気ままに吐露トロ -8ページ目

気ままに吐露トロ

あれこれ好きなことを、覚え書き。

「今度ね、イジョン先輩のお家へご挨拶に行くことになったの」
カウルがそうジャンディに切り出したのは、ジュンピョとの騒動から数ヶ月経った頃だった。
ジュンピョは4年という期限を守れず、結果的には5年半ほどを費やしたことになる。
イジョンも、4、5年と言っていたよりもわずかに長引き、結局ジュンピョと帰国を前後するくらいになった。
けれど、結果として付き合っていたジャンディとジュンピョは離れることを(ジャンディが一方的に)選び、恋人未満だったカウルとイジョンは距離を近くした。
とはいえ、ジャンディとカウルの関係が変わるわけではなく、医大生と幼稚園の先生という立場になった今でも、時間が合えば会って話に花を咲かせる。
そこには近況報告から家庭事情、恋愛状況まで多岐にわたる話題に隠さなければならない禁忌はなく、家族にさえ話せないことでも共有出来るのだ。
「大丈夫、なの?」
本人の才能はもちろんだが、イジョンが引き継ぐだろうその財団は、資産はもちろん労苦も莫大なものだろうし、畑違いとはいえ神話グループの後継者という立場のジュンピョとの暮らしの格差で苦労してきたジャンディにとって、親友に訪れるべき危機は見過ごせるものではない。
しかも以前、イジョンに騙される形で父親と会わせられ、いい印象などないはずだ。
「私はまだ心配だけど…でも、ちゃんと焼いてあげるからって言われたから」
「は?焼いて…?」
「うん、愛してもらうためなら、どんなに辛いことがあっても、その後の幸せを思えば我慢出来るから」
カウルのいう意味を理解出来なかったジャンディだけれど、ただその幸せそうな顔を見れば、F4の冷血カサノヴァと言われたイジョンが、カウルのために確執のあった家族との関係に最善を尽くそうとしてくれていることが分かり、うれしくなった。
「カウルが幸せになれるなら、私は全力で応援するよ」
ファイティン!とガッツポーズを小さく決めれば、カウルは少し皮肉げな笑いを見せた。
「頑張るのは、ジャンディの方じゃないの?」
「え?」
素で驚くジャンディに、カウルは軽くため息をついた。
「先輩たちが、苦労するはずよね」
「な、何?先輩?」
話題転換についてこれなかったらしいジャンディが慌てるのに対し、カウルは終始悠長な態度を保っている。
「ジャンディのおかげで、F4と知り合いになれたし、そのせいで迷惑も恩恵もあって、良かったのか悪かったのか分かんないけど」
ジュンピョの、庶民には考えられないようなジャンディへの対応のおまけとして、カウルも幾度か巻き込まれた。
そのおかげで今イジョンと将来を考えられるようになったのではあるが、けれど切欠を作ってくれた幼馴染みで親友であるジャンディが幸せにならなければ決して自分も本当に幸せにはなれないと、本気で思っている。
「そろそろ自分の気持ちに素直になってもいいんじゃない?」
「カウル?」

学校以外はバイト三昧だった高校時代は、忙しくも、それでも同じお粥屋で働いていたこともあり話す時間はそれなりにあった。
けれどジャンディが医大を目指すことになり、カウルは保育士を選択して短大に入ってからは、お粥屋のバイトも頻繁でなくなり、ジャンディが医大に入るのと同時にカウルが短大を卒業して就職したため、なかなか会えなくなってしまっているのが現状である。
それでも週末や平日の夜などで都合が合えば、会ってお互いの話をする。
カウルとしては、奇しくも同じ期間、相手の帰りを待っていたことになるジャンディが、自分は思いを実らせることが出来たのに対し、別れることを選んだことが寂しかったこともある。
「ジュンピョ先輩とは、ジャンディが選んでもう終わってしまったけど」
それでも、嫌いになったわけでも、さんざん嫌がらせをした彼の母親の所為でもなく、ジャンディが将来を見据えての結論だから反対する理由はない。
「そろそろ素直になってもいいんじゃない?」
「え?」
「ジフ先輩に」
もともとカウルは、ジャンディが神話高に転入した時からずっと話を聞いてきたから、ジャンディの心にいる人を本人よりも知っていた。
それでもその人には思いを寄せる人がおり、ジュンピョとの関係もいつの間にか良好になりつつあって、複雑ながらもジャンディが幸せならと見守ってきたのだ。
結果、ジャンディはジュンピョとの未来をきっぱりと断り、新しく見付けた夢に向かって進むことを決めた。
同時に、ジフが先導するようにジャンディの進みたい道へと軌道を変え、高校時代よりもさらに近いところで寄り添ってくれていることも、本人は気付かないけれども話を聞いているうちにカウルはその想いを深さを感じていた。
「でも、ジフ先輩にはソヒョンさんがいらっしゃるし、そうでなくても庶民な私とは釣り合わないし」
それがジャンディの心にブレーキをかけていることなのだと、カウルはそっとため息をついた。
出会った時にはすでに、ジフの心の中にはソヒョンという、誰から見ても完璧な女性がいた。
しかも、それ以前からジャンディにとってソヒョンは憧れの対象であり、だからこそ対抗するなど思いもよらなかった。
また、ジュンピョと付き合う間に、カン会長はもちろん神話高の生徒たちからも、セレブと庶民の差をさんざん揶揄され辛酸を嘗めてきているから、F4ではなくとも家庭環境の違いをまず考えてしまうクセがついてしまっている。
ウビンとイジョン経由でジャンディとジフのおおよそを聞いて、さらにずっとジャンディと一緒にいて、ジャンディ本人には自覚はなさそうだけれどそれでもずっとジフに思いを寄せていることも、またジャンディのためならとカウルに相談に来たこともあるジフがどれほどジャンディを大切に思っているかも分かっているから、なんとか力になりたいと思っていたのだ。
「そのソヒョンさんと、ジフ先輩、今でも会ってるの?」
「え、どうかな」
「最後に会ったのって、フランスへ行かれた時でしょ?」
「それは私が、であって、ジフ先輩は…」
「フランスへ追っていった、でもすぐに帰ってきた」
「…うん」
「その後は?ソヒョンさんが帰ってきたり、ジフ先輩がフランスへ行ったり?」
「それは知らないけど…」
「少なくとも、ジャンディはおふたりがちゃんと会ったりしてるのを知らないってことよね?」
「でもほら、電話とかメールとか」
「ジュンピョ先輩やイジョン先輩よりも早く国外へ行かれて、全然会ったりしてないってことは、そういうことなんじゃない?」
カウルの話の進行の仕方は、実はイジョン仕込みである。
カウルは神話高に通っていたわけでもなく、F4(というか主にジュンピョ)とジャンディの所為で振り回されていただけで、ジャンディから愚痴は聞かされていても、内情を知っているわけではない。
ジャンディからの話でおおよそのことを知り、イジョンとウビンから補足され、ジフの気持ちはすでに固まってはいるけれど、ジャンディがどうしてもあと一歩を踏み出せないでいるということで、幼馴染みで親友という、セレブで異性であるF4とは違う面から後押しをしたかったのだ。
「でも、やっぱり特別な人だし」
「それは、ジャンディにとってのジュンピョ先輩も同じでしょ?」
確かにジフは、『忘れなくていい。忘れる必要もない』と言ってくれていた。
好きだったことを忘れなくてもいい?
「過去に忘れられないくらい好きな人がいたって、でも今一番大切な人を大切にすればいいんじゃないかな」
もちろん私だって、イジョン先輩の過去は知ってるから、不安にもなるしヤキモチも焼くけど。
今、先輩は私を一番大事にしてくれるから、大丈夫。
そう笑うカウルに、ジャンディはいつの間にか先に大人になっていた親友に驚いたのだった。

「それにね、庶民とかセレブとか、ジュンピョ先輩の時に大変な思いをしてるの知ってるし、私もイジョン先輩のお家とはこれからどうなるか分からないから、簡単に気にしなくていいとは言えないけど」
イジョンだって、もともとはユネスコに選ばれるほどの才能の持ち主なのだ。
さらに背景はウソン博物館の館主ユ・ソンフェを祖父に持ち、受け継ぐ資産は庶民には考えられないほどである。
一時的に故障のために自暴自棄になったこともあったが、今回スウェーデンでの努力により、数年遅れたものの予定されていたレールに戻ることが出来たと言えるだろう。
そんな人が相手で、一般家庭に育ったカウルが受け入れられるかどうかは不明だが、イジョンの父親にはイジョンを更正させた存在としてそれなりに好意的に扱ってもらえていることもあり、平坦とは言えないまでも、光はあるらしい。
「ジフ先輩のとこは、問題ないでしょ?」
ジフの祖父が元大統領であることは周知の事実ではあってももう何年も前のことであり、現在は表に出ることはほとんどなく、芸術・美術を主軸に活動するスアン財団の経営者としてその名が挙がるくらいで、本人は趣味のように小さな診療所の医師であることを楽しんでいる。
もちろん、ヨーロッパにはサッカークラブ、アメリカには大リーグのチームすらをも持つ財団はイジョンのところと遜色ないほどの規模であるし、だからこそジフもF4のひとりとして名を挙げられているのであるが、基本のスタンスが違うのだ。
ジフの祖父ソギョンが現役の大統領であった頃の厨房長の息子が、ジャンディのバイト先のお粥屋のオーナーであったこと。
ジャンディとF4、そしてジフとの関係。
ジフとジャンディの複雑な関係を知る以前に、ソギョンがすでにジャンディを『蓮の花』に例えたように気に入ったこと。
むしろ、感情豊かなジャンディには、無愛想なジフの相手にはもったいなくて反対だと言ったこともあるほどで、ジュンピョの時とは比べられないほど、好意的に受け入れてもらっているのだ。
だからこそ、ジャンディとしては、不安になる。
最悪を知っているから、恵まれすぎていることを信じられない。
良すぎる事態の裏には、きっと何か策略があるのだろう、おじいさんとジフに限ってはそれはないと信じつつも、他の人の目もあると考えてしまうのは、カン会長による嫌がらせの手が伸びたこともあるこれまでの経験によるものだ。
「でも、そういう心配、ジフ先輩にも必要なのかな」
ジャンディの不安は、セレブと付き合う庶民としては分かりすぎるほどで、しかもジャンディはそれ以上に大変な思いをしてきたのだから、カウルとしては疑心暗鬼になるのも仕方がないと思うのだけれど。
でも、カウルの知る限り、ジフ先輩はいつでも、ジャンディの気持ちを大切にしてきてくれていたはずだ。
「でも…」
「まだ何か?」
「先輩と私じゃ、やっぱり違いすぎるよ」

英才教育を受けてきたF4は、高校時で知識や教養としては大学を卒業できるほどの学力を身につけていた。
足りないのは社会経験だけで、ジュンピョは父親が倒れる以前からすでにビジネスにも駆り出されていたし、イジョンも陶芸家として名声を手にしており、ウビンも後継者として公の場に姿を見せることもあった。
その点、ジフは家庭の事情や心を閉ざしてしまった過去から、教育は同じように受けてはいたが、比較的自由に過ごすことが許されていた。
それを楽しんでいたかどうかはともかく、ソヒョンが白馬を贈ってくれたから乗馬を嗜み、芸術に造詣が深かった両親の血を引くからか、バイオリンやピアノをはじめ、たいていの楽器ならば使えるし、オーケストラの指揮さえもこなせる音楽的な才能をも持っている。
学力的にもおそらくF4一であり、観察・洞察やその先を見通す力は他の追随を許さない。
ただそれを、本人が自覚しているかどうかが不明であり、しかも限定された範囲でしか発揮されないことが難点でもあった。
そして、カウルはともかく幼馴染みであるF3やソヒョンからしてみれば、最初から、ジフ本人が気付かなくてもジャンディに傾倒している気持ちは明白で、だからこそジュンピョは焦ったし、ソヒョンは安心して大切な弟をジャンディに託していったのだ。
けれど、ジャンディにとっては以前のジフを知らないから、口数は少ないけれど優しい人という印象を持ってしまい、さらにはソヒョンという完璧な恋人がいるのだから自分は到底かなうわけがなく、親友と付き合っている後輩として良くしてくれているのだと思い込んでしまった。
おそらくソヒョンやジュニが聞いたら『ジフが優しいって?』と大笑いをしただろうし、F3としても、ジフが初めて赤札の対象になった女子を庇うような発言をしたことに驚いていたことを思い出しただろう。
結局、ジャンディとしてはその思い込みが、今でもずっと続いているわけで。
「私が自信を持って言いはれるのは、雑草魂でへこたれないことだけだから」
貧乏暮らしで習い事など出来るはずもなく、素養や教養などあるはずがない。
なんとか2浪で医大には入れたものの、ジフの手助けのおかげで留年しないでいられるだけで、ジフが卒業してしまえば、進級はもちろん周囲からの対応もどうなるかも不明で。
頑張ってどうにか出来るならば、どれだけでも頑張れる自信はあるし、ジフのおじいさんの診療所という目標が出来ただけでも、とにかくまずは卒業しなければと気を引き締める機会にもなった。
「きっと先輩も、卒業したあとの私が心配で、言ってくれたんだと思う」
留年も移籍も、あまりにもさり気なく言われたから本気にしそうになったけれど、それはきっとジフの優しさなんだとジャンディは思ったのだ。
だからこそ、頼り切りな自分が情けなくて、なるべく自力でと思うのに、いつの間にかジフがするりと隣に立っていてくれるから、勘違いしそうになるのを戒めるのに必死だった。
「それ、勘違いじゃないかも」
「え?」
カウルは、ジャンディが神話高に転入させられて以降、お粥屋にF4が現れるようになり、当事者ではないからこその視点で、関係を見られる立場になっていた。
ジュンピョの横暴なまでの言動に振り回されるジャンディに、カウルは何度も巻き込まれるように付き合わされた。
けれどそれ以上に、ジャンディの動向を心配し、イジョンを通してカウルに連絡をしてきたのは、ジフだった。
肩を痛めた時も、深夜のバイトを探していた時も、引っ越しを余儀なくされた時も。
カウルは、おそらくジャンディ以上に、ジフの心配そうな視線を見てきていた。
「ジフ先輩、ずっとジャンディのこと、心配してたよ」
「え」
「ジャンディがいなくなると、いつもお粥屋に来たもん」
両親が漁村に行くと決め、ジフの祖父の患者の伝手で住めることになった小さな部屋。
そこも追い払われ、一時的にジュンピョの屋敷のメイドとして身を寄せたことはあったけれど結果的にはそこも出ることになり、ジフの祖父の機転でジフの家に滞在したこともあったが、結局は迷惑をかけたくないと家族を訪ねて出ていった。
いつも連絡をしなかったのに、ジフはジャンディをきちんと探し当ててくれた。
どれだけ心配をかけ、どれだけの手間をかけさせたのか、ジャンディは申し訳ない気持ちでいっぱいになるけれど。
それだけの気持ちを受け入れていいのか、どうしても戸惑ってしまうのが正直な気持ちで。
「だって、ジュンピョと別れたからジフ先輩と、なんて…」
しかも相手は、全く関係のない人だったのならば、もう少し前に進む勇気が持てたかも知れないだろうけれど、自分の夢のために好意を断った人の幼馴染みで親友なのだ。
「ジャンディの初恋の王子さまで、申し訳なく思うくらい一緒にいてくれて、ご家族にも歓迎されているんでしょ」
いつでも大変な思いをしてきたジャンディだから、降って湧いたような幸せに戸惑う気持ちも分からないでもないカウルだけれど。
けれどそんなジャンディの気持ちはとうにお見通しのカウル、というよりもその後ろにいるイジョンとウビンは、これこそが大事な言葉なのだと知っていた。
「幸せに、なりなよ」
だからこそ、そう言って苦労ばかりしてきた親友を抱きしめた。

「ジフ先輩…」
困ったように目をきょときょとさせるジャンディに、
「おじいさんみたいな町医者になりたいって、言ってたよね」
うん、と頷くジャンディに、
「みたいな、じゃなくて、そのまま、おじいさんの跡を継いでくれないかな」
ジフはたたみかけるように続けた。
「先輩!」
「俺は、財団の方もあるし、今のままじゃまだ、両方をおじいさんみたいに上手くやっていけないと思う」
経営学で予備課程の2年を取ったあと、本科からは医学へ編入したから、経営の方もおそらく学ばなくてはならないことはまだまだ多く、両立させることは難しいだろうことはジャンディでも分かる。
「だから、当面は財団の方を重要視しなくちゃいけないだろうから、診療所の方をジャンディに頼みたいんだ」
もちろん時間と都合の許す限り、ジフも診療所には行くつもりではあるし将来的にジフが継ぐことにはなるのだろうが、祖父の年齢も持病も軽視出来ないから、いざという時のための人員確保に近い。
ジフが準備できるまで祖父が元気でいてくれる保証はなく、最悪の場合にはしばらく休業ということも致し方ないのだろうが、頼ってくれる人たちを困らせることはなるべくしたくはないから。
もちろんこのことは、自分よりもかわいがっているのではないかとジフが思うほどにジャンディを気に入っている祖父には即答で了解を得ていることでもある。
「おじいさんも、ジャンディと一緒にいられるのを喜んでくださっているから」
ずっとボランティアで手伝っているジャンディは、患者さんたちにもかわいがってもらえているし、治療に必要なのは技術的なことだけではないのだと身を以て知っているジャンディだからこそだ。
「財団の方では芸術で、診療所では医術で、病と心を治すというのがおじいさんと、そして俺の両親の願いなんだ」
ふわりとジフは微笑んで。
「ジャンディと一緒に、叶えたい」
「先輩…」
そのジフの笑顔につられるように、ジャンディも花がほころぶようなきれいな笑みを見せた。
「いつの間にかね、おじいさんの診療所が第二のプールになってたんです」
へへ、と笑って、ジャンディは続けた。
「具合が悪い人ばかりのはずなのに、みーんなあったかくて、初めての人にも優しくって、待合室が集会所みたいになってるでしょ」
大きな病院では有り得ないし、小さな診療所であってもそういうところって、本当にめずらしいんですよ?
「きっと、おじいさんのお人柄の賜物ですよね」
口では悪態をつきながらも、その瞳はいつも優しく、本当に相手のことを思っていることが分かる。
今ならジフもそれが分かるし、それは何よりもジャンディのおかげであり。
「先輩はきっと、ちょっとでも具合が悪いっていえば、専属のお医者さんが待機してくれているだろうから知らないだろうけど、私たち庶民は、具合が悪くてもギリギリまで我慢するし、我慢出来なくなってからでも、お医者さんに診てもらおうって決めるまでには、結構時間というか日数がかかるんです」
それは金銭的なこと、時間的なこと、理由はいくらでもある。
「でもおじいさんのところは、ちょっと診てくださいって、気軽に入れる雰囲気で」
高校の頃ほどではなくても、ジュンピョとの関係や周囲の態度、勉強の大変さなどもどかしいことはたくさんあったが、そんな時に診療所でおじいさんや常連さんといってもいいような患者さんたちと過ごすことで気持ちが前向きになれたのだと。
だから、おじいさんをお手伝いして差し上げられるなら、うれしいです、とジャンディは少しはにかんで言った。
「その前にちゃんと卒業出来るか不安なんですけど」
なんてぽつりと付け足すから、ジフは思わず吹き出してしまった。
「なんで笑うんですか、もう、真剣なのに!」
顎を引いて斜めにジフを見上げるジャンディに、ジフは笑いをおさめてにこりと笑った。
「手伝うよ」
勉強も、診療所も、ジャンディが幸せで笑っていてくれるためなら、何でも。



「で?」
「何」
「返事は?」
「さあ」
「さあって…はぁ」
大学で、ジフはウビンに捕まっていた。
イジョンと4人で会った時のことを聞いたらしく、ランチタイムに捕縛され、その後どうなっているんだとせっつかれたのだ。
ジュンピョはともかく、ジャンディの心はすでに揺らぐことはなく、そうなれば同じ医者としての道を選んだジフとジャンディの関係が気になるのは当然だろう。
少なくとも、ずっとジャンディを見守り、助け、力になり、そしてジャンディのためだけにわざわざ医学部へ編入したジフが、今後をどう考えているのか知りたいというのは、ウビンとイジョンの飾らない本音だ。
寡黙で表情を変えることも少ないジフは、F4の中でも一番その思考が読めない人物ではあったが、ジャンディに対してだけはその洞察力と勘の良さをフルに活用して信じられないほどの行動力を見せ、多分それが驚くべきことなのだと知らないのは以前の姿を知らない当のジャンディだけだろう。
ともあれ、ジャンディのおかげでF4全員が人として良い方向へ変えられ、なのにいつも苦労を背負い込んで大変な思いをしているジャンディだからこそ、無条件で幸せになってもらいたいと、F4だけではなく、ジャンディの親友カウルはもちろん、ジュンピョの姉ジュニ、そしてソヒョンも願っている。
多分、ジャンディが神話高に来る切欠になった自殺未遂者も、その義弟のモデル男も、例えばカン会長付きでありながらもジュンピョにあれこれと便宜を図ってくれたチョン室長やイ執事も、同じ思いのはずだ。
だから、比較的自由なランチタイムを狙ってウビンはジフを待ち伏せ、ことの経過を問い質したのだ。
が、返ってきた答えははっきりしないままで。
「お前ら、何やってんだよ」
この場合、盛大にため息をついても誰も責められないだろうと、ウビンはぐったりと頭を落とした。
「何って、何も。いつも通り」
飄々としたジフの答返はある意味とても彼らしいもので、だからこそ余計に心配になってしまう。
「ジュンピョみたいなプロポーズとまではいかなくても、それでも告白らしきものはしたんだよな?」
視線だけをジフに向けてウビンが問うと、ジフは相変わらず曖昧な笑みを浮かべたまま、それでも頷きはした。
「でも、明確な諾をもらえたのはおじいさんの診療所のことだけだし」
そもそもジャンディは、ジフが医学部に移籍したのは、おじいさんの診療所のためだと信じて疑ってもいないのだ。
いや普通はそこで、いつも手を差し伸べてくれる人の祖父を手伝うということは、その人との将来も考えるものだと思うんだけど。
「…まあ、クム・ジャンディだしな」
自分が大切にする人に対する悪意や敵意には敏感なくせに、自分に向けられる好意を含めた感情にはとことん鈍いから。
「ジュンピョは直球過ぎだったけど、ジフもある程度変化球じゃなく、はっきり言葉にした方がいいんじゃね?」
実際、ジフも以前に告げてはいるのだ。
モデル男の時には、
『ジャンディの選んだ相手が親友だったから諦めたのだ、だからそれ以上の関係を始めもしなかった』
と。
マカオの空港でも、ジュンピョに向かって、
『親友だから身を引いたし、親友の彼女だから諦めた。それに最後まで、俺はチャンスをやっただろ?これ以上我慢はしない』
と言ったことを聞いていたはず。
それでも『ジュンピョに腹が立って言ったこと』と思うあたりが、鈍感なジャンディなのだろう。
今回も、ジフにしてみればかなり直球を投げたつもりだったのだが、自分に好意を持ってくれる人なんていないという思い込みと、おそらくは身分の差という無意識に遮断しているところがある。
まあ、いつの間にかなくてはならないような毒薬だか漢方薬だかと表現するあたり、ジャンディにとってジフはすでに『いて当たり前』の存在になってはいるのだろうけど。
それを自覚した時に、受け入れるか、遁走するか、分からないのがジャンディがジャンディである所以であるから。
「考える時間があるとむしろヤバいと思うぜ?」
遠回しに示唆すれば、ジフは分かっているとでもいうように、やわらかな笑みをその頬に乗せた。
「大丈夫」
少なくとも、ジフの祖父ソギョンの診療所を手伝うという確約があるし、大学を卒業するための手伝いはするという約束もした。
実家のクリーニング店も、分からないように得意客など手を回してそれなりに業績をあげられるようにしているから、金銭的な問題もない。
ジャンディは、ジフとは関係のないところではあっても、ジフの祖父の側にいてくれる道を選んでくれた。
そして、その祖父とジフを、15年にもわたる確執をいとも簡単にはね除けて繋いでくれたのも、ジャンディ本人だ。
だから、ジャンディがソギョンと繋がっている限りは、ジフとも離れられないわけで。
「…毒薬、って、そういう意味ね…」
最初は偶然だった。
ジャンディが神話高に転入してきたことはもちろん、バイト先のマスターがジフの関係者であったことも。
ただ、そういう偶然をいつの間にか必然に変えてしまうのがジフであり、しかもそれをまわりに気付かせないあたりが、裏工作が出来ないジュンピョがいつも気にしてライバル視していたところで。
「マスターとおじいさんの間のことでは、俺は直接関係ないし」
そう言いつつも、関係ないのにいつの間にか一番美味しいところを攫っていっているのが、一見ぼーっとしているジフを侮れない理由である。
「で、毒薬としてはこれから、どうするんだ?」

「このままで、聞いて」
そう言って、ジフは閉じ込めてきた想いをそっと解放した。


多分、初めて逢ったときから惹かれていたんだと思う。
元気でうるさくって、無謀なほど負けん気が強くて。
でもあんな風に屈託なく笑う子は見たことがなかった。
俺たちの周りには、外見や背景のために気に入られようとする輩しかいなかったから。
会うたびに驚かせてくれて、楽しかった。
そう気付いたのは、フランスに行ってから。
ソヒョンは大切な人、今でもそれは変わらない。
でも、母とか姉とか、そういう無条件で守ってくれる人に抱くような、家族的な意味でしかなかった。
5歳の時に家族を失くしたからか、ずっと違いが分からなかったけれど。
その時に初めて、非常階段でもジムでも、いじめられてたジャンディを守ってあげたくて無意識のうちに行動していたんだって分かって。
急いで帰ってきたけど、ジュンピョが交際宣言してて、ほんの少し、遅かったみたいで後悔したよ。
それでも、ジャンディが幸せで、笑っててくれればよかった。
たとえそれが、ジュンピョに向けられたものであったとしても。

ニューカレドニアで、足がつって溺れていたジャンディを助けた時、ジュンピョが泳げないとかその彼女だとかそういうことは忘れ、ただ夢中だった。
抱き上げた意識のないジャンディは、でもとても軽くて、その細さに驚いた。
モデルでもあるソヒョンが、一般の女性たちよりも痩身であることは分かっていたし、ヒールのある靴を履けば長身なF4と並んでも見劣りしないほど上背があることも知っていた。
イジョンやウビンはともかく、ジフにとっての女性はソヒョンのみであったから、それが普通だと思い込んでいた。
だから、本来ならば意識のない人体は実際よりも重く感じるはずなのに、ぐったりとしたジャンディを抱き上げた時には、思っていたよりもずっと軽くて驚いたのだ。
こんなにも華奢な体で、赤札に対抗していたのかと。
浮力のある水から上がってでさえ、イジョンやウビンが運ぶのを手伝ってくれようとしたけれど、手放すことができなかった。
あんたの親友が声をかけ、意識を取り戻すまで、どれだけ不安だったか。
ジュンピョは、独占欲が強いから、ジャンディへの贈り物も、その表れだろう。
でも、ただ、あの夜は抱きしめたかった。
心が寒くて、ジャンディのあたたかな存在に癒されたかった。
ソヒョンは確かに特別な存在で、彼女がいなければ今の自分はいなかっただろう。
けれど、ジャンディは違う。
癒されるだけでなく、前向きに生きることを教えてくれる。
自分にも感情があるということを思い出させてくれる。
ジャンディを好きになれば良かったと、言ったその時にはもう、好きになっていた…。
一緒にいるだけで幸せと、思えるのはソヒョンではないということ。
いつでも俺を導いてくれるソヒョンは、言い換えればいつでも俺の前を歩いていて、その距離は決して埋まることがないということ…。
言ってくれたよね、幸せになってって。
俺が不幸だとジャンディも不幸だからって。
驚いた。
同じことを、思っててくれたんだって。
なんでジュンピョより先に好きにならなかったんだろう、気付けなかったんだろうって、何度も思った。
埋められない心の寒さを、感じて。
ソヒョンの婚約の記事を気にして、泣いてくれた。
こんな情けなく頼りない自分に、幸せになってくれと、ただ俺ひとりのためだけに涙を流してくれた。
それが嬉しくて、ただ、嬉しくて。
純粋に、俺の幸せを願ってくれるのに答えたくて、それ以外の方法を思いつかなくて。
キスを、した。
以前、ジュンピョに対してファーストキスもまだのヴァージンだと、啖呵を切っていた。
だからきっと、これはジャンディにとっての初めてかもと、ジュンピョのことが頭をかすめたけど。
でも、止められなかった。
したかった。
…欲しかった。
俺が幸せでなければ、自分も幸せになれないと、そういうジャンディが、愛おしかった。
ソヒョンを求める以前に、彼女を好きになりたかった。
ただただ、愛しかった。
俺のためだけに涙する、その気持ちを大切にしたかった。

その後のジュンピョの荒れように、ジャンディは心を痛めていたけれど、でも俺は、正直、気にしていなかった。
ただ、ジャンディが苦しむのを、救いたくて、挑戦を引き受けただけ。
だから、ジャンディの退学と自分のF4除名だとジュンピョが宣言したときも、なぜか慌てることがなかった。
むしろ、自分のことよりも他の人のことをまず心配するジャンディが、いじらしくて、俺の気持ちに気付かない鈍感さが可愛くて、頬を突いた。
だからあの時のキスは、衝動なんかじゃなくて、本当にしたかったからしたもの。
その所為であいつらと関係がおかしくなっても、ジャンディと一緒にいる時間が格段に増えて喜んですらいた。
ジャンディの気持ちがジュンピョに向いてるとわかってて、だからジャンディの一番綺麗な笑顔は悔しいけどジュンピョの側にいる時なんだろうって、ちょっとした意趣返しのつもりで、意地っ張りで不器用なふたりをくっつけるいたずらはさせてもらったけど。
それでもやっぱり諦め切れなくて、ジャンディが行きそうなところ、予想しては足を運んで。
今思うと、ストーカー気味だったかも。
でも、自分から行動を起こすことなんて、ジャンディにソヒョンを追いかけろって言われてフランスに行くまで一度もなかったから、自分でも驚いてる。
カン会長が事あるごとに絡むようになってから、ジャンディは泣いてばかりいたから、俺も辛かった。
ジャンディが求めてるのはジュンピョのなんだろうって分かってて、それでも放っとけなくて抱きしめた。
せめて、せめて俺の前でだけは、強がって無理して笑わなくていいんだって頼ってほしくて。

いつでも、ジャンディの小さな手が荒れているのがつらかった。
俺の半分ほどしかないような小さく細い手指は、けれどF4などと呼ばれる自分たちの誰よりも働き者で、苦労も知っている。
むしろ、苦労しか知らないのかもしれない。
だからこそ、ただ守りたかった。
ずっと笑顔でいてくれることを。
その対象が自分でなくとも、それでも。
ジャンディが幸せそうに笑っていてくれれば、それでよかったのに、いつの間にかそれ以上を期待してた。
水泳を諦め、マカオから戻った後、医者になりたいと目を輝かせたけど、多分もう、ジュンピョとの未来が重ならないんだって、ジャンディは無意識のうちに分かってたのかな。
いずれ神話のトップに立つジュンピョの配偶者に求められるものは、隣に立ち、支え、助け、役に立つこと。
カン会長が、ご主人の危篤にも関わらずに神話を守るために奮闘されていた、それと同じことを望んでいるはず。
医療機関もある神話グループだから、それなりにジャンディにも将来はあるだろうけれど、おそらくトップの配偶者として特別扱いされることは当然で。
それは、ジャンディが望むものではないと、気付いていたのは本当に俺だけだったのか。

…ずっと、見てたよ、ジャンディだけを。
非常ベルが鳴らないときも、ずっと。
知ってた?
マカオから帰ってきて、校内でジュンピョの婚約者に初めてジャンディから紹介された時。
ジャンディがバイクに乗せてくれって来て、その後からジュンピョとあの女が追いかけてきた時、あの女が、
『この人でしょ、ジャンディが好きな人』
って言った。
突然何を言うんだって思ったけど、正直一瞬でも舞い上がるほどにうれしかった。
すぐにジャンディは否定してくれたけど、でも相変わらず嘘を言う時や誤摩化そうとする時は無駄に早口になったり所作が大きくなったりするクセは健在で、そのことからも全く気がないワケじゃないって分かったし。
むしろ、俺のことをそんな風に他の人には話してくれていたんだって、期待してもいいのかなって希望を持てた。


「だから、クム・ジャンディ」
ようやくジフが、腕をゆるめてジャンディの体を少し離して、目を合わせる。
「俺と未来を共有すること、考えてみて」

そもそも、ジャンディは庶民としてさえ低レベルの生活を送っていたのに、配達の途中でちょっと正義感を発揮してしまったがために、望まぬセレブ校への進学を強制された。
それでもなるべく目立たずおとなしく過ごそうと思っていた矢先に起きた、というかうっかり起こしてしまった、友人のためのアイスクリーム事件。
以来、張本人であるジュンピョを始め、クラスメイトや見知らぬ生徒から、どれほどの攻撃を受けてきたか。
それでも学校を辞めずにいられたのは、素っ気なくも助けてくれたジフの存在があったからで。
「ハンカチもバスタオルも、うれしかった」
空になった弁当箱を丁寧にしまいながら、ジャンディは言った。
来たかった学校ではない上に酷い目にあわされて、けれど両親の妙な期待を一身に背負ってしまえば簡単に辞めることもできず、だから、そんな状況でもまだ助けてくれる人がたとえひとりでもいるということが、当時のジャンディにとってどれほどの救いになったか。
当の友人が、2度目の赤札の原因と分かってからでも、ジャンディの姿勢は変わらなかった。
「それから、航空券とか靴も。何度も迎えに来てくださったことも。へこんでる時に、いつもいいタイミングでジフ先輩が助けてくれましたよね。ありがとう」
そんなふうにジャンディは言うけれど、ジフとしては指折り数えてみても、ジフがジャンディにあげられたものは、あまりない。
金銭的なものならば、ランチやディナー、紙コップのコーヒーはもちろん、ジャンディが恐縮がるようなものも含め、手助けできたものはあるかも知れない。
けれど、精神的なものとしては、ジャンディが喜んでくれる名誉消防士として、一体どれだけジャンディを火事から助けることが出来たのだろうかと、ジフとしては悩むところである。
有形無形問わず、ジャンディにあげられたものは、もらったものの大きさに比べるととても少ないと、ジフは素直に思う。
それは金銭に換えられるものでは決してない、ジフにとっては、20年弱の人生そのものをすっかり一新させられるほどの存在だったのだ。
おそらくF3にとっても同様なのだろうが、自覚の程度を測れば、ジフが一番であっただろう。
「そういえば、ジュンピョとは関係なく、ジュンピョのお母さんの室長さんに誰にも内緒でって頼まれて、寝たきりの方を訪ねて本を読んで差し上げたりしたことがあって」
それがジュンピョの実父だという事実は、いまだにジャンディだけが知らないことだけれど。
「その中の詩集に、すごくいいのがあったんです」
そう言ったジャンディは、視線をふとどこか遠くに馳せ、記憶したものを諳んじるように、呟いた。
「”一番美しい出会いは、ハンカチのような出会いだ。大変な時には汗を拭いてくれ、悲しいときは涙を拭いてくれるから”」
その時のジャンディは、いつもの太陽のように明るいものではなく、けれど、作ったものではなく、ただ、愛しいものを見つめるような穏やかな笑顔で。
「それを読んだとき、ああジフ先輩だなあって思ったの。いつでも、私が泣いてる時にはそばにいてくれたなあって」
小麦粉とたまごに塗れたジャンディに、躊躇うことなく真っ白なハンカチを差し出してくれた。
ハンカチだけじゃない、涙を拭いてくれた指先も、抱きしめてくれた肩先も。
「先輩がいつも拭いてくれるから、私の目、だらしなくなっちゃったんですよ」
どうしてくれるんですか、なんて苦笑しながら、でもだからこそ、私にとってはジフ先輩とは一番美しい出会いだったんだって思ってうれしかったとはにかむジャンディを、ジフはどうにかしてしまいそうになるのを我慢するのに懸命だった。

「スズランと指輪は、受け取ってもらえなかった」
独り言のように、けれどきちんとジャンディの耳に届くくらいの大きさで呟く。
「あ、あの時は…」
俯いたままで、ジャンディが呟くように小さな声で言った。
「先輩の大事な人はソヒョンさんだから」
その花言葉の持つ意味を知っていてなお、ジャンディはジフの思いを拒否した。
けれど、ぼんやりしているような外見に比して誰よりも人の機敏に敏感なジフは、すでにジャンディがジュンピョに流されているだけだという予測を立てていた。
そして、非常階段で再会した時のジャンディ当人の台詞から、ジュンピョとの付き合いが望んだものではないと受け取れたから。
『ジュンピョに内緒で』と言うつもりもなかった言葉がするりと出て来たのは、それがおそらく本心だったからだろう。
「スズランは、そう思われても仕方がない時だったけど」
ジフは覗き込むようにジャンディを見つめる。
「指輪は?」
「…忘れられると思ってました。でも出来なくて、だから、そんな状態で受け取ったら、先輩に失礼だと思って」
スキーに行ったとき、プロポーズとも言えるようなペンダントをジュンピョは用意していた。
不器用なふたりのために、それを自然に受け渡しできるよう測ったのは、ジフであり。
その間に遭難事件が勃発し、無理矢理連れ去られるところだったのをジュンピョが無理をして助けて。
だからこそ、ジャンディもジュンピョの思いの深さを知り、受け入れようとしていたはずだったし、ジフもそれを望んでいるのだと思っていた。
けれど、未成年同士の幼い約束は大人の世界の事情に無惨にも引き裂かれ、以後、当人たちが望まぬ結果を招くことになった。

「…でも、初めてキスをもらいました」
そういうジャンディの意図が分からずに、ジフは無自覚に眉間に力を入れていた。
「ジュンピョとは、私の合意がないまま付き合いが始まっちゃった感じで、正直、先輩がフランスから帰ってきたとき、ジュンピョが公言したことを拒否しようと思ってたタイミングだったから、先輩が否定してくれてうれしかったんです」
それでも誰も逆らえないジュンピョの強引さに、結局雰囲気的にはうやむやになり、いつの間にか公的にはジュンピョとジャンディは付き合っているということになった。
「ニューカレドニアに行ったことも誘拐同然だったし、カウルもイジョン先輩に拉致されたって言うから、離陸してなかったらその場で帰るつもりだったんですよ」
用意された食事と、何よりもジフが一緒に行くということがジャンディをその場に留めたということは、今しばらくはジフには内緒にしておこうとジャンディはこっそりと思った。
「先輩、寒いっておっしゃいましたよね」
ソヒョンの婚約を知った夜、これから先のためにどうするべきかと迷っていた時に現れたジャンディ。
それはジフにとって、天啓であった。
大切にするべきなのは、己の人生のあり方を示唆してくれた人であり、導いてくれた人ではないのだと。
「寒い」
あの時と同じ口調で、繰り返す。
「今も、寒くてたまらない」
体じゃない、寒いのは心だ。
それがずっと当たり前で、寒いのだと知ることさえなかった。
寒さを教えてくれるなら、その後温めてくれるなどの然るべき処置をするものだろう?
そんな考えが伝わるようにと、ジフはジャンディをじっと見つめたけれど。
「私はいつも、心が冷えて固くなっちゃう前に先輩が来てくれたから、そばにいてくれたから、頑張る力が湧いてきました」
ふと顔を上げ、ジャンディはにこりと笑った。
「先輩にもそういう人、いらっしゃるといいんだけど」
この場面、このタイミングでジャンディは本気でそんなふうに言うから、ジフはため息に似た苦笑をもらすしかない。

「俺のそういう人に、ジャンディはなってくれないの?」
「えっ?無理ですよそんなの、助けてもらってばっかりだし、私なんかが先輩の力になるなんて、有り得ませんって」
考えることさえせずに即否定し、ばたばたと両手を振って早口でまくしたてるジャンディの両肩を、ジフは左腕で抱え込むように抱きしめる。
「ずっと、こうしてきた」
右肩にジャンディの額が乗り、自然に近づく右の耳に囁くように告げる。
「いつも、こうしていたかった」
右腕をジャンディの背中に回し、逃げられないように囲い込む。
「ジャンディの幸せな笑顔、それさえ見られれば俺はいつだって力が湧いてくる」
ジャンディの膝の上から、包み直された弁当箱がことりと軽い音をたてて落ちる。
「先輩?」
もぞもぞと動くジャンディを、腕の力を強くすることで止めて。
「ジュンピョを忘れなくていい。忘れる必要もない」
いつか、大変だったけど楽しい時間だったと思い出になって、ケンカ友だちという新しい関係を築いていけばいいのだから。
「俺を温められるのはジャンディだけだ」
最後通牒のように、囁いた。

もともとの出会いは、ジャンディの友だちが切欠だったはずだ。
ジュンピョのオーダーメイドの靴を汚したとかなんとか、まあそんなジュンピョにとってはありふれた理由で、おとなしくしたがっていればよかったものを、よくある青春ドラマのようにたてついてきたから、ならば代わりをしろと、いつもの通りに命令しただけの退屈な場面だった、はずだ。
幼馴染みとしてでさえ、ジュンピョの言動は時に鼻につくほどではあったが、それについてどうこうするという気はさらさらなかった。
それはウビンやイジョンの女性関係も同様で、お互いに干渉をしあわないというのが不文律のようになっていたのだ。
ジュンピョの姉やソヒョンもそのあたりは、弟たちのやんちゃだと黙認していたから、むしろ思うがままやりたい放題だった。
F4と、いつの間にか呼ばれていた。
つるんでいるつもりはなかったけれど、家柄や名声に周りが勝手にそう仕立て上げ、いつの間にか彼ら以外に友人と呼べるものがいなくなっていただけだ。
両親の事故以来、家族を全てなくしたジフを救い上げてくれたソヒョンはだから特別で、彼女以外に大切な人は誰もいないと思っていたのに。

その時も、ジュンピョにアイスクリームをぶつけるまでは関係のないこととまともに見ていなかったから、あの時プールの場所を訊いてきた人だとジフが気付くまでに時間がかかったのは仕方がないことだろう。
しかも、ふわふわと照れくさそうな表情とは違い、怒りをあらわにしたその顔はなんだか生き生きとしていており、遠慮が大半を占めていた初対面のときとは全く異なっていたのだから。
それが切欠で、女生徒であるにも関わらずジュンピョは赤札を貼り、ジャンディはイジメの対象となった。
その事実でさえ、ジフはきちんと把握しておらず、ただ、昼寝を決め込んでいた非常階段に突然表れてあれこれ叫んでいた女の子がその当人だったというのに気付いたのが、たまごと小麦粉まみれになっていたときだったか。
『ホットケーキが何枚焼けると思ってるの』
あの時、雑誌に載っていたソヒョンの記事のせいで、その言葉に反応しただけではないと、今ならジフは分かる。
そして、その相手がジャンディだったからだということも。
でなければ、普段のジフならばその場で『ホットケーキの作り方』を訊いたりすることなど有り得ないからだ。
しかも、わざわざハンカチで汚れを拭ってやるという行為など、F3が知ったら仰天ものだっただろう。
その後も、うっかり非常階段には行かないと宣言をしたせいで昼寝の場所に困り、ジムの機器をベッドの代用にしていたら、聞き覚えのある声に睡眠の邪魔をされて。
せっかく会えたのだからと、教えてもらったホットケーキの作り方ではうまくいかなかったと言ったら、足りない材料を教えてくれて、ジフはなるほどと研究の意欲を刺激された。
ついでに、彼女にまとわりつく奴らが目障りで、その威力を分かっていて行使した。
そんなことはジフにとっては初めてだった。
非常階段ではあれだけ威勢がよかっただけに、それだけ怖かったのだろうと震えて小さく縮こまる彼女が哀れで、近くにあったバスタオルを羽織らせたのは特に意図したものではなかったけれど。

多分、ジュンピョがジャンディに執着する前から、ジフはジャンディを気にしていたはずだ。
早さが結果を決するならば、ジャンディに誰よりも早く出会っていたのはジフであるし、ソヒョンを追って渡仏しようとした時にはジャンディの存在が心にあった。
もし、その時に自分の気持ちに気付いていたのであれば、ジフは決してジャンディをジュンピョに委ねたりはしなかった。
ジャンディの退学を賭したゲームの時にはもう、分かっていた。
ジャンディが大切だと。
そして同時に、ジュンピョにとってのアキレス腱なのだとも。
ジャンディを手に入れるだけなら、いっそ負けてしまえばよかったのだ。
負けて、神話からもF3からも離れてジャンディとふたりで新しい道を探すことだって出来たはず。
けれどジャンディは、自分のために戦うジフに全幅の信頼を置きつつも、心のどこかでジュンピョを心配していることが分かってしまったから。
だからジフは、自分の想いがこれ以上強くなる前に、自分の気持ちに決着を付ようとジャンディをデートに誘い、ジュンピョをホッケーに呼び出して、不器用なふたりの仲を取り持った。
初恋のソヒョンから離れ、やっと見つけた愛する人を手放し、やはり自分はひとりでいるしかないのだと、諦めたつもりだった。
けれど、ジュンピョとの距離が上手く測れず、もどかしそうなジャンディを見ているとどうしても放っては置けず、そうして話をするたびに募る想いは際限がなく、結局何度も、ジャンディがいるだろう学校のプールやバイト先にジフは足を運び、さり気なさを装って会うことに成功していた。
ジャンディが、練習のためだけでなく、心に屈託を抱えた時にも泳ぎにきていると知ったのは、その賜物だと言っていいだろう。
実際、ジュンピョとは、ジャンディのこれまでの生活や常識からは考えられないような差異があり、ジャンディだけではなく家族にもそれなりの影響があったらしく、しばらくジャンディの機嫌が良くなかったことは確かだ。

「自覚っていわれても…」
「分からない?」
キュッと小さく尖らせた唇は、無自覚に触れたいという気持ちを誘うから質が悪い、とジフはこっそり内心でため息をつく。
「今の俺の生活は、全部ジャンディにもらったものばかりだ」
そうジフが言うと、ジャンディは瞳を大きく見開いて驚いた。
「静かな非常階段に違和感を感じるのも、誰かのために見返りもなしでただ何かをしてあげたいと思うのも」
「先輩?」
「車の運転が出来るようになったのも、家族が増えたのも」
一言一言を、大切そうにゆっくりと告げるジフを、ジャンディはただ黙って見つめた。
「大切にしたいと思うものがいつの間にか増えて」
そしてジフも視線をそらさずにジャンディを見つめる。
「生まれて初めて自分の手でお金も稼いだ」
ふわりと笑う、その言葉にようやくジャンディがふっと力を抜いた。
「それ以外でも、たくさんの初めてをジャンディにもらって、今の俺がいる」
「先輩…」
にっこりと笑ってみせるジフが、ふと気付いたようにまた口を開いた。
「それから」
「まだあるんですか?」
小首をかしげるジャンディに、ジフはいたずらっ子のような笑みを刷いた。
「ジャンディがジュンピョにあげるはずだった”初めて”も実は俺がもらってる」
「え?」
「ダブルデートか何かでケンカした時に渡したりんご(謝罪)とか、バレンタインのクッキーとか」
たとえ齧っただけではあっても、記念すべき一口目はジフが味わうことになってしまっていた。
「え、なんで先輩が?」
「いろいろとあって」
ジャンディがいなくなってからのジュンピョとジフのやりとりを知らないのだから、分からないのは当然だ。
「もしかして、これも、かな?」
ジフが指したのは、ふたりの間にある弁当箱。
スキーから戻り、ようやくデートらしきものをと計画した矢先にジュンピョは連行されて行ったから、せっかくのジャンディのお弁当も結局食べられないままだったし、ジフが初めてきちんとおじいさんの気持ちを聞いた後、感情がコントロール出来ずに雨に打たれ、帰ってきた時にジャンディがいてくれたことにほっとしてそのまま意識を失ってしまったけれど、翌朝用意されていたお粥は当然ジャンディが用意してくれたものだろうから、『ジャンディの手作りのご飯』もそうかもしれない。

「でも、それなら私の初めても、ジフ先輩からいっぱいもらいましたよ?」
「俺?…は、何もしてないと思うけど」
自信満々ににっこり笑うジャンディに、今度はジフが逆に怪訝そうな表情をした。
「んー、神話でのことって、超庶民っていうか庶民以下の私からすれば非日常のことばっかりだったんですけど」
その中で、ジャンディにとってお金持ちの暮らしとしての初めては、すべてジフ絡みであったと言っても過言ではない。
「まず、ソヒョンさんの歓迎パーティでエスコートしてくれました」
ぴんっとジャンディは人差し指を立てた。
「神話に行ってなければそもそも高校生でなくたってパーティに行く機会もなかったはずだし」
ね?と笑うジャンディは屈託がなく、それが逆に神話での苦労が大きかったことを物語っているようで、ジフとしては胸が痛くなる。
何よりも、仮装パーティだと騙されて居たたまれなかったジャンディを、無言で助けてくれたのがジフだった。
そもそもジフが声を掛けなければ、ジャンディはパーティになど行くつもりがなかったわけだけれど、それはまあ、置いておいて。
「それから、ソヒョンさんを見送った空港で、おでこにキスもしてもらいました」
2本目の指を立てて、ジャンディはくすっと笑った。
「…本当に、とにかく無条件で幸せになってほしいって初めて思った人だったから、私のお節介も少しでも役に立てたのかなって、うれしかったんです」
イジョンやウビンならば人目を気にせずするだろうけれど、ジフやジュンピョはそんなタイプではないから、余計に。
「たとえその相手が自分じゃなくても。それでもいいから、ずっと、見る人の心が溶けてしまうくらい温かい笑顔でいてほしいって、純粋に思ったんですよ」
「それ、ソヒョンに言ってたね?」
言いながら落ちてゆくジャンディの視線を追いかけるように、ジフも顔を横に下げる。
「…私には関係のないことだって、叱られちゃいましたけどね」
手に持っていたままだった箸を玩びながら言うジャンディに、ジフは苦笑した。
「でもそのおかげで、彼女を追いかけてフランスに行く決意が出来た。追いかけて行って、自分がいかに情けない男だか気付かせてもらった。もらうことが当たり前で、あげられることが何もないことをようやく自覚出来た」
「それは…でも…」
「一緒にいるだけで幸せだと思えるのは、一緒にいる資格があるからだ」
一瞬だけ、ジフの語気が強くなった。
「思い続けるだけじゃなく、ちゃんと隣に立つことが出来なければ、単なる荷物にすぎない」
「先輩…」
「そういうことが分かっただけでも、あの時、ジャンディに後押しされてフランスに行った意味はあったと思う」
そう言った時にはもう、いつものジフのやわらかな言い方に戻っていた。
「それも全て、ジャンディのおかげ」
ふんわりと笑うその目が優しすぎて、ジャンディはなぜか泣きたくなってしまう。
「ごめんなさい」
だから、そんな言葉しか出てこなかった。
「どうして?」
「だって、先輩、私が考えなしに言ったこととかで、きっとたくさん傷ついて、つらい思いしたでしょ?」
ニューカレドニアの一件でジャンディのために親友たちと対立してしまったことも、知らなかったとはいえおじいさんのことも。
そう言ってぎゅっと箸を握りしめたジャンディの顔は俯いていて、すでにジフからは見えなくなってしまっている。
いつもいつでも、自分よりも他の人のことばかりを心配するジャンディらしい言葉ではあるけれど。
「でもそれ以上のものをもらってるって、言ってる」
干渉されないということは、必要な躾もされないということで、ジャンディに出会って初めてF4は人としてのあり方を教えてもらったのだ。
だから、今さらだけれど、ジフに、そしてF4に取っては最初から、ジャンディは特別な存在だったのだ。

その後、アメリカに戻ったジュンピョから何度か連絡はあったものの、やはりジャンディの意思は変わらないままだった。
「私は医者になりたいの。そのために今頑張ってるんだから、もう放っておいて」
余りのしつこさに、最後にはそんなことさえ言っていたと、携帯に向かって毒づくジャンディのそばにいたジフからF2に報告があった。
「ジュンピョ、相変わらず?」
医大の非常階段で、ジャンディが作ってきてくれたお弁当を食べながらジフが問えば、ジャンディはぷくっと頬をふくらませた。
「私もね、分かってるんですよ?勝手なこと言ってるって。あいつは私との約束のために、もちろんそれだけじゃないだろうけど、でもずっとがんばってくれていたわけだし、約束通りそれなりにちゃんといい男になってたし」
そういいつつ、ジャンディの箸の先で卵焼きが犠牲になりつつあるのを、ジフは心配していた。
正直、いい男、というあたりでジフの胸がずきりと痛みはしたが、憤慨したジャンディは気付かなかったようで、構わず続けた。
「でも、その約束よりも前に私、医者を目指すって決めちゃったし、もちろん今だって本当に医者になれるかどうか分かんないけど、でも、ジュンピョに流されちゃう前にやれるだけのことはやりたいし」
医者を志した切欠がジュンピョに手酷く振られたからだというのは、ある意味皮肉だろう。
卵焼きがそろそろスクランブルエッグに成り果てて形を失くすころ、ようやくジャンディの手が止まった。

「ジュンピョのことは今でも好き。でもそれって、ジュニ姉さんやソヒョン姉さんが好きっていうのと同じで、人としてっていう感じでいつの間にか恋愛感情じゃなくなっちゃってたみたい」
その声は、非常階段で負けん気の限り叫んでいた人とは思えないほどに弱くて、ジフは切なくなる。
カウルは親友だから、同じ好きでも別格ですけどね、と笑うジャンディに、ジフは鼓動が早くなるのを自覚した。
「あの時は…半年がすごく長くて、我慢出来なくて会いに行ったけど…」
ジャンディの言葉は淡々としている。
「でも今回は自分のことで手一杯だったし、いつも先輩がいてくれたから、ジュンピョから連絡がなくてもさみしいとかつらいとか、思うこともなくて」
んー、と少し考えるような仕草の後、
「気持ちが離れちゃってたことに、あいつと会ってようやく気付けた、っていうのかな」
そんな言い方をした。
「それに、考えてみたら神話に来てから私の中には、いつでもたったひとりの人がいたみたいだし」
「え」
箸を持つ手を膝に置き、ジフを見てにっこりと笑うジャンディの視線に、長い間蓋をしてきた期待をしてしまいそうになる。
「ピンチの時のジフ先輩」
少し照れくさそうに、ジャンディが言う。
「なに、それ」
「だって、私の心に非常ベルが鳴ると、いつも来てくれたじゃないですか」
確かに以前、そんな会話をしたことがあった。
ソヒョンを追ってフランスに行き、自分の求める人が彼女ではないと気付いて以来、後悔してもいいから今度こそ自分の意志で大切な人を守りたいと、ジャンディの望まぬあれこれが起こるたびに、そっと寄り添うようにしてきていた。
ジャンディの非常ベルを聞き逃さなかったのは、どんなときでもジフがジャンディのことを気にしていたから。
いつでも手を差し伸べられるように、ずっと見守っていたから。
そんな思いを知らないジャンディは、無邪気に続けた。
「でもね、今回は鳴らなかったでしょ、非常ベル」
ふふと笑うジャンディは、とても嬉しそうに見えて、ジフは少し戸惑った。

「非常事態じゃ、なかった?」
だから、念のために訊いてみたけれど、
「先輩には、非常ベルを鳴らさなきゃ会えないのかなって思ったけど、おじいさんの診療所とかがあるからそうでもないみたいだし」
もらえた答えはどこか違うところから降ってきて。
「だから、そろそろ、名誉消防士さんを、解放してあげなくちゃいけないのかなって思って」
「…お役、御免?」
言葉の先が望まぬものになりそうで、ジフは遮るように先手を打った。
「そうじゃなくて、あ、ある意味そうなんだけど、私なんかにあんまり心配しなくていいっていうか」
ジャンディがそれに弱いと知っていて、わずかに視線に哀しみを含ませる。
「俺が心配するの、迷惑?」
「や、そうじゃなくて、先輩には先輩の生活があるでしょ、ソヒョンさんだって先輩を待っていらっしゃるだろうし、だから、ええっと」
迷いのない笑顔に、逆に不安になるジフに、ジャンディはジフの好きな笑顔をしてみせた。
「聞き飽きたって言われそうですけど。でも、ありがとう。そして、ごめんなさい。私がいつまでも頼りないから、最初はきっとジュンピョに頼まれてだろうけど、ずっとあれこれ面倒見てくれて」
にっこりと笑うその表情に、迷いはない。
「でももうジュンピョとも終わったし、だからね、私はもう大丈夫だから」
「大丈夫?」
「はい」
少しだけ、そこで寂しそうな顔をみせたけれど、すぐにジャンディは元の笑顔に戻った。
「先輩には、幸せになってほしいから」
ニューカレドニアで聞いた言葉が、今もあの時と同じなのだと繰り返される。
「これからも、非常ベルを鳴らさなくても会えるなら。もちろん会えなくて当然だと分かってるし、財団とかおじいさんの診療所とか、そもそも先輩の好きな音楽とか、私なんかに構ってたらお昼寝する暇なんてないほど忙しいでしょ?」
相変わらず嘘を言う時や誤摩化そうとする時は無駄に早口になったり所作が大きくなったりするクセは健在で、だから今ならばもしかしたらと、期待を抱かせた。
「クム・ジャンディ」
普段は横に並ぶことが多くて、会わせることが少ない視線を、体の向きを変えて合わせ、絡めとる。
「ほえ?」
突然表情を改めたジフに、ジャンディは間の抜けた返事をした。
「俺の生活、クム・ジャンディで成り立ってるってこと、そろそろ自覚してくれる?」

ジャンディからすればあまりにも突然な、けれどジフにはもう待ちすぎて今さらな感じの告白だった。
こと恋愛感情に対してはどこまでも疎いジャンディだから、ジフだって気付いてくれているとは期待していなかったけれど。
「ずっと、泣いたり辛い思いをしているジャンディじゃなくて、幸せで笑ってるジャンディを抱きしめたかった」
「先輩?」
「ジャンディの名誉消防士でいられるのはうれしかったし、ジャンディを笑顔に出来るのなら誇りでもあった」
けれど笑顔の前にはいつも、ジュンピョを思って声を殺して涙を流す姿を見なくてはいけなかった。
「本当に、ただ幸せに、笑っていてほしかった」
カン会長の嫌がらせにも負けず、ジュンピョが記憶をなくしたときも必死に立ち向かい、いつも一生懸命で、でも見てる方は気が気じゃなくて。
心も身体も疲れてるって悲鳴を上げてるのに、本人だけが気付かないから、どこかで倒れてるんじゃないかっていつも心配になる。
「強がって、いっぱいいっぱいなのに弱音を吐いたり甘えたりしないから、俺、強引にでも休ませる方法だけが上手くなった」
それはおそらく、イジョンやウビンも同じだろう。
特別扱いをされることを当たり前に受け止めていたF4を、正面から非を唱え、結局根底から覆してしまったのはジャンディただ一人なのだから。

F4と一括りにされていても、内情は結構バラバラだ。
面倒な恋愛を拒み割り切った付き合いをと人妻にしか食指を動かさないウビン、そしてその時さえよければと一時的な快楽だけを求め不特定の女性と付き合うイジョン。
どちらも、育った家庭環境から深入りすることを恐れていたのは、当人たち以外には誰も知らないはずの秘密だった。
それなのに、本来ならば蔑まれて当然の態度に、それでも「賛成は出来ないけど、それなりに理由があるんだろうなってことは分かるから」と、詳細を知らないのに理解を示してくれた人は、今までならば相手にする間もなく排除していただろう、生活水準の全く違う人で。
「ただ、私の友だちだけは手を出さないでね」
そうきっぱりと宣言をしてくれたのは、傷つく人がひとりでも少ないようにという配慮だったのだろう。
それがいつしか、イジョンはその『友だち』に惹かれるようになり、ウビンは親友たちを優先するようになってしまった。
そして、変えられたのはふたりだけではない。
暴力でしか感情を表す術を知らないジュンピョに、そもそも感情があるのかさえ疑問視されていたジフ。
特にジフは内向的で独特の空間を持っており、F4の溜まり場に顔を出すことはしても、だからといって一緒に何かしようということはなかった。
おそらくずっと、ジフの中にはソヒョンしかいなかったのだろう。
ジュンピョをからかうことに関しては、イジョンとウビンは結構意気投合してはいたし、ジュンピョやジフに対してもふたりで対することは多かったけれど、それでもいつでもべったりというワケではなかった。
それらをいつの間にか変えてしまったのが、ジャンディだった。
ソヒョンはもちろん、ジュンピョの姉ジュニでさえ、見守りはしてもF4の所業はそれが当たり前と矯正することをしなかった。
けれどジャンディは、当人さえそうと知らぬうちに、その日その時を一生懸命に生きること、友情や愛情をはじめとする人の心というお金で買えないものがあることを、言葉と態度で教えてくれたのだ。
権力も地位も名誉も、己の力で手に入れたものでなければ無意味なのだと。
それに気付いたのはおそらく、ジフが最初だろう。
庇護され、守られ、だからその対象に傾倒し、けれど、それ以上の存在にはなり得ないのだと悟ったのは、フランスまで追っていってから。
男として、本当に守ってやりたいという思いが生まれたのは、何も持たないがゆえに何ものにも縛られず、強く立つジャンディのため。
ジュンピョの赤札によるイジメにも屈せず、地位も名声も通用しない人がいるのだとF4に思い知らせてくれた、ただひとりの人。

「なんて説明したらいいのか…」
斜め上を見上げてジャンディがぼそりと呟く。
その背後にいつの間にか、待ち合わせ相手が気配を消して立っていることには気付かないまま。
「ええとね、ジュンピョって、直球でしょ。ううん、豪速球っていうのかな。勢いはすごいし、その時その時に全身全霊をかけてくれるっていうのが分かって嬉しいんだけど、でも、受け取る方も常にすんごく踏ん張って力入れないとダメだし、デッドボールにでもなったらホント息が出来なくなるくらい痛いんだよね」
ジャンディの表情が曇り、どれほどジュンピョとの付き合いが辛かったのかを物語る。
「それだけ強く想ってくれてるって分かってたし、私だってちゃんと好きだったし、もちろん今でもずっと友だちとして付き合っていきたいけど」
そして、んー、と少し首を傾げて、
「ジフ先輩は変化球…でもないなあ、あ、キャッチボール。ちゃんとこっちが受け止めやすく投げてくれて、こっちからも投げ返したらちゃんと受け取ってくれるような、急いだり焦ったりしなくてもいい、そんな感じ」
だからね、と続けたジャンディの言葉に、イジョンは言葉をなくした。
「ジュンピョとは、ボールを受け止められる嬉しさはあったけど、デッドボールもそれ以上にあったし、野次も強烈で、ずっと痛かった」
それを知っていたから、ジフがずっとフォローしていたのだと、今ならイジョンも納得できる。
ただただ、ジャンディが幸せであればと、己の想いに蓋をしてでも、ずっとジャンディが傷ついて泣く時にはひとりでないよう、心を砕いていた。
本当は、泣いてなどほしくないのだとも、分かっていた。
「こっちから投げようとする暇もくれないくせに、受け取れないと怒るし」
お金があってこその道楽もたくさん体験させてくれたけど、突然だし強引だし、庶民の暮らしだって分かんないくせに無理に入り込もうとするからホント困っちゃった、なんて言いつつ、それはけれどいい思い出なのだろう、ジャンディの頬が少しゆるんだ。
「でもジフ先輩は…いつでも私の気持ちを優先してくれて、見守っててくれて、甘やかしてくれて…だから安心してたらいつの間にかないと困っちゃうくらい効いてる毒薬みたいで、ちょっと怖いかも」
へへ、と笑ったジャンディの背後から、
「毒薬?」
甘く低い声が降ってきた。
「せ、先輩!」
その慌てように、イジョンが堪えきれずにくくくと笑う。
「もー、ふたりとも人が悪いですよ!」
頬を紅潮させて抗議するジャンディに、イジョンは冷める前にと飲み物を薦め、ジャンディの隣に座ったジフは自分用に何かを頼んでいた。
「い、いつからいたんですか」
意味もなくカップの中身をスプーンでぐるぐるとかき混ぜながらジャンディが問えば、
「豪速球、あたり」
しれっとジフが答える。
「それってそれってそれってーーーーーっ!」
じたばたと騒ぎ出しそうなジャンディに、過去の経験から学んだジフは、そっと指先でジャンディの口を抑え、
「個室じゃないから」
その一言で途端にジャンディが口をつぐんだのに、イジョンは微苦笑を浮かべたが、ふたりの間に何があったのかは問わずにすませた。
「豪速球に、毒薬か」
なんかどっちも近寄りたくないねとイジョンが呟いた時、ジャンディがジフの手から逃れてアタフタと言い訳をはじめた。
「毒薬っていうか、うん、いつの間にかじんわり体に染み込んでて、なしでは生活出来ないっていう漢方薬みたいな感じでね、でも何よりも消防士さんだから」
「…ジャンディ、ジフの四次元っぷりが移った?」
眉間に皺を寄せながら問うイジョンに、ジフがくすくすと笑い出した。
「だからですね、えーっと!」
消防士の由来を説明をしている間にカウルが合流し、ジャンディが屈託なく笑うのを喜んでくれた。
「ジャンディって、昔っから自分のことを後回しにするから、ほんと、ジフ先輩には感謝してます」
邪気のないその言葉は、けれどジュンピョでは出来なかったことに対するものだと、ジフもイジョンも気付いて苦笑する。
ジャンディに必要なのは、同じように真っ直ぐに進む相手ではなく、進むべき道を切り拓きながらも自分のことを疎かにする時にそっと支えてくれる人なのだと、言外に幼馴染みは告げたのだから。
相変わらず鈍感な当人だけが気付かず、にこにこと笑っていたけれど。

「それでか」
ようやくウビンが納得したというように言った。
「なに」
不機嫌を隠そうともしないジュンピョは無視して、ジフとジャンディに笑いかける。
「最近ジフ、なるべくジャンディの左側にいるようにしてただろ?」
以前はともかく、ここのところ特に、不自然に見えない程度に、けれどさり気なさを装ってジフが立ち位置を変えていたのに気付いていたのだ。
「自然に見えるし、他に疑ってるヤツはいないと思うけど。わざと右側の方が近いのに左側にまわってみたりとか、してただろ」
「気付いてた?」
「確証はなかったけどな」
ウビンも、ジフほどではないが、他人の機敏がよく分かる。
むしろ、もったいないほどに特定の人物、というよりもジャンディにしかその能力を発揮しないジフよりも、常に全体を見てどうすればフォロー出来るかに心を砕くウビンは、直情型のジュンピョや、普段はいい加減でも重要な時には間違ったことを絶対に許さない正義感の強いイジョンとも違い、その場を平穏に治めるためにするべきことや妥協した方がいいことをきちんと把握できる稀な人物である。
だからこそ、疑問に思うことがあっても、すぐには問い質さない我慢強さを持ち合わせている。
「咄嗟の時に、対応出来ないと」
他人に頼ることをしないジャンディに、表立って出来ることは少ない、けれど、少なくともしてあげられることはやりたいのだと、ジフは言った。
「それで、家族やカウルには?」
イジョンの問いに、ジャンディはため息に似た吐息をひとつこぼした。
「F3にもバレちゃったし、もう、解禁かなあ」

ジャンディが水泳を諦めた時、家族は何も訊かずにいてくれた。
神話に通えるのならそれでいい、玉の輿は諦めずに狙うんだよ、なんて言い方をしてはいたけれど、心配しなかったわけではないだろう。
一時は全てを諦めて漁村で暮らす決意はしたが、なんとか元の生活に戻ることが出来、復学もしたけれど、だからといって大学、しかも医大は特にお金のかかる分野だから、クム家としては奨学金制度でなければ通うことは難しい。
休学やらジュンピョの記憶障害やらで慌ただしく、気が付けばすでに入試はもちろん就職活動の時期さえとうの昔に終わっており、ジュンピョからのプロポーズも保留にしたジャンディは、修学も就労もできず、やむなく浪人することとなった。
とはいえ優雅に暮らせる状況ではやっぱりなくて、相変わらず早朝の新聞と牛乳の配達、日中のお粥屋のバイト、夜間のアートセンターの清掃に深夜のガソリンスタンドと、むしろ学生だった時には学校で休めた分、身体的には楽だったのではないかという生活をしていた。
当然、そんな状態では難関の医大を受験するための勉強なんてほとんど出来るわけがない。
ジャンディの両親のために良かれと思ってジフが手を回したアートセンターの清掃業務も、ジャンディの負荷となってしまっていた。
常々『頭も良くない』とか『バカな子だから』という言い方をしてはいたが、努力型のジャンディが悪い成績を残すはずがない。
足りないのは常に、お金と時間。
勉強のための時間も、本来ならば受験のために家庭教師を雇ったり塾に通ったりするお金も、とにかく余裕というよりも生活に必要な最低限すらも危ぶまれるほどなのだ。
結果、翌年臨んだ試験は不合格。
『就職先、探した方が早いのかも』
そんな言い方でようやく見付けた夢を諦めようとするから、ジフとしては苛立ちと焦りを感じ、強硬手段に出ることにしたのだ。
せっかく見付けたやりたいことをまた失うことで、ジャンディから笑顔が消えるのではないかという不安があったのはもちろんだが、どこかでそんなことになればジュンピョが迎えに来た時にあっさりとついていってしまうかも知れないと思っていたのも確かで。
そんな風に考える自分が卑怯にも思えたが、それでもジャンディが笑っていてくれるためならと躊躇いを振り切った。
とにかくまずは、ジャンディが勉強できる環境を整えること。
だから、財団関係の金融業者に手を回し、ジャンディの父親を呼び戻し、クリーニング店を再開させた。
当然、以前の顧客が全て戻るわけではないから、ジャンディを孫娘のように思っているジフの祖父の診療所に来る人たちのコネで、訝しがられない程度ではあるが恒常的に収入があるようにして、ジャンディがバイトをし過ぎなくてもいい状況を作った。
同時に、家族と一緒にいるとどうしても家業や家事を手伝うことになって時間を割かれてしまうから、おじいさんの診療所の手伝いのための便宜として、一時期と同様、ユン家に住むことを、かなり無理矢理ではあったけれど了承させた。
F4として英才教育を受けてきたジフは、高校の頃にすでに大学を卒業できるほどの学力を身につけており、大学に通うのは卒業のために必要な単位を出席日数でカウントする教授が多いためで、講義そのものは二の次である。
だから、とにかくまずはジャンディが入試をパスすることを目標に、忙しいジャンディがいつでも勉強できるよう、同居の家庭教師となったのだ。
同時に、ジャンディと同じ道を進むために医学部へと移籍を考えていたジフにとっては、ジャンディの試験勉強に付き合うことは復習を兼ねることも出来て好都合でもあった。
そして2年遅れで医大に通いはじめたジャンディは、いつまでもユン家にお世話になるわけにはいかないと、大学からもユン家からもそれほど離れていないアパートへ引っ越した。
そのことで、ジフよりも祖父の方がショックを受けてしばらく呆けていたということは、ジフだけの思い出し笑いのネタである。
ともあれ、ジャンディが医大に入学できたと分かったのと同時に、ジフも経営分野から医療方面へと移籍した。
祖父の診療所を継ぐためだというのは表向きの理由で、本当はF4と親しいというだけで受ける嫉妬や悪意からジャンディを守るため。
そして、同情か嫌がらせか、おそらくはそのどちらもを受けることを嫌がって左手の不具合を誰にも言わないジャンディに向けられるであろう、鈍臭いとか不注意だとかなどの嘲笑やいじめを出来るだけ減らすため。
スウェーデンにいるイジョンはともかく、ジフもウビンも同じ大学にいるし、神話高の卒業生も多い中でジュンピョがアメリカに行って不在だから余計に、ジャンディが高校生の頃のような扱いを受けることは当然考えられるし、そうでなくてもどこか慌てん坊でおっちょこちょいなところがあるから、家の格式に拘るプライドが高い神話に通う生徒たちから一般人のジャンディに悪意が向けられることは明白だったからだ。
神話大に数ある学部・学科でも、基本的に履修しなくてはいけない授業は重なっているから、手続きは簡単だった。
ジフにとっていつでも一番難しいのはジャンディの心境を読むことだから、ジャンディが合格しました~と喜ぶ姿に幸せを感じつつ、一緒に通うことになるんだといつ話したらいいのかと、しばらく葛藤があったことは、ジャンディには内緒のことだろう。

結局、ジャンディの言い分に納得し難いジュンピョは、滞在先にジャンディを連れて行って話をしたがったが、慣れない研修で疲れているからと、解散することになった。
「じゃあ先輩、おやすみなさい」
リムジンは、最初にジャンディを降ろした。
もちろん、店から近い順に回ったのではなく、女性であるジャンディを遅く帰すのはまずいというF4共通の思いからだ。
「納得してねーからな」
憮然としたままジュンピョが言えば、
「近いうちにカウルちゃんも一緒に会おう」
とイジョンが微笑む。
「無理はすんなよ?」
いつも通りのウビンに、
「また学校で」
ジフがふんわりと続けた。
ひらひらと右手を軽く降ってアパートの中へと入っていくジャンディの背中を、四人がそれぞれの思いで見送っていたことを、ジャンディはどう考えていたのかは不明だ。



その後、滞在期間に限りがあったジュンピョは、何度かジャンディと話そうと時間を作ったが、結局前向きな答えをもらえないまま、アメリカへと戻っていった。
『ぜってー諦めねーからな!』
という叫びをひとつ残して。
その数日後、
「後悔しない?」
そう訊いたのは、イジョンだ。
その日、保育園と陶芸教室の先生を兼ねているカウルと一緒に夕食を食べに行く約束で、けれどカウルの終業時間よりも早めにふたりで会っていた。
「突然、どうしたんですか?」
質問の意図が分からないジャンディは、首を傾げて問うた。
「ジュンピョと…それから、ジフとのこと」
「え?」
「心配してた、じゃないな、気になってた、うん、そんな感じ」
「何ですか、それ」
ふふと笑うジャンディに、ジュンピョと付き合っていた頃の陰はない。
「冷血カサノヴァも、ちゃんと人だったんですねえ」
そんな風に揶揄したジャンディに、逆にイジョンが苦笑した。
「鈍感なヤツには言われたくないな」
「心配ご無用ですよー、私はちゃんと私らしく、過ごしてますから」
ジュンピョとは未来を共有出来ないと、執拗なまでのプロポーズを断ったジャンディ。
「私の卒業式の日、先輩たちと踊ったあと、ジュンピョと会ったんです」
ケーブルカーの中でプロポーズされ、でも、それを遮って。
「放っておいたら後悔するぞって、脅されました」
なつかしそうに、一瞬だけふっと視線を窓の外に向けてから、
「神話に来て、F4と出会って、そりゃもう信じられないくらいいっぱい後悔したし、今でも出会わなければよかったって思うことも多いんですけど、でもそれ以上に楽しいこともうれしいことも多かったし、だからジュンピョとのことはむしろ信じられないくらいで、…だから、大丈夫ですよ」
へへへとちょっと鼻に皺を寄せてジャンディが言った。
マカオまで追いかけていった時には、ジュンピョと一緒にいたことが夢のようだと思ったこともあったけれど、ジフが隣にいてくれることで夢ではないのだと信じられた。
その頃から、いやもっとずっと前から、ジャンディの隣にはいつもジフがいたのだ。
だからこそ、今は医者になるべく勉学に勤しんでいるけれど、はじめは財団のためにと経営学を選択したのに、途中から編入してまで医学を選択したジフとの関係も、親友としては気にならないワケではない。
もちろん、町医者としても後継するのであれば当然の進路なのかも知れないが、高校のときと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上にジャンディと一緒にいるジフの態度は、周りから見ればあからさまなほどだったが、今ひとつジャンディの気持ちが測れないのだ。
「ジャンディさ、ジュンピョといて楽しかった?」
「え?」
だから、話の流れから関係ないところから、攻めてみる。
「ジュンピョとはさ、いつ見ても、ケンカしてるか怒ってるかで、すごい顔してただろ?」
ジェットコースターみたいだと、いつか言っていた。
ドキドキハラハラ、先が分からない楽しさはあるけれど、神経が休まる時がないと。
「逆にさ、ジフといる時はすごく女の子に見えてた」

「…ジフか?」
「え?」
しばらく続いた沈黙のあと、ジュンピョが発した言葉はそれだった。
「俺からジフに、乗り換えたんだろう?」
テーブルに肘を乗せ両手を組んだ上に額を乗せ、俯きかげんでジュンピョは続けた。
もちろん、そんなことを言われて黙っているジャンディではない。
「あんた、やっぱりバカ」
いきなりの名指しにわずかに目を見開いたジフはもちろん、イジョンとウビンもジュンピョを見つめた。
「確かに、全く関係ないとは言えないよ」
唇を尖らせて、ジャンディは続けた。
「だって、私が今こうやって医大にいられるのって、ジフ先輩のおかげだもん。っていうか、先輩のおじいさんのおかげ、っていうのかな?」
「あ?」
「私が医者になりたいって思った切欠は、ジフ先輩のおじいさんだもん。あ、えーっと最初はバイトで行ってたお粥屋にちょこちょこ来てメニューにない変な注文ばっかりしてく正体不明の人だったんだけどね。なんかマスターと関係がありそうなんだけどよく分かんない人だなあって思ってて。で、ある時その人に届けろってマスターから食事を預かって、訪ねて行ったらおじいさんの診療所だったの」
なぜかそこで意気投合し、以来、ボランティアで手伝うようになり、とある出産に立ち会った。
その時初めて、抜け殻のようだった自分が、水泳もジュンピョのことも考えずに一生懸命になれたんだと、ジャンディは笑ってみせた。
「マカオから帰ってきて、水泳も出来ないし、あんたとも白紙になったし、これからどうしようって迷ってた時に、ようやく見つけた道だったの」
にっこりと笑うジャンディに、迷いは見えない。
「あんたと一緒になれば、私はまた、夢を諦めなきゃいけなくなる」
得意だった水泳が出来なくなり、迷ったあとにようやく見つけた、やりたいこと。
「例え、あんたのお母さんが認めてくれたとしても、急患のたびに会食だのパーティだのをドタキャンする下っ端医師が神話グループのトップの配偶者には、なれないでしょ」
いたずらっ子のような目をして笑うジャンディに、ジュンピョはもちろん、F3も言葉を発せられなかった。
「だからね、ジフ先輩は、関係ない。ううん、神話に来て以来、一番しんどい時にはいつもジフ先輩がいてくれて、だからここまでがんばってこれたんだし、全く関係ないわけじゃないけど、でも、ク・ジュンピョと一緒にいられないって決めた理由はジフ先輩じゃない」
ジャンディは、毅然と言い放った。
「医者になりたいって思ったのはおじいさんの診療所で出産に立ち会ったからだし、その時はまだ先輩のおじいさんだって知らなかったし。でもさ、お粥屋のマスターがね、以前、ジフ先輩のおじいさんのとこの厨房長だった人の息子なんだって。すごい偶然だよね」
だから、関係があるのかないのか、明確な線引きは出来ないけど、とジャンディは続け、
「とにかくあんたのプロポーズは、誰の所為でもなく私の意思で、受けられない。それが、私の答え」
そう締めくくった。
「…思い出したよ」
きっぱりとしたジャンディの言葉に、ジュンピョは肩を落とした。
「お前、一度だって俺からの誘いに、素直にハイって言ったことなかったんだったっけな…」



「さ、食べよ食べよ?」
重くなった空気を変えようと、運ばれてきていた料理に手を付けようとするジャンディに、
「ちょっと待って」
さらりといつも通りに戻ったジフが言う。
ほんの少し前までの重たい雰囲気を全く残さないその変わり身の早さに、ついていけないジュンピョは放っておいて、イジョンとウビンも『美味そうだ』と言ってカトラリーを手にした。
その間に、ジフが自分の前にある料理を食べやすい一口サイズにさっと切り分け、ジャンディのものと交換する。
「…それ、前もやってたな」
ぼそりとジュンピョが呟いたのに、ウビンとイジョンが驚いて顔を見合わせた。
それに答えるように、
「…以前、猿の賭けに付き合って、4人で旅行したことがあって」
ジュンピョが言い訳のように告げる。
「へえ」
「なんだかんだ言いつつも仲良かったんじゃん」
F2のチャチャを無視し、ジュンピョはジフだけを睨みつける。
「だから?」
それには面倒そうに相槌を打ち、ジフはジャンディの手元をあれこれ世話を焼いていた。
「彼氏気取りか?」
「ク・ジュンピョ!」
苛々とし始めるジュンピョを、ジャンディが止めた。
「ジフ先輩は、助けてくれてるだけなの。変な意味はないよ?」
子どもの間違いを咎めるような言い方に、ジュンピョだけではなくイジョンとウビンも反応する。
「助ける?」
「…あ」
その言葉には、F2も初耳だったらしく、食事をする手がぴたりと止まった。
説明を待つF3をちらりと横目で見てから、ジフはジャンディに許可を求めるように見つめる。
仕方ないね、とでも言うようにジャンディがへへと笑ってジフを見返し、ジフは大きくひとつため息をついた。

「…ジャンディの左手、上手く動かないんだ」
「え」
驚くF3に、ジャンディは視線を自分の手元に落とし、俯いた。
「もしかして、あの時の…ジュンピョを庇って肩を痛めてから?」
ウビンの問いに、ジャンディはかすかに頷いた。
相変わらず気を晴らそうとプールに通うジャンディが、もどかしいのはジュンピョのことだけではないとジフが知ったのは、ジュンピョがいなくなって半年も経ってからだった。
実際に不具合を抱えているのを目の当たりにし、医者には診せたが何ともなかったというジャンディの言葉を信用出来るはずもなく。
ジャンディが診てもらったことは嘘ではないにせよ、町医者が診断出来る次元を越えている症状では、患者の家庭事情を知っているが上に、過酷な診断結果を誤摩化す傾向にあることは珍しくないし、事実レントゲンさえ取らずに診て分かることなど皆無だったのだろう。
「だから、急いで精密検査を受けられるように、可能な限り早く予約を取って病院に連れて行ったよ」
バイト中ではあったけれど、相変わらず客数は少なく、少々強引に連れ出しても苦情は来なかった。
そしてくだされた診断結果は無慈悲にも、『治療を受ければ日常生活には支障はないが水泳は無理』ということ。
逆に言えば、水泳はもちろん、治療を受けなければ日常生活さえも危うくなるということだ。
なのにジャンディは水泳が出来なくなったショックと、相変わらずの貧乏暮らしのために治療するどころか生活のためにバイト三昧でむしろ悪化させ、徐々に痛みが引いて行くのと同時に、左腕は力が入り難くなっていったのだ。
「あの、あのね、私がお金なくって治療に行けなかっただけで、誰の所為でもないの。自業自得だから、心配しないで」
作り笑いで、ね?とジャンディがイジョンとウビンに笑って見せても、ふたりが納得するはずがない。
「だから、引退式?」
「そう」
あの時、唐突にジフが、ジャンディが泳げなくなったから何かしたいと言ってきたことの真相を、ようやくイジョンとウビンは知った。
連絡が取れないジュンピョに会いに、マカオに追いかけていくと決心をしたそのタイミングでのそれは、イジョンの言葉の通り『終わりは何かの始まりである』と、ジャンディを後押ししたに違いない。

「状態としては、どう?」
一時は、右手を駄目にして陶芸を諦めることまで決意したイジョンは、おそらく誰よりもジャンディの気持ちがわかるのだろう。
水泳選手としては無理でも、医者を目指す者としてはどうなのか、と。
「気をつけてればね、普通に生活するのは大丈夫」
その気遣いを分かったのだろう、ジャンディはイジョンにちゃんと笑ってみせた。
「ただね、うっかり使えないことを忘れちゃうから、ミスが多くって」
事情を知らない上級生に嫌味を言われることも多いが、そのあたりはジフが秘密裏に立ち回っている。
ジャンディは、一見では分からないくらいたいしたことはなく、ただちょっと一定以上に腕を上げたり小さな物を握ったりということが出来にくいだけなのだと、続けた。
「だから、こうやってお肉を切ったりする時に、フォークで押さえたりっていうことが、出来ないわけじゃないけど、少し面倒なだけ」
他人がいるからと左手に意識を集中すればなんとかなるが、気の置けない仲間に対してはつい今までのように行動してしまい、うっかりカトラリーを落としたりしてしまうのだと。
「お医者になりたいって言ったって、大きな病院の精密で大変な手術をしたいワケじゃなくて、ジフ先輩のおじいさんみたいに、私たちのような庶民を助けてあげられたらいいなって思ってるから、なんとかなるんじゃないかな」
「知らなかった」
イジョンも、ジュンピョと同様、ずっと海外にいた。
それなりにジャンディの親友カウルと連絡を取ることはあっても、カウルからはそんな話は一度も出たことがなかった。
ジフほどではないにせよ、それなりの頻度で会っていたウビンでさえ、気付かなかった。
「…ジャンディは、親友にも家族にも、黙ってたから」
ジフの声音に、わずかに苛立ちが混じったことに気付いた者は、いたのだろうか。
どうにもならなくなるギリギリまでひとりで頑張ろうとするジャンディだから、家族と親友には黙っていてほしいとジフに頼んでまで、ひた隠しにしていた。
その気持ちも分からなくはないものの、精密検査を受けさせたジフは不可抗力で知ってしまったけれど、誰にも知られないようにしたいというジャンディの気持ちは、むしろジャンディを大切に思う人たちからすれば水臭いと憤慨することは確実だ。
ジフは病院に連れて行って結果を知り、だからこそその後のジャンディが治療を受けていないことも見ており、最悪の状態まで考えたこともあるが、そうでなければなぜ気付かなかったのかと己を責めただろう。
そういう意味で、『知らされない苦痛』もあるのだと、ジャンディにはいつか分かってもらいたいとジフは思っている。
ともあれ、今回は直接の原因でもあるジュンピョには特に知られたくなさそうだったから、ジュンピョの婚約者の提案で旅行に行った時でさえも、ディナーの席では親切に甘やかしている風を装って、今晩のように自分にサーブされたものを一口サイズに切ってジャンディのものと交換した。
「おかげで最近は、名誉消防士と水上保安官よりも、看護士やヘルパーとして忙しいよ」
結局はふたりの間でしか分からない冗談に紛らわせ、ジャンディも
「お世話になってます」
なんておどけて頭を下げ、くすくすと笑っていただけだった。

あの時、ひと騒動あったスキー旅行から、『庶民のデートだ』なんて楽しみにしていたのを遮るようにジュンピョの父親が倒れ、拉致されるように中国へ発つジュンピョを追いかけジャンディを空港に送ろうとしたけれど間に合わず、飛び立つ飛行機を見送りながらジャンディは泣いていた。
その時初めて、ジフは涙を流すジャンディを、愛しい人、そしてどんなことからも守るべき人として抱きしめたのだ。
もともとニューカレドニアの一件で対戦したときから、どんな手を使ってでもジャンディの笑顔を守りたいと思っていたのは、ソヒョンへの思いが単なる憧れに過ぎないと分かったからでもあったが、何よりも任せるべきジュンピョの態度に納得出来ないものを感じたからでもあった。
それでも、不器用ながらもジュンピョの真剣さは見ていても分かったし、なによりジャンディが幸せならと、友人として一番近い場所にいることで我慢していたけれど、ジャンディとは違う意味のもどかしさがどうしても付きまとっていたのだ。
だから、消化し切れない思いがある事ごとに泳ぐジャンディの側で見守り、時にジュンピョとの仲を取り持つこともした。
ジュンピョからは拉致されるように旅立つ際のメール以来一言の連絡もない中、以前カン会長の差し金でモデル男に拉致され、脅され痛めつけられたジュンピョを庇った時に受けた衝撃で水泳が出来なくなり、何をしたらいいのか分からないとプールサイドで泣いた時も、新しい道を一緒に探そうと、以前自分がそうしてもらえたように手助けするからと、こぼれる涙を掬った。
マカオででも、帰国してからも、ジュンピョが現状を把握せずに態度をころころと変えてジャンディにまとわりつく所為で続くカン会長からの攻撃に、どれほど傷ついていたかなど、ジュンピョが知るはずもない。
赤札から始まった高校の3バカガールズをはじめとする嫌がらせでは、どれほど心身共に傷つきながらも、真っ向から立ち向かえていたジャンディなのに。
ジフからすれば状況を把握せず能天気なまでにジャンディだけを思うジュンピョが、正直羨ましくもあり、同時にジャンディの辛さを分かろうとしないことに苛立ちも覚えていたのだ。
自分ならそんな思いはさせないのに、と考えていることに気付いて愕然としたのはいつだったか。

「いつかの真実ゲームで、愛する人が自分の所為で苦しんでいても手放せないと言い切ったけど」
わずかに目を細めたジフは、いつもの寡黙さが信じられないほど、辛辣に言葉を続けた。
「その宣言の通り、いつまでもジュンピョがジャンディに付きまとうから、ジャンディはずっと苦しんで、いつだって泣き顔しか見せなくなった。出会った頃、貼られた赤札に対してさえ負けないで、首謀者であるジュンピョに啖呵を切ってまわし飛び蹴りまでして見せたあのころの純粋なまでの喜怒哀楽がなくなった。それって本当に愛しているって言える?愛している人の笑顔を、見たいと、守りたいと、思わない?」
それは確かに、イジョンやウビンも思っていたことだった。
いつだって自分のことよりも、大切に想う人のために頑張り、苦労し、それでも明るく笑っていたジャンディが、予想せぬ攻撃に無理ばかりして、取り繕ったような笑みしか見せなくなったのはいつからだったのか。
「だから、たとえジャンディがジュンピョと一緒になるって言っても、俺は反対」
普段、無口で思慮深いジフの言葉であるが故に、発せられる一言一言が重さを持つ。
「あの婚約者との結婚式の時にはまだ、ジュンピョと一緒にいた方がいいのかと手助けをしようと思っていたけど、今はそうじゃないって分かるから」
ジフは端から見れば自己完結型であり、ぼーっとしているようでいて、けれど誰よりも早く状況を的確に捉え、その先を見通し、故に自分に関係がないと分かればそれ以上の労力は無駄だと言わんばかりに昼寝をする。
けれど、本人の中で一番優先すべきことに対しては誰よりも真摯で、戦うことも辞さない。
ぼんやりしているように見えて、けれど決して大切なところで判断を間違うことのない、誰よりも『漢』なのだ。
「反対って、それはおめーの意見だろ、当人同士は…」
だからバックグラウンドや容姿、そういった外付けの価値によってのみ立つ自信を否定されてしまえばジュンピョにはプライド以外に残るものはなく、動揺はジャンディに助けを求める方へ向かった。
ジャンディさえ同意してくれれば、ジフをはじめ誰が反対をしようとも関係がないはずなのだから。
そんなジュンピョの思いをどう受け止めたのか、ジャンディはその視線を受けてにっこりと笑ってみせた。

「終わってたんだよ、私たち。マカオの、あの時で」
ふふ、と笑うジャンディに、F4全員の形のないどこかが痛む。
「あの橋の上で言われたことは、本当に辛かった。ちゃんと、どんな言葉であってもク・ジュンピョから直接聞いて受け止めるつもりだったくせに、なのに、聞いたら何のためにここまで来たんだろうって、こんな言葉を聞くためじゃなかったって、哀しかった。今なら、あれは本心じゃなくて、きっとあのお母さんに条件とかを付けられてああいう態度を取ったんだろうなって、ちゃんと分かるんだけど」
ジフが作ってくれた、早朝の逢瀬の機会。
待っていろと言ってくれた恋人としての甘い言葉を期待していたことは、確かだ。
けれど、それ以前の態度から、ある程度の予測は出来て。
それでもせめて、
『元気?』
『元気だよ』
そんな言葉だけでも交わせればよかった、はずだった。
…のに。
「あの時も、それ以外でも、いつでも私を助けてくれたのは、ジフ先輩だった」
思えば、神話に来て始めての日、プールを探して彷徨っていた時に助けてくれたのも。
理由が分からないままに、それでもクラスメイトのイジメに屈するものかと叫んでいた時も。
…その延長で、襲われそうになっていた時も。
どんな理由にせよ、F4の赤札を貼られ、あのとき自殺を試みた生徒の気持ちがわかると覚悟を決めた時に表れたのが、こともあろうか、ジュンピョだった。
あの時は確かに、誰であっても助けてくれるならばと思ったけれど、原因である張本人が名乗り出てくれるなんて、想像の範囲を超えていて。
済し崩し的にジュンピョの彼女だと公言された、そのタイミングで現れたジフの真意は、意図していたのかどうかは本人が黙秘を続ける以上、不明なままだけれど。

ともあれ、無理矢理の別れの時に『すぐ帰る。おとなしく待ってろ』と送ったメール。
それを反古にしたのは、多分に母親の影響はあれど、ジュンピョ本人だ。
その後も、神話大に戻ってきはしたものの、婚約者だのなんだのとドタバタし、ジャンディもなるべく避けるようにしていたからきちんと向き合う機会を持つことはしばらくなくてうやむやになった。
「でも、おかげで新しくやりたいこと、見つけられたし。それには、ク・ジュンピョも水泳も神話グループも関係なく、どんな結果になってもそれが自分の実力だって向き合うことが出来るから」
出来る限りやってみたいのだとにっこりと笑うその顔に、これまでのような陰はない。
「あんたのことは今でも大好きだし、これからもたくさんケンカもして、いっぱい笑いあえたらいいなって思う。でも」
「でも、何だよ」
ジュンピョを真っ直ぐに見るジャンディの視線は、揺るがない。
「あんたのお母さんっていう最大の障害がなくなった今でも、私はあんたと一緒には行けない」
「…んでだよ」
「だってさ、考えてもみてよ。私が、あんたのお母さんと同じことするの?」
「イジメとかか?」
「そうじゃなくて」
あまりにもらしいジュンピョの言葉に、笑ってしまったジャンディが、手をひらひらと振って違うんだと示した。
「例えば、神話のために、なりふり構わず、誰かを傷付けてでもそのためだけに生きるっていうこと」
それが当然だと、疑問に思うことさえなかったジュンピョに、その問いは難しすぎた。

「私は、医者になりたいの」
「…知ってる」
「本当に?」
ジャンディの笑みは変わらない。
けれど、ジュンピョの表情がなくなっていくのは、動画をコマ送りで見ているように明らかだった。
「神話グループのトップの配偶者が、二浪したペーペーの新米医者ですってのは、おかしいでしょ?」
「それはっ…」
「もちろん神話にも医療関連はあるだろうけど、あんたの相手っていうだけで変にちやほやされて、本当にやりたいこともさせてもらえず、なのに受ける嫉妬だけは人一倍なんだろうね」
ジャンディは笑顔のまま続ける。
「それ、私がやりたいことと、違うんだ」
ただでさえお金持ちが通う高校に突然入ってきた貧乏人の異端児と蔑まれ、さらに赤札を貼られた時の辛辣なイジメを真っ向から受け止め、逆にジュンピョから交際宣言がなされた時以降、その受ける態度の違いをジャンディは忘れることはない。
それは無邪気な学生だったからこそ目に見えて悪化していたが、社会人になれば逆に陰湿なものになるだろうし、それを思えば気が重くなるけれど。
だが、今のジャンディにとって問題なのは何よりもまず、ジュンピョの所為でもジャンディの所為でもなく、ただ、お互いにやりたいことが重ならないことなのだ。
「だからね、あんたのプロポーズには『異議あり』なの」
そう言った、自分の言葉に現状を思い出したのだろう。
「こんなに時間をかけなくても、とっくに道が別れてたこと、分かってたのにね」
もっと早くに言ってればよかった、ずっと頑張ってくれたのにごめんね、とふと見せた、ジャンディらしくない、憂いを含んだ笑顔は、彼女がとうにその事実に気付いていたことを証明していた。

切欠は、どう考えても、ジュンピョの父親が倒れたことだった。
たとえ父親が危篤であり、その代理として神話グループの将来を担うためだったとしても、それでも母親の思惑に沿ってジャンディを突き放し、ひどい言葉で傷付けたのは、ジュンピョの意思。
スキー場で遭難しかけた時に交わした『弁当を持ってピクニックをする』という他愛なくも真摯な約束を反古にし、一言の謝罪すらないままに半年もの間連絡を取らず、さらに意を決して逢いに来たジャンディを故意に無視し、ジフにお膳立てされた早朝の逢瀬でも追い討ちをかけるように心ない言葉を投げつけてジャンディを泣かせたのは、紛れもなくジュンピョ自身。
分かっていてなお、それでもジャンディは自分から離れないと思い込んでいたのは、幼少の頃から欲すれば手に入らないものなど何もなかったジュンピョの甘さだったのだろう。
ジャンディが神話高に転入して来て以来、世の中には自分の思い通りにならないものがあると何度も教えられてきたはずなのに、それでもはじめは嫌悪感ばかりだったのにいつからか好意を持ってくれていたから、大切な教訓を忘れてしまっていた。
「だからさ、約束通り頑張ってたあんたには申し訳ないけど、あたしは一緒に行けないよ」
うすうす予想はしていた言葉に、けれどジュンピョの体が強張った。
それを分かっているのかいないのか、ジャンディは言葉を続ける。
「確かにね、あんたとの未来を、想像したこともあるよ」
そう言ってふふ、と笑うジャンディに、いつもの快活さがないことは明白だ。
「でもどこか、歪だった」
我慢とか、妥協とか、どこかで自分らしさを捨てなくてはいけないような関係は、長続きしない。
「ジェットコースターに、ずっと乗ってるワケにもいかないしね」
そう言い切って、ジャンディはどこか吹っ切れたように、高校の時のような明るい笑顔を見せた。