように語っている(3)。

   「煩悶」という漢字をね、覚えたんですよ。で、「煩悶」という題で作文を書きましてね。自分がよそへ行った場合には、自分の部落の住所を言ってはならない、自分のところを隠して近所の町名を言わなければならないとおじたちに言われている。自分たちの町は福岡市に合併して立派な町名があるのに、どうしていけないのだろうか。それは私が、えたの子孫だからだろうか。それを何故隠さなければならないのだろうか。それが私の「煩悶」だ、というような文章を書いたのです。僕の作文は、よく先生がモデルケースとして皆の前で読むんですよ。だから、添え書きをして「これは決して皆の前で読まないで下さい」と出しました。

 『破戒』で丑松は「世に出て身を立てる穢多の子の秘訣」として「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれとは自白けるな、一旦の憤怒悲愛にこの戒を忘れたたら、その時こそ社会(よのなか)か捨てられると思え」と父に教えられるが、井元が発言しているように、それは丑松だけのことではなかった。

 このような「えたの子孫だから」という「血筋」を理由にされて「社会から捨てられる」という当時の状況について、全国水平社創立宣言の起草者・西光万吉は、「よく糾弾について水平社同人が脅迫したなどといわれる」ことに対する反論の中で、こう述べている(4)。

   われらが脅迫がましく糾弾に行くというよりも、むしろわれらがエタといわれたそのことばに、大きな脅迫を感ずるがゆえに糾弾に行くのだ。世間の人々が、なんでもないようにいうその侮辱的なことばは、じつにわれらにとってはもっともおそるべき脅迫ではないか。そのことばは、われらをいかに惨酷に脅迫するであろうか。活きながら葬ってやろうか。心臓をえぐってやろうか。妻も財産もうばってやろうか。毒を盛ってやろうか。池へおいこんでやろうか。レールにおしつけてやろうか。

   まったくわれらは、そのために妻をうばわれ、子を失い、町をおわれ、家をすい、名をけがされた。またみずからの死を願うた。

   これが脅迫ではないか。

   今の世に、われらに対する差別的な言辞ほど惨酷な、深刻な脅迫が他にあろうか。得手勝手な、顕微鏡のばけものどもには、とてもこの脅迫の残酷さがわからない。

 このような「惨酷な脅迫」ともいえる差別の現実が存在し、そこから身を守る方策として採られていたのが、「隠せ」という「身元隠し戦略」(5)であった。しかし、この「身元隠し戦略」には限度があった。ひとたび意図的に「身元あばき」をする者が現われると一挙に崩壊するだけでなく、自分自身が身元を隠さねばならない人物であることを忘れるわけにはいかず、「それを告白するか、あるいは告白せずに罪悪感を覚えるか、いずれかに追い込まれる」(6)ということにもなる。この点について、『破戒』は、「身元あばき」をする者の醜い姿をリアルに描くとともに、最初は父から「戒め」として強制的に、次には差別事件に遭遇して自ら進んで「身元隠し戦略」を採らざるをえなかった丑松の恐怖、おびえ、絶望を見事に表現していた。このことが丑松と共通の体験を持っていたであろう「諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれた」理由であったと思われる。

 しかし、後に詳しく触れるように、「彼自身のなかにも抜きがたい差別観のあること」(7)が指摘されている藤村が、部落民に対する内在的な理解を通して、このような部落民の葛藤を描くことができたとは考えにくい。野間宏は「今日『破戒』の丑松が部落民としての肉体を持っていないし、心理も持っていないと評価されてきているが、この点から考えても丑松は部落民出身の丑松というよりも、むしろ藤村が自分の内面を託すために作りあげられた人物にすぎないとさえいうこができるのである。」(8)と述べているが、とするならば、身元があばかれることに対する不安、恐怖、おびえ、絶望という丑松の感情は、単なる見聞や観察をこえた藤村その人が体験してきたものであったといえるだろう。したがって、『破戒』の主題を明らかにするためには、平野謙が行っているように(9)、そうした藤村の体験を丹念に調べたうえで、それとの関連を掘り下げていく必要があると思われる。

 

(1)高榮蘭「総力戦と『破戒』の改定」(『「戦後」というイデオロギー 歴史/記憶/文化』藤原書店、2010年、

   232頁)。

(2)改定版における言い換えや削除の部分については、北小路健「『破戒』と差別問題」(新潮文庫版『破戒』)に一覧表が

   掲載されている。

(3)福田雅子『証言・全国水平社』日本放送出版協会、1985年、47頁)。

(4)西光万吉「徹底的糾弾の妥当性」(『水平新聞』4号、1924年9月20日。『西光万吉集』解放出版社、1990

   年、57頁)。

(5)「身元隠し戦略」については、野口道彦「部落解放の戦略―アイデンティティのゆくえ―」(『部落問題のパラダイム転

   換』明石書店、2000年)に詳しく論じられている。

(6)野口道彦、前掲論文。

(7)北小路健、前掲論文。

(8)野間宏「『破戒』について」(岩波文庫『破戒』解説、1956年。『解放の文学 その根元―野間宏評論・講演・対話

   集』解放出版社、1988年、54頁)。

(9)平野謙「島崎藤村 人と文学」(新潮文庫版『破戒』解説)。平野の指摘については後に詳しく取りあげる。