『破戒』に対する共感と反感(3)

今回は、前々回に紹介した『破戒』に対する被差別部落の人たちの反応を記した三つの文章のうち、(3)をもう一度引用し、藤村の他者感覚の問題について、私の考えを述べてみることとする。

 

『破戒』は明治39年に出版されたが、この辺の人はずっと後になってから『破戒』のことを知ったな。こういう純文学は格調が高いからわしらの生活には縁がない。文字や文学に親しむちゅうこと少ないもんでな。藤村は『破戒』を書くにあたって、何回か荒堀に来ていたそうだが、書いてしまったら一ぺんも足を向けたことがない。部落調査にくる学生さんみたいなもんで。こういう衆には腹が立つ。

 わしは若い頃、『破戒』を読んで、藤村のことをかたきのように思った

さ。ざっくばらんに〈橋むこう〉なんて、書かなくたってよいじゃあないか。われわれを踏み台にして名をなし、いい生活をしていやなやつだと思ったね。部落ではえらい関心を持つもんはいませんな。その後、この小説から部落のことがはやって、小諸の懐古園に来た人に〈橋むこうはどごだ〉とたずねられたことが何度もあった。わしは癪にさわったので、ぜんぜんそっぽの方を教えてやったもんだ。・・・(『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老聞き書き』三一書房、1972年、84頁)

 

上記の文章は、児童文学者の柴田道子が長野県の部落を回って、古老から聞き取った話をまとめた『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老の聞き書き』(三一書房、1973年。ちくま文庫、2019年)に収められている小諸市の荒堀部落の高橋国松(当時71歳)の「語り」である。高橋が語っているように、荒堀部落は『破戒』のモデルになったところで、『破戒』には、部落名と場所が記載された「千曲川流域之図」が添えられていた。

 このような文学における地図の添付という手法は、1905年1月に藤村と親しい交流のあった田山花袋が博文館から出版した日露戦争の従軍日記『第二従軍日記』で行なっており、花袋の創意によるものと指摘されている(1)。その後、花袋は、1909年に佐倉書房から出版した書き下ろし長編小説『田舎教師』でも巻頭に地図を添えており、その理由について「巻頭に入れた地図は、足利で生れ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が至らなかった青年の一生といふことを思はせたいと思って挿んだ」(『東京の三十年』博文館、1917年、425頁)と述べている。

 『破戒』の場合も、花袋と同じように、信州において丑松が刻んだ足跡を「思はせたいと思って挿んだ」ものと思われるが、それだけではなく、花袋が従軍記者として戦地に赴いたことに心を動かされた藤村が「従軍したつもりで、あの長編『破戒』の最初の章を書き始めた」(同前、307頁)と言われていることからすると、藤村が「人種と人種の競争」(『破戒』97頁)とも表現した部落差別をめぐる丑松の戦場の地図という思いも込められていたのかもしれない。

 しかし、部落の実名と位置が記載されたその地図には、その「人種と人種の競争」で実害を被る部落の人たちのことはまった

く考慮されておらず、そのことは本文中における、モデルとなった部落に多い「苗字」の使用にも現われていた。『破戒』に

「文学者としての自己の運命を賭けた藤村の意気込み」によるものであったに違いないが、高橋が「藤村は『破戒』を書くにあ

たって、何回か荒堀に来ていたそうだが、書いてしまったら一ぺんも足を向けたことがない。部落調査にくる学生さんみたい

に、こういう衆には腹が立つ。」「わしは若い頃、『破戒』を読んで、藤村のことをかたきのように思ったさ。ざっくばらんに

〈橋むこう〉なんて、書かなくたってよいじゃあないか。」と憤慨しているように、そこには身元をさらされる者の苦しみや痛

みに対する想像力が決定的に欠落していた。

その後も、「北海道の方に行ってアイヌの間に入って働いていた」部落の青年が『破戒』を読んで藤村宅へ訪れ、「素性を打ち明け」、「部落生れということのために(中学校の―宮本)同級の学生に悪(にく)まれて雪の中に倒され、さんざん胸の上あたりを靴で踏まれた」という「悲惨な過去」を語り、「もう侮辱の眼を持って見られているのではないかというような、そういう意識が残ってきて困る」と訴えたことに対して、「君らはまずそういうヒガミを第一に捨てるんだね、見たまえ、私などは何ともおもっていやしないじゃないか」(2)と平然と言ってのけているように、藤村は自らの差別意識に対する鈍感さとともに、差別された者の苦悩や痛みを内側から感じとる力が欠けていることに気づくことはなかった。紀州新宮で部落差別問題に取り組み、『破戒』が出版されてから5年後の1911年に大逆事件で処刑された大石誠之助(大石ドクトル)が「医療費を払えぬ貧乏人に、言葉にして『金がない』と言うには羞かしいだろうから、硝子窓を三回トントントンと叩いて相図しろと、教え、そうすればただで貧乏人を診察した」(3)のとは対照的である。

 このような困難な立場に置かれている他者に対する藤村の感性のありようは、土方鐵が「丑松は、あの屈辱的な告白のあと、お志保をたずねている。(略)ならばどうして(同じ部落民の三年生の―宮本)仙太に、声をかけてやらないのか。それが不思議でならない。/とくに、丑松は、あの屈辱的な、下宿追い出しを目撃した、その大日向の求めで、アメリカのテキサスへいこうというのである。当時の社会では、極めて可能性が乏しいと思うが、差別をこえてお志保と結婚しようと、いうわけだから、丑松は、少年仙太にこそ、声をかけてやるのが、人間として、自然なのではないか。/こういったところに、藤村の人間の捉えかたに、欠点をみることができる。」(4)と指摘しているように、作品にも大きな影響を及ぼしている。生徒の前で「私はその卑しい穢多の一人です」と言い、隠し続けてきたことを「許して下さい」と謝り、板敷の上へ跪くという、あの丑松の告白の場面も、教室の中にいる眼の前の生徒たち、また、この学校にこれからも通い続けるであろう仙太のことを配慮しない、自己の宿命への陶酔といえるものではなかっただろうか。

 

(1)勝又正直「地図の上の主体―田山花袋『田舎教師』を読む」日本社会学会編『社会学評論』49巻1号、1998年6

      月)

(2)島崎藤村「眼醒めたものの悲しみ」(『読売新聞』1923年4月4日。沖浦和光編『水平=人の世に光あれ』社会評

   論社、1991年、245頁)。

(3)中上健次「私の中の日本人―大石誠之助」(初出『波』1977年4月号。『中上健次エッセイ撰集』恒文社21、

   2001年、224頁)。

(4)土方鐵『解放文学の土壌 部落差別と表現』(明石書店、1987年、90頁)。