「ひとりでこんな時間に来たってことは、何か言いたいことでもある?」
夕食というにはいささか遅い時間ではあったが、それでも帰宅したおじいさまを待って4人で囲んだ食卓は、めずらしい組み合わせだったにも関わらず和やかな雰囲気で終えることができた。
疲れているおじいさまはもちろん、何か話があるのだろうことを察したジャンディも後片付けを早々に姿を消したから、ジフは単刀直入に尋ねた。
ある意味個性的なF4が四半世紀に近い時間を共に過ごせて来たのは、気遣いの男ウビンの功績によるところが大きい。
いつでもどこでも俺様なジュンピョ、あらゆることに事なかれ主義のジフ、一夜の楽しみを謳歌しつつもいざとなると熱い男イジョン。
常に一緒にいるというイメージを持たれてはいるが、実際は個々其々で、女性に関してはオープンなイジョンとウビンが共にナンパに精を出したり、単細胞なジュンピョが何かというと寡黙なジフに愚痴をこぼしに来たりすることはありつつも、互いにプライベートに干渉することは皆無だ。
面倒見がいいと思われているウビンでさえ、表面的にはどうあれ、深いところにまでは関わり込みはしない。
だからこそ、彼が不文律の立ち位置を崩してまで踏み込んでくるときは、それなりに問題が大きくなっているからとも言えるのだ。
「ジャンディの声、戻るのか?」
端的すぎるほどの問いは、忸怩たる思いがあるジフには、質問者が思っていたよりも重く響いた。
ジフとしても、ジャンディの朗らかな声をまた聴きたいとは思っている、それは揺るぎない事実である。
が、同時に、音としての言葉はなくともふたりの間では全く支障がないほどに意思の疎通ができている今、ジャンディを閉じ込めて誰にも合わせないようにしたいほどの思いを抱えているジフとしては、むしろこのまま声が戻らない方が都合がいいとさえ考えていたことも事実なのだ。
「原因を解決できれば、だって」
ウビンとふたりになった空間で、取り繕う必要はない。
だからジフは、ソファに座り込み、両膝に両肘を乗せ、組んだ両手に額を乗せるように俯いた。
「原因?」
ジャンディの声の喪失は、高熱等の所為ではなく、ストレス性のものだと診断された。
けれど、その時の状況から考えられ得る、枝葉に及ぶまでの細かな事情をも鑑み、そこから派生するだろう状態を、医師に言われるよりも以前に幾通りにもジフはシュミレーションをしたが、ジャンディが声を失うような原因も結果も得られなかった。
「あのプールパーティでジュンピョの記憶は戻ったし、アメリカへもあの女とは別で行っている。カン会長もジュンピョの親父さんとのこともあってジャンディのことをほぼ容認している今、失声症になるほどのストレスがどこにあるのかがわからない」
そう、ジュンピョが事故に遭って記憶をなくす以前に状況は戻り、いやむしろ、カン会長の態度が軟化したことを考えれば、よくなりこそすれ、遠距離であること以外の障害はないはずなのだ。
「そのことだけど…ちゃんとジャンディと話し合ったのか?」
話し合う、という表現は、ジャンディが話せない状況ではおかしいのかもしれないが、ジフとならばそれも自然であり、勉強のこと細かいことまでをもこなしているのならば、出来ないことはないだろう。
だがその問いに対してジフは無反応であり、肯定も否定もしない、ということはおそらく彼の中では話題にしたくないことなのだろうとウビンはあたりをつけた。
ならば、質問を変えるまで。
「じゃあ、本当に、ジャンディの声が戻ればいいと、思っているか?」
ウビンの問いは、その声音ほどには軽くはなかった。
そしてその答えは、更なる無言。
それはジフにとっては都合の悪いものだということを肯定したようなものである。
「ジャンディは…いつまでも話せないことに不安になってないのか?」
たとえジフがそう望んでいたとしても、普通ならばジャンディ本人が早く話せるようになりたいと焦ったりいつまでも声が出ないことに不安になったりするはずだ。
「今日も、今までも、そんな風に見えた?」
質問で切り返して来るときは、相手も答えを知っているとわかっているからこそ。
「…そうは見えなかったから訊いてんだよ」
心配させまいとして、もしかしたらウビンやイジョンがいるときには、ジャンディはそういう気持ちを出さないように努めている可能性もある。
「いつもあんな感じだよ」
もしかしたら一人きりの時には違うかもしれないけれど、少なくともジフや祖父ソギョンがいる時には、声が出ていた頃と変わらない明るさのままであり、ジャンディ曰くのソウルメイトだからなのか、それがそのまま素の姿であると根拠もないままにわかっていた。
だから、深く問い詰めることもなく、今のままの居心地の良い関係をずっと続けたかった。
ソヒョンへの思いが母や姉からの愛情を求めるようなものだったと気づき、同時にジャンディに対しては守ってやりたいという思いが強いことを自覚し、与えられるものに縋るのは本当の愛ではないとやっとわかったのだ。
そして今。
あの時以来、ずっと求め続けていた彼女が、喋ることが出来なくなったからこそ、自分のテリトリーにいてくれる。
声を出せるようになればまた、きっと自身の世界へと戻ってしまうだろう。
ならば。
今の状態がずっと続くのであれば。
ジャンディはずっとそばにいてくれるのではないかと思う、その気持ちにウビンはもうずっと前、もしかしたらはじめから気づいていたのだろう。
それでも今まで黙っていてくれたのは、彼の優しさだ。
ソヒョンへの気持ちとジャンディへの想いの違いに気づいてフランスから戻って来てから、実際、ジフにとって、ジャンディが何かを言いかけた時にはすでにその全容をほぼ把握していると言っても過言ではないほどだった。
気持ちを押し付けるでなく、ただただジャンディの笑顔だけを守るため、ジャンディの心がジュンピョに向いていた頃は己の心に蓋をし、むしろ二人の関係を手助けしていた。
だがカン会長の横槍のせいで幾度もジュンピョからジャンディを助けてくれという要請が入り、その度にバイクや車を走らせて泣いている彼女の元へ駆けつけ、こらえきれずに涙を流すジャンディを抱き寄せて、他のどこでもなく、泣くなら自分の腕の中だけでと望み、そしてまた笑ってくれればそれでよかった。
ジャンディが辛いとき、しんどいとき、困ったとき、泣きたいとき。
頑張り屋で身体が悲鳴をあげていても無理をするから、せめて自分の腕の中でだけは、自身を偽らずにいられる空間になってあげたかったのだ。
実際の距離はもちろん、心をも寄り添うようにいたおかげで、いつのまにかジフはジャンディの考えていることを言葉にする前に把握できるようになっており、それはおそらく、基本的には無口なジフの気持ちを自然にジャンディが汲み取れるようになっていたこともあり、側から見れば不思議なほどに音としての言葉もなく分かり合えていただろう。
それはだから、ジャンディの声が失われる以前の頃からのものであり、ジフにとってもジャンディ本人でさえも、疑問にすらならなかったのだ。
そして、今。
ジュンピョとの関係が曖昧なままに離れてしまい、声を失くしてしまったジャンディを匿うようにジフは自宅に置いている。
子どもの時分に両親を己の所為で亡くし、そのために祖父にも捨てられたと思い込んだジフは、基本的に希望=欲というものを諦めることを覚えてしまっていた。
幼稚舎の頃からの付き合いでF3には変わらない態度を取っていたが、ジュンピョとの木のロボット事件以来、目に見えて距離を置くようになった。
姉のように、時には母のように何くれと世話を焼いたソヒョンには雛のように懐いていたが、年上ということもあってか、結局ソヒョンが何を考え、何をしたかったのかを察することはもちろん、教えてもらえることさえなく、ジャンディに背中を押されるように追いかけて行ってはみたものの、結局何も出来ない自分に失望し、せめて邪魔にだけはなりたくないと尻尾を巻いて帰って来た。
欲しいと思っても何も手に入りはしないのだと、己は一人では何も出来ないのだと、改めて自覚したのがこの時だった。
情けない自分のためだけにソヒョンに膝を折り、それに苛立ったのは結局己の弱さを突きつけられたからだと知り、だから、どんな困難が立ちはだかっても己の力だけで乗り越えてゆくジャンディに惹かれていることも自覚した。
心の底からジャンディを欲しても、すでにジャンディはジュンピョと戸惑いながらも付き合いを始めていたから、ならば彼女が自分を想ってソヒョンとの関係を応援してくれたように、彼女を想ってジュンピョとの仲を助けようと思った。
カン会長の横槍のせいで、それは想像以上の大変さで、幾度ジャンディの涙を自分の胸の中にしまい込んだことか。
ジャンディが望まないのに別れろ諦めろとは言えるはずもなく、寄り添うことしかできない自分にどれほど腹立たしかっただろう。
だから今、ジャンディとしては不本意だろうが、公明正大に一緒に居られる理由があるのが嬉しく幸せで、出来れば少しでもいいからその時間を長引かせたかった。
ウビンでなくとも、そのことはジャンディ本人以外は気づいているはずだ。
ただ、声が出ない原因を探ることはジフも続けていた。
ジュンピョとの、カン会長はもちろん、記憶を失くしてからの態度やどこかの変な女のことで心身ともに疲れていたことは確かだろうけれど、理由がそれだけではないとも、わかっていた。
お節介なほどに親切で、いつでも誰かのために頑張っていて、暴君だったジュンピョにたてつく向こう見ずなほどの度胸もあるのに、疑うことを知らない純粋さは時にとても脆くて、いつでも謂れなき中傷誹謗で傷ついていた。
出会ってすぐの時だって、ソヒョンを追ってフランスへ行っていた間に起きた出来事を後から知って、その場で救い出せなかったことをどれほど後悔したことか。
最終的にジュンピョが助け出したということだったが、それ以前を知ってはいるが故に、心身ともにかなりの傷を負ったことは間違いないだろう。
ジフとしては、ソヒョンへは保護されていた自分が保護してくれていた者が離れていくことへの不安だったのだと知り、その時にはすでにジュンピョがジャンディへの気持ちを公言してはいたが、ジャンディ本人はどこかぎこちないことを感づいていたから、横恋慕する気持ちはないと言えば嘘になるが、それでも遅まきながらも気づいたジャンディへの気持ちを大切にしたかったのは本心で。
今更当時のことを持ち出すつもりはないが、自分がいなかった間に起きたことも、帰国してからのF3との軋轢も含め、互いに一生懸命ではあったが、結局どこか、どちらかだけが我慢を強いられたり無理をしなければならなかったり、そんな歪さが常にあった。
最初に情報をもたらしたのは、やはりウビンだった。
ソン家がそれなりに無理を言える範囲に限りはあっても、表向きはともかく、裏事情は神話でさえもその道には一歩も二歩も譲るほどにかなりの融通が利く。
それを厭っていた時期もあったが、ウビンなりに腹を据えたのだろう、積極的にではなくとも必要に応じてその力を使うことも受け入れるようになっていた。
「そいつが真っ先にジュンピョを拒否してたぜ」
まず取っ掛かりとして、どこが、いつから、神話というよりもジュンピョに難色を示し始めたかということを独自のルートでもって調べあげたところ、最初に否定する態度を見せたのが船頭だった男がいる会社であり、欧州でもすでに若い世代が継いだ社は足並みを揃えるように拒み始めたのだという。
「ジャンディは、ジュンピョの名前はもちろん、何があったかとか詳しいことは何も話してないって言ってたけど」
泣くことしか出来なくて、なのに早朝なのに代金すら受け取らずに親切にしてもらった船頭さんにちゃんとお礼も言えなかったとむしろしょんぼりしていたから、その時彼は何も知らなかったはずだ。
だが、彼の立場ならばそれなりに世界に通ずる大きな会社の後継である自分たちと近いものがあり、彼女の素性から交友関係その他を徹底的に調べ上げることは難しくはないだろうし、街が起きだす前の限定された時間と場所であればなお容易に、防犯カメラ等から誰と何があったのかをも知ったに違いない。
神話がどうなるとしても、今現在の状況では、親友ではあるけれど一企業同士としてはジュンピョを手助け出来る立場ではないが、原因がジャンディにあるのならば、今後、ユン家やソン家に対しても同様な態度を取ることがないとは言えず、欧州とは薄いとはいえ関係が皆無でない以上、用心するに如くはない。
「とりあえず、まず会って話してみるのが一番か」
ぼそりとジフが呟き、それはウビンの考えと同じだったから、ジャンディやカウルにはイジョンの渡欧に送会として付き合うという名目で、欧州に行くことになった。
「イタリア人、女性に親切。女性を泣かせる、ボクたちの敵ね」
問題になった人物とは呆気ないほどに簡単に会う約束を取ることが出来、驚きが薄れない間にいざその場に着いてみれば、挨拶や自己紹介などをすっ飛ばしてこの台詞だった。
ジャンディとジュンピョのことを調べたのならば、F3のことも知っていて当然だろう。
本来陶芸家であるイジョンも、調査結果には名が挙がっていただろうし、ジャンディの幼馴染で親友であるカウルとの付き合いも調べられていたはずだ。
それでも今回のことには直接関係がないと思われたのだろう、最初ににこやかに握手を求めた相手はそもそも己の未来を開くために欧州に来る予定だったイジョンであり、だからこそ彼に対しては態度は柔らかく、むしろリハビリをきちんとして欧州でも存分にその腕を発揮して欲しいとまで言及した。
だが穏便だったのはそこまでで、改めて、自己紹介をとなった時にはすでに挨拶ですら拒絶もあらわに無視に近い態度であしらわれたのだ。
「初めまして、ソン・ウビンです。ジャンディを泣かせたヤツは幼馴染みで親友ですが、彼にもそれなりの事情があったとご理解いただけませんか」
場をうまく納めることに関しては秀でているウビンは、何か考えがあったのだろう、最初から核に切り込む形で会話を始めた。
「必要ない」
だが、たった一言の返答により、ウビンも次の言葉を考える時間さえなく、一瞬、口を噤んだ。
「お怒りはごもっともですが、彼も好んでしたわけではなく…」
「興味ありません」
気を取り直して続けた言葉も、半ばでバッサリと切られてしまう。
「女性は、涙を武器にもする。そういう人いること、分かっています。けれどあの時の彼女は、尋常ではなかった。泣きたくないのに泣くしか方法がない、そう見えました。だから思いっきり泣ける場所、提供しました」
泣き声を殺すことさえ出来ない彼女のために、もしかしたら早朝で迷惑だとクレームが来ることさえ承知で歌を歌った。
もう大丈夫、ありがとうと、おそらくそう言ったのだろうぺこりと頭を下げた彼女がやっと笑顔を見せてくれた時にはすでに空は明るくなっていた。
その経緯はジフさえも知らず、黙ったまま拳を握りしめた。
「事情があれば、大切な人を泣かせてもいいと、あなたはそうおっしゃる?」
もしかしたらこの男は、防犯カメラその他から、ジュンピョがジャンディに何を言ったのかさえをも知っているのかもしれない。
帰国してからもジャンディはジュンピョを避け、カン会長直々に招待されたジュンピョの誕生日パーティに婚約者が現れてからはさらに挙動不審に拍車がかかっていたから、おそらくマカオでその女とも何かあったに違いない。
ウビンとのやりとりを耳の中に入れつつも、ジフの脳内は高速で動いていた。
おそらく鍵は、ジュンピョがジャンディに言った言葉の中にある。
ジュンピョとしては、今後のジャンディとの関係をほのめかされ、条件を飲むのであればいずれ認めてもいいと言われた、だからこそ突き放した、のだろう。
ただそこでどういう言い方をしたのかが、ジフは気になったのだ。
母親が絡んだための言動だと、それまでの経緯でジャンディもわかっていたはずだ。
真っ直ぐに裏を隠さずに話してさえいれば、何年でもジャンディはジュンピョを待っただろう。
だがジュンピョは、神話を背負うものとしての重さに押し潰されそうになっており、そこでジャンディとの将来に希望を持てるような言い方をされたのなら、その意に従う方がいいと思っても仕方がない。
そこまでは、ジフでも理解できるのだ。
けれどそこからが、どうしても気がかりだった。
カン会長の言があったにせよ、馬鹿正直に従ってジャンディを傷つける必要はなかったはず。
常にそばにいるSPに聞かれたり、防犯カメラに映ったり、そういう用心のためにはカン会長の望み通りの言動をとるしかないだろう。
だが、それでも何かしら、ジュンピョの本心を、出された条件を、伝える術はあっただろうと思うのだ。
「ジュンピョ、俺はこの件ではお前の味方になれないかもしれない」
深夜ではなく、観光地でさほど犯罪性はないとはいえ、それでも人気のないところに若い女性一人を放っては置けない。
しばらくは見守っているつもりではあったが、力なく座り込み、ただ呆然としている姿を目にしてしまっては、どんな理由からも、そのまま場を去ることは出来なかった。
「だから、声、かけました」
遠慮がちに、ゴンドラに乗せてくださいと、それから歌もお願いしますと言われ、引き受けて。
「それから彼女、たくさんたくさん、泣いていました」
見ている方が辛くなるほどのその悲しみを与えたものを責める気持ちは、自然に湧いてきたという。
「彼女を泣かせてひとりぼっちにした相手、調べました」
船頭仲間が、昼間彼女が男性3人とゴンドラに乗っていたということを聞き、それがアジア圏だけではなく世界中でも有名な人物達であったことはすぐにわかった。
そこからジュンピョ、そして神話グループにたどり着くのは簡単だった。
念のために仔細まで調べ上げ、カン会長がどれほどひどいことを彼女にしてきたか、ジュンピョがいかに彼女を貶したかを知った。
それでも当時は未だ彼自身も修行中であり、何が出来るというわけではなかった。
だからカン会長が欧州へと手を伸ばしてきたとしても、決定権は祖父や父親その他年長者達にあり、ようやく時期尚早と言われつつも実権を握ったときにはすでに神話は娘に代替わりをしてしまっていたのだ。
しかもその娘は彼女に対してとても協力的で、むしろ彼女のために母親と掛け合うこともしたことがあるほどだから、無下には出来ない。
じりじりと報復を考えているうちに彼女は神話の医大へ進み、ユン家に大切に守られるように日々を過ごしていたことには安心はしたけれど。
「ようやく、彼が現れてくれました」
姉から地位を譲られ意気揚々と母国に戻って、なのに彼女にプロポーズを断られたと知った時には拍手喝采をしたい気持ちですらあった。
当然だ、どれほど加害者が心を入れ替えようと、被害者はされたことを決して忘れることは出来ないし、そんな相手と共に未来を歩むことなど不可能だ。
だから、彼女がジュンピョと別の道を選んだという事実は、自分の考えを肯定されたと感じた。
ならば、自分も。
「許しません、絶対に」
「最近、ジュンピョんとこ、ヤバいらしい」
そうウビンが漏らしたのは、ジフが院生になってしばらく経ったころだった。
院で医学を続けながら、経営学部も再履修をし、財団も医院もとジフの毎日は忙しい。
それでもジャンディの勉強を見てくれるし、医学とともに財団の二本柱である音楽の方も大切にしていて、自身が楽器に触れるのはもちろん、所有するオーケストラなどへの視察等も怠らない。
寝ることを何より優先させていた学生時代を思えば、無理をしているのではないかとジャンディは心配になるのだが、ジフは『あの頃は何にも興味がなくて寝るしかすることがなかった。でも今はジャンディのおかげで生きるという意味を実感しているし、充実しているよ』とにっこり笑うから、ジャンディもそれ以上は何も言えなくなってしまうのだ。
そんな頃に耳にした、神話の業績不振。
もともと強引なやり方で賛否両論あった神話グループだが、表立って拒否すれば明日がないとも言われるほどの力を持っており、これまではなんとか表面的には穏便に関係を保てていたのだ。
それでも、メディア等に大きく取り扱われることは抑えてはいるものの、裏社会の情報にも精通しているウビンが持ってきた話によればやはり、神話グループは少し前からヨーロッパの方にもその勢力を伸ばそうとしているらしいのだが、うまくいっていないというのだ。
そもそも自国の周りのアジアの国々、N.Y.を拠点とした北米を中心に事業を展開している神話であるが、ジュンピョの父親が独身だったころから数は少ないなりにそれなりにヨーロッパへも進出し始めており、カン会長が主に事業を仕切るようになってから少しずつ拡大を図ろうとしていたのに、ある時期を境にそれらの全てが非協力的になり、また新規開拓に乗り出すもののどこも門前払いに近い扱いを受けているという。
欧米にはいまだにカラード(有色人種)に嫌悪を示すものも少なくなく、そのためかとも思われていたが、もともと友好的な関係にあったのに契約の更新に難色を示したり、提携の申し込みを拒否したりするほとんどの企業は、神話以外のアジア系はもちろん、黒人種のところとは変わらずに契約を継続しているところが多い。
ということは、明らかに神話だけを拒んでいるということになる。
ジュンピョの父、ク・ボニョンの生死が問題になった時にはそれでも、たとえ自社の利害を考えてではあってもむしろ協力的な対応をしてくれていたのだから、最近になって態度を激変させる理由が分からないらしい。
強いて言えば、母親であるカン・ヒスが会長職を引退し、長女であるジュニがそのあとを継ぐのと同時に、ジュンピョが社長となって表に立つようになったころからだろう。
ジュニがヒスとともに挨拶を交わしたの時には問題はなかったというから、原因はジュンピョ以外にあり得ない。
確かに、ジャンディに会う以前のジュンピョを知っていれば、提携等の関係に難色を示すのも分からないでもないが、ヨーロッパに影響を及ぼすほど力のあるものがやりたい放題だった学生当時のジュンピョを知る者の中にいるとは考えにくい。
だが、たとえ噂であってもどこかの企業が提携に難色を示したとあれば、この世界でなくても悪い噂は広まるのが速いから、何よりも保身を重んじる社会、特に地盤を血統で固められているヨーロッパでは信頼関係は築き難く壊れやすいもので、わずかな不評でさえも致命傷になる。
だが、問題は、そうなった原因が不明だということ。
不手際なり失策なり、たとえ些細なことであっても相手が不快に思うようなことがあったのならば挽回する機会も作れるが、理由が分からなければ対処のしようもない。
だからジュンピョ自身、アジアや北米でのことは自身でなければどうしてもというものだけを片付け、それ以外は信頼出来るものに任せて欧州に飛んだ。
すでに一方的に切られた相手はもちろんのこと、契約更新を躊躇うところや新規での提携を拒否するところまで全てを直接訪ねた。
アポイントを取ることすらままならず、それでもなんとかと訪ねることは許されても約束の時間を大幅に過ぎても急用でと会えなかったり、何も知らない担当ではないものが応対してしどろもどろで役立たずだったり、とにかくあのジュンピョがよく我慢していると拍手を送りたくなるほどの応対ぶりだということだ。
「ジュンピョが社長になって、その経歴を調べたからってことはないの?」
ジャンディが、苛めのせいで自殺をしようとしていた学生を助けたことにより初めてその内情が明らかになり、当時神話学園、ひいては神話グループはかなり非難されたし、当然過去のことも学生たちに聞いたのだろう雑誌やワイドショウのネタにもされた。
プロが調べれば誇張された噂以上の仔細までも分かることだ。
「それでも、大なり小なり、家柄を自身の力と思い込むご子息やご息女はどこにでもいるだろ」
F4もそうだった。
確かに学力も体技もその他全てにおいて英才教育を施され、その過酷さを乗り越えたからこその自身と驕りがあったし、周りもそれを当然と受け入れていた。
学生という一個人であればこそ芸能人と同じ感覚で騒がれもするが、それが企業となれば背負う責任も桁外れになる故に、きちんと責務を果たしていれば過去のオイタは若気のいたりと暗黙の了解となっている。
それは国や企業の主は違えど同じのはず。
であれば、なぜ神話だけが目の敵にされるのかがやはり分からないのだ。
結局そのまましばらく、ジュンピョはヨーロッパとN.Y.を行ったり来たりしていたようだが、依然、原因は不明のままでなす術もなくヨーロッパからは撤退した方がいいという声も内部から上がってくるほどだという。
とはいえ、心配にもなるしなるべく詳細を気にしてはいても基本的な互いの事業内容が違うし、ウビンのように裏事情を探ることも難しく、ジフには手伝ってやることも出来ない。
かといって容易に諦めろと言うことも憚られ、今後の動向を探っていた矢先のことだった。
「あ、この人、知ってる!」
ジャンディがTVのニュースだか特番だかを見ていて叫んだのだ。
夕食を終え、祖父はすでに自室へと行っており、後片付けを終えたジャンディはTVをBGMに課題に向き合っていたときだった。
ジフは日中にこなしたあれこれをまとめ、院の課題、病院、その他、翌日に持ち越せない仕事を片付けるのに集中していてTVがついていることさえ気付いていなかったから、ジャンディの声に驚いて初めて顔を上げた。
「へえ、すごい人だったんだ…」
紹介されていたのは、最大とは言えないまでもイタリア国内では常に業績ではトップ争いに参加し、ひいては欧州でもかなりの影響力があるところの副社長だ。
企業としての歴史は未だ浅いものの、新進気鋭を抜擢したり、これまでの常識や規格に拘らない斬新な事業で頭角を現し、わずかな期間で欧州を引っ張るほどにまでなったという。
もちろん『前例』を大切にする者たちからはあまりよく思われてはいないが、現状に甘んじることなく未来を変えたいと思う若い世代からは絶賛されているらしい。
報道であるから誇張はあるにしても、無視出来ない存在ではあるのだろう。
だが。
「なんでジャンディがこの人知ってるの?」
疑問は、そこだ。
ジフの知る限り、ジャンディは高校当時ですらF4を全く知らなかったし、その後も自身のことや身近に起こる問題で精一杯で国内情勢ですらよく分かっておらず、海外の経済界などもってのほかのはず。
祖父ソギョンはどうか分からないが、ジフ自身は、名前と顔は知っているくらいで接点は全くなかった。
そもそも芸能人ではないのだから、経済誌ならばともかく、報道関係には窓口専門の担当がおり、企業人が表に顔を出すことはほとんどない。
世界的に有名であるというのも過言ではないF4でさえ、学生たちがアイドル扱いに騒ぐ程度は黙認していても、マスコミには宣伝を目的とした露出以外は容赦ない態度を崩さなかった。
だからこそ、事業繋がりで知っているジフはともかく、ジャンディとの接点が分からなかったのだ。
「ん、と…高校の頃、ジュンピョに会いにマカオまで行ったこと、あったでしょ」
ジャンディがようやく想いを自覚し、散々嫌がらせを受けたジュンピョの母親に直接談判に向かい、その後ジフに連れて行ってもらって初めて彼氏・彼女らしく過ごせたスキー旅行から一転、父親の危篤により攫われるように姿を消したジュンピョ。
おとなしく待てと言われ、けれどその後半年経ってもただの一度の連絡もなく、ジャンディは意を決してジュンピョに会うためにマカオへひとりで行ったのだ。
すぐに追ったF3によりトラブルも回避したが、ジャンディが来ていることを神話の後継者としての重責から無視したジュンピョの態度に納得がいかず、ジフは少々無理をしてでも頼むと、早朝にジャンディがジュンピョと会えるようにした。
そこでのジュンピョの言動が最低で、もちろんそれはカン会長から出された条件のせいではあったけれど、分かっていてそういう態度を取らざるを得なかったジュンピョはともかく、ただただ会いたかっただけの相手から容赦なく投げつけられた言葉の矢はジャンディの心をずたずたに引き裂いた。
「話せたのは、ほんとに短い時間で。きっと、そう言わなきゃいけない事情があるんだろうなって分かってたけど、やっぱり一緒にいた時間は夢だったんだなって思って」
先輩は、夢なんかじゃないって言ってくださったのにね、と言うジャンディの笑顔が当時の消え入りそうな儚さを含むから、ジフはジャンディの座るソファに移動して腕の中にしまい込む。
「そのままホテルには戻りたくなくて、でもどうしたらいいのか分かんなくて、なんにも考えられなくて、泣くことしか出来なくて」
ジフの肩口にすり、と額をこすりつけたジャンディは、
「立ってる気力もなくて座り込んでたらね、船頭さんが声をかけてくれたの」
ふ、と体の力を抜いた。
「今日最初のお客さんだから特別にいっぱい乗せてあげるよって、お願いしたらサービスだよってお金も受け取らずに歌ってくれた」
ジャンディの声にあまりにも抑揚がなく、心配になって覗き込もうとするジフから逃げるように、更にジャンディは顔を俯ける。
「歌を聞きながらね、ジュンピョとのこと、いっぱい思い出してた。嫌なことしかなかったはずなのに、楽しかったことばっかり思い浮かんでた」
「ジャンディ?」
「幸せだった。そう思えるようになるまで思いっきり泣いて、泣き続けて、その間ずっと、船頭さん、歌いながら乗せてくれてたの」
「ん」
ジュンピョとの時間を設け、その場までジャンディを送り、ある程度の時間を置いて迎えに行けばいいと、ジフは立ち会うことはしなかった。
その時のジュンピョにジャンディを受け入れる余裕がないことは薄々分かってはいたけれど、一言『待っていろ』と告げられるならそれが何よりだと本心から思っていた。
なのに、迎えに行った時には、傷心した様子でベンチに座り込んでいたから、いつもよりもおどけた感じで気晴らしの時間を過ごそうと提案して。
それまでに何があったのかは、訊けなかった。
けれど、泣き腫らしたジャンディの目を見て、おそらくは決別するに足る応酬があったのだろうという察しはついていた。
「それでね」
そう言い置いて、少し深く息を吐いて。
「その時の船頭さんが、この人なの」
01. その立場としての笑み
時は、昔々と始められる物語の頃。
そして和洋問わずでよくある、身分差のある恋物語。
僕は、とある女性に惹かれていた。
父母は、大きな城とも言えるような邸に仕える運転手と女中で。
住まいは同じ敷地内にある離れを与えられていた。
雇い主には同じ年頃の女の子がいて、子ども同士の気安さからか、いつのまにか禁止する親の目を盗んでは一緒に遊んでいた。
余人がいるという世間を知る以前には、幼いながらもぼんやりとした意味しかわからぬ結婚の約束もした。
それが叶わぬものだと知らされたのは、越えられぬ「身分」があると教えられたから。
学び舎というものに通うようになり、他の同年代の者と知り合い、世界は否応なく広がってゆく。
そしていつしか全開だった笑顔は、その立場としての貼り付けたような笑みに変わっていった。
**********
02. 障子一枚の隔たり(障子の無い時代でお使いでしたら、障子を 「御簾」 に変更してお使い下さい。)
仔犬や仔猫のように、一緒になって遊んでいた時間はいつのまにか遠去かり、選んで生まれたわけではないのに身分や立場というものに遮られるようになった。
仕える身に生まれてしまえば、払拭するには全てを捨てるしかない。
それでも捨てたくないものの中に仕える相手がいるのであれば、どれほど幸せな未来が望めずとも受け入れるしかないのだ。
そこにいると、衣擦れの音さえ阻むことのない薄布一枚の隔たりが、届きそうで届かないその距離を埋められないものだと嘲笑う。
それでも。
一定以上に近づくことは出来ずとも、側に居られるのであれば、その存在さえも感じられないところにいるよりはマシなのだと、己に言い聞かせて。
名を呼ばれる。
事を言い付かる。
成した後にいただける言葉は、簡略だからこそ幼少の頃の無邪気さに似て。
また、希望を持ってしまうのだ。
**********
03. 仕える者の特権
朝な夕な、高貴な方々の命は多岐にわたり、その時々の気分によって求められる対応も違ってくるから、細心の注意を常に強いられる。
あれをしろ、これをやっておけ、そういう単純なものならむしろ楽な方で、認知していない誰それが来るからその人に合う準備をしておけと言われても、合うか否かは分からないまでも歓待の準備をするしかない。
今のところ人として出来た相手ばかりだったのか、用意したものに文句はつけられた様子はないが、それ以前に用意を命じたものたちは関心がないのではないかと思う。
ならば。
それを逆手に取り、不必要なものを排除するのに利用すればいい。
使用人は、誰が上にいようと、命令された事を着実にこなすことに精一杯で、だから、それが誰であろうと関係がないのだ。
強いて言えば、無理を強いない良心的な人であればというだけであろう。
仕える者の特権は、少ない。
けれど、全くないわけではない。
要は、命じられた数少ない言葉を、いかに曲解していくか、なのだ。
**********
04. 命令範囲外の命令
本来、仕える相手は同性と決められている。
それは万がひとつにも間違いが起きてはいけないからなのは明白だ。
それなのに、僕に命令をするのはここでは、いずれ誰よりも高貴な身分になるはずの女性である。
間違いが起こせぬほどの年齢差ならばともかく、むしろ間違いを起こせと誘惑されそうなほどに近い、それ。
さらには、調理や清掃、着付けから外出時の付き添いまで担当のものが違うはずなのに、僕は全てをひとりでこなしている。
大人たちに、身分が違うのだからもう一緒に遊んではいけないと言われて以来、遊んでいた時間が身の回りの世話へと変わったのだ。
それは、余人には許されない、命令範囲外の命令の所為。
他の者に、そう命令すればいいのだと、僕から申し出た結果だ。
あれをしろ、これをやっておけ、そういうものをそれぞれに命令するのではなく、僕一人にすればいい、と。
為来りとか前例なんてうっちゃっておけばいい。
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05. 目を閉じて あとは従うだけ
早朝、朝食の準備をし、起床を促し、身形を整えさせ、食事をさせる。
本日の予定を確認し、車の用意をし、送迎する。
待ち時間は大抵、教養を高めるために読書に当てる。
命じられていた買い物もこの間に済ませるようにし、共に過ごせる時間を可能な限り減らさないよう努める。
ありがとうと、うれしいと、一緒に遊んでいた頃と同じ笑顔が見られるのであれば、容易いことだ。
用事を済ませて帰宅した後も、入浴を含めた就寝の用意を手伝い、自身を殺した1日が終わる。
…はずもなく。
「早く、早く」
幼い頃に急かされたそのままそっくり同じ無邪気な口調で、かけ布団がめくられる。
拒否権はなく、あっても使うつもりはないから、結局溜め息を押し殺し、目を閉じてあとは従うだけなのだ。
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06. 身分差を埋める闇
初めて彼女に出会ったのは、彼女が生まれて数時間後だった。
両親が使える主人に赤ん坊が生まれ、仕事で出産に立ち会えなかった主人を運転手である父が急ぎ病院へ送り届けるのに、手がいるだろうと女中である母が付き添うので、幼子をひとりにできないと一緒に連れて行かれたのだ。
他に子の居ない邸で、一緒に過ごすようになったのは自然の成り行きだっただろう。
遊び疲れて一緒に庭で昼寝をすることは当たり前で、ひとりの夜は怖いと袖を掴まれ、結局手を繋いで寝ることが普通になって。
だからこれは、男女の営みなどではなく、幼い頃からの習慣なのだ。
頬を寄せ合い、抱きしめ合い、ささやき声で内緒話をし、抑えた笑いで額を合わせる。
彼女が生まれてから、それはずっと続いたふたりだけの空間。
これまでも、これからも、立ちはだかる身分差を埋める闇だけが、唯一素の自分たちでいられる場所なのだ。
確かめるように交わす、小さなキスだけが、約束の証。
互いの背中に回した両手だけが、信じられるもの。
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07. 縁談の噂
遠くないいつか、そんなことがあるだろうと予想はしていた。
それでも、実際に直面すれば、うろたえてしまう自分に微苦笑を漏らす。
それなりに名声のある家の娘だ、純粋に人として惹かれるだけではなく、多分に政略的な思惑も含んだものも多いのだろう。
年齢的にはまだ急ぐ必要はなく、その縁談はあくまで噂でしかないものの、いずれ現実となるのは明白だ。
年端もいかぬ頃にすでに身分が違うと離れさせられた自分には、相手となる資格が無いと断言されたも同然で。
ならば、あとはいかにして付いてゆくかを許可してもらうか、考えるしかない。
同性ならば身の回りの世話付きという手もあるが、異性ではそれは許されない。
とはいえ、それ以外では近い位置に居られる立場はない。
どうするか。
…狙って、みるか?
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08. 付け文に託す恋の唄(付け文(つけぶみ) ひそかに送る恋文。つまりラブレター。艶書(えんしょ/えんじょ)・懸想文 (けそうぶみ) ともいいます。)
まず簡単なのは、相手から断るように仕向けること。
どんな理由をつけてでも、ついでに他のものにも、この人はやめておいた方がいいなんて思わせられればいいが、それは同時にたとえ噂であっても大切な人の品位や人格を貶めることになりかねないから危険だ。
ならば逆に、こちらから相手の粗を探して嫌だと申し出てもいいが、飽きるほどに湧いてくるだろう話にいちいち対応するのにもかなりの量力が必要だろう。
何より、己のわがままにより彼女付きの使用人をひとりでさせてもらっているからこそ、雇い主にそれ以上の無理は頼めない。
ならば、もしも。
無邪気なままの彼女がそれでも自分と同じ気持ちを抱いてくれているのだとしたら。
知り尽くしている彼女の好みの薄い模様の入った紙を選び、一文字ずつ丁寧に認める。
生まれ、出会い、共に過ごす時間と日々を重ねるうちに培って来た想いを。
それを細く折りたたみ、彼女が一等好きな花の枝に結び添えて。
付け文に託す恋の唄を受け入れてくれるのであれば、きっと…。
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09. ただ一つ 対等であること
呼び出されたのは、いつもの部屋ではなく、僕がよく息抜きに訪れる庭の一角。
1日の全ての仕事を無事に済ませた後、就寝までのわずかな間ではあるがゆっくりと過ごすその時間。
たいていは彼女の私室か、家族やそれに近いものだけが使う私的な居間を利用しており、庭とはいえ外に出るということは、花見や夕涼みなど特別な事由な時だけに限られていたから、少々驚いてはいたのだ。
しかも、そういう時に彼女と訪う公的な場所ではなく、勝手に僕だけの憩いの場として使用していたところであったから。
そのことを話題にしたこともなく、なぜ彼女が知り得たのかもわからないまま、それでも迷いなく脚は向かう。
幽けき月光が、木々の隙間から光線を差し込ませ、それを受ける彼女があまりにも儚く優美で、言葉はもちろん、わずかな動きでさえもその機能を失う。
息を飲んだ、その気配を感じたのだろう、ゆっくりと僕に向けられた視線は、いつもの幼いほどのものではなく、いつのまにか大人になっていたそれだった。
「お手紙、落手いたしました」
静かに、ゆっくりと発せられる一言ずつが、胸の内に雪のように降り積もってゆく。
「お気持ちは嬉しゅうございますけれど、私が望むのはただ一つ、あなたさまと対等であることです」
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10. あともう少しだけの高望み
ご主人様にお嬢様がお生まれになったよと連れて行かれ、その姿を見たときからずっと、そばにいるべきなのだと、言葉にはしないまでもそう思っていた。
一緒にいることが当たり前であった時間が奪われても、必死にそれに対抗する方法を考え、互いの手が離れないようにしっかりと繋ぎあってきた。
使用人という立場である僕だけがそう勝手に望んでいたわけではないということは、次期当主になるであろう彼女が僕に示す小さな態度から信じてはいたが、それでも諦めなければいけない「いつか」が来るかもしれないと覚悟はしていたけれど。
「ずっと幼い頃、私たちは今のような身分の差などなく、いつも一緒でしたね」
僕の両手を包み込むように握り、僕の両目をじっと見つめる。
「いつからか、あなたは私が入れない壁を作ってしまったけれど、私はずっと、その頃に戻りたいと思っていました」
送った付け文から、もしかして彼女も初めて、使用人となって引いた態度をとるようになった僕の心の内を知ることが出来たのだろうか。
婚姻などは望まなくても、どんな時でもそばにいて欲しいと思ってくれていると、あともう少しだけの高望みが顔を出す。
「お父さまの許可は得ました。あなたはずっと、私のものですよ?」
満面の笑顔はずっと惹かれていたものではあるし、賜った言葉は至上の幸福ではあるけれど、今少し詳細を述べる術を教えておくべきだったかとズレたところで後悔をすることになり、やはり敵わぬと微苦笑で幕、になるのだろうな。
つくしだけではない、両親と弟も行方知れず。
類が調べさせたパパやママの勤め先も、進の通っていた学校も、どこも異口同音に『移転先は知らない』という答えだった。
事務的なことはともかく、噂のひとかけらもないほどのきれいさが逆にひっかかった。
予定されていたことなら、引っ越しの準備や作業をしていればそれなりに世間話もあるだろうし、そこで確たる場所は隠していても、言葉の端々に行き先への示唆や、逆に秘さなければならないのであればそんな言動があるものだ。
義務教育は卒業しているとは言え、つくしや進が他の学校へ転校するのであれば、転入先へ成績等を渡さなければならないはずなのに、送り出した学校側にそういった手続きをした事実も、そもそも牧野つくし・進という生徒がいたことさえも全くなかったことにされている方がむしろ、異様なのである。
そしてそれが確信に変わったのは、引っ越しや転校の手続きが、当人たちではなく代理のもので行われたということを知った時だった。
もちろん、知らぬ存ぜぬを貫いた大家さんや学校側が口を滑らせたのではない。
が、どこにでも噂好きのものはいるし、アパートの住人には箝口令を敷いていても隣近所までは行き渡らず、調べれば分かるほどに一番近しい友人たちは口止めされていたが、単なるクラスメイトとして進のことを心配した友人たちからもそれは容易に入手出来た。
曰く、深夜に近い時間に黒っぽい乗用車よりも長い車が来て牧野家の4人を連れて行った、それもどう見ても寝間着のままだった、というのは、だんなが夜勤で起きていたという斜向かいの住人の義姉がたまたま女子会をしようと訪ねて来ていて偶然目撃されたもの。
曰く、ハリウッド映画のボディガードみたいに黒づくめにサングラスの人が3人くらいで学校の事務室に現れ、無言で威嚇して人払いをした後に、牧野進の転校手続きを強要したというものは、進の友人の部活仲間がその場にいて、転入手続きかどうかは後から聞いて知ったことではあるが、その場の雰囲気があまりにも学校にそぐわなかったことと、もれ聞こえた言葉に進の名前があったことで、何かよからぬことが起きたに違いないと事務局に談判する勢いで質問したおかげだ。
それでも結局、牧野家に何か引っ越しだけではない、その存在すらも隠さなくてはいけないような事態が起きたのだと決定付けるのは容易だった。
学費はもちろん、その日の生活費でさえつくしが稼ぐバイト代を当てにしていたような暮らしぶりの家庭なのだ、金銭的に狙われることは皆無だと断言出来る。
ならば、人のいいパパが誰某の保証人になったとか、うっかり手を出したギャンブルに負けたとか胡散くさいところからお金を借りてしまっていたとか。
でもそれくらいならばすでに経験済みで、その年齢に比して苦労することの度合いが多いつくしにとっては、ある程度の応対の仕方もあったはず。
何より、F4の力をもってしても探せないということ事態がもう、おかしいのだ。
「どこに、いるの?」
いろんな状況を想定し、それを起点として発する状態、そして蜘蛛の巣のように広がるそれぞれに対応する場合を考えるのは、類の得意とするところではある。
オセロや将棋、チェスなどでは負け知らずで、幼少の頃から何度もプロにとすすめられてもいたが、興味がないとの一点張りでずっと拒否していた。
が、自分に関係のないことでもそれなりに己の寛げる場所を邪魔されるのであればと情報収集をしていたが為に、非常階段で出会って気になる存在と認識してからは、司の赤札による苛めにもそれなりに助けることが出来ていた。
つくしに背中を押されたように静を追って行ったのは、己自身の思いの先を確認するため。
そこで、自分の静への気持ちが母や姉に対するようなものでしかないと改めて思った。
どこにいても何をしていてもいつも気にかかっていたのは、ブランドものなど何一つ身に付けず、けれど、その大きな黒い瞳はどんな宝石よりもきれいに澄んでいた少女。
非常階段で、ワケの分からないことを叫んでいた時から、おもしろいと思った時点でもう、惹かれていたのだろう。
戻って来た時にはすでに、女性に興味のない親友の司が彼女だと公言していたし、そのやり方は横暴でさえあったけれどそれでも真剣だったから、応援しようと思った。
いつか、彼女も司の良さを分かるだろう、そしてその時には惹かれずにはいられないだろう、と。
けれど、現実は甘くなく。
司の勢いに引きずられるように始まったふたりの関係は、司の母からの嫌がらせによってむしろ結束が固くなったようではあったけれど、一高校生が太刀打ち出来るようなぬるいものではなくて。
司はどれほど歯痒い思いをしたのだろう、つくしは何度悔し涙を流したのだろう。
そういう過程を類は誰よりもつくしの近くで見続けていたからこそ、総二郎やあきらはもちろん、司を好きだった元婚約者やつくしの後輩などがいつも司の立場に立って意見を言うことに苛ついていた。
おそらくつくしも、類以外には素直な気持ちを吐き出すことをしていなかったのだろうとも推測がつく。
司と張り合えるくらいに気丈で、無鉄砲で、怖いもの知らずだけれど、それはいつもいつでも、自分ではない他の誰かのためというのが原動力で、だからこそ、今回の失踪も、本人の意思とは別のところにあるのではないかという確信があった。
ならば、F4やT2からですらそっくり丸ごと牧野家一家4人を神隠しに出来るほどの力を持つところから当たってみればいい。
国内に該当するところがなければ海外にまで手を広げる。
そこに戸惑う理由はない。
「ご相談に乗っていただきたいことがありますの」
そう桜子があきらを通じてF3と滋を呼び出したのは、街を彩るクリスマスの華やかさが最高潮に達した頃。
正攻法な線から調べる類はもちろん、裏から手を回すあきら、女性はもちろん男性でも寛げる空間では漏らされる侮れない噂話を集められる総二郎のF3をもってしてもつくし探しに行き詰まっていた。
おそらく道明寺ならと思ったことは一切ではないが、それでも嫌いになって別れたワケではないふたりであり、つくしはともかく司は今でも未練たらたらだろうし、行方が分からないなどと知ればせっかくつくしと別れてまで積み上げた実績が無になろうとも無理矢理帰国するだろうことは明白でさすがに伝えられず。
それぞれの父親に頼めばもしかしたらという希望はありつつ、自分たちの力が未だ及ばないことを認めるには微妙にプライドが邪魔をしていた。
そんな時に持ち込まれた桜子の相談は、ある意味気分転換としても歓迎するものだった。
次の春には高校を卒業する桜子もそろそろ一人前扱いをされる年齢になり、それなりに由緒のある三条家には、気の早いところからはすでに見合い写真だの縁組みの相談などが届いている。
そして今回、年明けに行われる新年会への招待状が届いたのだが、両親が亡くなる以前はともかく、桜子本人としては一度も目にした覚えのある名前ではなく、祖父母も知らないという。
しかも送り主の住所が九州であり、なぜそんなところからわざわざ送られて来たのか理由が不明で、気味が悪いと思いつつも調べてみたところ、出て来た名前がとんでもないものだったのだ。
招待状に記されていた名前は極ありふれたものであり、だからこそ正体が分からなかったが、労なく黒幕らしきものを突き止められたのは、相手がこちらを招待したいからである。
「私を疑似餌にするのですから、本命はみなさま以外にはありませんわよね?」
三条家は道明寺や花沢、美作のような企業家ではないが、旧家や宮家等に広く繋がっているのは西門に近いかもしれない。
そして今でもそれなりの名声と地位は続いており、桜子と懇意な関係を築くことが出来ればと考える者は多いのだろう。
さらに、少々調べれば、国際的にも有名なF4との関わりも分かるはずで、地方ではそれなりの家がわずかな期待でも繋がりをもとうとすることも分からないでもない。
ただ、今回のことに関しては、主催者側のメインゲストは未だ高校生ではあるが、結婚出来る年齢になるということで見聞を広めるためにも社交デビューをということらしい。
問題は、そのゲストの名前だった。
「牧野の家族は何て?」
つくしが行方不明であると知って総二郎とあきらが類の部屋に訪ねてきたのは、2週間ほど経ってからだった。
以来、日を置かずにやってくるのは、類にしか懐かない猫に、それでも興味があるからだろう。
ひとしきりちょっかいを出して満足したのか、ツッキーがおとなしく寝息を立て始めたころ、あきらが問うた。
類も、つくしから話がある、と言われただけで内容までは聞いておらず、それなりに大変ながらも順調に大学生活をしていると思っていたから、突然の呼び出しに表情には出さないまでも訝しんではいたのだ。
つくしは、司と付き合っていたころからでさえ、何か思い悩んでいると察知してはあれこれと愚痴を吐き出させたりアドバイスをしたり、時にはただ寄っかからせたりとそばにいた類には、何かを決める時には独り言のように状況をつぶやき、類からの後押しを望む傾向にあった。
だから今回もそういうものだろうとある程度受け入れる心積もりをしていたのだが、結局本人は現れず。
だけならばともかく、夏休みは稼ぎ時だとアルバイトを掛け持ちしているだろうと思っていたのに、親友と働く店に行っても、彼女もいきなりの無断欠勤続きで、電話も繋がらないと心配をしていたほどだ。
ならばと、一緒にNYから戻ってきて以来、日を置かず訪ねるようになって仲良くなったつくしの家族に連絡をしてみて、初めてつくしの状況を教えてもらったのだ。
ただ、予定日になってもつくしは戻って来ず、けれどある意味夫婦と息子を無償に近い状態で養ってもらっている現状では自儘に休みをもらえるような状態ではないから、何か問題が起きたのかもと心配はしつつもしっかり者だから落ち着けば来るだろうとそのまま待つことにしたのだという。
「じゃあ、誰も知らないってことか?」
総二郎が声を荒げるのも当然だ。
つくしが忽然と姿を消してからそろそろひと月になるのだ。
色気皆無で実家も強請りの対象にすらならないだろうほどの貧乏とはいえ、それでもつくしは妙齢の女性で、何かの事件に巻き込まれている可能性だってないわけではないのだから。
「心配じゃねぇのかよ!」
直情的という意味では司と総二郎は似たところがある。
けれど、その時の感情で後先を考えず動く司と違い、本来は後継者であったはずの長兄が家を出、次男でありながらもその腕を買われて時期家元にと公私共に認められている総二郎は、周囲の思惑にも聡い。
その、ある意味天性の能力を利用して同時に何人もの女性と関係を持ってさえ問題を起こすことがないのではあるが。
もちろん好悪の感情がないわけではない、むしろ誰に対しても公平に愛情を持てるからこそ、女性としては守備範囲外ではありながらもF4のマスコット的存在になっているつくしを気に入っていることは明白で。
司の庇護がなくなった今、ある意味純粋培養で、疑うことを知らず、F4をすら魅了した魅力を本人だけが知らないものだから、引く手数多なのを類はもちろん、総二郎やあきらも牽制に余念がないのだ。
己に対する好意には天然記念物並みに疎いつくしだから、本人を対象とした誘拐に遭ってないとも言い切れない。
しかも、いなくなってからもう数日どころではないのだ。
「ああ、ごめん、なんでもないから」
総二郎の大きな声にひくりと顔を上げた猫に、類は優しく撫でながら声をかけた。
そしてゆっくりとまた寝入ったのを確認してから、
「心配ない。牧野は、ここにいる」
そう言った。
「牧野ロスで気でも狂れたか?」
総二郎の言い分も、最もである。
待ち合わせに現れない当人の代わりでもなく、ただ偶然そこにいたというだけの猫だ。
他に飼い主がいるわけでもなさそうなのに人馴れしており、人語を解するかのような態度もしばしばみられるが、それでも猫は猫、なのである。
幼少期の事情から類は精神的に問題があると思われていたこともあるがゆえに、総二郎の心配もあながち間違いではないのだが。
「知ってた?司とのいざこざで、牧野がしんどい思いしてたの」
突然の話題転換にうまくついていけず、押し黙ることになった。
元々類は極端に言葉が少なく、誰よりも物事を深く見据えているくせに考えの帰結のみをしかも単語でしか話さないという超省エネな癖があり、途中経過を知るためには茶々を入れずに静聴しなければならないことは暗黙の了解である。
まあ、たまに、しばしば、大抵は、説明などしてもらえないのだけれども。
つくしにとって、出会った頃から振り回され続けた司との関係は、あっという間に終焉を迎えた。
どこまでも俺様な司は、自分の時間の空いた時に携帯を鳴らすが、半日ほども時差のあるそれはつくしにとっては深夜であることがほとんどで、勉強にバイトにと疲れて寝ているつくしの睡眠時間を減らすことに他ならず、おそらくは分単位でのスケジュールに忙殺されているだろう司にとっても貴重な息抜きの時間を尽くしのために使ってくれているはずだと理解はしていても、それでも疲れも溜まれば深夜の受信音に気づかないこともあり、次の電話でそれを責められる。
そんなことが続けば流石につくしだって「電話をしてやってる」という司の言い方に慣れはしても、それでも自身の都合をわずかも思いやってくれないことに苛立つことが多くなり、結果口論になって喧嘩別れのような切り方になってしまっていた。
そもそもが、全校生徒からのいじめの対象から一転司と付き合うことにされその度に豹変する生徒たちの態度はまだかわいいもので、司の母楓からの攻撃は容赦なく続き、息つく間もないほどのそれはまるで絶叫ジェットコースターに乗っているようなものであった。
そして司が高校卒業を機に渡米し、共にあることよりも遠距離でいることを選んだのはまさしく、コースターから降車したようなものだったのだろう。
そのときにつくしはようやく自分がとても疲れていることに気づいたのだ。
世界に名だたる大財閥の御曹司と中流階級にもなれない家庭の庶民の一女子。
コースターのレールをNYまで伸ばせる権力を持つ覇者と、1周すれば強制的に降ろされてしまう一般人。
その差を埋めるには、コースターに乗り続けられるだけの何かを身につけるか、権力を捨てて一般人になるか。
果てし無く広がり続ける関係の差を改めて思い知り、
「なんかもう、疲れちゃった」
そんな言葉が無意識のうちにつくしからこぼれ落ちたのだった。
そして迫り来る卒業、その後の行き先を考えたとき、つくしには選択権はほとんどなかった。
楓の所為もあるが、もともと牧野家の貧困は、たとえ両親が望んだこととはいえ英徳の過ぎるほど高額な学費が原因なのである。
家計を思うならばできるだけ待遇の良いところに就職すべきだが最終学歴が高卒ではそれはなかなかに難しい。
また、大学への進学が望めても、学費の少ない国立しかダメであろう。
司との関係が白紙に戻ったのであれば、F4に会う以前の状態に戻ればいい。
そうつくしが考えていることを察したからこそ、類は先手を打ち、つくしが学費免除で英徳大へ来られるように仕向けたのだ。
「疲れてたんだよ、色々」
いくら雑草だからと頑張っていても、普通の女の子なのだ。
しかも、自身のことだけではなく、家族のことも、すべてひとりで背負い込んでいた。
お洒落をすること、気になる異性のこと、アイドルやドラマの結末、そんなことが悩みであるはずの女子高生が、家計のために自由時間をバイトに費やし、傍若無人な相手に気に入られてしまったが故に振り回され、その母親には社会的制裁と言えるほどの嫌がらせという攻撃を受け。
未だ未成年である女の子にとって、それは重すぎたのだ。
そして逃げたくても逃げられない真面目さがつくし自身を追い詰めて。
「だから、そうなりたいって、思っちゃったんだよね」
類にゆっくりと撫でられ、ツッキーがぐるごろと喉を鳴らす。
「いや、思っちゃっただけでそうなるわけねぇだろ」
架空の物語ならともかく、現実にそんなことがあり得るはずがない。
「そうかな」
視線を落としたまま類がつぶやくように言うのを、
「とにかく、牧野が消えたショックでそう思いたいのかもしれないが、こうしている間にも本物の牧野が辛い思いをしてる可能性も考えろよ」
あきらがため息まじりに諭した。
「ん。ちゃんと捜索も、してるから」
単に行方不明というだけでは、年齢的にも家出の可能性があるとして警察は動いてはくれない。
だから花沢の力を借りている。
おそらく独自のネットワークを持つ西門も裏社会にも顔が利く美作も、協力してくれている。
それでも見つからないのは、だから…多分。
「ツッキー、おいで」
気に入りのソファの上に両脚をあげ、肘掛けを背もたれ代わりに横向きに座って、類は愛しい名前を呼ぶ。
胡座にした両脚の間に出来た空間に、小さな身体では高すぎるのか、スマートなイメージの猫らしくなくソファに爪を引っ掛けジタバタともがくようにして乗り上がり、数回ぐるりと居心地を確かめたあと、ぽふんと丸くなる。
「なんで”ツッキー”?」
人差し指の先で額を触ろうとしてカーッと威嚇された総二郎が指を引っ込めながら問う。
「拾ったとき、月がきれいだったから」
綺麗な曲線を描くその背を類がふんわりと撫でてやれば、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「ムーンとかルナとか、他にもあるだろう」
覗き込むように顔を近づけたあきらに、明らかに気分を害したようで、ぐるりと背を向けるように姿勢を変えてまた丸くなる。
「だってこの呼び方に一番反応したんだもん」
類の部屋に同居者が増えたのは、ひと月ほど前のこと。
司とつくしは遠距離恋愛を始めて1年と経たないうちに破局した。
ある意味似た者同士の二人だから、時差を考えない司からの電話やそばにいられないからという理由で送りつけてくるプレゼント、さらには類との関係までをも疑いだし、つくしがキれ、売り言葉に買い言葉で別れることになった。
それでもその時司としては、単なる痴話喧嘩の延長であり、しばらく冷却期間を置けばまた今まで通りに戻るだろうとタカをくくっていたらしい。
が、道明寺家の使用人頭であるタマ経由でつくしから土星のネックレスと渡していた携帯電話が返されたことにより、それが本気だったことを悟り焦ったが、後の祭りというもので。
ちょうど進路を悩んでいたつくしにとっては、どこまでも俺様で相手の事情や都合を無視する司の態度に呆れ半分、諦め半分、という、ある意味投げやりになっていたのだろう。
「なんかもう、疲れちゃった」
それが類がつくしから聞いた、別れ話の最後の言葉だった。
そしてそのまま進学にしろ就職にしろ英徳から、というよりも類たちから距離を置きたいそぶりを見せたから、慌てて「返済不要の特待生制度がある」と言葉巧みに英徳の大学部への進学を示唆したのだ。
期待通り優秀な成績で大学へと進学したつくしだったが、夏休みに入る直前に姿を消したのだ。
つくしが大学に入る頃、両親はつくしの弟進も一緒に知り合いの伝手で地方の農家へと身を寄せ、手伝うことでなんとか生計を保っており、つくしは風呂もない古い小さなアパートに一人で住んでいた。
自分たちの生活でいっぱいいっぱいな両親に仕送りは望めず、学費は不要とはいえ家賃や生活費を稼ぐためにやはりつくしはバイトにかなりの時間を費やさねばならなかった。
そして梅雨に入る頃、父晴男が慣れない作業に体を壊し、つくしにも大学を辞め、働く手伝いに来て欲しいと連絡が来たのだ。
せめて進にも高校だけは卒業させてやりたいという思いもあり、つくしには悩む時間は与えられず、夏休みに入るタイミングで退学することを決めた。
そのことを、はじめは誰にも言わずに消えるつもりだったが、誰よりも助けてもらった類にだけは告げていこうと、出立の前の夜、話があると会ってもらえるように、いつもバイト先に来ては「散歩のついでだから」と送ってもらっていたアパートの近くの公園まで来てもらうようにしたのだ。
最後のバイトを終え、時間は夜9時。
梅雨明けが近いのか、久しぶりにすっきりと晴れた夜空には、綺麗な満月がのぼっていた。
そして類が待ち合わせのベンチに着いた時、そこにはつくしではなく黒と銀の毛が光る猫だけがいたのだ。
それでも、時間を違えることのないつくしだから、類は何かあったのかとしばらく待ったが、携帯への連絡もなく、深夜に近い時間にもなり、さらにはどれほど追い払っても膝の上に乗ってくる猫にも閉口し、万が一つくしが来た時のことを考えてSPを残して帰宅したのだ。
以来、どれほど手を尽くして探してもつくしは見つからず、その日から類の部屋に大人になりきれてはいないくらいの小柄な猫が同居することとなったのだ。
犬に比べて猫はその血統が曖昧で、身体の大きさにそれほどの差異がないことも、毛並みにも劣等遺伝が珍しくない程度に現れることもあり、例えば黒猫同士の両親から真っ白や三毛が生まれることも不思議ではない。
それでも今類のそばにいる子は、どう見ても雑種なのだろう。
黒と銀の毛が綺麗なサバトラではあるが、あごから胸元、お腹や足先などは綺麗な真っ白の毛で、どんな血が混じっているのかはわからない。
それでも、つくしとの待ち合わせの場所にいたということと、何よりも類を見る瞳がつくしのまっすぐなそれと似ていたから。
「うち、来る?」
なぜかそんな言葉を発していて。
「んなー」
嬉しそうにすり寄って来たから、つい、それがつくしだったらと、類はそのままお持ち帰りをしたのだった。
よくある縞は、けれど黒ときれいな銀色で、大きな目と耳は類の方を向いている。
つくしの、カラーリングやパーマ等とは無縁のまっすぐな黒髪と、化粧をしないからこそ綺麗な肌が、猫になったのならこうなるだろうという想像そのままで、類は手放せなくなってしまったのだ。
本当は、その姿を見て、牧野と呼びたくなった。
懸命に何かを訴えるように鳴く姿も、すり寄って安心する態度も、何よりもその大きな瞳も。
いなくなったつくしの代わりになるワケではない、けれど、なぜか無視出来なかったのは、つくしの存在と同じで、放っておけなかったから。
何より、姿形は違えど、雰囲気が似ていた。
人の言葉を理解出来るのかと錯覚するほど類の言うことをきいたし、きっと牧野が猫ならこうするだろうなというそのままで。
「なうー」
心配そうに、両手を胡座に組んだ類の膝の上に置き、伸び上がるように顔を近付ける。
「そう言えば牧野も、始めたばかりの仕事のことで父と諍いを起こしたりして気分が悪かった時には、『どうしたの?』って遠慮がちに腿の上に手を添えて覗き込むようにしていたっけ」
見るもの聞くもの、全てがつくしへと繋がってゆくのに。
「なんで、あんたがいないんだろうな?」
埒もないことと分かっていても、口をついて出るのはつくしがいないことに対する愚痴ばかり。
「あんたがいるから頑張れる、あんたがいなきゃ俺はなんにも出来ないんだよ?」
司と別れ、自分をもっと頼ってほしいと申し出た時、甘えてばかりでこれ以上はと遠慮するつくしに、もう何度もそう言っていたのに。
理解出来ないと分かっていても、今そばにいる猫に吐露してしまう。
「あおーん」
腿に肘をつき、頭を深く抱える。
その顎の下からぐいぐいと鼻先を突っ込んで、ツッキーが知らぬ間に流れた涙をぞりぞりと舐め上げた。
己の子どもじみた行いのせいで両親と祖父を一時に失い、以来ずっと、色さえもない真っ黒な中にいた。
吐息でさえもわずかに留まることなく闇の中に消え去り、そしてまたすぐに新しいものが生み出され、果てなく繰り返される。
それはある意味、閉ざされ、何者にも己を侵されないよう存在さえも消されたような絶対的に安心できる空間でもあった。
運転中の人の目を塞いだらどうなるかなど、知らなくてもすべきことではないことであり、だからあの事故の責任はすべて自分にある。
そして、そのために後継者でもある大切な息子と実の娘のように可愛がっていたその嫁を一度に亡くした祖父は、その原因たる自分を孫であっても見るのも厭わしく思ったのだろう、葬儀の場から逃げるように立ち去って以来音信不通になり、TVに映る大統領としての姿だけが唯一だった。
事故当時のことを何度も夢に見る度に押し寄せるのはその恐怖とともに、なぜ自分も一緒に逝けなかったのかという後悔だ。
両親の代わりに、などというおこがましいことは望まない、けれどせめて共に、と。
そうであればおそらく祖父も、憎む対象をも葬られたのだからとその存在から離れたいとでもいうように居所を変えることもなく諦められただろうに。
新月の、星々の明かりさえも消し去るような暗く冷たい闇の夜は、けれど自分の卑怯な願いさえも飲み込んで匿ってくれているように思えるから、嫌いではなかった。
悴んで冷え切り感覚さえもなくなった音のない声では、たとえそれが虚偽でも現実でも、どんな歌を歌えるというのだろう。
己で作った分厚い殻の中に閉じこもり、ソヒョンが勧めてくれたヴァイオリンは、だから、音や形に出来ない自分の心を代わりに開放してくれるようで、いつの間にかのめり込んでいた。
気持ちや思いを言葉にすることは不得手で、家族からの愛情を失って以来、何もかもをわかってくれるソヒョンからもらえるものだけがあればいいと頑なに思い込んで。
だから自分の中には好きとか嫌いとか何かをしたいとかそういうことはまるでなく、ただ与えられた台詞のように、こうしろああしろと言われて動く芝居のように、自分自身でさえ客観的にそこにあるだけのものでしかなかった。
本当に大切なものを己の手で業火の中に葬り去った、これはその罰なのだ。
何かに心を動かされることは許されない、生ける屍であれと。
いつかその罪が白黒付けられ誰の目にも明らかになる、そのための滅びの呪文はきっと、未練さえも消え失せるほど気持ちいいだけのものだろう。
奔放なジュンピョ、直情的なイジョン、気遣いのウビン、そして優しいソヒョン。
彼らの作ってくれた小さな四角形の中で、小さく小さく身体を縮込ませ蹲っていれば、時間も周りの風景も勝手に過ぎていってくれた。
そこは絶対的な安全圏で、だから、哀しみやさみしさという痛みも感じずにいられた。
同時に、嬉しいとか楽しいとかという感情さえも失くしていたことには気付けずに。
ただずっと、このままずっと死ぬように生きて、生きたまま死んでいくのだと、漠然と感じていて。
そのことを受け入れるでもなく、けれど変えようとするわけでもなく。
まるで時計のように、そこから動くことなく同じところを回り続けて生を消費していくのだと思っていた。
その安寧が崩れたのはやはり、一角であったソヒョンが離れていったからだろう。
変わらないと思い込み、離れていくことを裏切りのようにも感じ、けれど、蹲っていることしか知らない自分はそんな時でもどうすればいいのか分からず、戸惑うだけだった。
そんな時、崩れたその隙間からするりと手を差し伸べ、外へと連れ出してくれたのが彼女だった。
ジュンピョが退屈しのぎのゲーム感覚でいたぶる対象に貼る赤札。
生贄と確定されれば全校生徒からの虐めを受け、日を置かずして大抵は辞めてゆくが、この時の男子生徒は屋上から飛び降り自殺をしようとしたところを彼女に助けられたらしい。
そのことで神話学園内での苛めが表沙汰になり、首謀者であるジュンピョが学園関係者であることまでマスコミに叩かれることになった。
さらにそれまでは秘されていた神話学園の悪しき内部事情までもが一気にメディアに取り上げられ、そしてその騒ぎを手っ取り早く沈静化させるために、好条件で彼女を神話に通わせることで家族や関係者への口封じをし、普通の一少女に過ぎるほどの対処をすることで神話が寛大であると印象づけることまでしたのだという。
出会いは、いつもの中庭でバイオリンを弾いていた時に迷子になっていた彼女が現れた。
いつのまにかジュンピョの靴を汚した生徒をかばったために赤札の対象となったとき、感心したのと同時に、今度は彼女が悲惨な目に合うだろうと心配になった。
昼寝の場所と決めていた非常階段に小麦粉や卵をひっかぶった姿で走りこんできて、思いっきりジュンピョの…いや俺たちF4の悪口を言っていて。
そんなことは今までになく、ジュンピョのターゲットがこれまでは男子生徒ばかりだったからだと自身に言い訳をしたりもした。
うるさいのを厭うてジムに居場所を変えたら、偶然、ジュンピョの命で男子生徒にレイプされかけてるのに行き合ったり。
それでも、今までならば知らぬ存ぜぬで無視していたはずなのに、都度、手を差し伸べる自分が理解できなかった。
そんなタイミングで、突然のソヒョンの渡仏に戸惑い、余計なお節介だと彼女を責めながらもソヒョンを追う勇気をもらい、ようやく気づいた自分の幼さと心の向かう方。
鮮明に記憶している教科書ならば、何が正しくて何が間違っているのか、何を選択すべきなのか、全て記載されていると、なぜそう信じ込むことができていたのか。
舞台の上手へ下手へ裾へとト書き通りに指示されて生きてきたから、即興での演技はどの手持ちの鞄を探っても見つけることができなくて。
目も耳も心も閉ざしてきたから、何も知ろうとしなかったから、自分自身のことさえわからなくなっていたのだ。
煩いのではなく、賑やかなのに慣れていなかっただけ。
鬱陶しいと思っていたのは、自分の気持ちが思うようにコントロールできなくなるから。
世間から隔離するように過ごしてきたから、言葉の使い方を知らないまま。
それなのに、ただ言いたいことだけがうるさいほどに溢れ出す。
ただ彼女だけが一緒にいてくれる限りにおいて、ではあるけれど。
祖父は姿は現さないくせに、帝王学やら護身術やら、ありとあらゆるものを詰め込まされてきた。
拒否をするほどの意志さえもなかったから受け入れてはきたけれど、その中にはたったひとりの女の子を笑顔にする方法など一つもなくて。
ならば、この両手を塞いでいるものすべてを手放したらどうなるのか、どれほど自分も他の人も心が解き放たれるのか、知りたくなる。
全ての言葉、全ての壁、全ての呪いも余すところなく裸にして雁字搦めな鎧をもう一度取り去って純粋な自分で出会えたら、その時はもう少しだけ、素直に行動できるような気がして。
「ジフ先輩?」
気付けば彼女はいつでも、寝ている自分の場所を見つけてくれていた。
「…新しい、安眠妨害法?」
嫌味すら交えて問うたのに、かえってきたのは朝日のように真っすぐな笑顔で。
行く先々でばったり会うのはおそらく、感性が近いからなのだろう。
くつろぎたい場所、見たい景色、居心地の良い空間。
親友という表現がおそらくは一番近いはずだが、片方に恋愛感情が生まれていたとしたらどう呼べばいいのか。
彼女の笑顔が何よりも好きで、彼女の涙が何よりも辛くてそうさせるアイツもアイツの母親も嫌いで、いっそ泣いている彼女だけではなくどんな時の彼女も抱きしめたいほどに欲しいのだと口走ったら、どうなるのだろう。
幼少の頃から諦めていた何かを手に入れられる未来も、望むことができるのだろうか。
幼馴染と彼女と、あの母親と、それから祖父と。
全てに白黒付けてしまうのはまだ恐ろしくて、切実に生きればこそ曖昧な部分は浮き彫りになるけれど、もう少しだけあやふやなままでいたいのだ。
そう、人生は長い、世界は広い、そう教えてくれた彼女の人生と世界を共にしたいから。
ようやく彼女のおかげで自分たちが何をしたいのか、何をすべきなのか、与えられるだけではなく己の意思で選べる自由があるということを知ることができたのだ、もう少しだけグレーゾーンで過ごしてみたい。
そこにはきっと幸福になったり、不幸になったり、そんなはっきりしたものばかりではなくて、明確ではないもののかけらを拾い集めて組み立てて、壊して、慌ただしい胸の内だけがむやみに騒いで、溜息と共にまた探して、そうやって大人になってゆく場所なのだろう。
それは誰も助けてはくれない、己ひとりの力で手に入れてゆくもので。
だからきっと、大人は秘密を守り、決して教えてくれることはないのだ。
みんなよりも遅れてそこに足を踏み入れた自分は、おそらくかなり大変な思いもするだろう。
それでも、大人になる自分に課した掟はただ一つ。
隣にある彼女の笑顔を永遠に守り抜くことだけ…。
渡米から1年、それ以前は自由に使えた時間は常につくしのストーカー紛いのように付きまとい、そうでない時でさえ無理矢理誘拐か拉致かという暴挙でつくしをさらってはあちこち連れて行こうとした司だったし、もともとその威圧的とも言える存在感は無視出来ないほどに大きい。
他のものにとっては畏怖でしかあり得ないそれも、つくしには世間知らずなお坊ちゃんの強引すぎるワガママとしかうつらなかったが、それでもたった1年足らずで慣らされた存在が突然なくなってしまったことに、さみしさを感じなかった訳ではないだろう。
初めこそ苛めや嫌がらせの張本人からのアプローチは迷惑でしかなかったとはいえ、それなりに心を通わせることが出来たあとだったから、尚更。
だから、別に司に頼まれたからというワケではなく、ただ己の心のおもむくままに類はつくしに寄り添っていた。
つくしが初恋と類を慕ってくれていた時には類は静への気持ちが全てであったと思い込んでいたし、それが姉に対するようなものでしかないと気付いた時にはすでにつくしは司との交際宣言をされていた。
その経緯はともかく、類は幼少の頃のテディベア事件の二の舞いにはすまいと無理矢理司からつくしの気持ちを引きはがすことはせず、親友との友情と女性への愛情のどちらもを大切にする方法を選んだのだ。
距離と時差だけではなく忙しさや仕事の楽しさを自覚した司からの連絡は目に見えて頻度が減り、それでもたまさかの時には相変わらずの俺様な態度と物言いでつくしを怒らせてはいたようだが、それでも近すぎる位置に立つ類への嫉妬を隠すことなく吠えていたらしい。
そんな司に、むしろ『どれだけ声が大きくても、実際そばにいてあげられないのなら遠吠えだよね』などという類の分かりにくい後押しもそれなりに功を奏したらしく、約束よりも早い時点で司はつくしをN.Y.に連れて行こうとしたようだ。
まあ、それでつくしがはいそうですかと従うような人物でないことは、司はもちろんF3だって分かってはいたのだけれど。
N.Y.には一緒に行かないと決めたものの、司が世界規模で有名な道明寺財閥の跡取りとして注目を浴びている今、その相手としてマスコミにさえも堂々と迎えに行くと宣言した人物が放っておかれることはあり得ない。
騒がれる当人が芸能人であれば、『相手は一般人ですので』などとやんわりと、けれど厳しく追跡を拒否することも出来る。
が、本来は表に出るはずのない経済界の住人で、けれどその容姿や履歴のせいで幼少の頃からF4だなどと一括りにされ、事あるごとに事実とはかけ離れた報道がまかり通っていたし、そのおかげで企業としてはさらに名を馳せるメリットもあったことは確かだ。
自分たちが望んだ訳ではなくともそういう立場に生まれ育ち、総二郎やあきらなどは期間限定の自由を楽しむことにしたらしいが、正反対に見えて実は根本は似ている司と類は『ただ一人』を模索することをよしとした。
好意をそうと表現をすることを知らずに育った司は、姉の椿のように暴力的な態度を愛情だと勘違いし、つくしに惚れた。
恐怖政治を強いてはいたけれど、司だって人の子で、その弱点にうっかり踏み込んできてしまったつくしこそ、哀れみの対象になるはずだった。
加害者と被害者が土壇場で恋愛対象になることは『種族繁栄』の原理としても珍しいことではないし、もともと思いあっていた同士なのだから、加害者の母親が更なる強力な敵となり、かつての加害者が被害者へと立場が変わればあとはふたりでしっかり手を取り合って立ち向かうのみであり、その追及の手が緩んだのであればそこにはもう邪魔するものはなかったはずだった。
そう、『はず』だったのだ。
「もう、いいの」
牧野の『私は雑草のつくし、生命力は強いんだから!』、そんな本人の言葉を真に受けたために、先入観が役立たずだということを実感したのは、つくしが姿を消したあとだった。
卒業式のあと、混雑を幸い姿をくらましたつくしが行きそうなところは見当がついていた類は、いつもの非常階段でつくしが来るのを待っていた。
案の定、卒業証書を入れた筒を持ったつくしが現れた時には、類としては己の対つくしにのみ性能が良くなるレーダーに感謝したくなったほどだった。
そこでの雰囲気はいつもと変わらぬおだやかなもので、卒業おめでとう、ありがと、そんな普通の会話から始まっていたはず。
口癖とも言えるつくしの『ありがとう』と『ごめん』を、その時も類は聞いており、いつものように『聞き飽きたよ』なんて言葉で誤摩化していた。
なのに、その後のつくしの動向を察し得なかったことは、類にとっては自分を殴り倒したくなるほどの後悔をしたのだ。
はにかむような、でも、それなりの覚悟を決めたからこそのすっきりした笑顔は、表面だけを取り繕って権力にすり寄るようなものとは違い、媚びや諂いがほとんどを占める気色悪い笑みしか見たことがないものならば誰でも惹かれるだろう眩しいほどの清廉さで。
類や司たちだけではない、教師陣はもちろんつくしと出会った友人知人は全て、そしてあの楓ですら、その存在に惹かれずにはいられないのだ。
だから、つくしが姿をくらますことを決意した時、たとえそれがF4には秘密裏にというかなりの無理難題であったとしても手伝う人間は数多いたはずだ。
式のあとのプロムには出ないと頑強に言い張ったつくしだったから、類たちはつくしの親友や後輩も誘って仲間内で祝ってやるつもりだった。
予約していた店はフォーマルすぎない雰囲気ではあったけれど、さすがに制服からは着替えたいと言ったつくしを類は部屋の前まで送り届けた。
そこで待つつもりだったのに、朝ばたついていたからと中に入れてもらえず、ならば予約の時間に間に合うようにまた迎えに来るということで折り合いを付け、類はいったん自分も着替えるために邸に戻ったのだ。
そしてそれが、つくしと顔を合わせ、言葉を交わした最後だった。
司とは、つくしの卒業の直前に終わりを迎えていたらしい。
らしい、という情報も、結局は道明寺家の『仕方なし』というひそやかな広報によるものであり、詳細は不明のままである。
司にとって、どれだけつくしの存在が重要だったのかということは、今ならば明瞭に説明出来るけれど、当時は当事者であるふたり自身でさえ、分かってなかっただろう。
とはいえ、そのおかげで今があるとも思うから、親友の想いや彼女の頑張りを思い出すと、類としては忸怩たる想いは隠せない。
けれども結局司は二者択一の末に『道明寺家』を選び、選ばれなかった牧野は、それでもなんとか自分に出来ることをと、英才教育は無理でもマナーや所作、語学などをF3から貪欲に学び、訪れるはずの『いつか』の時には司の期待に応えられるようになっていようと頑張った。
その努力は、表面的に言葉の上では鉄の女にも認められたけれど、それでも結局『配偶者』としてはあり得ないとバッサリ切り捨てられたのが、つくしが高校を卒業する前の冬休み中だったらしい。
クリスマスだの正月だの、世間体としては休みであってもパーティだのあいさつだのと違うビジネスで忙しいことにかわりはない。
それでも司は日帰りの、むしろ滞在とは言えないほどの短時間であってもいいからつくしに会わせろとごね、その結果、楓からの最後通牒がくだされたのだということを司から聞いたのはかなり後になってからだった。
それでも、つくしと連絡が取れなくなった数ヶ月後に司の公式な婚約発表があれば、その理由も推して知るべし、である。
4年と公言した司ではあるが、もともと自分の思うようにならなければ暴れるというマイナス面があり、けれどそれは逆に、思うように事が運ぶのならばのめり込むこともあるのだと、司が渡米して改めてF4全員が納得した。
それほど、司の頑張りは目をみはるものがあったのだ。
倒れた父親に代わり、奮闘する母を補佐すると同時に己もまた厳しいビジネスの世界に足を踏み入れた。
もちろん司が道明寺の跡取りであればこそ、はじめから周囲も特別扱いをしてくれるのだが、そういうところに気付かない司は当然のことと疑問にも思わない。
それでも相手もジュニアだからと手を抜いてくれる訳ではないから、机上の教育とは違う実戦の社会は甘くない。
だがいまだ未熟である自覚はあったのだろう、だからこそその自分の力で財閥が僅かなりでも好転してゆく実感は、今まで望めば全てがいつでも思い通りになることが当たり前だった司にとっては、歯痒い思いをしつつも同時にやれば出来るという自信に繋がったに違いない。
当然そこには司ではなく、トップに立つ楓と、さらに復活後の司の父親の影が何よりも影響していたのだが、その自覚があったかどうか。
ともあれ、大変だと言われていることを成し遂げることでビジネスに楽しさを覚えた司は、新しいおもちゃを手にした子どものようにのめり込んでいった。
それはまるで、今まで周りにいなかったタイプのつくしに対しての態度とよく似ていた。
そんな司の噂を聞く度に、つくしに対しても、意のままにならないからこそ執着したのだろうと皮肉な捉え方をするものも少なくなく、本当につくしの良さを理解して追いかけ回していたのかと問われれば、F3としては返答に困るのだ。
そしてつくしにしても、本当に司が好きで付き合っていたのかと言われれば、それなりには諾という返答は出来るだろうけれど、司の強引さに押され流され、楓に反対されて歯向かって…というのがおおよその流れであり、例えば司の押しがなければ、例えば楓の反対がなければ…そういう過程を考えたとき、つくしは導かれる結果が違うことに気付いてしまったのだ。
初恋である類が、想い人である静を追って行った。
そうするべきだとおせっかいにも背中を押したのは自分であり、だから、類に対する想いはそこで終わっていたはずだったのだ。
なのに、気持ちを清算する前に戻ってくるし、その間に司との関係が加害者と被害者というものから微妙に変わるしで、不安定になった。
結局その時には司の強引さと、類が見守る立場に引いたこともあり落ち着いたが、俺様な司に対してつくしも気の強さでもって反発して喧嘩や諍いが多く、度に類がつくしを労り慰めるという図式が出来上がることとなった。
其の漆拾。
01. 静かな起爆
「だってあの人、ゴミの収集日も覚えてないんですもん」
そんな言葉で、あっさりと俺の元を去っていった。
確かにここは、罪を償うために死よりも重い生を科せられたものにとって、生き難い場所なのだろう。
それなりの事由がありそうな、けれど天真爛漫でお子さまな悟空にとってでさえそうなのだから、あれこれと他人に不必要なまでに気を使う彼ならば余計に。
けれど、それでもどこか忸怩たる想いが燻っていたことは確かで。
やつが、ゴミの収集日を覚えていたら、ここに留まってくれていたのか。
自分がゴミを出さなくてはならないような環境に身を置いていたら、残ってくれたのか。
…そうじゃない。
ただ、不安なのだ、女が好きとのたまうヤツの瞳が、俺に対して負の色を浮かべるのを知るが故に。
彼は、俺の中の静かな起爆のスイッチを押してしまったのだ。
**********
其の漆拾壱。
02. 音声の喪失
一緒にいた時間は、とても短い。
それでも、大量虐殺をした大罪人とは、本人を目の前にしてすら信じられないほど柔和な雰囲気は、するりと心の内に入りこんできた。
なつっこいが本能で本性を見極める悟空が、初対面から甘えを見せたほどなのだ。
他人との関わりをまったく重要視しない、むしろ疎ましくさえ思う自分でさえ、いつの間にかその存在を許してしまっていた。
それなのに、当人はこちらの気持ちにはまったく気付かぬまま、さらりと去って行ったのだ。
そこにいることさえ腹立たしくなるようなヤツのところへ。
名を変えても全てが赦された訳ではなく、ひとりで住まうことは認められず、かといって寺院内に置いておくことも出来ず。
だから、わずかな期間でも同居していた相手であり、経緯も事情も分かっているのならば、最善であるはずなのだ。
それなのに彼の、外見そのもののような穏やかで耳障りのいい声がないだけで、世界の全ての音声の喪失のように感じるのは。
「失いたく、ないからだ」
**********
其の漆拾弐。
03. 視界の色もわからない
「なあ三蔵、あいつら、いつ来んの?」
無邪気で、だからこそ、腹立たしくなる悟空の要求に、苛立ちを隠せなくなる。
欲しくもないのに与えられた最高僧という名、そして焦がれるほどに会いたい相手は、その理由はどうあれ、大罪人。
なんとかお目付役という名の後見人という立場は獲得したものの、おおっぴらに会える関係ではない。
同様の悟空は鬱陶しいほどにまとわりついているのを黙認されているというのに、その差はどこから来るのかと、知らず握りしめた拳のせいで手のひらからの出血は日常と化してしまった。
ただ会いたい、どうでもいことを話して、否、何も話さなくてもただ一緒にいるだけでもいい、そうやって日々の鬱屈を晴らしたい。
強いられた運命とも言うべき状況を、彼ならば打開してくれるだろうという希望的観測が、俺を狂わせた。
現実と理想、その間にある視界の色も分からないほど、求めて、焦がれて。
柔和で、おっとりと、悟空のワガママでさえも受け入れ、命の恩人だからとまるで主婦のように悟浄に寄り添う。
きっと機会さえあれば三蔵にもと期待を抱かせる、そんな彼だから、気付けなかった。
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其の漆拾参。
04. 亀裂のかたち
苛立ちが、いつから自覚の範疇に入り込むようになったのか、境界線は曖昧だ。
それでも、牌を操るクソ気味悪いヤツとの決別後は、それなりに安定していたはずだった。
逃亡者であったときは、捕獲者である三蔵の姿を見ただけで、おそらくは時間が無いことを悟ったのだろう、銃を奪って逃げたと思わせ、けれど本当は本懐を遂げにいく時間が必要だっただけだった。
結局それも叶わず、けれど潔く死をその罪の代わりに受け入れる覚悟をして、与えられなかった。
ずっと姉の姿を追い、死に場所を探していることはわかっていた。
それでも手放してやれなかったのは、自分のエゴだ。
ただ、死なせたくない、いや、失くしたくないと、おそらくは初めて強く思った。
師である光明は、亡くしてはじめてその存在の重要さに気付き、以来、同じ思いはするまいとどこかで自戒していたのだろう。
軋むように、疼くように、心に入った亀裂のかたちは、とても歪で。
締め付けるように巻き付いたその蔦の名は、何なのだろう。
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其の漆拾肆。
05. 救援という名の
内実はともあれ、世間的には『最高僧』と『大罪人』。
真実を知る唯一の金瞳の養い子と赤い髪と瞳を持つ遊び人は、どう見ても立場が逆だろうと大笑いする。
そして、腹が立つことにそれは、自分ですらも反論出来かねないことで。
暴走した妖怪らに村を襲われ、大切な人を亡くし、ただその人を想うが故に妖怪となるまで殺戮をした。
相手が人だろうが妖怪だろうが責める訳ではないし、むしろその感情はかつての自分にもあったものだから理解も出来る。
けれどだからこそ、死を望むことだけは阻止したくて、救援という名のエゴを押し付けた。
基本的に、優しいのだ。
けれどその優しさの中に、自分が大切に想うものを傷付ける対象には決して容赦しない激しさを隠している。
そのアンバランスさが、彼をとても不安定に見せている。
迷惑だと思われる分かっていてもつい、手を差し伸べたくなるような。
**********
其の漆拾伍。
06. まだ繋がってる
目的地が近付くにつれ、当然ながら相手側からの攻撃も激しく、別行動を強いられる頻度も高くなる。
咄嗟の場合はともかく、戦略としては、喧嘩っ早く接近戦を得手とする悟空と悟浄を一緒にしておくのは得策ではないし、性格的な相性もあり、どうしても二手に分かれる場合には三蔵と悟空、悟浄と八戒というパターンが多くなる。
連絡手段などなく、打ち合わせた場所に来るまでは互いの生死さえも不明で。
それでも、まだ繋がっていると、祈るように願う。
悟空に何かあれば、命を賭してでも。
悟浄がどうかしたら、それなりに。
けれど、彼が、もし。
そう考えるだけで、自分が自分でいられなくなる恐怖に似たどす黒いものがわき起こる。
表面の柔和さである程度は誤摩化せても、いつか彼の過去は知れ渡るだろう。
その時でも笑顔が消えないよう、今を戦うのだ。
**********
其の漆拾陸。
07. 許せないから手を伸ばす
先に合流地点に到着したのは、三蔵と悟空。
そして、苛々をタバコで誤摩化しているうちに遅れて来た、悟浄ひとり。
それも、重傷とは言わないまでも、かなり苦戦したあとが生々しい。
自分たちが易々と抜けられたことをふまえれば、主力で多勢の方に当たったことは間違いない。
では、ここにいない、彼は?
それだけで射殺せそうなほどの眼光を悟浄に向け、無言のまま事情を問う。
状況は予想通り、そしてここにはいない彼のとった行動もまた想像通り。
最高潮に達した苛立ちはむしろ冷静さにかわり、微苦笑すら浮かべられるほどに感覚は冴え渡る。
却下だな、呟きは、宣戦布告にも似ていて。
許せないから手を伸ばす、それに拒否権を与える気はさらさらなかった。
**********
其の漆拾漆。
08. 収束に向けて、まず
後戻りは、気に入らない。
ただでさえ、カミサマの件で悟浄のためにいったん引き返すなどというロスをしているのだ。
それでも彼ひとりを放って先に進めるはずなど、どこを探してもわずかな理由でさえあるはずもなく。
満身創痍な河童の姿を見ればなおのこと、今ある彼の状態がどれほど悲惨なものであるか想像出来る。
今戻らなければ、おそらくその命はない。
否、今この瞬間でさえ、それが保証されているワケではないのだ。
ならば、最速で最善をつくすのみ。
この旅はすでに終盤に差し掛かっている、ならば収束に向けて、まず、揃って真向かうことが、相手にとっても礼儀だろう?
誰一人、欠けることは許さない。
種族問わずでと、だからことの初めから同行者を自分が選びたいと三仏伸に願い出たのは、こんなことを予想していたからだ。
**********
其の漆拾捌。
09. ようやく泣ける
その身体を見つけた時、予想はしていたが、意識はなかった。
妖力制御のカフスを外し、躯に蔦の痣を這わせた姿で、横たわっていた。
それでもありがたかったのは、まだわずかに息のある彼を、それでも相手が致命傷を与えたと思い込んで放置してくれたこと。
以前にもそういう事態はあったそうで、悟空は小さなカフスを探し、『ちゃんと嵌めてあげないと』と歪んだ笑顔を見せた。
死に場所を探していた以前とは違い、生きることに前向きになっていたとは思っていたけれど、こういう時、まだ死ぬことに戸惑いがないのだと改めて思い知らされるのだ。
己のためだけではない、その命を惜しむ誰かがいるのだと、いつになったら気付いてくれるのか。
「少々、侮ってしまいました」
意識が戻った最初の言葉がそんなもので、だからこそ彼らしさが失われていないことを知る。
人から妖怪へと変化したことで、その治癒力は増しており、意識がきちんと戻りさえすれば大丈夫。
ようやく泣けるなあと、猿と河童がニヤリと笑ったことで初めて自分が涙を流していたことを知った。
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其の漆拾玖。
10. 温もりは約束する
「勝手なマネをした代償は、あとで清算してもらう」
ひとりが犠牲になればという案に河童が容易く同意するはずはなく、けれどそうせざるを得ない状況ならば、半妖である悟浄よりは制御装置が必要なほどの己の方が時を稼げると考えるのは当然だ。
だが、カミサマの時に、誰かを犠牲にしてまで先を進むことはしないと、たとえ本人がそう望んでも聞いてやらないと分かっているはず。
だからこれはおそらく、戻ってくるまでの間死なずにいられる可能性が高い方が残る、ということだったのだろう。
分かっていても、万が一、もしかしたらと、指先から始まる冷えは体全体にまで広がってゆく。
ならば、約束させるまでのこと。
「俺の温もりは約束すると、誓え」
俺から体温を奪いたくないのなら、どれほどみっともない姿を曝そうとも生き延びると。
もともと、血も涙もないような輩のエゴで始まった戦いだ、こちらも遠慮する必要はない。
誰からも文句が出ないほどに、せいぜい派手に息の根を止めて、その後の自由を確保するまでだ。