気ままに吐露トロ

気ままに吐露トロ

あれこれ好きなことを、覚え書き。

本宅(ねこのおもちゃ箱。)が旧FC2無料ホームページスペースサービス終了に伴い消滅したので、しばらくはこちらのみでの活動となります。
本宅の作品は、引越し先を探し中。
こちらは本宅に公開していなかった作品の倉庫です。


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01. 君という華(当征)

「華がある」という言い方がある。
容姿だけでなく、内面からも滲み出る品や立ち居振る舞いが良いことを指す言葉だ。
けれど、それは例えであり、まさか体現している人がいようとは思ってもいなかった。
まさに、例えではなく、華そのものだった。
日本人離れした薄い色素も、誰よりも己を律する武士のような心の強さも、不器用にそれでも他の命を慈しむ優しさも。
けれどもそれは、大輪の花というような艶やかさではない。
比較的涼しく厳しい環境で育ち、根元の茎や葉はしっかりとしているのに、表面に現れる花は小さく清楚で、しかも時として色を消して気配を無くしてしまうサンカヨウに似ている。
それでも多くの人に愛され、大切に守られるのは、その誠実さによるものだろう。
そんな、君という華を、手折ることなく、それでも自分の唯一にすることは、できるのか。
…たまにキテレツでポンコツになるから、そこだけは俺個人の観賞用限定にしたいしな。
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02. 人恋しい帰り道(38)

「ひとりでは、ないんですけれどねぇ」
育った孤児院では笑うことはもちろん話すことすらしなかったことで孤立していたし、教師をしていた時も特に親しくしていた人はいなかった。
唯一は、再会した双子の姉だけで、彼女を亡くしてからはすでに生きることさえ望んでいなかった。
なのに今、己に死を与えてくれなかった斜陽殿を去ることに、さみしさを感じてしまっている。
仏頂面で口の悪い最高僧はそれでも分かりにくくも優しくて、元気いっぱいな子猿さんは大罪人である自分にも無邪気に懐いてくれた。
今住んでいる家には命の恩人でもあるナンパなのに漢気あふれたおニイさんもいるのに、いつの間ににぎやかな空間に慣れてしまっていたのだろう。
新たな命として名前をもらいはしても、妖怪を大量虐殺した上に妖怪に身を堕とした自分を見る僧たちの目に温度はないし、むしろ忌まれているほどだ。
まあ、最高僧もどちらかというと避けられているし、子猿さんは邪険にされているから、一緒にいても気を遣わなくていいからかもしれない。
なんとなく人恋しい帰り道を面映く思いながら、次に会える日を心待ちにしている自分のことを嫌いではないということが嬉しい。
まもなく、鬱陶しいとうれしい悲鳴をあげるくらいに一緒にいる日々が待っていることは、まだ知らないけれど。
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03. 季節外れのアイスクリーム(ZS)

つい数日前までは、極限まで衣服を薄く、さらには覆う面積を減らしても暑く、クソ剣士や美人航海士どのなどは海の中にいたほうが長いほどだったが、いかんせん能力者が多いから、どうしても冷たい食事が多くなっていた。
夏島というよりも酷暑島海域なのではないかと思うほどで、製氷機と冷蔵庫はフル稼働でも間に合わないほどだった。
のに。
いきなり極寒になり、衣食住全ての素材を変えることになったのはまあ、それなりに慣れてはきたのだが。
「どうするかなァ」
冷凍食品はむしろ外に置いて置けるくらいだが、冷凍状態でもというか冷凍状態でないと食べられない食品があり、それは流石の船長でもこの気温下では手を出さない。
「それ、くれ」
意外にも、酒豪な剣士が声をかけてきた。
酒>甘味ではあるが、嫌いではないし、けれどわざわざ欲しがるほどでもないと訝しんだが。
酒をかけても美味いし、合う塩味のつまみも食えとどうせ言うだろうと悪ガキの笑いをした。
まあ、季節外れのアイスクリームは、温められた部屋で食べるのもいいが、酒飲みには酒飲みらしい楽しみ方もあるようだと知れたのは、ちょっとした収穫だったな。
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04. 陽光に焦がれる向日葵(当征)

頭が良い、と言うのは単に学力が高いだけではない。
その場に応じて臨機応変に柔軟な思考や行動ができることや、ひとつの回答へ幾通りもの道を考えられることなども挙げられる。
つい、頑固に今あることに拘りがちな自分としては、そんなふうに動けることを羨ましく思う時がある。
しかもそれは、そうしようとしてやっているわけではなく、ただ思いついたからと飄々としているから、悔しくもなるのだ。
そうありたくて真似ようとしても、簡単ではなく、むしろ別の道すら思いつかないことも多い。
一度、なぜそんなに思いつくのだと尋ねたこともあったが、むしろなぜそんな簡単なことを問われるのかがわからないという不思議な表情が返ってきたものだ。
ならばと言動を逐一ずっと観察していたら、ストーカーかと笑われた。
いや、違うな。
そうなりたいと憧れて上を見続ける、陽光に焦がれる向日葵だろう。
あ、頭が黄色いからだとは、うるさいぞ。
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05. 素足で歩こう(GH)

レースの開催地はおおよそ決まっていても、回る国の順序は毎年変わるので、季節と場所が昨年と同じということはほとんどない。
だから、同じ場所でも季節が違えば路面はもちろん自身やマシンのコンディションへの対策も変わるし、同じ時期でも場所が違えば対処の仕方が全く異なる。
それでも、おおよそどこの国でも初夏というのは気持ちがいい。
煌めく陽光と暑すぎない気温、湿度に差はあれど、不快になるようなことはあまりない。
だから、最初に夏が早い国で行って、順に寒冷地方に移動できると、初夏が長く続いていいのになぁとも思ったりする。
そして何より嬉しいのが、ハイネルが一番機嫌がいい季節だからだ。
寒さには強いらしいが細かな手作業などは辛そうだし、暑いのはもう(鉄面皮で見せはしないが)とにかく断固拒否!で眉間の皺が深くなる。
けれど爽やかな風とさらりとした気温では、少しだけ表情も雰囲気も柔らかくなり、開放感もちょっぴり増すのだ。
露出は少なくとも服の生地が薄く軽くなるし、ちょっとした芝生なら、素足で歩こうと言っても付き合ってくれるし、言葉数や笑顔もなんとなく増える。
それが嬉しくて、やる気に繋がるから、いいことづくめだな!
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06. 時を刻む音だけが(GH)

レースシーズンがもう間も無く始まる。
どのチームも最終調整に入っているだろうし、情報の探り合いもピークになっている時期だ。
ブラッシュアップはもちろん、新しいマシンやドライバー、チーム編成による変化も要注意だ。
おそらくシーズン中よりも神経を研ぎ澄ませなければならないこの時期に、なぜか我がチームのエースドライバーに誘われて散歩をしている。
曰く、根を詰めすぎると迷宮入りするから、気分転換の息抜きが必要なのだとか。
寸秒を惜しむ気持ちはありながらも、エースドライバーを蔑ろにはできず、結局付き合うことになる。
靴を脱いで裸足で外を歩くことも、彼がいなければ知らなかった感触だ。
からりと爽やかな気候であることも幸いし、靴底越しでの感触との違いを楽しむ。
風が起こす葉擦れと腕時計の秒針が時を刻む音だけが耳に届く。
気付かぬうちに入っていた肩の力が抜け、大きくひとつ、息を吐いた。
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07. 長雨に閉ざされた空間で(榎京)

霧のように細かい雨が音もなく降っている。
時折、溜まった水滴が軒などから落ちる音と、紙を捲る乾いた軽い音が聞こえるだけで、日中だというのに静まり返っていた。
もう何日も、こんな日が続いている。
ここにいて、何をするわけでもない。
出涸らしの茶を飲んで、ごろごろして、うたた寝をして、柘榴をからかって、おやつを食べて。
家主との会話すらほとんどないこの長雨に閉ざされた空間での時間が、とても心地が良いのだ。
こんな天候では、普段から閑古鳥の鳴いている古書店に客など来ないし、ややこしい噂話さえなければ何かと余計な問題を持ってくる信者たちも顔を出すまい。
静かな静かな、余計なものを何も見なくていい、ふたりだけの時間。
いつから、いつまで、続くだろうか。
…お、柘榴が帰ってきた。
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08. 衣替えの日(義託)

ギイにとって、衣替えという日本の風流な習慣はとてもとても嬉しいものである。
寒がりな託生は、この習慣がなければ真夏でも長袖を着ていそうだからだ。
「暑いのが好きなわけじゃないよ」とは言うが、そもそもあまり肌の露出を好まないのだ。
逆にギイは、人目があるところならともかく、素肌で寝たいタイプだし、むしろ真冬でもコートなしで動き回れるほどだから、年間を通して薄着である。
夏服は6月から9月までだから、実質1年のうちの1/3ほどしかない上に、冷房が強めだったり猛暑日などではないとすぐに上着を羽織るし、希少価値だからこそ垂涎ものだったりする。
基本、ガリガリではないが、夏前はどうしても食欲を落としがちな託生は、ちょうど衣替えをしたあたりから少しほっそりとした体のラインになる。
そこに、体格の差で大きめサイズのギイのシャツを着せると、首筋や二の腕がより華奢に見え、ギイにとってはもう垂涎もののご馳走だ。
たった4ヶ月しかないご褒美期間。
とは言え、なんだかんだで年中すぐに剥ぎ取るのだけれども。
それでも、合法的に着衣姿で素肌を堪能できる夏の衣替えの日は、カレンダーに書かれたおそらくは一番地味なイベントなのに、ギイにはとてもとても待ち遠しい日なのだ。
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09. 蛍と夕涼み(ZS)

黒い海は静かに凪いでいて、見張り台の上にいてすら揺れはほとんど感じられない。
ルフィの腕から己の皿を守りつつの大騒ぎだった夕食も終わり、今はそれぞれ好きなところで自儘に過ごしている。
不意にキッチンのドアが開く音がした。
コツコツと革靴の硬い響きが船尾へと移動してゆき、一瞬の後、小さな赤い火が灯る。
黒いスーツは黒い海へと溶け、赤い火を受けて三日月のように金色の髪が鈍く光った。
それがまるで蛍とその光のように見え、子どものころに寺の裏庭で見た景色を思い出した。
強くなることだけを目標に、とにかく無茶なことばかりをしており、そんな時、師匠は娘と共に夕食後にのんびりしましょうと誘ってくれたものだ。
縁側に座るのが心地よい季節、ふわふわと曲線を描く小さな光を、いつかスパッと気配なく切れるようになると、じっと凝視していたものだが。
蛍と夕涼みをした記憶が、喧騒の後の静けさを懐かしさに変えてくれた。
ふわりと白くたなびく煙が、薄い雲のように星空にかかった。
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10. 常春の僕(榎京)

それなりに特殊な環境で育った自覚もあるし、それを助長するような暮らしをしているとも思う。
とはいえ、なぜか「一般人」と一括りにされるような人物が周りにいないことも原因なのではないかと考えないこともない。
学生のころから遠巻きにされ、目立っているつもりはなかったが、浮いてはいたのだろう。
そのことを厭うつもりは全くなかったが、結果として、どこまでも自由人な一つ年上の先輩に出会ったことで、今の人生があるのだと確信している。
自儘で他人の話は全く聞かず、気の向くままに暴れ、陽気に笑う。
静かに本を読んでいたい自分とは全く違う性質なのに、なぜか考えていることは分かり合えてしまう。
何も考えていないようで、なぜか唆し方は上手いのは、お父上の教育の賜物か。
とはいえ、いつもいつも問題を起こすわけではなく、気まぐれに訪ねてきては昼寝をして帰っていくことがほとんどだ。
それは、普段は極寒の雰囲気な自分を常春の僕に変えてしまう不思議な能力のようで。
もしかしたら、柘榴よりもにゃんこなのかも知れない。

01. ひとりぼっちの待ち合わせ

約束をしているわけではない。
むしろ何度ももう来るなと釘を刺されているほどだ。
授業以外ではいつもいるように誤解しがちだけれど、そこに住んでいるのではないのだから、不在も当然で。
それでもつい、わざわざ行ってしまうのは、話が楽しいからだ。
国語の教師という以上に知識が豊富で、授業とは全く違う面白さがある。
それに、いうほど鬱陶しくは思われてないという気もしている。
本当に迷惑なのであれば、問答無用で追い出すか無視くらいするだろう。
でもだから、ひとりぼっちの待ち合わせのようだと思うのは烏滸がましい。
自分が生徒だから、教師として、冷たく突き放さないだけなのだ。
小さくひとつため息をついて、踵を返した。
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02. くすぐったい時間

「君も来たまえ」
これ見よがしに盛大なため息と共に吐き出された。
学校というところはいろいろなところでいろいろな噂が飛び交う。
それは生徒同士のことから親がご近所さんとの立ち話で聞いてきたこと、どこの学校にでもある七不思議のことも。
笑って済ませられれば良いが、たまに思い込みから呪われるだの死ぬだのという事態に発展し、心配や不安から体調を崩すものさえいる。
そういう時、どうしても真相や対応の仕方を知っているものに頼りたくなるのは仕方がないだろう。
とりあえずは拒否されるが、それでもなんだかだと助言をくれたり関係者に声をかけてくれるのは、きっと本当は優しい人なのだと思う。
だから、厄介ごとに首を突っ込むなと言われても困っている友人は助けたいので、呆れられながらも相談してしまうのだ。
そして、仕方がないというそぶりでもちゃんと解決するところにも連れて行ってくれる。
それはなんだかとても特別扱いされているようで、くすぐったい時間なのだ。
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03. ね、あれ食べよう?

下校時は、友達と一緒に寄り道をするのがいちばんの楽しみだ。
校内ではできない内緒話をしたり、ちょっとした買い食いも1日の疲れを癒してくれる。
先生の妹さんや奥様に遭遇したのも、そういう時だった。
そもそも、先生のご友人たちとも、ありえない場所で先生の姿を見かけて後を追って行ったから会えたのであって、紹介されたわけではない。
困っている友達を放っておけずについ深入りしてしまい、結果解決策を探す上で先生を頼ることになり、呆れられても仕方がないとは思う。
先生のご友人たちも、それぞれかなり特徴的ではあるけれど、お一人ずつは普通にいい人だし、学生だからと見下すこともない。
「ね、あれ食べよう?」
先生の妹さんは、先生よりも私の方に年齢が近いこともあってか、会えた時には必ず声をかけてくれる。
現在は先生のところに居候しているが、いずれは働く女性として独り立ちしたいのだとか。
女性が働くのは工場など雇われる立場が多いのに、独立したいという意志を貫く姿は素敵だと思う。
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04. 0時過ぎの呼び出し

「あの、あのね、」
顔は見たことがある程度、親しくも、名前すら知らない、でも、同級生から話をしたいと言われた。
心霊探偵という名前が公になりつつあるから、公園に0時過ぎの呼び出しということで、またかと、ちょっと面倒に思っていたのだけれど。
「中禅寺先生と、親しいのかしら?」
発せられた言葉は、予想もしていなかったものだった。
いつも何回な事件に首を突っ込むたびに助けてもらってはいるが、さらには友人関係の方々にも親切にしてもらってもいるが、親しいと言っていいものか。
そもそも、学校では教師と生徒という関係であり、先生によって心霊探偵にならされたことすら誰も知らないはずだ。
でも、図書準備室の存在を知らなければ、確かに他の教師よりは話しかけているかもしれない。
「親しいわけじゃなくて、分かりにくい言い方とか曖昧な表現が多いから、尋ねに行ってるだけだよ」
戦中と戦後とでは学べる内容がかなり違っているから、それで納得してもらえるはずだ、と思いたい。
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05. さよならの前に、ここで

「また、君か」
結構慣れてきた、面倒くさそうな応答。
なぜ僕が、とか、どいつもこいつも、とか、友人さんたちもしょっちゅう言われていると言っていたから、いつものことと受け止めておく。
「はい、卒業したらあんまり会えなくなると思うので」
なんだかんだ、それでも2年間、仏頂面のままではあったけれど話を聞いて付き合ってくれた。
「あまり、ね」
この時点で教職を辞し古本屋を始めることや、妹さんもまたすぐに家を出てしまうことも知らなかった。
それでも道ですれ違うかもしれないし、全く会わないことはないだろう。
「だから、さようならの前に、ここで会いたかったんです」
きっと出会いからの2年間は、とてもとても濃く深い時間を過ごせたと思うから。

甘くも切なくも使える感じです。

01. 突然、視界に飛び込んで来た君

日本人離れをした、という表現がおそらくは最適だろうという、長身と、薄い色素。
どうやらとても有名人らしく、そこにいてもいなくても、その名前は噂話の中にいつもあった。
女子たちにはそれなりに好意的な興味を持たれており、でもそれを無視するわけではなく上手くかわしていたように見えた。
男子たちには見目良い容姿と旧華族というその身分からやっかまれていたようだが、楽しそうに相手をしていた。
本さえあればという自分とは全く違う場所に生きているはずの彼が、突然、視界に飛び込んで来たのは、いつだったか。
面白いな、確か初対面で言われた言葉はそんなものだった。
わずかに目をすがめ、自分ではなくその少し後ろを見ている様子で、見えざるものを見ているのだと察した。
ただ、それを面白いという言葉にしたことに引っ掛かりを感じて。
もしかしたら、という期待がなかったとは言えないが。
無視できない存在になったのはそんな切欠だった。
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02. ドアを蹴破って

「なあ!あの生徒は楽しいな!」
兄の経営するジャズバーにいきなり来た、中禅寺の生徒だという女学生。
人付き合いは面倒臭がるくせになぜ教師になどなったのかと不思議に思っていたが、こういう人材を見つけるあたりはらしいのか。
現在のやつの巣窟は高校の図書準備室。
そこは入り口はあえて分かりにくくされた、検閲から避ける書物を隠されていた部屋だ。
本以外には全く興味を見せないのに、面倒そうにも受け入れた女学生に興味が湧いた。
ならば、真相を探らねばならない。
意気揚々とドアを蹴破る勢いで行ったのに、現実は殺風景そのもの。
もしかしたら女学生はもしかしたのかもしれないが。
まあ、千鶴ちゃんがいるしなぁ。
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03. 砂糖菓子のような笑顔

出会った頃から、眉目秀麗、頭脳明晰、運動神経もよく、絵を描く技術も一流、音楽も好きでどんな楽器の演奏も得意、喧嘩も強いうえ、旧華族のやんごとない生まれという一見非の打ち所のない人物特性として出来ないことは何もないのではないかと思われるほどだったが、おそらく唯一、他人に合わせるということは苦手だったようだ。
確かに、常に我が道を進み、周りがどう思おうが全く構わず、媚び諂う人たちはむしろ嫌悪感さえ表していた。
それが、他人の過去が見えてしまうことは不思議なことではなく、ただ他の人たちにはない特性だから、そのせいで距離を置きたい人はそうさせておけばいいと言った時から、なぜか懐かれてしまった。
己が誰よりも優れているというのは事実かもしれないが、破天荒を装っているのも、実は他人とは違うことを憂いていた反動なのだったのか。
戦中にさらに視力を悪化させ、見えざるものがさらに見えるようになってしまったようだが、特に気にすることもなく兄経営のバーで楽器を演奏したりしている。
出会った頃は底抜けに明るい性格なのかと思ったが、実はそうではない闇を持っていることは感じていた。
ただ、それを本人が自覚しているかどうかは不明で。
それでも、ふたりきりの時や柘榴に対しての時などに見せる、無邪気な笑顔は砂糖菓子のような甘さがあることには気付いている。
優しいのだ、心根は。
そのことにおそらく、本人も周囲の奴らも気付いていないのだろうが。
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04. いつのまにか

それは、今まで見えたものの中で群を抜いて異様なものだった。
神社のようなものや老人の姿あるが、とにかく圧倒的に本のページばかりが降り積もるように重なっていたのだ。
文字ばかりのものもあれば絵が挿ったものも、図鑑のようなものまでとにかくありとあらゆるもので埋め尽くされている。
どういう経験をすればこんなことになるのか。
戦後には実験室なのか研究室なのかわからない場所も増えたのだがそれはともかく。
だからつい、話しかけてしまったのだ。
目のこともあっさりと受け入れ、どういうことなのかということさえも回答をくれた。
普段は口数の多い方ではないが、何を尋ねても明確で、理路整然と明確に返してくれるのは楽しかった。
いつのまにか、一緒にいることが当たり前になった。
楽しいことも、多くなっていった。
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05. いてくれてありがとう

「なるべく巻き込まないでくれ」
自分の生徒だと知ると、榎さんも敦子も千鶴子すらもおしゃべりに誘うようになった。
おそらく今まで出会ってこなかった、純粋で、友人思いで、行動力も度胸もあるがどこか危なっかしいところが放って置けないのだろう。
自分の居場所を公にしないために心霊探偵としての役割を押し付けてしまったが、友人たちから頼られて当人は満更でもなさそうだが、すぐに自分を頼るところはいただけない。
とはいえ、彼女がいたからこそ、被害者たちも和やかに結果を受け入れてくれたのも事実だろう。
なんだかんだ言いつつも木場の旦那や骨董屋も親しくなっていて、これ以上自分の周囲に入り込んでほしくはないのだが。
それでも、被害者たちは若い女性ならではの観点や思いやりといったものは救われていると思う。
いてくれてありがとうなどというつもりはないが。
彼女に言っても無駄らしいから、無難に大人な対応を願うとしよう。
…榎さんには期待しないほうがいいか…。

01. そのベルで夢は終わる

チェッカーズフラッグが大きく弧を描いて振られる。
それは今年の覇者が決まった瞬間だ。
ゴールラインを走り抜けたマシンがスピードを緩め、トップが開くとドライバーが人差し指を天に向けてまっすぐに腕を伸ばす。
未だヘルメットに包まれた頭部は、けれどそのマシンのドラーバーの為人を表す黄金色の髪が王者の鬣のように輝いていることを誰もが知っている。
実力はありながらも弱小チームに所属していたために結果が残せず、天敵とも呼ばれた相手が立ち上げたドイツに拠点を置くチームに移籍した時には母国アメリカを裏切るのかなど、世界中から非難を浴びたものだ。
だがそんなものは結果さえ出せばあっという間になくなる。
とても、とても充実した、そして幸せな時間だった。
それが無粋な雑音で途切れさせられ、めったに見られない笑顔がかき消される。
起床を促すそのベルで夢は終わるが、幸せな気持ちはきちんと残っている。
おはようと言える相手が隣にいてくれるからだ。
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02. 目覚めたての光

まぶたの外が白くなったのを感じて、目を開ける。
また集中しすぎてデスクで意識を飛ばしたらしい。
2度目のドライバー引退後、マシンのデザインを主に、若手のドライバーやメカニックたちの指導にも力を入れている。
ドライバーの経験があればこその設計に関する改良点はもちろん、デザインをしたからこそドライバーがどういうトレーニングをするべきかなども指導しやすい。
当然、設計も青写真から関わるから、メカニックともしっかりと込み入った相談が出来る。
筆頭ドライバーも大御所と呼ばれる年齢になりつつあり、体力馬鹿ではあるがあと何年走れるか分からないからこそ、 次世代を育成することも重要だ。
やらなければならないことは無限にあり、集中すると寝食を忘れる悪癖のため、作業デスクやガレージでうっかりうたた寝をすることも少なくない。
さすがにその後は逆に体が重くなって悪循環だとは思うが、それが日常だから仕方がない。
…と、いう言い訳を許してくれない男が約1名。
目覚めたての光のように今後を担うものたちを育てるためにも、今まで世界のトップを走り抜けてきたもののためにも、もう少し休みを取った方がいいのだろうな。
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03. 君色スケジュール

トレーニングや食事がきっちりと決められているため、毎日がきちんと過ぎてゆく。
以前のように真夜中まで深酒をすることもなく、女性たちと鬱憤を晴らすこともない。
一緒にいたい相手が忙し過ぎて寂しくなることはあれど、同じ場所にいることができる今はそれも幸せでしかない。
体がしっかりと出来上がり、若手からは憧れられるほど、ドライバーとしては最高の体躯であるという自負もある。
とはいえ、身体にも精神にも負荷のかかりすぎるこの職業は何年も続けられるものではないことも事実だ。
引退後は指導者や解説者に転身したり、スポンサーなどの関係会社に入ることもあるが、たいていのものは走ることしか知らないから、あまり選択肢は広くない。
すっぱりと足を洗って実家の会社を手伝うことも可能かもしれないが、出来ればこのままここに残りたいというのが大前提にある。
そう口にしてもおそらく拒否はされないはずだ。
これまで同様、起床から就寝、ついでにその後まできっと君色のスケジュールで過ごすのだろう。
サボったり脱線したりして叱られることもちゃんと予定のうちなのだ。
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04. 追跡ごっこの恋

「グ〜〜〜〜〜デリアン〜〜〜〜〜」
今日も今日とて、クルーの誰も気にしなくなってしまったCEOの低い唸り声が床の上を這ってゆく。
シュトルムツェンダーはシュトロブラムス社の子会社とも言える立ち位置で、本来ならば社長と呼ぶべきであるが、シュトロブラムスのトップが独立した会社としてやってみるがいいと判断したため、元ドライバーである息子は現在、監督とマシンデザイナーを兼任しながら総括としても多忙を極めている。
そしてそれをあれこれちょっかいをかけては邪魔するのが壮年期真っ只中であるチームのエースドライバーなのだ。
ふたりがまだライバルチームに所属していた時に犬猿の仲だと言われていたころからのコミュニケーションだと知るものは少なくなったが、ここでは日常茶飯事として誰も気にしない。
「え、だってハイネルちゃんがさぁ〜〜〜」
若いころのトレードマークであったテンガロンハットこそないものの、軽い調子で言い訳しつつラフな格好で逃げ回るドライバーらしくない姿は健在だ。
毎日毎時間、デスクワークが多くて運動不足気味なのを慮ってちょっかいをかけてからかって怒って追いかけてくるのから逃げ回る。
マシンに乗っていてもいなくても、追跡ごっこの恋は終わらない。
さて、いつ捕まってやろうかな。
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05. 逆転まで十二時間

数台あるスクリーンが絶えず内容を変えていく。
手元で操作しているもの、音声によるもの、離れた場所で作業しているものを映し出しているものなど中身も違う。
それを視線で追いながら、的確に文字や数字を加減させてゆく。
ひと段落つけば実際にマシンを組み立てているところを視察し、不備や改良点などを話し合い、事務室では経費や取引先などに問題がないかを確認する。
その間の移動中にもひっきりなしに声をかけられ、歩きながらも丁寧に質問に答える。
が、ふと何かに気づいて足を止めた。
「…静かすぎだ」
すでに席を外してから半日が経っており、おとなしくトレーニングや睡眠をしているのならばともかく、子どものように静かすぎるとむしろ良くないことが多い。
そして案の定、不在の隙にコンピュータを一つ陣取ってゲームに興じる後ろ姿。
楽しい時間が恐怖の時間に逆転まで(今回は)十二時間だった。
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06. ぜんまいを巻いて

「私のいない隙を狙ってサボるとは相変わらず素晴らしい根性だな」
「ひぇっ」
 知らぬも者が見れば、 現役のころと変わらぬ容姿のためにそれはそれは美しい笑顔ではあるが、ことエースドライバーにとってはニッポンのハンニャと言われるマスクが背後に大きくゴゴゴ…なんて音とともにせり上がってくるのがバッチリ見えている。
「ちょっと待った、ハイネルちゃん。俺はハイネルちゃんが組んだスケジュールをちゃんとこなして、空いた時間で…」
アワアワしながらも言い訳を試みるも、笑っていない瞳がぎらりと威力を増す。
「私は貴様に半日以上ものフリータイムを与えた覚えはないのだが?」
ドライバーとして理想だと言われるほど逞しくなった身体が、ぜんまいを巻いて動かすおもちゃのようにぎこちなく固まる。
「…エート」
ギギギ、と震えながら唇の両端が持ち上がり、待て、という言葉も出ないうちに脱兎も顔負けのスピードで笑顔の横を走り抜ける。
そしてまた、名物を通り越してすでに日常である光景が始まるのだ。
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07. アラームが告げるより早く

お互いの関係をきちんと認識してからも、相棒の生活サイクルは自分とは違った意味で不規則だ。
基本的にドライバーはトレーニングやマシンテスト、テストランなど体を動かすことが主で、座学はあまりない。
それでもこなすメニューは日ごとに違っており、休むタイミングもそれらに合わせてまちまちだし、後輩ドライバーとの兼ね合いも出てくる。
それでも出入りする場所は多くなく、予定が決まっているのでいつどこにいるということはクルーには明示されている。
逆にどの部門でも監督兼デザイナーである彼は必要とされており、おおよその回る経路は毎日決めているようだが、突然の要請も多々あり、スケジュールなどあってないに等しい。
当然、労働時間は長くなることはあっても短くなることはほぼ皆無で、しかも根が真面目なのでどれほど過酷な状態でも自分のようにサボるということをしない。
しかも疲れているという自覚はなく限界まで酷使する上に、クルーは誰もトップに注意を促すことができないから困るのだ。
ならば、唯一それができる人間がやるしかないではないか。
疲労困憊で倒れると彼の身体のアラームが告げるより早く回収し、休息を取らせなければならない。
ということでやっぱり本日も追いかけられるようにサボるのだ。
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08. 日付をまたいで延長戦

予期しないトラブルは早期解決が求められる。
通常の業務は減るはずもなく、真っ先に削られるのは睡眠と食事の時間だ。
できうる限りにまで人員を割き、長くかかりそうならば交代制で修正に当たる。
だがそこで交代できないのがトップで、休憩すら惜しんで見極めをし、指示を出し、時には当人が手を出す。
他のチームと違い、トップがマシンをデザインしているから現場を離れることができないのだ。
不眠不休が数日続くことも厭わず、解決へと導く役は誰にも代われない。
「そろそろ充電切れをおこすかな」
何も手伝えないドライバーではあるが、監督の体調は本人よりもよく分かってしまうから。
日付をまたいで延長戦、という時にはしばしば強制的に退去させるのが唯一の仕事だ。
その時のホッとしたクルーたちの顔を知らないのは、マシンバカだけだろう。
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09. とまれ、針音 / 心音

コチ、コチ、コチ。
最新の技術を駆使してマシンを作り上げるものが、だが自室ではアナログの時計を好み、静寂の中に秒針が刻むかすかな音が響く。
現場から離れようとせず子どものようにむずがる体を担ぎ上げるようにして運び、ベッドに放り込んでしばらく。
緊張やら疲労やら睡魔やらがスプリングに負け、あっという間に昏睡状態になった。
誰よりも責任感が強く、志が高く、己に厳しい彼は、シーズン中でさえクルーには休みを取らせるくせに、己の体は機械だと思い込んでいるのかもしれない。
眉間にしわを寄せ、目の下にクマを作り、どんどん細くなってゆく顔や体を見て心配しないクルーなどいないということを知らないのか。
微妙なさじ加減が必要な案件や最終的な判断や決断はともかく、多少席を外したくらいで揺らぐようなメンバーでないことは雇い入れた自分が知っているはずなのに。
なんでもかでも背負いたがるうえに誰をも頼ろうとしない悪癖は出会ったころからすでに健在ではあったけれども。
「とまれ、針音。せめてコイツが少しでも長く休めるように」
音だけでなく時さえも止まってくれたら、安眠できる時間も長くなろうに。
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10. そして時は動き出す

「テスト・ランだ」
改良するよりも全く新しいものを作り上げることは、このチームでは実はそれほどめずらしくはない。
とはいえ、斬新な形状だったりするので乗り手を選ぶこともあり、大抵は元ドライバーであるハイネルが初試乗するが、筋力や体力が必要な時はグーデリアンが担うことになる。
当然、設計から組み立て等関わったメンバーが揃って見守る中では、育成中の若手では荷が重いことも理由である。
完成形になるまでにも何度もコックピットに座る機会はあるので、それほど緊張はしない。
それでも初めてコースを走るというのは、走り慣れた場所であっても新鮮だ。
ピットからゆっくり運び出されたマシンは、陽光を反射して燦然と輝く。
スーツを着てヘルメットをかぶり、ピットに並ぶ面々と、誰より大切な人に向かって「出ます」という合図を送る。
そして時は動き出す。
さらなる高みを目指して。

時計をイメージして作りました。追いつけ追い越せ恋の追跡。目覚ましだったり、携帯だったり、時間帯だったり。

09. どちらかお好きな方をお使いください。

01. 計略か必然か?

京極堂がまたもや厄介な問題を押し付けられたらしい。
めずらしくも下僕たちからではなく高校の教師をしていた時の生徒からだというから、断りきれなかったのか。
直接の関係者ではないそうだが、過日話題にのぼった若い女性の投身自殺の件だというから、下駄も巻き込まれている。
不審な点が多いそうで、下働きをしていた大家でも目立たない大人しい方だが虐げられていた様子はなく、実家の方でも問題はなかったので自殺する理由がないのだと。
ただ、奉公先で彼女のこととは別に何やらいざこざがあり、秘密裏に処理されたという噂が流行ったのだとか。
とにかく整合性があるように見えて腑に落ちないことばかりで、学生時代にどんな疑惑や問題も解いた中禅寺先生を思い出して頼ってきたのだと、敦っちゃんが言っていた。
さて、いきなりの彼女の出現は、計略か必然か?
自殺で処理された案件に、関係のない身内で処理済みの問題。
京極堂に近付くための口実なのか、何か得体の知れないものが関与しているのか。
そして京極堂は、動くのか。
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02. なのに顔色ひとつ変えず

亡くなった女性が自殺だと決定されたのは遺書があったからと箱が言っていた。
だが彼女は大家の下働きで読み書きは出来なかったはずで、代筆した者がいたはず。
鳥やカマが何やら探っているようだが、関係のない者が尋ねても教えてもらえないのは当然だし、取材など余計に拒まれるのがオチだ。
京極堂は何やら考えているようだが納得出来るまでは一言も口外しないのは常だから仕方がない。
「にゃ〜んこ」
なんとなく、気まぐれに近付いてみた大家の塀の上に愛しのもふもふがいて、声をかける。
放っておかれているようでそれでも毛艶の良い京極堂の柘榴に比べ、どこかくたびれ、元気がなさそうな感じがした。
見えたのは、粉?
とりあえずは京極堂に言ってみたが、そうかの一言のみ。
苦しそうなにゃんこのこともあるのに、顔色一つ変えず黙ったままなのは、あらゆる可能性を考えているから、のはずだ。
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03. その刃先にも似た瞳

榎木津の名前を出せば断られないことは分かっているが、それでは面白くない。
カマはどさ回りで得た情報をとくとくと話すが、それがどうしたというものばかりだ。
以前大家の一人娘が原因不明で嬰児を亡くしたとか、以来ずっとその娘は体調不良で伏せっているとか。
伏せっている娘と自殺した下働きはほとんど顔を合わす機会はなかったとか。
したり顔でしゃべり続けるカマに、時折京極堂はその刃先にも似た瞳を向ける。
己の推理を裏付ける何かがあったのか。
めずらしくも千鶴ちゃんにも何かを頼んでいた。
当人たちはもちろん、大家の人たちと接触できないから視ることも不可能で、欲求不満で暴れたくなる。
そんな折、なんとなく大家の近くをぶらついていたら、依頼人から声をかけられた。
これは、好機か?
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04. 要の言葉は胸に封して

「今は探偵さん、なんですよね?」
バンド姿の己の姿が視え、そういえばと記憶を掘り起こす。
「中禅寺先生に頼ることは、ご迷惑になると分かってはいるんですが」
自死した女は親しくはなくとも学友で、今はともかく、当時は明るく前向きで、だからこそ自死する理由がわからない、らしい。
「ご大家にはそれなりに存続するための問題があると聞いています」
犯罪ではないかもしれないが、その家でしか通用しない決まりや約束事などで立場の弱いものが犠牲になる可能性は低くはない。
「でも彼女はとてもよくしてもらっていると、それは本心だったと思うんです」
自死でも事故でも殺害でも、とにかくそうなった経緯を知りたいからお願いしますと頭を下げた。
「ってことなんだけど」
それでも、要の言葉は胸に封してしまったままでは京極堂だって難しいだろうに。
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05. 負けず、曲げぬ心

「赤ん坊を亡くしてます」
カマがさも重大発表だとでもいうように告げた。
だがそれは豆腐も知っている情報だし、敦っちゃんも頷いていた。
「同時に母親、まあ嫁ですが、も、かなり体調を崩していたそうで、それは今も続いていて、むしろ悪化しているとか」
このままではその母親も身罷るのではないかと、周辺は心配しているらしい。
「敦子」
京極堂がめずらしくも名を呼び、他のものには聞こえないように何か耳打ちし、敦っちゃんはそのまま席を外した。
代わりに部屋に入ってきたのは奥方の千鶴ちゃんで、そこでも何やら訊いていた。
解決の糸口を見つけたのか、どれほどの難題でも負けず、曲げぬ心がおそらく真実への道を示すのだろう。
ならば、とりあえず今は柘榴を愛でておこう。
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06. 背中を預ける人は誰?

そして京極堂が漆黒に着替え、関係者が集められた。
十年ほど前、現夫人の赤ん坊が生まれて数ヶ月で衰弱のため身罷ったことに始まる。
そして先日、やっと授かった赤子を同様に亡くし、夫人も体調を崩し、今尚臥せっていることが多いという。
症状を聞くに、白粉に含まれる鉛だろうと京極堂は検討をつけ、夫人が使用しているかどうかを確かめた。
千鶴ちゃんや敦っちゃんの確認のもと、鉛は中毒になるため少し前にすでに製造が禁止されたはずだが、それでも見目よくしようと使い続けるものもいるのだ。
大家の婦人ならば分からないこともないが、体調を崩し、子を亡くしてまでは使うまい。
そしてそれは本人ではなく夫人付きの女中頭が夫人をより美しく見せるためにこっそりと入手し使わせていたのだ。
たとえ殺意はなくとも、禁止されているものを正規でなく入手していたのなら罪に問われるべきだろう。
夫人が信頼し、背中を預ける人は誰でもなくその女中なのだ。
美しさも命あってこそのものだと、なぜ分からなかったのか。
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07. 投降より誇りある死を

「私も申し出るつもりでいました」
女中頭が言うに、原因が発覚したのは夫人が親しくしている人のところにいる薬師からだったそうだ。
その人も同様に衰弱し、それが白粉の鉛による症状だと薬師が説明し、夫人にも伝えたとのこと。
だから夫人は今でもその白粉を使っているとは知らないという。
だが流石に女中頭も罪の意識を感じ、真実を夫人に告げて死のうとした時に止め、身代わりを申し出たのが自死した下働きの子だった。
「なぜその子が?」
大家であれば女中や下働きの人数も多く、主人の家族がいちいち覚えているはずもない。
『でも、一度だけですが、名前を呼んでいただいたんです』
それが嬉しくて、だから、その方のためならば命を断つこともできると。
投降よりも誇りある死をと覚悟したのは、女中頭よりも下働きの子だったのだ。
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08. 今際の刻みに呟く名

何に命を賭けるのかは、それぞれに異なる。
だがそれが執着となり、他者を害するようになっては絶対にいけない。
京極堂の前で女中頭は首を垂れたまま小さく蹲っている。
これが己が美しくなるためのものであればまだ簡単だったのだろうが、仕える相手のためで、しかも厚意でしかないとなればややこしい。
「主人が毒物によって体調を崩し、そのために窶れた姿を補うためにさらなる毒物を使う、それはすでに未必の故意でしかない」
淡々と告げる京極堂の声に温度はない。
美に執着するあまりに限度を超え、さらに己の始末の代わりに不必要に無垢な命を散らした。
どんな罪に問われるのかは、下駄やコケシが対応するのだろうが、ことが明るみになれば、大家としての体面を保つことは難しいだろう。
おそらく女中頭は少なくとも職を失い、求刑もありえるかもしれない。
その今際の刻みに呟く名は、己なのか夫人なのか、興味はないが。
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09. 戦場に染む涙雨

お国のために命を差し出せと言われていたあの頃、戦うことを誇りと思えと強制されていた頃。
人ひとりの価値がとても軽んじられていた。
勝つために死ねと、惜しげも無く散らされていった。
それはおかしいと、誰も自分の意思のため以外に命を捨てることはないと、だから、自棄になることを禁止した。
おかげで結構生存率高めで終戦を迎えられたと思う。
だがその間、京極堂が置かれた立場は戦死を賛美することとは異なる次元で死者を冒涜するような研究に携わっていたという。
だからこそ、理不尽な死に対して京極堂は敏感だ。
直接戦争には関わっていなかったとしても、生殺与奪を特定の人や機関が操ることを唾棄していた。
戦場に染む涙雨にさえ無表情で悼んでいた彼が、美に執着するあまり人の考えを超えてしまった今回のことに心中穏やかではないことは確かだ。
さて、どんな幕引きになることやら。
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10. 彼女なりの手向け花

僕は拝み屋であって警察ではありません、というのがその場での最後の言葉だった。
古本屋の片手間に宮司や陰陽師もするが、誰かを捕まえる権限はないし、事実恐らくは豆腐が請け負うだろうから、謎が解ければそれでいいのだ。
そのことに元生徒は不思議そうな表情をしていたが、後はそれこそその家の者たちが決めることだろう。
一度は不問になったが、赤子とはいえ人死も出ているし、だが殺意ではなくむしろ厚意の果てのものであるから、難しいとは思うが。
事の次第は敦っちゃんから下僕たちへ伝えられ、「女性はいつでも美しくいたい、いて欲しいと望むものですわ」と千鶴ちゃんが言った。
「あ、にゃんこ」
太陽光を受けて、完全にではないがだいぶ毛艶が良くなっているような感じがした。
「それで、粉」
わはは、と笑ってガシガシと撫でれば嫌そうに塀の奥へ消えて行った。

「時代物」という雰囲気になるように作ってみました。
08. 今際の刻み(いまわのきざみ)…死ぬ間際
10. 手向け(たむけ)…餞別・死者への供えもの

 

 

01. 変わってく君、変わらない僕

出会いは、必然という名の偶然、どうやら家族や知人とは見えるものが違うらしいこの目に納得できる答えをくれた唯一の人。
普段は仏頂面で言葉数も少ないのに、きっかけがあれば滔々と話し続け、痩せぎすのくせに結構大食らいで。
今までにないその振り幅の大きさを知るに、それが嬉しくて、楽しくて、姿を見ればまとわりついた。
互いに戦争から生きて戻り、さあこれからまた学生の時のようにと思っていたのに、いつのまにか妻帯していた。
年の離れた妹がお世話になった家の人だと聞いた。
妹がいたことすら知らず、では結婚はその代償に押し付けられたものなのかと思ったが、それなりに冗談も言うその人は彼女も自分も拒む気配もなく。
出会った頃からどんどん変わってく君、あの頃のまま変わらない僕。
探偵社も、特殊な目の使い方を教えてくれたからこそのものなのに。
それでも厄介ごとに巻き込まれるたび、面倒そうでも日々の鬱憤を晴らせる場面を作ってくれるから。
期待してもいいかなって思う気持ちが止められなくなるのだ。
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02. 親友でもなく恋人でもなく…?

学生の頃、やたらと目立つ先輩がいた。
容姿が西洋風だったこともあるが、奇怪な言動が多いのだと。
けれど話してみれば、確かに躁病かと思うほど破天荒ではあるし、常に大げさな態度も鬱陶しくはあったが、邪魔にならなければ問題はなかった。
他の者には見えないものが見えると言われ、詳しく聞けばそれはその人の体験したことだということが分かり、未来が見えるワケでなし、ならば失し物探しをしたらいいと呟いたら、後になにやら仰々しい名前の探偵社を立ち上げたが。
終戦後、暫くは教職に就いていたが、無理はしたくない、好きなことを職業にしたいと思ったら、妹が世話になった家の娘である妻は、それがいいでしょうと全面的に協力を申し出てくれた。
おかげで自儘に入手したものを読みふける生活を確約できたが、ほぼほぼ家にいること幸いと、面倒なやつらがやって来る機会が増えた。
誰も彼も、読書の邪魔をするかのようにどうでもいいことを話し、碌でもないことを助けろと、勝手に面倒を押し付け、前職の方がよかったかと思うことさえある。
ああ、あの人だけは違うか。
毎日来たかと思えば何週間も音沙汰がなかったりと気ままだが、何がいいのかただごろりと寝て、気がすめば帰ってゆく。
陽と隠、動と静、全てが違うのに、仲のよい親友でもなく連れ添う恋人でもなく、でも共に居られる存在は、なんと呼ぶのだろう。
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03. 幼馴染みの糸の色

赤い糸、というものがあるらしい。
目には見えずとも、生涯を共にする相手とは赤い糸で指がつながっているらしい。
中禅寺改京極堂曰く、そんなものはあるわけがない、と一刀両断だったが。
他の人には見えぬものが見えるこの目なら、依頼としてよく持ち込まれる依頼者とその相手との関係もはっきりできそうなものだが。
見えるのは、約束した相手ではない女性との関係とか、相手を決められた女性が思う相手との逢瀬とか。
もちろんそこに赤い糸などなく、当然京極堂と千鶴ちゃんの間にも見えない。
赤は、京極堂の色だ。
いや、「拝み屋」の時の唯一の「色」だ。
旧制高校からで幼馴染とは言えないかもしれないが、赤い鼻緒が一歩進む時は、何かが終息に向かう合図で、その編まれた糸の色は強烈な印象として残る。
それを自分のものだけにしたいなどとは言えないが。
出来得る限り他のものの目に映らないようと願うことは、許されるだろうか。
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04. 約束の有効期限

言霊、という言い方があるように、一度声に出した音は魂を持ち、本人も聞いた相手をも縛る。
意図しての発言ならばともかく、普段、それを気にして喋る者は少ない。
だが「約束」というものはそれが果たされるまでの「有効期限」というものがあり、履行されなければ失うものが大なり小なり生じることとなる。
その最たるものは「信頼」だろう。
得るに難く、容易に失われ、その後は二度と手に入れることが出来ないもの。
だからこそ、常に、言質を取られないように気を付けていた。
言葉は魔物であると知っているから、使い方を間違わぬよう、細心の注意を払っていた。
ならば、いつ、したのか。
書物を読む邪魔にならなければいつでも来ていいとは言ったが。
有効期限のない約束など、したつもりはなかったのに、いつしか入り浸り、平穏を望む自分の何かを根底から覆されそうで、怖くなる。
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05. 幼い日の幻影

はじめは、おかしなことを言う子、だった。
本人が知られたくないことを口にしてしまった場合は即座に嘘つき、と逆になじられた。
さらには、言うことが相手の過去であると知られてからは、気味の悪い子、になった。
だからなんだ、と思った。
見えてしまうものを見て何が悪い、別に盗んだり揺すったりして手に入れたものではないのだ、堂々としていればいい、と。
色素の薄さで目立つ外見も、見えないものが見える目も、自分が望んだものではないが、非難される謂れもないはずだ。
それが強がりだと気付いたのは、不思議でも何でもないのだと認めてくれた人のおかげで。
それからは、幼い日の幻影に意固地になることなく、本当にありのままの自分でいられることができるようになった。
考え方や喋り方、動くのを嫌がるくせに書籍のためならどこまででもひょいひょい出かける、知れば知るほどに面白い、自分を変えてくれたその人は。
誰よりもきっと、唯一の人だ。
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06. 以前はこんな顔しなかった

他のものには見えないものが見えると聞き、思うところを喋ったら、なぜか懐かれた、旧制高等学校の一期先輩。
以来、なぜか不定期に訪れては自儘な時間を過ごしていくことが増えた。
それは戦前戦後を問わず続いており、教職を辞して古書肆を開業して以来、常に家にいるとわかったからか、頻度が高くなった。
とはいえ他の者のように面倒ごとを持ってくるわけでなく、ただ石榴と戯れ、ごろ寝をし、それに満足すると何をするでもなく帰ってゆく。
読書の邪魔をするわけでなし、特別会話があるでもなし、好きにさせておいたが、最近、寝ていると思っていても何やら言いたげな視線を感じるようになった。
縁あって、妹が世話になった家の娘と婚姻を結んだが、互いに好きなことをし、不必要に干渉や邪魔をせず、悪くないと思っている。
が、彼は偶然なのか、彼女がいない時に来訪することが多い。
居合わせたとしても、奔放で磊落な彼らしくなく居心地が悪そうで、早々に辞去することが多い。
その時の顔が、不平不満ではないが、それでも何か言いたげで、常に躁状態で底抜けに明るい彼には似合わない表情であることが多く。
以前はこんな顔はしなかったと思うから、会うことがなかった戦中を挟んで変わった自分の生活に、何か思うことがあるのかも知れない。
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07. 「いまさら」 だなんて聞きたくない

急須の茶葉を入れ替えることすらしないとわかっているのに、彼女はしょっちゅう家を空ける。
日帰りで友だちと出かけたり、何日も実家に帰ったり。
確かに日がな一日本を読んでいるし、不在で静かにしていた方がいいのかも知れないが。
一緒にいたいと、思わないのだろうか。
話をしなくてもその姿を見ていたいと思わないのだろうか。
わずかでもその視界の隅に入りたいとは思わないのだろうか。
そう思う自分は、間違っているのかも知れないが。
もうずっと長い間抱え込んでいる気持ちを、「いまさら」だなんて言葉は聞きたくないくらいには、わかっているつもりだから。
定期的にではなく、気まぐれを装って、邪険に扱われない距離で、それでも「いる」ことが当たり前になるくらいの頻度で。
あいつとにゃんこを愛でに行くのだ。
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08. もう幼馴染みには戻れない

何の用事もなく訪ねてくる、唯一人。
相談事や愚痴を言いたいなど、何かしらの面倒や厄介ごとを抱えてくる者ばかりの中で、ただ来て、柘榴をかまい、昼寝をして帰る。
何のために来るのかは分からずとも、自分の時間を邪魔されなければいいと好きにさせていた。
それが、しょっちゅう来ていたのがパタリと途絶えると気になったり、毎日のように来ても鬱陶しくなく、目の端にその姿があることに違和感を覚えなくなり。
妻がいようがいまいが、ついでに他の面倒な輩が来ようと来まいと態度に違いはないのに、いつからか感じはじめた、 ふたりきりの時の空気の重さ。
居心地が悪いわけでは決してないが、読書に集中でいないほどの視線や、ふとした時に触れて来る指先が、どうも据わりをよくなくさせるのだ。
これは、妻や妹、当然その他の輩と二人でいても感じないもの。
だが、それに名前をつけてしまえばおそらくもう幼馴染には戻れないだろう。
一度言葉にしてしまえば、言霊となり、それを縛る。
存在してはならぬものに、形を与えてしまう、至極厄介なものなのだ。
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09. 初めて聞いた声音

よく通る声だ。
怒鳴るように大きいわけではない、むしろ音量は少なくとも空気がきちんと振動を伝えているという感じに近い。
拝み屋の時は特にそれが顕著に現れる。
語るように謳うように淀みなく、速さも強さも予め決められていたかのように流れ、逆らうことは許されない。
日常はむしろ口数は少なく、ちらりと視線で返事をすればいい方で、口を動かすことさえ重労働になるのかと思われるほど億劫がる。
それでも、他の奴らとは自分だけ対応が柔らかいと思うのは自惚れだろうか。
憑き物がきれいに落とせず苛ついたり、体力もないくせに強硬手段に出ようとする時、止められるのは自分のみだという信頼もあるはずだが。
いつだったか、燃え盛るデカい寺を前に立ちすくんだ時、とっさに抱き寄せたその身体は細く頼りなく、掠れる息の中にあったそれは初めて聞いた声音だった。
他よりも少しだけ、思慮深く、知識が多く、視野が広く、言葉の操り方が上手いだけで、普通の人でしかないのだ。
ならば苦手分野は自分が補えばいい、誰とも比されない立場に居ればいい。
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10. 今も昔も遠い未来もすぐ側に

容姿も言動も派手で目立つ人だ、という第一印象。
何も考えていない破天荒に見えて、結果論としては実は筋が通っていたりする。
厄介ごとを持ち込むことはあれど、他力本願ではなく苦手なことだけは任せるがきちんと自分が動くこと前提だ。
奇異に見える言動に近付くものは少ないが、要点を見抜く頭の良さもあり、荒事も大喜びで参加するが、引きどころもわきまえている。
総じて、おそらく他の誰よりもいざという時に頼りになるのだ。
必要以上に騒ぎ立てないから、いつのまにかそばにいることにも慣れてしまい、もう一匹猫を飼っている感覚に近い。
馴れ合うことは苦手なのに、この関係を好ましく思う自分に驚く。
けれど、今も昔も遠い未来もすぐ側にいるのだろうという考えは悪くない。
他の誰でもなく、おそらく彼だけが、そうなのだ。
拝み屋も古書肆も探偵もなく、ただ一番近い友人として。

01. 状況に応じて主語を入れ替えて下さい。

01. 恋音を数える日々

いつからか、いつの間にか、それは癖になっていた。
運動靴や草履、長靴からいつしか革靴に変わっていっても。
包丁で刻む、おたまで混ぜる、ヘラで炒める、それくらいしか分からなくても。
独り言のように手順や材料確認をつぶやいたり、機嫌が良ければそこに鼻歌が追加されることもある。
兄弟というには離れすぎ、親子というには近すぎる年齢差は、無口な叔父をカバーして有り余るほどに多い甥っ子のおしゃべりが埋めた。
足音も、調理の音も、独り言も、弾丸のように繰り出されるとりとめない話も。
気付けばその律動を数える日々を重ね、聞くだけでその時の気分さえ測れるようになっていた。
大きめとはいえ己の両手に収まるのではないかと思ったほど小さく生まれた甥っ子が、過ぎるほどに生意気でやんちゃに育ち、現在に至る。
誰に対しても、そして自分に対しては遠慮の欠片さえないその横柄な態度が、実は小心だからだと気付いてる奴は少ない。
弱虫ではなくむしろ気骨はあるが、自信のなさが臆病にさせ、それを隠すために強気な態度を装っていることなど、他の誰も知らなければいい。
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02. 大人の階段、落ちる時

年の差は、どう足掻いたって追いつけない。
そう悟るまでに、結構な月日を費やした。
ならば、追い付けないまでも近付けばいいんじゃないかと思ったのが、叔父が進学のために家を出た頃か。
まだ叔父に買ってもらったランドセルを使っている時だったし、具体的に何をすればいいのかは分からなかったけれど。
とにかく、自分より先を進んでいるのが悔しくて、どうすれば対等になれるのかを探して藻搔いた。
勉強も料理も接客のための人付き合いも喧嘩も、とにかく出来て損になることは決してないから、思いついたことは全て頑張った。
叔父が10歳で出来たことは9歳でできるように努力したし、叔父が15歳でやったことは13歳でやれるようにした。
でも、叔父の腕に綺麗にな女性が手を絡めている姿を見て、気付いてしまったのだ。
今この時に対等でなければいけないんだと。
それは、一生懸命登っている大人の階段が崩れ、落ちる感覚だった。
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03. 伸ばした指が止まる訳

「多分、あの子が最初にちゃんと目を開けた時に見たのがゾロくんだと思うのよねー」
母に、甥っ子がまとわりつく理由に心当たりがないかと訊いたら、ぽやんと言った。
…刷り込みか?
なるほど、確かにあの黄色い頭と尖らせた口はひよこそのものだった。
どこに行くにもよちよちとついて来たのはカルガモの子そっくりだった。
確かに甥っ子の両親は家を空けることが多く、祖父はレストランで忙しいから、預かることもしょっちゅうだったが。
言われてうっかり納得しそうになったが、それじゃあいつか巣立つはずだろうと思い直す。
口も足癖も、ついでに目つきも女グセも悪いけれど、まあそういうもんだと思っているから気にならないが。
相変わらず日を空けずに来て、疲れていたのかゴロ寝をしている、相変わらず黄色い頭に伸ばした指がふと止まる訳は。
悪いものを全て取っ払ってしまうとえらく別嬪なことを知っているからだ。
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04. 痛み無き苦しみ

物心がついた頃にはすでに、叔父を追っていた。
うっすらと記憶にある幼少時は、ほとんど家にいない両親に代わり、大抵は祖父や、祖父のレストランで働くものたちが入れ替わりで来ていたと思う。
自身で動けるようになっても、顔を会わせるメンバーに変わりはなく、唯一、叔父だけは自発的に動かないと、数ヶ月は当たり前のように無沙汰になる。
忙しいのなら邪魔になって鬱陶しがられるのだけは避けたいと我慢しても、いつその忙しさが終わるのかさえ教えてもらえない。
だからあれこれと理由を作っては訪ね、自分がいることが当たり前の生活になるように仕組んだ。
祖父直伝の料理の腕でもって、自分の作るものが一番うまいと言わせ…ることはできてないが残さず食べてはくれた。
なのに、何も言わず突然引っ越したり、連絡先さえ教えてくれなかったり、結局はそれくらいの存在なのだと思い知らされた。
強面で無口で無愛想で、でも結構情は深いし、だからちょっとくらいはと期待していたのだ。
でも結局は、それだけの存在だった。
心のどこかではわかっていたから痛みは無い、ただ苦しいだけだ。
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05. 触れないで、でも嫌わないで

甥っ子の訪問は、時なしだ。
学生と呼ばれるころは生活時間にそれなりの決まりがあったが、 レストラン業務に就いている現在はシフトの都合で空いた時間にやってくる。
出勤日の起床時間よりも早く起こされたり、休みたい休日の昼間に来たり、就寝直前に現れたり。
訪の理由は、あれこれ余分なものはつくが、一貫して食事の世話と身の回りを気遣うものだから、無碍にはできない。
それが、いつからか、ここに来るための理由を捻出しているような気がしていた。
だからというわけではないが、甥っ子の自儘な奔放さを特に拒んだこともなく、迷惑に思ったこともない。
どれほど劣悪な環境でも寝入っていられるのを出勤時間だと起こしてくれるのも、食えればなんでもいいというのに極上の食事を用意してくれるのも、ありがたい。
それがいつからか、来訪はあるものの不在時の時ばかりとか、偶然に居合わせても、明らかに挙動不審なのに通常を装って。
以前のように頭を触ろうとすれば一瞬怯えてから遅れて蹴りが入り、でも嫌わないでと見上げる瞳が、警鐘を鳴らす。
お前は、オレを、どうしたいんだ?
**********
06. 約束だけを残して君は

叔父が消えた。
いや、正確には知らないうちに引っ越していただけだ。
祖父も叔父の母もレストランの連中もみんな知っていて、自分だけ蚊帳の外だっただけだ。
教える必要さえないと、そういうことなのだろう。
新しいレシピを食べてくれると約束したのに。
ただの「おう」という返事は口約束ほどの重みもなかったということか。
悔しいから、行き先は誰にも訊かなかった。
腹が立つから、食べなかったことを後悔するほどのものを作ろうと、今まで以上に腕を磨くことにした。
当然、蹴り技もガンッガンにレベルアップする。
他の何も残していかなかったことを悔やめばいいんだ。
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07. それでもやっぱり敵わない

勤務先の異動で地元をしばらく離れることになったときに、真っ先に思ったのが「甥っ子はどうしよう」だった。
自分の世話をするのが義務か生き甲斐か、どこかおっとりしたところのある母親よりも世話を焼きたがる。
自惚れではなく、なぜか甥っ子は目を開けた時から何よりも自分を優先し、誰よりも自分を慕い、自身よりも自分の健康を心配する。
その彼が、自分がひとりで遠方に赴くと知ったら、学業もレストランの手伝いも放り出してついて来かねない。
だから、せめて自分がいなくなるまではと、異動のことを甥っ子の耳に入らないように頼んだ。
いきなりいなくなることに、落胆するか、そうかと受け入れて気にもしなくなるのかは分からない。
けれど、予測でき有る範囲で彼が衝動的に行動することは、自身にとってはありがたくても、彼のためにはならない。
だから口止めをしたし、そのことでかなり落ち込んでいたと聞いてもそれほど気にはしなかったが。
それでもやっぱり敵わないと思うのは、こちらの意図を察してか否か、無理矢理にでも聞き出そうとはしなかったこと。
誰にも頼らないそのプライドの高さはとてもとても貴重だ。
**********
08. 白旗の使い方

それから数年、全く沙汰がなかったわけではない。
行方をくらましたわけではなく単なる異動なのだから、面倒臭がりな叔父でも盆正月くらいは実家に戻って来ていたし、祖父へ挨拶にも訪れていた。
けれど、可能な限り用事を作ったりして近付かないようにし、頑として会おうとはしなかった。
稚拙な方法ではあれど、勝手に関係を切った相手に対しての意趣返しでもあった。
自分からは絶対に話しかけるものか、という意地もあった。
何も言わずに居所を変えたことに謝罪するなら良し、こちらを無視したのだから絶対に自分からは寄って行くものかと決心していた。
だが、叔父が自ら話しかけたり歩み寄るような性格ではないと思い出したのは、結構早かった。
無口で無愛想で剣術以外に興味は無く、当然、家族誰に対しても無遠慮の塊な叔父が、年の離れた甥っ子に対して何を思うことなどないのだ。
こちらからアクションを起こさなければ、きっとこの状態が続くことは必須。
ならばもう、白旗の使い方を模索したほうがいいんじゃないかと、内なる声が諦めに満ちた意見を出した。
**********
09. その味は炭酸、珈琲、檸檬?

頑なに自分と顔すらも合わせようとしない甥っ子に、結局元の職場に戻るまで無視され続けた。
以前、大学に進む時に実家を出た時も同じことをしたのに、学習しない男だ、とゾロの母にもサンジの母であるゾロの姉にもため息をつかれた。
とはいえ、声をかけようにも避けられてしまっているし、そういうことに疎いからタイミングを計るということも出来ず。
以前住んでいたところは当然他の人がいるから、新たに部屋を借り、住所を記したメモを甥っ子の祖父に預けて。
引き継ぎだの顔合わせだの、数年離れていればそれなりに違うことも多くて忙しく、部屋には寝に帰るだけという日々がしばらく続いた。
そしてふと気付けばいつの間にか、必要なものだけ引っ張り出して放置してあった段ボール箱がなくなり、部屋の中は小ざっぱりと片付いている。
もしやと冷蔵庫を覗けば、日付と朝・昼・夜が書かれた付箋が貼られた保存容器が数日分。
さらにはその味に合わせたのだろう、炭酸水やコーヒー、レモンジュースなども入っている。
居住先を教えたことでお怒りは解けたのか、素直でない甥っ子らしい、歩み寄り。
いつの間にひよこから気位の高い猫になったのか、ふと瞳が柔らかくなったことは誰も、本人さえも知らないことだった。
**********
10. 僕が知っていればそれでいい

気付くのに、何日かかるか。
今、レストランの厨房のコックやウェイター全員の間で流行っているのは、みんなが息子のように思っている最年少のスタッフが仕掛けているゲームの行方で、その相手が賭けの対象だ。
「朴念仁だからな、5日はかかるだろう」「いやさすがに3日くらいで」「1週間以上は当たり前じゃね?」
3日目に賭けたものは、中身の詰まった容器を持ち帰ってきたことで敗者となった。
5日目に賭けたものも、自分で作ったものをキッチンの隅で食べる姿を見て負けを認めた。
1週間でと言ったものまでが諦める事態となったころには、賭けの勝敗よりも「朴念仁め」「生活不適合者が」という悪口雑言に変わっていたが。
口も態度もオーナーシェフ譲りで悪いが、それこそ生まれた時から可愛がっているオーナーシェフの孫息子はからかいも愛情で、大事にされているのだ。
2週間も経ったころにやっと空容器を持ち帰る顔に隠しきれない笑顔が浮かぶようになり、勝手に保護者気分になっていた面々は安心した。
ということもちゃんと本人は分かっていたし、そろそろ叔父欠乏症も末期だったし、叔父の方から折れてくれたのだから許してやろうと尊大に思ったし、たし、たし、たし。
ともあれ、叔父のことは自分だけが知っていればそれでいいんだと、ストーカー気味なことさえ許されていることに妙な自信を持って、これからも世話を焼くために通うことを誓う甥っ子サンジ、叔父のストーカー歴=年齢は意気揚々とまた調理の腕を磨くのだった。

 

01. 恋にならないお友達

遍く女性たちは至宝の存在。
小さなレディから年古り叡智をたたえたマダムまで、それは同じ。
だからレストランに来てくださる全ての女性たちに心からの愛を捧げる。
そんな日常。
なのだが、今ちょっと困っていたりする。
ジジイの店で手伝うと、必ず感じる視線が一つ。
客ならば、極上の時間を極上の食事とともに供するのはたやすいけれど。
どーしたもんかな。
ジジイに相談するほどのことでもないだろうし。
恋にならないからお友達でって言って、通じるかどうか。
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02. 期待した目で追わないで

背中について回る痛いほどの視線。
話しかけられることはない。
だからこちらからは何のアクションも起こせない。
見られることには慣れている。
単に容姿だけではなく、料理の腕を盗もうとする者からのもある。
相手からの見返りは求めないから、ただただ美しく、美味しくあれと愛を与える。
博愛主義というわけじゃない。
欲しい人はたった一人。
だから、期待した目で追わないでいてくれれば、あなたにもちゃんと愛はあげられる。
どうか、そのことに早く気付いて。
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03. 待ち伏せの金曜日

翌日が休日、という日の夜はクローズ時間が遅くなる。
そういう時はピークが過ぎたころ一度叔父の住まう部屋へ夕食のデリバリーをする。
でないと、ものぐさな叔父は出来ることもせずに酒だけかっくらって寝てしまうから。
そうしていつものように裏口から弁当を持って出ようとして、人影に気付いた。
まさか、と息を止めるのではなく、やっぱり、と息を吐き出した。
「悪りぃが、受け取れねぇ」
受け取りたいのは、ひとりからだけ。
メシでも言葉でも踵でも、欲しいならいくらでもやれるけれど、期待だけはあげられないから。
待ち伏せされた金曜日のその夜、これから向かう先にばかり注意を向けていて。
多分、ひどい言葉を、放り投げた。
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04. 君が休みでホッとした

「いきなり休みって言われても困るよなぁ」
土曜日はランチタイムからすでに戦場となる。
「ちゃきちゃき働きやがれ下僕ども!」
オーナーの怒声の響く中、開店準備中に突然休むと連絡をしてきたのは、昨日のアイツ。
バイトとはいえ貴重な戦力には変わりなく、特に忙しい日にスタッフが一人でも減るのは大打撃だ。
昨日叔父に弁当を届けて戻ってきた時には早番シフトで帰った後だった。
だから正直、今日は顔を合わせ辛いんだろうなとは思っていたから、休みでホッとしたのも正直な気持ちで。
プロだから仕事に支障をきたすようなことは決してしないが、相手にとっては居心地は悪いだろう。
それを覚悟の上でのことではあったとしても。
そんなことを頭の隅で考えつつも、身体はちゃんと最高の料理を作るのだ。
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05. 営業スマイルで挨拶を

「え、いないんですか?」
給仕のバイトとしてはそれなりに人気があり、その姿を見ようと来る客も少なくはない。
忙しい上に客に呼び止められる時間は無駄でしかないが、愛を込めて笑顔で挨拶をする。
「すみません、体調不良だとかで」
何とも思ってないヤツのためのイライラはストレスでしかない。
自分の感情のせいで職場に迷惑をかけるなんて最低の行為だとさえ理解していないなど、たとえバイトでも言語道断。
こういう時は料理に没頭するに限る。
それもなるべく、手間暇かけて愛情を混ぜ込めるもの。
嵐のようなランチのオーダーをこなしながら、ディナーの、または翌日以降のものを仕込んでゆく。
ひとつ手間をこなして想いを重ね、ひとつ手間をかけて想いを増やして、ただひとりを思えば心も凪いでゆく。
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06. 仕事仲間としての義務

普段ならばともかく、今一対一になることはあまりしたくはない。
が、副という役職である以上、フルだろうがパートだろうがレストランのためにきっちり躾けるのは自分の役目だから仕方がない。
今更気まずいなどというわけではなく、今まで通りの態度でいるだけだが、相手の気持ちを知らんふりするのが面倒なだけなのだ。
だがそれはあくまでプライベートな問題であり、職務上のことには関係はない。
個人に対しての注意はなるべく他の者がいない方がいいから、開店準備前に店の裏口に呼び出した。
私を滅し、公の立場での言い方で。
「オレだけじゃない、仕事仲間としての義務だ、以降気を付けろ」
そう、迷惑は仲間たちだけではなく、客へもかかるのだ。
そんなことも分からないのであれば、恋愛云々の前にまず、店にいる資格はない。
返事は無言で、けれどしっかりと頭垂れた。
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07. 好きになれたら楽なのに

大切な人も、そうでない人たちでも、遍く平等に愛すことは容易い。
叔父と、女性たちと、野郎どもと、まあ、表現の仕方に違いはあれど、愛は愛だ。
困るのは、その愛を特別なものとして受け止められてしまうこと。
特別じゃない、みんな同じように愛しているんだ、というのを理解してもらえないこと。
好きだと言ってくれる人全員を好きになれたら楽なのに、愛ならばいくらでもあげられるのに、それだけは譲れない。
愛することは出来るのに、好きにはなれない。
これは物心ついたころから変わらない。
自分でも、自覚した時にはびっくりしたのだ。
きっと一番って言えるナミさんにですら、一番奥底の根っこのところにある気持ちは揺るがないことに。
でも、これは誰にも、もちろん当人にも言わない。
大事に大事にしまっておくものだから。
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08. 初めてのシフト操作

オーダーミス、違うテーブルへの配膳間違い、レジ操作のエラー、さらにぼうっとして動きが止まる…。
あまりにも酷いその有様に、むしろ仲間たちが訝しみ始める。
これは流石にマズい。
オーナーである祖父は厳しくも寛容だが、それは真面目な者に対しては、だ。
頑張っているのに出来ない、という者には、出来るようになるまで待ってくれる。
が、出来るはずの者が真剣さを失くせば、即解雇になる。
見た目の華やかさに比してかなり過酷な仕事内容だから、出来る人間は確保しておきたい。
庇う訳ではなく、ただ円滑に今後も最善のサービスをするために。
初めて、なるべく会う時間が少なくなるようにという私情だけで、シフトの操作をした。
自分との接触がなければ、今まで通り、変わらない日々を続けていくだろうと信じて。
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09. 明日はどんな顔して会おう?

帰宅した叔父が一瞬、怪訝な視線をよこした。
いるはずのない曜日のいないはずの時間だ。
もともと口数の多い方ではない叔父は、余計な言葉は一切話さない。
だから、何で今ここにいるのかなんてことも訊かない。
「オレ、非道い人間なのかな」
黙って用意した飯を食べ続ける叔父は、それでもちゃんと耳を傾けてくれている。
だからここ数日のことをぼそぼそと独り言のように俯いたまま吐き出した。
「違うんじゃねぇか?」
話し終えて静まり返った部屋の中で、叔父はそう一言だけ言った。
ああそうか、明日はどんな顔して会おう?とか、そうじゃなかったんだ。
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10. それでもありがとう

変えたシフトは戻さないまま、けれどそれ以降は以前通りに組んだ。
そして顔を合わせる最初の日に、あの時のように呼び出した。
突然の休みの後にシフト変更、それだけでおそらくは傷ついたのだろう、やはり頭垂れたまま俺の前に立った。
「悪かった」
オレがそう言えば、驚いたように顔を上げ、すぐに頭をふるふると横に振った。
期待には応えてやれない、それは絶対だけれど。
「言い方を間違えた」
そう、叔父が教えてくれた。
「気持ちは受け取れねぇ。それでも、好意は嬉しかった。ありがとう」
大きくぺこんと頭を下げて店に戻っていく背中に、ようやく晴々とした気持ちでタバコの煙を吐き出せた。

01. 肩をぶつけて作るきっかけ

「おう、ワリィ」
ちっとも悪いなんて思ってなさそうな言い方なのは、いつものこと。
足を引っ掛けたり、肩をぶつけたりして作るきっかけは、意識を自分に向けてもらうため。
決して機微に疎いわけではないのに、一回りほど年上のコイツはなぜか自分に対してだけは朴念仁に成り下がる。
だから、時に偶然を装って、時に態とらしく、ちょっかいを出しに行くのだ。
腹が立つくらいでかく頑丈な体躯は、ちょっとやそっとの攻撃なんてビクともしないから、遠慮なく仕掛けさせてもらう。
ウェイトでは完全に負ける自分が勝てるのは、身軽さを生かした速度と相対性理論による重さを正確に急所に叩き込めること。
だから今日も、寝っ転がってるそのつま先を容赦なく踏みつける。
「っんだテメェはイチイチッ」
よし、かかった!
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02. 偶然の言い訳は二回まで

年の離れた甥っ子は、頭も口も足癖も悪い。
ハイハイで自力で動けるようになったころからすでに、なぜか叔父である自分にだけ、攻撃をかましてくれていた。
ふと通り過ぎざまに、またはわざわざタイミングを見計らって、足技をかけてくる。
ちょっと考え事をしてた、余所見してた、そんな偶然を装った言い訳を聞き流せるのは二回まで。
剣道を嗜むおかげか、気配には敏い方だ。
身長こそ自分と変わらぬほどになった甥っ子は、だが華奢なまでに細く、筋肉も薄い。
が、それをまるで柳のようにしなやかに駆使して出される攻撃は、時にこちらの息がつまるほどに強烈なのだ。
十数年も受け続けてきているが、慣れることなど決してなく、だから背後からまるで突きのように真っ直ぐ音もなく伸ばされた足首を後ろ手に引っ掴んで振り向きながら手首をひねる。
それを見越していたのだろう、彼は掴まれた足首を中心に綺麗に体を回転させて空いている足で音もなく着地した。
そのままぎっと一瞥しただけで何も言わずに背中を向けたのは、避けられたことへの悔しさだろう。
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03. 拗ねたあの子のなだめ方

「ゾロのクセに!ゾロのクセに!!ゾロのクセにっ!!!」
おもちゃ屋次期店主であるウソップの工房で手当たり次第、というよりも足当たり次第に蹴り暴れているのは、高校時代のクラスメイトであり隣町に住むゾロの甥っ子サンジで、大抵機嫌が悪い時にはやって来てあこれやこれやを破壊していくのである。
「ちょ……っと待て!それはヤメロォォォ!」
失敗作品や端材などならともかく、試作品やら完成品を壊されてはたまらない。
サンジが一人歩きを始めたころからのそれはお約束だから、ウソップもその辺りは把握していて、八つ当たり用のものを用意していたりするのだ。
だがどうやら今回はかなりご機嫌が斜めなようで、破壊力も半端なく、もしかしたら自分でもコントロール出来ないほどになっている可能性がある。
「ってことァ…」
どがしゃん、と何かが粉砕されたような音を遠く耳にし、ふむ、と考え込んで。
「拗ねたあいつのなだめ方ぁっちゃ、いっこしかないわな」
ひとりごちて、受話器を取った。
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04. 冗談に混ぜ込んだ本気

「なんでそこで逃げて来ちゃうのよ」
両拳を腰に当て、目の前で正座するサンジを睥睨しているのは、されてる当人曰く「愛しの」ナミさん。
生まれ落ちた時からサンジは女性に滅法弱く、とりわけ美人にはもう奴隷と化すのも厭わないほどのフェミニストっぷりを発揮し、その中でも特にナミには幼少のころから言われるがままに服従だ。
だから、荒れるサンジを止める最終兵器としてご足労願ったというわけなのだが。
貯金魔のナミに何かを頼むのは当然、タダではなく、1回につきいくら、その大変さの度合いも含めて徴収されるのが痛いところだ。
「そこでもう一発食らわしてこそ、相手の心をグッと掴むことができるってもんでしょ!?」
いや、ナミ、それはなんか違う気がするぞ。
おもちゃ屋に来る女の子たちが手をたたいて喜びそうなほど見た目のいい2人が並んでいるというのに、内容はとてつもなく不穏だ。
それでもきっとそれはナミなりに、サンジの心を心配し、冗談に混ぜ込んだ本気がちょーっと行き過ぎているだけで。
さすがナミさ〜ん、なんて瞳をキラキラさせているサンジを見ると、少々、いやかなり、友人が心配になるウソップだった。
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05. へたくそな笑顔が隠したもの

口を開けば、出て来るのは普通の会話ではなく悪口雑言、罵詈雑言。
さらには、歩いている時間の方が少ないほどに、足は常に蹴り技を繰り出して来る。
鍛えることに関してだけはコツコツ努力型のゾロは、鎧のように筋肉に覆われたその大きな体躯からは信じられないほどに俊敏な動きもできるし、その体重の軽さからは信じられないほど重いサンジの蹴りを正面から受け止めることも可能だ。
けれど、そんなサンジの手から受け取るのは、美味いものだけ。
未だ幼子と呼ばれるようなころからずっと、いったい何日かけて仕込み、いつ寝ていつ起きればできるのかというほど手の込んだそれらは、ただただゾロのためだけに運ばれて来る。
作り過ぎちまってさ、とか、ジジィの店の余りもんだけど、などと日をおかずに目の前に差し出されるものにはあれこれ言い訳がつくけれど。
それでも、その時だけは強気な瞳が少しだけ伺うように心もとなげになるから、へたくそな笑顔が隠したものなど丸わかりだ。
「まだ店に出してもらえるほどにはなってねえってことだな」
そう言えば、ちゃんと憤慨して飛んで来る足を綺麗に避けて、いただきます、と手を合わせる。
いつの間にか、ジィさんとサンジのどちらが作ったものか、理由はなくとも舌で分かっていると告げたら、どんな顔をするのだろう。
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06. 君が先に泣くから泣けない

男が泣くなんてみっともない、そう信じていた。
どれ程痛くても、どれほど悔しくても、どれほど悲しくても、涙を見せたら負けだと思っていた。
料理のことで厳しくされるのは当たり前だし、ジジィを慕って来た野郎どもから子ども扱いされ邪険にされるのも仕方のないことだと心をねじ伏せた。
何よりも早く、見下されないだけの実力を身につければいいことだと、ひたすらに、我武者羅に、前だけを睨みつけるように見ていた。
そんな時だった。
幼い自分が見ていてさえやりすぎなほどに鍛錬を積み、自己戒律にも厳しく、良く言えばストイック、だが自虐的なほどに叔父ゾロは己の身体に無理を強いていた。
なのに、ふと現れた年嵩の剣豪に、完膚なきまでに叩きのめされたのだ。
それは、実力の差を知り、負けを認め、尚正面からトドメを受けようとする姿に、これまで足掻いて来た自分が情けなく思ったほどで。
「俺はもう、負けねぇから!」
そう言いながらあいつが先にそりゃもう盛大に泣くから、自分がここで泣いちゃぁいけないとぐっと喉にある塊を飲み込んだのだ。
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07. すべては傷つけない為に

今日も今日とて、良すぎるほど元気良く甥っ子が鳩尾を踏み抜く。
ごろ寝をしている方が悪いと言うが、自分の部屋で、休日をどう過ごそうが文句を言われる筋合いはないはず。
なのに、焼きたてのパンや卵料理に添えられるソーセージ、さらにはスープなどの香りまでをも充満させられてしまえば、ぎっちりと掴まれしっかりと躾けられた胃袋が先に降参するのだ。
まだやっと1人で来られるようになったばかりの幼少の頃は、小さな手を介して届けられるのはサンジの祖父で姉ヒナの義父であり隣町の商店街にレストランを持つオーナーシェフのものだった。
それが、いつの頃からか、本人の手によるものが混じるようになり、今ではすっかりそれじゃないと美味くないとさえ思うほどになってしまった。
自称武士たるもの、いついかなる時でも生き延びられるよう自戒していたはずなのに、食べられるだけでもありがたいと思わなければいけないはずなのに、なんと贅沢になってしまったことか。
同じようなことを、未だ成年に満たない頃にも思ったことがあり、相手はちょっとその方法は暴力的ではありながらも自分を慕ってまとわりつく甥っ子で、そこから逃げるように地元を離れたことがあった。
なぜ逃げたいと思ったのか、離れて暮らしてみたからこそ気付いた、情愛。
子犬を相手にしているような感覚ではあったものの、それでもちゃんとあった、愛情。
無条件で向けられる信頼やわがまま、その他諸々、それらを守りたいがため、ひいては彼を傷つけないが為にとった自衛策だったのだ。
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08. 心に触れる手前の足踏み

最近、叔父ゾロは、おとなしい。
もともと感情が欠落しているように思われているし、試合に勝っても当然のように笑いもせず、稽古が不調に終わった時でも表情は変わらず。
それでも、生まれた時から一緒にいたらしいし、確かに記憶にある一番古いものもゾロと一緒にいるものだ。
物心ついた時にはすでにそこにいて当たり前の存在で、心惹かれる女性たちにはそれぞれ真心を込めて応対はするけれど、それはただ与えたいだけで、もらえる反応を気にするのは他に誰もいない。
自分の言動にイチイチ相手をしてくれるのが嬉しくてちょっかいをかけ、正面から相手をしてもらえればもちろん、邪険に振り払われるだけでも嬉しいのに。
それがなぜか、違う。
反応がないわけではないが、どこか、そう、心ここに在らずという感じなのだ。
嫌われてはいない自信はあるけれど、もしかしたらいい加減邪魔に思われてしまっているのだろうか。
まっすぐになぜと訊けず、その心に触れる手前の足踏み状態のまま。
なんでもないことならガンガン攻められるのに、肝心なことだけは臆病だ。
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09. 優しさに応える勇気

道場の神棚に真向かい、座禅を組む。
背筋を伸ばし、己の中の迷いを追い出すように、大きく静かに息を吐く。
初めて会ったのは、生まれて数時間しか経っていない時。
食べたいものだの身の回り品だのを持って来いと姉に呼ばれ、見舞い?お祝い?に訪ねた産婦人科の部屋で、その白く小さな生き物に対面した。
常に仏頂面な自分の何がそんなに気に入ったのか、この小動物は以来、自分の両親よりも己の後をついてくるようになって。
食べられればなんでもいいという適当な食生活が「食いもんバカにすんな!」という言葉とともに食卓が潤うようになり。
投げつけられる言葉に、入れられる蹴りに、何よりもその視線に、さすがに何年も経てば朴念仁とて気付こうもの。
わかりにくいほどに密やかに込められた優しさに、応える勇気が自分にはあるのか。
無心になろうとすればするほど、瞑目したまぶたの裏に鮮やかに映る、ひよこが1匹。
口が悪くて足癖も悪くて、いつだってぎゃんぎゃんと騒ぐしかめっ面しか見たことがはずなのに、そこにあるのは満面の笑み。
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10. 君が言えなかった ひとことを

通い妻、とか、押し掛け女房、とか、まさか飯炊き女なんて言わねぇよな?
「誰が妻でどこか女房でなんで女だゴルァッ」
女性は尊くって素晴らしいんだぞ、と即座に飛んできた踵落としをまともに食らって撃沈する。
そうか、通ったり押しかけたり飯を炊いたりするのは否定しないんだな。
最近ナミへの支払いの後は飯時にゾロの部屋に押しかける頻度が増え、主は別に1人増えようがなんとも思ってないのだろうし、おさんどんさんは食べる人が増えると大喜びして迎えてくれる。
ひょろっこいのは変わらぬまま、一体どういうバランスなのか、両手に2皿ずつ、肘と頭の上にも1皿ずつ乗せたまま、落とした踵をぶらぶらさせ、卓袱台の上を片付けろと視線で命令するから、美味い飯のために大人しく従っておく。
省エネだかエコだか言葉を出し惜しみする元クラスメイトと、女性に対しては老若を問わずに愛の言葉を大盤振る舞いしつつ男性には罵倒と足技をもれなく提供するその甥っ子が、なんだか微妙な雰囲気で近付けなかった時期もあったけれども。
ようやく開けっ広げにふたりの仲を見せてくれるから、こちらも遠慮なく介入出来るってもので。
だから、昔も今も、そしてきっとこれからも、 君が言えなかったひとことを俺様が言ってやろう。
「なぁコレ、ほんっとに美味いな!」

「花沢類、明日ちょっと話があるんだけど、いいかな」
翌日は夏休みに入るの終業式の前日の昼休み、いつもの非常階段で弁当を食べ終わったタイミングでつくしが言い出した。
非常階段で会うことはもちろん、どんな話題であっても自然にそうなるということが常であり、二人の間には改まってとか約束をということがなかったため、つくしのその言葉に、表情には出さないものの類はわずかに驚いた。
それでもわずかの動揺さえも見せずににっこり笑えるのは、相手がつくしだからこそ。
いや、相手がつくしでなければ驚きも動揺もないのだけれど。
「ここじゃ、出来ない話?」
昼休みの残り十数分では出来ないほどのことなのかと、言外に訊く。
「多分、ちょっと長くなるから」
どんな時でもまっすぐに視線を逸らさないつくしがわずかに目を伏せるのは、何か屈託がある時の癖。
司との付き合いが遠く離れてから何度も類が目にしてきた合図だ。
過去というにはその傷はまだ新しいが、それでも別離を選んでそれなりにお互いに納得をしたはず、というよりも司は未練タラタラだったがつくしがもう疲労困憊で、別れてむしろやっと肩の力を抜くことができたという感じだった。
だからこの屈託に司は関係はないだろうとあたりはつけたものの、相変わらず学業にバイトにと忙しいもののそれなりに楽しんで過ごしていることを知っていたから、理由が分からなかったのだ。
だから二つ返事で了承し、終業式は午前中で終わるためにバイトも早く始められる代わりに終わりもいつもよりも早く、そのあとになっちゃうけど、とつくしは続けた。
深夜営業の店だから、男子は翌朝までの徹夜シフトもあるが、女子は遅くとも帰宅時間が23時に間に合うようにシフトが組まれている。
つくしは交通費さえもったいないと徒歩圏内であったため、遅い時には22時半まで働くこともあったが、その日は2時間ほど早く上がらせてもらえるという。
類としてはバイト先まで迎えに行きたい気持ちはあったが、以前、他のバイトの女の子たちに見られて大騒ぎされて大変だったと断られて以来、明るい道だけを歩いてこられる、つくしのアパートからほど近い公園で待つことにしたのだ。
そこからアパートまではゆっくり歩いて数分。
その間は街路灯もなく暗いが、公園からもアパートからも遮るものなく見られる道だから、付き合っているわけでもなく、家族とも離れて一人暮らしをしている女性を訪ねるのは常識としてしてはいけないことだとつくしに言われ、類が近付けるのはいつもそこが最終地点だった。
客相手ということで時間きっちりに終われないこともある、そして店支給のユニフォームから私服に着替える時間、そこからここまでかかる分数を多めに見積もって、30分もあれば充分。
だから21時に、とつくしが言いかけて、けれど。
「大事な話、なんでしょ?」
類は午後の授業が始まるからと立ち去ろうとするつくしの手をつかみ、引き留めた。
途端につくしの視線が彷徨い、類に掴まれた手以外が挙動不審なほどに慌てふためく。
「今から、聞くよ」
そう言って掴んだ手を強引に引き寄せ、隣にまた座らせた。
授業料が、と相変わらずな抗議を綺麗に無視し、つくしの身体を囲い込む。
じたばたと暴れるつくしに、
「逃げないで」
耳元に一言ささやき、腕の中に閉じ込めた。
「パパさんとママさんのことは、手を打っておいたから」
え、と驚いて類の顔を見上げるつくしに微笑んでみせ、
「療養できる場所も、これから働けるところも紹介したから、心配しなくていい」

諦めきれなかった大学に懸命に努力して通えるようになったつくしが、家族のためとはいえ辞めなくてはいけなくなったことが辛くないはずはない。
それでも家族思いのつくしだから無碍に断ることもできず、結局自分さえ我慢すればと思ったのだろう。
けれど、心のどこかで地方へは行きたくないと、希望的観測ではあるが自分から離れたくないと、そう思ってくれていたことが、おそらくはねこの姿になって類の夢の中に現れたのだ。
だから、早急に手を打った。
つくしの両親の現状を調べ、借金も返済し、血縁や知人等の縁もゆかりもない場所での就職先も手配したし、弟もつくしに似て努力家で、成績はかなりいいということで、実力を発揮できるだろう学校への推薦もした。
当然、出されていたつくしの退学届も撤回させた。
だから。

「なんで、知ってるの?」
驚いて大きな目をさらに見ひらくから、まん丸な目の小動物を彷彿とさせて、類を笑わせる。
「花沢類!」
笑い続ける類につくしが拳を振り上げるから、片手でちょっと待て、と拳を止めるように合図をして呼吸を整えた。
「あんたが、教えてくれたんでしょ」
「え?」
これから話すつもりだったことをすでに言ったと、それも嘘のない綺麗な瞳で言われてしまえば、つくしはむしろ言ったことを自分が忘れているのかも、とさえ思ってしまう。
「いつ?あたし、誰にも言ってないはずだけど…」
ここで転寝してるときにでも寝言で言っちゃったのかな、いやでも決めたのはつい最近だし、あれ、うーん?と、相変わらずつくしの独り言は表情とともに忙しい。
だから類は答えを渡した。
「教えてくれたよ、俺の夢の中で」