처음(初めて) 11 | 気ままに吐露トロ

気ままに吐露トロ

あれこれ好きなことを、覚え書き。

そもそも、ジャンディは庶民としてさえ低レベルの生活を送っていたのに、配達の途中でちょっと正義感を発揮してしまったがために、望まぬセレブ校への進学を強制された。
それでもなるべく目立たずおとなしく過ごそうと思っていた矢先に起きた、というかうっかり起こしてしまった、友人のためのアイスクリーム事件。
以来、張本人であるジュンピョを始め、クラスメイトや見知らぬ生徒から、どれほどの攻撃を受けてきたか。
それでも学校を辞めずにいられたのは、素っ気なくも助けてくれたジフの存在があったからで。
「ハンカチもバスタオルも、うれしかった」
空になった弁当箱を丁寧にしまいながら、ジャンディは言った。
来たかった学校ではない上に酷い目にあわされて、けれど両親の妙な期待を一身に背負ってしまえば簡単に辞めることもできず、だから、そんな状況でもまだ助けてくれる人がたとえひとりでもいるということが、当時のジャンディにとってどれほどの救いになったか。
当の友人が、2度目の赤札の原因と分かってからでも、ジャンディの姿勢は変わらなかった。
「それから、航空券とか靴も。何度も迎えに来てくださったことも。へこんでる時に、いつもいいタイミングでジフ先輩が助けてくれましたよね。ありがとう」
そんなふうにジャンディは言うけれど、ジフとしては指折り数えてみても、ジフがジャンディにあげられたものは、あまりない。
金銭的なものならば、ランチやディナー、紙コップのコーヒーはもちろん、ジャンディが恐縮がるようなものも含め、手助けできたものはあるかも知れない。
けれど、精神的なものとしては、ジャンディが喜んでくれる名誉消防士として、一体どれだけジャンディを火事から助けることが出来たのだろうかと、ジフとしては悩むところである。
有形無形問わず、ジャンディにあげられたものは、もらったものの大きさに比べるととても少ないと、ジフは素直に思う。
それは金銭に換えられるものでは決してない、ジフにとっては、20年弱の人生そのものをすっかり一新させられるほどの存在だったのだ。
おそらくF3にとっても同様なのだろうが、自覚の程度を測れば、ジフが一番であっただろう。
「そういえば、ジュンピョとは関係なく、ジュンピョのお母さんの室長さんに誰にも内緒でって頼まれて、寝たきりの方を訪ねて本を読んで差し上げたりしたことがあって」
それがジュンピョの実父だという事実は、いまだにジャンディだけが知らないことだけれど。
「その中の詩集に、すごくいいのがあったんです」
そう言ったジャンディは、視線をふとどこか遠くに馳せ、記憶したものを諳んじるように、呟いた。
「”一番美しい出会いは、ハンカチのような出会いだ。大変な時には汗を拭いてくれ、悲しいときは涙を拭いてくれるから”」
その時のジャンディは、いつもの太陽のように明るいものではなく、けれど、作ったものではなく、ただ、愛しいものを見つめるような穏やかな笑顔で。
「それを読んだとき、ああジフ先輩だなあって思ったの。いつでも、私が泣いてる時にはそばにいてくれたなあって」
小麦粉とたまごに塗れたジャンディに、躊躇うことなく真っ白なハンカチを差し出してくれた。
ハンカチだけじゃない、涙を拭いてくれた指先も、抱きしめてくれた肩先も。
「先輩がいつも拭いてくれるから、私の目、だらしなくなっちゃったんですよ」
どうしてくれるんですか、なんて苦笑しながら、でもだからこそ、私にとってはジフ先輩とは一番美しい出会いだったんだって思ってうれしかったとはにかむジャンディを、ジフはどうにかしてしまいそうになるのを我慢するのに懸命だった。

「スズランと指輪は、受け取ってもらえなかった」
独り言のように、けれどきちんとジャンディの耳に届くくらいの大きさで呟く。
「あ、あの時は…」
俯いたままで、ジャンディが呟くように小さな声で言った。
「先輩の大事な人はソヒョンさんだから」
その花言葉の持つ意味を知っていてなお、ジャンディはジフの思いを拒否した。
けれど、ぼんやりしているような外見に比して誰よりも人の機敏に敏感なジフは、すでにジャンディがジュンピョに流されているだけだという予測を立てていた。
そして、非常階段で再会した時のジャンディ当人の台詞から、ジュンピョとの付き合いが望んだものではないと受け取れたから。
『ジュンピョに内緒で』と言うつもりもなかった言葉がするりと出て来たのは、それがおそらく本心だったからだろう。
「スズランは、そう思われても仕方がない時だったけど」
ジフは覗き込むようにジャンディを見つめる。
「指輪は?」
「…忘れられると思ってました。でも出来なくて、だから、そんな状態で受け取ったら、先輩に失礼だと思って」
スキーに行ったとき、プロポーズとも言えるようなペンダントをジュンピョは用意していた。
不器用なふたりのために、それを自然に受け渡しできるよう測ったのは、ジフであり。
その間に遭難事件が勃発し、無理矢理連れ去られるところだったのをジュンピョが無理をして助けて。
だからこそ、ジャンディもジュンピョの思いの深さを知り、受け入れようとしていたはずだったし、ジフもそれを望んでいるのだと思っていた。
けれど、未成年同士の幼い約束は大人の世界の事情に無惨にも引き裂かれ、以後、当人たちが望まぬ結果を招くことになった。

「…でも、初めてキスをもらいました」
そういうジャンディの意図が分からずに、ジフは無自覚に眉間に力を入れていた。
「ジュンピョとは、私の合意がないまま付き合いが始まっちゃった感じで、正直、先輩がフランスから帰ってきたとき、ジュンピョが公言したことを拒否しようと思ってたタイミングだったから、先輩が否定してくれてうれしかったんです」
それでも誰も逆らえないジュンピョの強引さに、結局雰囲気的にはうやむやになり、いつの間にか公的にはジュンピョとジャンディは付き合っているということになった。
「ニューカレドニアに行ったことも誘拐同然だったし、カウルもイジョン先輩に拉致されたって言うから、離陸してなかったらその場で帰るつもりだったんですよ」
用意された食事と、何よりもジフが一緒に行くということがジャンディをその場に留めたということは、今しばらくはジフには内緒にしておこうとジャンディはこっそりと思った。
「先輩、寒いっておっしゃいましたよね」
ソヒョンの婚約を知った夜、これから先のためにどうするべきかと迷っていた時に現れたジャンディ。
それはジフにとって、天啓であった。
大切にするべきなのは、己の人生のあり方を示唆してくれた人であり、導いてくれた人ではないのだと。
「寒い」
あの時と同じ口調で、繰り返す。
「今も、寒くてたまらない」
体じゃない、寒いのは心だ。
それがずっと当たり前で、寒いのだと知ることさえなかった。
寒さを教えてくれるなら、その後温めてくれるなどの然るべき処置をするものだろう?
そんな考えが伝わるようにと、ジフはジャンディをじっと見つめたけれど。
「私はいつも、心が冷えて固くなっちゃう前に先輩が来てくれたから、そばにいてくれたから、頑張る力が湧いてきました」
ふと顔を上げ、ジャンディはにこりと笑った。
「先輩にもそういう人、いらっしゃるといいんだけど」
この場面、このタイミングでジャンディは本気でそんなふうに言うから、ジフはため息に似た苦笑をもらすしかない。

「俺のそういう人に、ジャンディはなってくれないの?」
「えっ?無理ですよそんなの、助けてもらってばっかりだし、私なんかが先輩の力になるなんて、有り得ませんって」
考えることさえせずに即否定し、ばたばたと両手を振って早口でまくしたてるジャンディの両肩を、ジフは左腕で抱え込むように抱きしめる。
「ずっと、こうしてきた」
右肩にジャンディの額が乗り、自然に近づく右の耳に囁くように告げる。
「いつも、こうしていたかった」
右腕をジャンディの背中に回し、逃げられないように囲い込む。
「ジャンディの幸せな笑顔、それさえ見られれば俺はいつだって力が湧いてくる」
ジャンディの膝の上から、包み直された弁当箱がことりと軽い音をたてて落ちる。
「先輩?」
もぞもぞと動くジャンディを、腕の力を強くすることで止めて。
「ジュンピョを忘れなくていい。忘れる必要もない」
いつか、大変だったけど楽しい時間だったと思い出になって、ケンカ友だちという新しい関係を築いていけばいいのだから。
「俺を温められるのはジャンディだけだ」
最後通牒のように、囁いた。