気ままに吐露トロ -3ページ目

気ままに吐露トロ

あれこれ好きなことを、覚え書き。

其の漆拾。

01. 出会った時から敵だった

もともと、お膳立てられた関係だった。
年齢とサイバーに参入した時期が似通っていただけで、それ以外は全く真逆な状況が、マスコミにとっては格好のネタだった。
かたや、インディでも話題になる程度の成績を残し、女性との浮き名がステイタスで、ふてぶてしいまでに自信に溢れかえった自侭な若獅子。
かたや、レースはもちろんそもそも公的に名前を出すことさえ初めてで、七光りでさえ迷惑だと笑みのひとつも見せず、どこまでもストイックに自我を徹するアイスドール。
互いに会ったことさえなかったのに、勝手にライバルとして祭り上げられ、不必要なまでにマスコミが騒いだのはもしかしたら、ファン層を広げるためのメディアの策略だったのかも知れない。
だから、出会った時から敵だった。
そういう立ち位置なのだと、勝手に作られた舞台だった。
データとして与えられた情報だけであったなら、むしろ同士という立場も勝ち得たかも知れないのに。
けれど、外野が望む姿を演じるうち、いつしか宿敵、さらには喧嘩仲間とまで言われるようになったのは、むしろ、好都合だった。
心の奥に燻る感情を、それらはきれいに隠してくれるから。

**********
其の漆拾壱。

02. 絶望と共に育った感情

例えば、どこかで偶然出会っていたり、例えば、サイバー関係者ではあってもレーサー同士ではなかったり。
そんな架空の出来事を想像してみても、全く自分たちらしくなく、腑に落ちない。
「どっちかが女だったら?」
女性との関係の数をひけらかすようなグーデリアンに靡くハイネルではないだろうし、甘さの欠片もなさそうなお硬いハイネルの態度に満足出来るグーデリアンではない。
結局、今の関係以上は望めない、ということだ。
好敵手と思われていればまだマシで、むしろ迷惑がられているのは、会うたびのその表情からも明らかで。
なのに諦め切れない、むしろ絶望とともに育った感情は、どこまでも果てがない。
どうせ嫌われているのなら、とことん憎まれてしまえばいい。
そんな自棄っぱちな思いさえもどす黒く渦巻くのに。
それでも穢せない、ただ一歩が踏み出せないなんて、きっと誰も信じてはくれないだろう。

**********
其の漆拾弐。

03. 「どうして」なんて今更だろう?

そろそろ我慢の限界。
もともと褒められた節操じゃないから、多分、基準は分からないけど世間一般の常識から見れば、短いんだろう。
それでも、とにかく気持ちだけでも伝えたいと、ある意味焦っていた。
レースは終盤、次のシーズンが始まるまで会うことはおろか、連絡を取ることすら難しくなる。
プライベートな関係は皆無で、パブリックでは敵同士。
だからなんとしても、距離を縮めておきたかった。
気になるから腹が立つ、それがライバルとか世間にお膳立てられたものじゃないと気付いた時から…なんて、延々言い訳のように言いつのった。
それに返ってきたのは、『どうして?』なんて今更だろう?な一言。
とはいえ、そんな抗議が通用しないのも、ある意味純粋培養な相手ならば仕方がない。
直球で、いかせてもらうよ?

**********
其の漆拾参。

04. 月の隠れた夜だから

その日は、新月だったらしいと、後から聞いた。
こっそりとモーターホームを抜け出し、なるべく音をたてないように移動する。
世間体としては大柄と言ってもいいほどの体躯ではあるが、細部まで鍛えられているが故に、獲物を狙う獅子に例えられるように、気配を消すことは容易である。
闇に紛れ、けれど求める人は未だ就寝とはほど遠い位置にいると分かっているから。
僅か以上の期待を拳に込めて、ノックする。
僅かな静寂のあと、聞き慣れたものよりも幾分低めの、誰何する声。
名を告げれば、驚いたように空気が一瞬帯電し、すぐに施錠を外す音が聞こえた。
「月の隠れた夜だから、さ」
きっと、今までの刹那的な相手になら、そんなふうに気取ってみせたことだろう。
でも、おそらく、世界でただ一人、今目の前にいる人にだけは本心のない言葉は言いたくなかった。

**********
其の漆拾肆。

05. 瞳を閉じればただの二人 / 瞳を閉じれば二人きり

拳3つ分ほどの隙間をあけて、モーターホームのタイヤに凭れて座る。
日中、他の者の目がある時には寄ると触ると口論をし、取っ組み合いになることすらあり、好敵手というよりも天敵のような関係を築いている。
だから、こんな言葉少なに穏やかな姿を、誰も信じないだろう。
特に、何を話すわけでもない。
けれど、闇の中の沈黙さえ、とろりとした重さを感じるほどに、居心地がいい。
月明かりはなくとも、不眠で動く気配はそこかしこにあり、漏れてくる細い光もある。
それでも、瞳を閉じれば二人きりしかいないような空間に酔う。
夜は心が開放的になると言ったのは、誰だったか。
明るい陽の光に晒されず、だからこその自由を楽しむ。
毎夜ではない、けれど頻繁な逢瀬は、もうすぐ終わりを告げる。

**********
其の漆拾伍。

06. また会いましょう、敵として

いつからか、公私ともにライバルと位置付けされているグーデリアンが、深夜に近い時刻に訪ねてくるようになった。
一般的には既に就寝している時刻ではあるが、日中はドライバーとして与えられることをこなす自分にとっては、むしろこれからが本来の姿での時間である。
我が儘を許してくれている親に対してはもちろん、現在のチームクルーにでさえ、裏切りに値するだろう、己の『やりたいこと』。
設計の青写真から、レースに投入してもいい状態のマシンに仕上がるまで、どれほどの時間がかかるかは、計り知れない。
それでも尚、やりたい、出来得ることならば叶えたいと、それを『夢』と他人は呼ぶのだろう。
けれどそれは、どう頑張ろうとも己ひとりで出来るものではない。
ドライバーとして参入していたからこそ分かる、表に名前が出ない人たちの多さ。
それら全てを束ね、引っ張って行くカリスマ性を、自分が持っているとは思わない。
重ねるテストの結果が思わしくないことも、焦りを煽る。
レースシーズンも終盤の今、来期に向けて『また会いましょう、敵として』と、社交的な笑みさえあいつに浮かべられるのか、こんなにも、自信がない。

**********
其の漆拾陸。

07. 戻りたい、戻れない

軽い男を装って、軟派に女性を口説く。
一夜限りの逢瀬を楽しんで、次の夜にはまた違う香りを纏う。
それで十分で、不満に思ったことなどなかったのに。
彼の存在は、そんな自分を根底から覆してしまった。
彼を知らなければ、とか、過去を清算したい、とか今更思わないけれど。
どこまでもどこまでも綺麗な彼を、自分が汚してもいいのかと、躊躇するのだ。
何よりもまず、彼がそんなことを望んでいるなどありえないだろう。
こんな感情を覚えてしまう以前の自分に、戻りたい、戻れない。
戻れないならいっそ、そう覚悟を決めるまでに、たいして時間はかからなかった。
自分のものに出来るなら…そう、甘美な誘いを無視出来ずに。

**********
其の漆拾漆。

08. 染みついた罪悪の匂い

自分たちの間に、お世辞にも好意的に受け取ってもらえるような関係は皆無だったはず。
噂に違わず親の七光りでドライバーとして入れたチーム、応援してくれるファンへのサービスの笑顔ひとつすら作れず、面白味のない計算通りのドライビング。
予め予定されているインタビューにでさえ型通りの返答しか出来ぬ自分の、どこに惹かれたというのだろう。
初めは嫌がらせだと思った。
そうではないらしいと分かっても、それでもからかっているのだろうと思い込んでいた。
会えばその都度、ついでを装ってわざわざ喧嘩を売りに来ている相手を、好意的に受け入れることなど出来はしない。
出来ないはず、だった。
けれど、自分にないもの、自分が焦がれるほど欲しいものを持っている人に、最初に持つ反感は、憧れの裏返しでしかない。
指先や爪の間に染み込んだオイルの汚れのように染み付いた罪悪の匂いは、簡単に落とせやしない。
それでもと、選んだのは誰でもなく、自分なのだから。

**********
其の漆拾捌。

09. 心も体も裏切って

自身はもちろん、周囲さえも驚くほどの没頭ぶりだった。
レースで勝利を勝ち取るためにした努力など、比べ物にならないほどに、思いつく限りの案にシュミレーションを重ねた。
今以上、ライバルより近く、周囲でさえも納得するほどの関係。
一緒にいるのが当たり前で、誰にも疑われずに堂々と公表出来る立場。
「これしかないか…」
何かを得るためには、何かを捨てなければならない。
けれど、優先順位など、もうとうに決まっている。
おそらくはその選択をすることで、怒りを買い、むしろ関係を悪化させてしまう可能性も否めない。
それでも、それで望むものを得られるのであれば。
軋む心も身体も裏切って、計画の実行を命じた。

**********
其の漆拾玖。

10. 背徳の両手が選んだ答え

かつてのライバルが手を組んだ!
そのニュースはレース関係者はもちろん、そうでない者でさえも驚かすには充分以上だっただろう。
冷静に分析し、どうすればどちらのやりたいことも投げ出さず、そして共にいても自然だという状態が作れるのかを模索した。
互いの全ての条件を満たすことは当然不可能ではあるが、それでも唯一、自身がドライバーであり続けることさえ諦めれば最善の関係を築くことが出来る。
己の手で作り出した最速のマシンでポディウムの、否、世界の頂点に立つ。
立つ者は自身でなくてはいけないと頑なに思い続けてきた結果が今の様で、けれどその位置を託してもいいと思えるただひとりの人と一緒に目指すことが出来るのであれば、未練はなかった。
何よりも、断られるだけならまだしも、これまでの関係全てを無にされ嫌われてしまうことを恐れ、それでもと差し出した手はらしくなく震えていた。
けれどあまりにもあっさりと、というよりもむしろ引っぱられるような感覚でとってくれたその大きく厚い手はどこまでもあたたかく、強く、そして痛いほどに優しかったのだ。
「背徳の両者の手が選んだ答えだ、でも」
どんなことをしても後悔はついてまわるのなら、その後悔さえも無駄にしないほどにふたりでいようと決めたのだ。

其の漆拾。

01. 平凡な再会の言葉の中に

「よ」
軽く手を挙げて、わざとにかっと作り笑いをしてみせる。
驚くだろうことは、想定済み。
笑い話にさえ出来ないほどの経験を共有し、けれどそれぞれの生活へと戻って、 数年。
世話になった柳生邸では同室ではあったものの、おそらくお互いに誰よりも合わないと思っていただろう相手。
そんな人物が、数百キロの距離を超えていきなりふらりと現れたのだから、律儀な彼のこと、驚き、そして、智将であり軍師である自分が動くということはまた何かが起きたのかと用心するだろうことは分かっていたから。
「仲間に会いにきちゃ、悪い?」
なるべく否定出来ないような、誰もが言うような平凡な再会の言葉の中に、深意を隠して。
「…中へ」
彼の懐とも言える空間へ案内されたことにふっと息を吐き、それなりに緊張していたのだと、ようやく気付いた。

**********
其の漆拾壱。

02. 見知らぬアクセサリー

柳生邸では、いきなり呼び寄せられたという状況の元、しかも寝に帰られればラッキーで、どれほどの時間も過ごしてはいなかった。
そのため、それぞれ必要最少限のものしか置かず、だからこそそれなりに個性は現れていたと思う。
ある意味自由人な遼は拘りはないが使い勝手のいいもの、大雑把に見えて気配りの出来る秀はブランド名はなくとも質の良さで厳選されたもの、神経質な伸は他人には到底理解出来ないだろう基準で選んだだろう逸品ばかり。
拘りも何もなく、あれば何でもという当麻はむしろ、生活に必要なものよりも機器関係が溢れかえっていた。
そして征士は、シンプルだった。
何も持たず、何にも拘らず、何も選ばず。
必要最低限、以下だったかも知れないほどに。
初めて訪れたその部屋は、その当時の印象が間違っていなかったということを証明していた。
寺院などのような薫香を含んだ和室、年代物の文机と古今取り混ぜた筆記用具、隅に剣道の防具一式が入っているだろう大きな袋。
唯一の違和感の、見知らぬアクセサリーのような携帯電話が、この部屋も当麻と同じ時代を生きている人物のものだと示していた。

**********
其の漆拾弐。

03. 心惑わす着信

インスタントではないコーヒーの芳香が、なぜか和の雰囲気にしっとりと溶け込んでゆく。
会わなかった間のことをおもしろおかしく脚色して話せば、相好を崩してくれるのがうれしくて、喋り続ける。
その気持ちを遮るかのように突然響いたのは、無機質なまでの機械音。
それは、文机のすみに置かれた四角形の物体から発せられていた。
かつて纏っていた鎧を髣髴とさせる、メタリックな深緑色のそれは、彼らしくストラップやデコレーションなどが付いてないシンプルなもの。
その音ですら、おそらくは購入時の設定のままなのだろうと思われるありきたりのもので。
なのに、なぜか彼の世界から疎外されているように思えてしまうような、心惑わす着信音に苛立ちが湧く。
綺麗な所作でフリップを開き、相手を確認し、わずかにすまなさそうな表情で黙礼を寄越す。
了承の意味を込めて片手をひらりとひらめかせれば、くれたのは、今日一番の優しい笑顔。
ねえ、それは俺だけのため、だよな?

**********
其の漆拾参。

04. 過去と現在の共存

出会った頃にはなかった、その文明の利器。
自分は存分に活用しているくせに、なぜか彼にはそうしてほしくなかったなんて利己的な思いが燻る。
たとえそれを持っていなくても、きっと相手は自宅に連絡してきただろうし、そうなれば自分がいてもその旨を知らせる誰かがここに訪れる。
けれどその結果として、自分を置いて応対するか、来客中だからと断ることが出来るか、その差異は大きい。
一緒に過ごした時間と離れて暮らした期間の差は歴然としている。
ようやくの再会が叶っただけで、いまだ過去と現在の共存がなされていない今は、自分を優先してほしいなんて言えるはずはない。
だから今は、警戒心もなく自室という大切なテリトリーの中に入れてもらえただけでも良しとする。
自分がここにいることで、応対の時間を短くしてくれようとする、その姿勢だけでもありがたく思わなければ。
そう自戒しなくてはいけないほどにやはり、惹かれていて。
まずはいるのが当たり前なほどに一緒に過ごす時間を作ろう、そう決心した。

**********
其の漆拾肆。

05. 馴染んで消えゆく違和感

しばらく話をすれば、無沙汰の所為で漂っていたぎこちなさが薄れてゆく。
馥郁たるコーヒーの芳香が冷えてゆき、代わりに短くも濃い時間を共に過ごした仲間のあたたかさが満ちてくる。
互いを知らずに過ごした時間を、近況を含めて語り合い、話題は自然に共に過ごしたあの頃のことへと移ってゆく。
基本が面倒くさがりで喋る言葉も必要最低限な自分と、もともと寡黙で訊かれても端的な言葉でしか答えない彼。
初対面の日、他の仲間と離れてふたりで潜んだあの空間で、それでもちょっとした自分の冗談に苦笑を返してくれた。
呆れるか、冷めた目で見られるか、最悪は蔑まれたり無視される覚悟もあったのに。
訪れた束の間の小休止の時には、どこまでも真面目に冗談を実行する奇天烈さも見せてくれた。
いつの間にか隣に並ぶことが当たり前になり、己の作戦を端的な指示だけで完璧に理解し実行してくれることに心地よさを感じて。
馴染んで消えゆく違和感が、柳生邸の部屋でふたりで暮らした空気を呼び寄せる。
それはとても居心地がよくて、また手に入れたいと、ずっと望んでいたもの。

**********
其の漆拾伍。

06. ぬるくて甘いココアのように

さすがに突然来て泊まるようなことは出来ず、そう言われるような時間になる前に暇を告げる。
夕食をとは社交辞令でか本気でか誘われたが、今日中に大阪に戻るからとありきたりな理由を付けて断った。
次、に繋げたいから。
『今度来た時にご馳走になるよ』、そう言うために。
最寄り駅まで車を出して送ってくれた彼の、助手席に座るのは2度目。
『ちゃんと免許は取った』
考えたことが顔に出たはずはないのに、憮然とした面持ちで言われ、うっかり笑って。
わざわざ入場券を買ってホームまで見送りに来てくれた彼の姿を思い浮かべながらひとり、頬がゆるむのを自覚する。
これはそう、アルコールで解放されたものではなくむしろ、ぬるくて甘いココアのようにとろりとした心地よい酩酊感。
車窓の中の真っ暗な景色の中に過ぎてゆく点々とした光さえも愛しく思える自分は、嫌いじゃない。

**********
其の漆拾陸。

07. やっぱり君に恋してる

会うまでは、吊り橋効果的なものかもしれないと、思い込もうとした。
とんでもない体験を共有した仲間意識の延長だと。
けれど、他の仲間たちにだって会いたいと思う気持ちはあっても、わざわざ自分からなんて面倒でしかない。
彼だけが、特別。
なぜ、なんて疑問は今更だ。
門前払いを覚悟の上で、それでも訪ねようと思うこと事態がもう、誤摩化しのきかない自分の心を表わしている。
やっぱり、君に恋してる。
そう、腹を括った。
拒絶されること以外にもう、怖いものは何もない。
諦めの悪い男の覚悟、なめんなよ?

**********
其の漆拾漆。

08. 時を経て重なる心

阿羅醐城に乗り込むよりも緊張し、不必要なほどの覚悟をして訪ねて以来、信じられないほど頻繁に連絡を取り合うようになった。
当然、切欠はいつも自分からで、それでも律儀に返事をくれるのが嬉しくて何度も送信を続ける。
最初に入れた件名から話題が遠く離れてすら、ずっと件名が『Re:』のままなのは、彼からのものはわずかな文字でさえも消したくないからだ。
彼の場合はおそらく、わざわざ打ち直すのが面倒なだけ、いやもしかしたら新しく入れられることも知らないのかもしれない。
日本人らしくない外見と相反するように誰よりも和の心を持つ人は、トルーパーの中でも一番『サムライ』だったから。
そこまで考え、くくくと笑いがこぼれる。
最新のメールには、就職先が忌まわしくも懐かしい場所になると書いてあった。
軍師の頭脳は国内外のお偉方が垂涎するほどだ、時を経てようやく重なる心を無駄にしないためにも、最新のコンピュータでさえ不可能なほどに速くそして確実に動く。
偶然だな、俺もだよ、なんて純粋に喜んでみせる返信を送って、それから。
さらに高速回転で、いかにして囲い込むかを計算するのだ。

**********
其の漆拾捌。

09. 君に届く距離だから

「お、久しぶり」
偶然を装って、彼に声をかけたのは、あれから半年ほど経ってから。
妙なところでは勘のいい彼のことだから、あまりにもすぐでは疑問を持たれてしまうし、計画がバレては元も子もない。
当然、その間何もしなかったわけではなく、むしろ彼の職場を突き止め、週単位・月単位でのおおよそのスケジュールを丹念に調べあげてのこと。
一歩間違えれば、というよりも既にストーカー同然ではあるが、相手に知られない程度でなんとか我慢しているのがギリギリのラインかもしれない。
彼の就職先の社が入ったビルの入口、そこから彼が向かうであろう方向へ少し行ったところで、ちょうど対面出来るように歩いた。
「今から、ランチなん?」
偶然あった旧友とランチをする、不自然でないように計画された罠に、疑うことを知らない彼はまんまとかかってくれた。
食事をしながら、自分の職場がここから近いことを話し、偶然を喜ぶことを装って彼のテリトリーに入り込めたことをほくそ笑む。
君に届く距離だから、ここから本気で、攻めさせてもらうよ。

**********
其の漆拾玖。

10. あの日の約束を今ここで

予定が合えば仕事のあとに食事に行くようになるのに、それほど時間はかからなかった。
子どものころは疎ましくさえ思っていた己の頭脳が、こういう時でも策を練るための役に立つのが妙にうれしく思ったり。
その外見のせいで幼少の時からあまり人付き合いが上手くない彼は、だからこそ一度懐に入ることが出来れば誰よりも誠実だ。
最高の道徳である『仁』、それを具体的な行動として表わす『礼』。
その『礼』の戦士であった彼は、自身がそうであるように相手にも己を律することを求めるため、親しくなる前に避けられてしまう。
それなのに、宵っ張りで朝寝坊な自分に対しても怒ったり呆れたりしつつも諦めずに付き合ってくれるのは、それだけ大切だと思ってくれているからだと自惚れてもいいのだろう。
きちんと言葉にしたワケではない。
それでも、視線で交わしたあの日の約束を、今ここで改めて誓う。
いかなる未来が訪れようとも、共に闘うと。
そのために、出会ったのだから。

其の漆拾。

01. 届く気がしない

渋る両親を説得し、太平洋を越え、想う人の選んだ場所に潜り込んで、はや数ヶ月。
覚えていてくれているとは期待していなかったにせよ、それでも最初からやり直せると自負していた。
それが、どうだ。
全ての接触を拒み、会話はおろか、目を合わせることすら出来ずにいる。
唯一、クラスメイトで寮での同室者である片倉には心を許しているようだが、それでも全幅の信頼を置いている訳ではない。
前途多難。
時間は限られている、それでもいいと承知したのは自分だ。
独り善がりの、届く気がしない想いなのは覚悟の上だけれど。
ただ、もう一度あの笑顔を見たいのだ。
黒目がちの瞳が、威嚇するように睨むのではなく、ただ楽しそうにゆるむのを…。

**********
其の漆拾壱。

02. 呼び止めておきながら

触れないのであれば、たいていのことは黙って頷く。
騒ぎを起こしたいワケじゃない、むしろ放っておいてくれればといつだって思っている。
それを、反応を面白がってちょっかいをかける輩がいるから、反撃せざるを得ないだけ。
「あ、葉山」
でも彼は、決してそんなことはしない、だから。
呼び止めておきながら、周りに群がる友人たちに捕まって続きが言えない、彼の言葉を待つ。
きっとクラスのことか、今から行く図書室への預けものか、何にしてもたいしたことではないはずだけれど。
真っ直ぐは見られないから、気のない素振りで身体を斜めに向けて、でも全身で気配を追って。
「悪いな、ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだけど」
ふんわりとした笑顔は、きっと他の誰にでも見せているのだから、と。

**********
其の漆拾弐。

03. 無関心な横顔

「中山女史との約束でさ」
Fグループの特権はもちろん、個人としてのコネクションは必要だと、教師以外のパブリック、つまり保健医や図書館士、担当警備員に至るまで、それなりに有効だと言われる愛想をふりまいておいた。
だからこそ、例えそれが背後に控える権力の賜物で表面上だけのものだとしても、疎まれずに便宜を図ってもらえている。
誰もが敬遠する図書委員に、偶然とはいえ託生が割り当てられていたのもありがたいくらいだ。
直接は触れないように、けれど、ギリギリ許される距離を慎重に測って手渡した、持ち出し禁止の本。
背表紙に貼られたコードを読み取ったのか、びっくりしたように視線が向けられる。
きちんと向かい合えば、その目が一般的な比率よりも大きいことも、さらにはその中の瞳孔でさえも雄弁なことに気付けるだろう。
けれどいつものように、ただの一言もなく受け取り、無関心な横顔は全てを拒絶する。
生まれ持った特権が通用しない人がいると、教えてもらっただけでも、出会った収穫かもしれない。
ただそれだけでは気がすまない、己の感情こそ、特別視するべきで。

**********
其の漆拾参。

04. 幼稚な気の引き方

勝手に名付けてくれた病名は、それでも端的に症状を説明してくれていた。
『人が嫌い』なのではなく、『人と接触することが嫌い』なのだということを。
以降、クラスメイトたちは接触を注意深く避けながら、それでも行事や日常のあれこれに話かけてくれるようになった。
それはとてもうれしくて、幼いころの自分に戻ったような気にもなったけれど、やっぱり不用意に触れられる感覚には慣れなくて。
「幼稚な気の引き方、してんじゃねぇよ」
言われたことが、理解出来なかった。
気を引く、それはずっと、むしろ避けていたことだった。
言われた意味がわからずに、問い質そうとしたそのとき。
「葉山にそんな損得勘定はないよ」
背後から聞こえた甘いテノールに、ワケもなく安心したのだった。

**********
其の漆拾肆。

05. 誰に対しても同じ

おそらく本人は覚えていないだろう記憶の中でも、それでもいつでも真っ直ぐで、真摯だった。
幼少であったとはいえ、崎家の将来を担う兄妹に関係したのだ、もしかしたら子どもを使っての…と懸念されても仕方がないだろう。
けれど、どこまでも平均的で一般的な日本人家庭らしい彼の両親は、表面的な謝意も裏に隠された詮索も全く気にしていないようだった、と知らされたのは嫌悪症の理由を本人から聞いたあとだった。
両親から好悪はともかく関心さえ与えられなかった子ども。
唯一もらえた兄からの愛情は歪んでいて。
拒否するということさえ教えてもらえず、ただあるがままを受けとめるしか術を知らなくて。
だから、誰に対しても同じ態度しか取れない。
触れられることには拒絶を示すが、きちんと分かってそれなりに気をつければ、きちんとしすぎるくらいに応えようとする。
そうすることしか知らない、幼いほどの素直さに、いつか誰かが気付くだろう。
その時、自分は、耐えられるのだろうか。

**********
其の漆拾伍。

06. 続かない会話

手渡された本の背表紙を、つい確認する癖で見て、驚く。
本来、こんなところで気軽にやりとり出来るようなものではない、それ。
些細な、とは言えないようなことで、この人は特別なのだと思い知らされる。
他のクラスメイト同様に話かけてくれるのに、そしてそれがとても嬉しいのに、そう言えなくて続かない会話がもどかしくて、俯いてしまう。
決して拒否したい訳ではない。
でも、期待をしてはいけないと戒める気持ちがそれよりも強くあるから。
「じゃ、頼むな」
ぽんと肩に手を置くような気軽さで、でもそうすることなく綺麗な手をひらりと翻してくれたのは、彼の優しさ。
了解を伝えることも、謝意を届けることさえも出来ないのに。
彼は、どこまでも遠い人、なのに。

**********
其の漆拾陸。

07. 特別を望む心

クラスメイトであり同室である片倉には、触れることはないまでも、かなりの信頼を置いている。
甚だ希薄ながらも、級長として同じような立場を望めないものかと、それなりに努力はした。
結局全てが徒労に終わった学年末、努力しても無駄なことがあると相棒に肩を叩かれながら呟かれた。
それでも諦めきれなかった俺に、次年度は同室になると担任からのリークで、気分は一気に天国へと登る。
初年度で分かった、級友では、近付ける距離が広すぎる。
特に他人との距離を置きたがる相手ならば、尚のこと、私生活をも共有出来る場所にいなければいけない。
学園側の憂いを他所に、オレは、未来は約束されたと、根拠もなく浮かれていた。
ただ、託生の特別を望む心が暴走した故に。
好きだと告白し、無言ではあっても受け入れてくれた。
プラトニックでも、自分は他のヤツらとは違うんだと、思っていたんだ。

**********
其の漆拾漆。

08. 近づいたところで、意味も無い

2年になった入寮日に、高林くんからの嫌がらせを受けた。
ありがた迷惑ながらも、赤池くんの登場で事無きを得たけれど、それが、ギイと同室であるということに起因しているとは気付かなかった。
さらに、音楽室に閉じ込められ、ギイからの告白とキスを受け、パニック状態だった。
あまりにも短時間に色々ありすぎて、もともといろんな意味で不器用で世俗に疎いこともあり、起きた出来事についていくことさえ危うく、そこからさらに考えをすすめることなど不可能だ。
自分の周りだけ、勝手に時間が流れているような気がして、取り残されている自分は流れに沿うことも乗ることも出来ずに戸惑う。
好きだと、彼命名の嫌悪症をものともせずにキスをしてくれたことは、嬉しかったけれど。
結局は彼を突き飛ばしてしまい、身体的にも、そして精神的にも傷をつけてしまっただろうことは想像に難くない。
これからの1年間、クラスだけでなく寮の部屋も同じで、必然的に一緒に過ごす時間も増えるのだろう。
けれど、だからといって、距離が近づいたところで、意味も無いことはきちんと分かっている。
だって彼は、『ギイ』なのだから。

**********
其の漆拾捌。

09. 無視より辛いこと

もう何度告げただろう、『好きだ』そのたった三文字が届かない。
アメリカ人あいさつ代わりに誰にでも言うと思われているのか、からかってると思い込んでいるのか。
ほんの少し前までは、誰に声をかけられても、無視はしないまでもわざと嫌がらせをするヤツらを睨みつける時以外は視線を合わせることは決してなかった。
なのに、疑うことを知らない大きな瞳は真っ直ぐにオレを見つめてくれるから、希望を捨てられなくなるのだ。
諦められれば楽なのだろう、自分の気持ちを受け取ってもらえずに燻らせ、なのに往生際悪く足掻く己自身を見据えるのは、それを無視するよりも辛いことだと初めて知った。
人当たりよく誰とでも気軽に話せるのは、それが自分にとって有利になるからであり、本当の自分はそんなにいいヤツじゃない。
それでも、そういう自分を噂や見かけで判断せずにちゃんと見てくれるのだからきっと、一縷の望みはあるはずだ。
本当の自分をちゃんと知って、その上で自分がそばにいることを望んでもらいたい。
願わくば、抱きしめたりキスしたり、うん、そういうことも、いつかは。
その澄んだ瞳を曇らせるようなことはしないと、約束するから。

**********
其の漆拾玖。

10. ゴミ箱外した紙くず

触れるだけのキス、ただ抱き締めるだけの抱擁。
その先も望まれていると分かるのに、逃げてきた過去と現在の嫌悪症が邪魔をする。
掛け違えたボタンのように、ゴミ箱を外した紙くずのように、歪で、きちんとおさまらない気持ちはきっと、彼を好きだから。
外見も内面も非のつけどころがない人と比べて、あまりにも自分は卑怯で矮小で薄汚れていて。
だから、求めてくれる気持ちは嬉しいのに、素直に受け入れて喜ぶことが出来ないのだ。
今は、きっと他の生徒たちと違う自分に興味があるだけ、いつかからかうことに飽きたら去っていってしまう。
それならば、これ以上近づかず、これ以上好きにならず、もしかしたら彼を傷付けることになろうとも、今まで通り拒否していればいい。
1年、そうして耐えてきたのだ、それがもう1年、出来ないはずはない。
お願いだから、放っておいて。
助けてと、手を伸ばしたくなる前に、見限ってよ。

其の漆拾。

01. 「友達」でも油断しないで

相も変わらず、連休になるとやってくる。
もちろん事前連絡などなく、不在だったらどうするんだという抗議も、『それはそれでしゃーないやん』とあっさりいなす。
だからむしろ、もしかしたら、来てくれるかもと逢瀬を期待しているのは自分だけで、ヤツにとってはそうじゃないのかもと不安になる。
「新一って、馬鹿だよねえ」
幼馴染みが、容赦ない意見を披露する。
「だってさ、東京=大阪間だよ?交通費だって馬鹿にならないし、受験だってあるだろうに、それ以上に新一のこと、最優先にしてくれてるってことでしょ?」
そうかな、好きなのはオレじゃなく、都心部で起きる迷宮入りしそうな事件だろ?
「和葉ちゃんに、『友達』でも油断しないでって、言っとかないとね」
ため息とともに言った幼馴染みの言葉に、なんとなくムッとする。
それがなぜなのか、分からないままに。

**********
其の漆拾壱。

02. 手を振った先

「ほな、またな」
いつものように、ひらりと手を振った先に、大きな瞳をこぼれ落ちそうなほどに見開いて睨みつけるやつが一人。
断っても、それでも面倒そうな素振りをしながらも、いつも見送りをしてくれる。
バイクの時は角を曲がるまで、公共交通機関の時には最寄りかもしくは気が向けば東京駅まで。
しかも本人はバレてないつもりだろうが、こちらの姿が見えなくなるまでということも分かっている。
が、こんなふうに睨まれるのは初めてだ。
「もう来んな」
言われた言葉も、衝撃的だった。
「な…」
返す言葉を考えつく前に、瞳は閉じられ、そのまま細い背中を視界から消されてしまったのだった。

**********
其の漆拾弐。

03. 以前は気にしなかったのに

3日と空けずに送られてきていたメールが来なくなってから…と数えるのも業腹で、手にしていた携帯をぽいとベッドの上に放り出す。
試験中だろうが部活の合宿中だろうが、途切れることがなかったそれを、心待ちにしていたことを悟られるのがいやで面倒そうな態度や口ぶりで応対していた。
それでも、互いの幼馴染みたちが意味ありげな視線を向けつつクスクス笑いを交わしていた、その意味を分からないほどもうガキじゃなくて。
『来んなとは言ったけど、連絡寄越すなとは言ってねーだろーが』
我が儘ないい分だとは、自分でも分かっていたけれど、それでもと高を括っていた。
起きた事件の概要だけでも教えろと、言ってくると思っていた。
素っ気ない態度を取っても、いつも一緒にいた幼馴染みと同様、何をしても許されると思い上がっていたのか。
以前は気にしなかったのに、隙を見ては携帯を確認し、着信も受信もないことにがっかりする。
肺を空にするほど大きなため息をついて、そこに新たな空気を送り込むことの失敗したのは。
「よ」

**********
其の漆拾参。

04. 隙だらけの君

「目ん玉、落っこちるで?」
うっかりドジ踏んで、気軽に連絡ができない状態に陥って、しばらく。
『蘭ちゃんがな?』と和葉経由で様子は聞いていたものの、身動き出来ない状態は歯痒さ以上の何かがあって。
だから、許可をもらい次第家にも戻らず、新幹線に飛び乗った。
本当なら一番速いバイクという手段をとりたかったのを我慢しただけ、褒めてもらいたい。
相変わらず呼び鈴に応答はなく、なのに玄関の施錠は開いているという無防備さで、ちっこくなってたときの方がマシやったやんかとため息をつく。
「な…んで」
探偵は、盗賊や忍びではない、なのにこうも易々とテリトリーに侵入されて気がつかないとは、あまりにも隙だらけの君が心配になる。
とにかく、連絡出来なかった事情を説明しようと口を開こうとした、その瞬間。
上半身に思わぬ負荷を受け、数歩後ずさるだけで受けとめた自分を賞讃してやりたいとしみじみ思った。

**********
其の漆拾肆。

05. 二人だけの場所へ

『あーちょおドジって肋骨ゆわしてもーてなあ』
あははと暢気に片手を後頭部にあてながら笑う姿に、先ほどの自分の行動を思い返し、誰に対してか分からぬ怒りが湧く。
部活の剣道でもなく、事件に巻き込まれたわけでもなく、ただ単に『車に轢かれそうになった子どもを庇った』ためだと言うから、あんまりにもらしくて言葉をなくす。
事情はともかく、今まで通りに連絡をしようにも、病院内ではいまだに携帯電話の使用が禁止されており、公衆電話のあるロビーまで歩いて行ける状態ではなく。
それでもある程度は互いの幼馴染みを通して話がいっていると思っていたらしい。
…甘いよ、それ。
あいつらは、無邪気なまでに俺たち『で』遊ぶことに一生懸命なんだから。
それでも、幼なじみの発言から妙な悋気のせいで自分から会えなくなるような状況を作った自覚はあり、偶然それに事故が重なった今回の事件。
でもおかげで、こいつに対してだけは意地とか見栄とか、言ってしまえば嫉妬だのというものも、不必要だと分かったから。
「怪我の療養に、二人だけの場所へ、行ってみねえ?」

**********
其の漆拾伍。

06. 大人気なくても

なんか絶対、ウラがある。
そう疑いたくなるほど、東の名探偵は上機嫌だ。
『療養』なんて言い方をしたのだから、現行犯や手配中の犯人を見つけて追いかけたりしない限りは大丈夫だろうとは思うけれど。
「で、なんでココなん?」
着いたのは、都立図書館。
確かに静かだしふたりだけの雰囲気も味わえるけれど、事件のことはこんなところよりも工藤家にファイルされたもの、というよりもその頭の中身に記録されているものの方がよほど詳しいはずなのに。
「こっち」
館内では当然のことながら囁くような声で言われ、同時に腕を掴まれて引っ張られる。
きっと自分じゃなくて、幼馴染みの彼女にだって同様のことをしているのだろう。
大人気なくてもいい、それでも特別な扱いは自分だけであってほしいとこっそり心の中で願ってしまう。

**********
其の漆拾陸。

07. もう少し側に

己の好奇心が招いた所為でもあるため、仕方なく休学という措置をとって数ヶ月。
おかげで、復学以降、授業そのものには難なくついてゆけるものの、出席数はもちろん授業態度というものを重視されるようになってしまった。
もともと学校で教わる勉強は、探偵として身につけたい知識よりもレベルが低く、点数重視であることもあって適当にこなせていたのだ。
だから、欠席さえしなければいいだろうと、夜中に小説を読んだり映画を見たりする埋め合わせに惰眠を貪っていた。
それが自業自得ではあるものの出来なくなってしまい、利用するようになったのが校内外を問わずにある図書館だった。
基本的に静かで、自分が利用したい特殊な分野の空間は特に人気がない。
だから、引っ張り込んだのだ。
もう少し側にいたい、そんな気持ちを伝えるには、自宅ではあまりにも自分のテリトリーで照れてしまうから。
「ここなら、誰も来ねぇから」
耳元でひそりとだけ、でも勘のいいやつだからきっと、気づいてくれるはず。

**********
其の漆拾漆。

08. たとえ相手が子供でも

「お誘いなら、ベッドの方がええねんけど?」
ニヤリと笑うその顔は、当然、確信犯。
ポニーテールの幼馴染みよりも、習慣に近いほど身体に馴染んだ剣道よりも、三度の飯より云々な推理よりも。
いつの間にか自分の中の重要な位置にどっかりと腰を据えてしまったヤツが、数センチの距離にいるのだ。
そりゃもう、未成年だとか関係なく、イタダキたくなるのは仕方がない。
義務教育はすでに終え、それなりにバイトで稼いではいても、所詮は親の脛を齧る高校生、懐は己の自由になるほど豊かではない。
そんな中でやりくりをし、相手に迷惑がられているかもしれないという不安もわずかにありつつ通いつめて。
きつい言葉をもらって別れた直後に、自業自得ではあるが少々のドジから連絡も身動きも取れない状況に陥り、けっこう凹んでいたのだが。
もしかしたら、押されれば引くが、逃げたり隠したりすれば、探偵の性で追いかけてくれるのかもしれない。
気付いてにんまりと笑みを浮かべたことを、たとえ相手の姿形が子どもだったとしても、見せられたもんじゃない。

**********
其の漆拾捌。

09. 妬かれる幸せ

気心どころか隠し事さえ出来ないほどに知られている互いの幼馴染みたち。
どちらも好意以上のものを持ってくれていたはずなのに、最近は普通の友情ですら怪しくなっている。
子どもの恋愛ごっこのようだったとはいえ確かに好きだと思った相手と、全てを共にしたいと願うヤツと。
自分の中の変化は、どうやらどこまでもシンクロするヤツも同じだったようで、いつの間にかその幼馴染みたちも同様にそれぞれの立ち位置を変え。
蘭は、いつでも信じてくれ、子どもに姿を変えて存在を隠していた時ですら、園子が唆しても浮気などないと信じてくれていた。
その姿を間近で見ていたから信じられたし、それはそれで嬉しく、当然だとも思っていたけれど。
事件のみならず、全てに熱い男は、600kmの距離をモノともしないほどに鬱陶しいほどまつわりつき、放っておかれた彼女は蘭とタッグを組んだ。
好意の延長で妬かれる幸せはあるが、いかんせん、探偵は謎解きの方が大切で、共に出来る相手といられる方を選んでしまって。
それでも後悔はないし、一緒にいても誰にも不思議がられないのはラッキーとも思う。
そして、そういう関係を築き、維持してくれたコイツは、もう手放せないのかもしれない。

**********
其の漆拾玖。

10. 痛む場所にキスを

「"ニシ"の高校生探偵、辞めようと思うねん」
大学受験を控え、決めたことを告げる。
両親や幼馴染みはもちろん、友人知人は皆、地元の大学に行くと思っているけれど。
期待や名誉など放ってでも、わずかな時間ですら共に過ごしたいと思う相手を見つけてしまったから。
たとえ身体が小さくなっていなくとも、もともとその為人を知りたくて上京したのだ。
出会い、共に過ごす時間の有意義さを体験してしまえば、離れなくてもすむ選択肢があれば迷わずそれを選ぶのは当然で。
お互いに思いを寄せていた幼馴染みたちに対し、申し訳ない気持ちはあるし、彼女たちも受け入れ、状況を楽しんではくれているけれど。
どこかが軋んで、理由もなく、形のない何かが痛む場所にキスをもらう。
ただそれだけで、他のことはどうでもよくなるほどに幸せになれる。
きっとこれからも嫉妬まじりの想いは消せないだろうけれど、ただひとりを何よりも大切にするだろうことは、決定事項なのだと思う。

其の漆拾。

01. 背を向けた夜

あの日、確かに、別々の未来を選んで。
ずっと一緒に旅をしてきた、否、ヤツの元へ連れて行くために一緒にいたに過ぎない、関係。
どれだけ惹かれても、主従敵対関係だと、己を戒めてきた。
おそらく、いやきっと絶対に、生きるためならば何でも受け入れてきた自分の経験は、その年数に対してあまりにも純朴な彼には理解出来ない世界だから。
でも、だからこそ、ただ、大切にしたいと思った。
これ以上、心身共に彼が傷つかなくてもいい未来が訪れますようにと、信じてもいないのに持ち歩いている十字架に祈ったりもした。
いつしか心を許し、暖を求めるように寄り添う彼を初めて拒んで背を向けた夜、自分でもあり得ないほどに空虚だった。
「勝手にワイん中、入り込むなや」
直接言えない言葉を、猫のように背を丸めて寄り添う姿にひっそりと落とす。
ほんのわずかでも、彼の中に入り込めたらいいと、思いながら。

**********
其の漆拾壱。

02. 最後に笑い合った日を想う

どんよりと重たげなモノトーンの空に向かい、同色の煙をため息とともに吐き出す。
送り届け、透き通った笑顔を見て。
これから起こるであろう顛末は、想像に難くない。
それでも、そこに自分が介入することは出来ないし、止めることも出来ないと知っていたから、最後に笑い合った日を想う。
だから、まさか、と目を疑った。
ボロボロになった、トレードマークの赤いコートは、その下が満身創痍であることを示していて。
真っ直ぐに歩けないくせに、それでもあどけないほどの笑みはあの日と変わることなく。
「へへ、ただいま」
照れくさそうに言って、ぎこちなく手を振ってみせるから。
ただ、煙草を挟んだ指先を軽くあげて答えることしか出来なかった。

**********
其の漆拾弐。

03. なんで君は普段通りなの?

自分が、普通にいう人というものではないと気付いたのは、もうずいぶん前になる。
それでも、たとえすれ違っただけの存在であっても、自分と関わった人が泣くようなことは許せなくて、必要以上に関与したりもしたけれど。
「あのさ」
仮にも、本人は希望しなくても、自分は賞金首。
そうと分かっていても、命を賭けて護ってくれる人もいて、出来ればそういう人たちは自分がいなくなっても幸せに暮らしてほしいなあと思っていて。
だからなるべく、そういう人たちが少なければいいと、無邪気を装いつつも一歩以上引いた付き合いしかしてこなかったのに。
なぜか、訊けない質問がある。
『なんで』
賞金首と最初から分かってて、さらには己の上司が排除したがっていると分かっていて。
それなのに、なんて君は普段通りなの?

**********
其の漆拾参。

04. せめて挨拶はしようよ

死闘という言葉がなまぬるく思えるほどの兄弟喧嘩のあと、戻って来てから会話がない。
どうでもいいことをペラペラと喋る自分と違い、もともとケチなほどに倹約家であるから、言葉ひとつ分の体力さえ惜しんでいるのかもしれないが。
必要最低限、何時に出るとかここで夜明かしするとか、そんなことでさえも音にせず無言を押し通す態度に、いい加減疲れ、呆れてもきて。
「ねえ……あのさ」
声をかければ、気が向けば視線を寄越してくれる、そうでなくとも気配で聞いていると教えてくれる、無視をしている訳ではないと態度で示してくれる、けれど。
耳に馴染んだ、聞き慣れなかった言葉遣いが懐かしい。
独特の香りの煙草を銜えたままで話す、僅かにくぐもった低い声が恋しい。
だから、せめて妥協案をと、言ってみた。
「せめて挨拶はしようよ、おはようとおやすみだけでもさ」
きょとんとして、真っ黒な目を見開いて、半開きになった口許から煙草が落ちて、それから。

**********
其の漆拾肆。

05. 困ったように微笑まないで

「なにオドレ、迷子の子猫みたいなツラしとんねん」
煙草を追うようにこぼれた言葉は、今まで誰彼なく子どもたちに見せていた優しい苦笑が添えられていて。
まるでそれは、自分が幼子と同レベルなのだと言われているようで、ショックではあったけれど。
それでも、飾らない素の声が聞けたことが嬉しくて。
「だってキミ、ずーっと不機嫌そうだし、でも何が悪いのかも言ってくんないし、だから、だからさあ」
べそべそと、ついうっかり目から鼻水をたらし、鼻からは涙がダダ漏れで、でも自分の意思では止められない。
「ああもう、しゃあないなあ」
新しく点けた煙草を、器用に唇に挟んだままそう言って、今は下ろしたままの髪をぐしゃぐしゃにする。
その無骨な長い指先が優しくて、あたたかくて、困ったように微笑まないでとお願いしたくなる。
だってそれは、自分を甘やかす、とても危険な武器なのだから。

**********
其の漆拾伍。

06. どうしたって変わらないもの

とんでもなく長い間、孤独に生きてきたはずの、バケモノ。
忌み嫌われ、迫害され命を狙われ、人の薄汚れた部分をおそらくは飽きて倦むほど見てきただろう、それなのに。
他の選択はなかったとはいえ、殺生を生業としてきた自分よりもずっとずっとキレイなイキモノ。
だから、結局みんなが惹かれてしまうのだ。
いつまで続くのか分からない、もしかしたら永遠に続くのかもしれない、殺伐とした暮らしの中で出会った、そのイキモノに。
瞳の中にひそむ、孤独も、哀しみも、憂いも、全てサングラスで隠した空っぽな笑顔が切なくて。
それでも、彼の中の透明なキレイさはどうしたって変わらないもので、触れあったもの全てを浄化してゆく。
危うくて、脆くて、泣き虫なくせに、どこまでも真っ直ぐで、強い。
子どものままの心を持ったまま大人になった彼は、だからきっと。
今この世界が在るのはあの女性のおかげなのだろう。

**********
其の漆拾陸。

07. 抱きしめたかったのは

シスターは、元気でね、そんなありきたりで、けれどもおそらくは何よりも望んでいた短い言葉とともに。
子どもたちは、また来てね、絶対だよ、と約束を疑わないような笑顔で。
それが、叶うことがないということを誰よりもよく知っていたのは自身なのに、貼付けた笑顔で頷いてやることしか出来なくて。
痛みを伴うような、遠くもない過去を思い出すのは、起きている時には空っぽな笑顔を見せるくせに、幸せそうな寝顔を無防備に見せる同行者の所為。
へらへらとお気楽に、どこまでもお人好しで、嬉しそうにドーナツやら好物を食べては時間を過ごす。
首根っこを取っ捕まえて、胸ぐらを掴んで、真面目になれと怒鳴りかけて気づいた、丸いサングラスの奥に隠された本当の姿と心。
シスターのように慈愛に満ちて、子どもたちのように純粋無垢で、強くて、そして脆い。
賞金首のくせに、バケモノのくせに。
何度もそう言いかけて、けれど音になることはなく。
それでも血濡れの両手で抱きしめたかったのは、硝煙のにおいを纏った『未来』だったのかもしれない。

**********
其の漆拾漆。

08. 踏み出した一歩

「オドレ、人、ちゃうねんやろ」
いつの間にか当たり前になった、砂漠で過ごす夜の暇つぶしに、疑念というよりもすでに確信に近かったことを音にしてみた。
そりゃもう、うっかり笑ってしまうほどにその反応は顕著で、だから自分も人でありながらそうではないのだと、躊躇なく告げることが出来た。
けれど、そうと聞いたやつの反応は、想像の範疇外で。
なんで、泣く?
なんで、謝る?
記憶に新しい、古い過去に見たような子どもたちと同じような、純粋な涙に、胸が痛む。
想像を絶するほどの長い時間をひとりで過ごし、それでもなお、呆れるほどの純粋さを失くさないこのバケモノが、これからも、少しでも長く生きられるよう。
己の使命を無視してでもと、そう思ってしまったのが、踏み出した一歩だったのだろう。
そして、教会にいたガキどもの相手をしていた方がよほど楽だったと、後悔するのに時間はかからなかった。

**********
其の漆拾捌。

09. 懐かしい距離

「砂が、降るよ」
囁きほどの大きさもない、吐息ほどの声で告げる。
めずらしくもきれいに空気が澄み渡ったこんな夜は、風もないために、大気中に舞い上がった砂が落ちてくるのだ。
それは、聞いただけで見たことはないけれど、それでもこの世界にはない『雪』というものに似ているようで。
全てが生き延びるために機能最優先だったから、赤い花を慈しんだ彼女。
赤はだから、花の色であって、決して流していい血の色ではないのだ。
きっと心のどこかでそう、頑なに思い込もうとしていた。
彼女と、兄と、無邪気に過ごした懐かしい距離。
それに近いものが今ここにはあって、もう二度と手放したくはないから。
さらさらと降り積もる砂に埋もれてしまわないよう、となりの寝息に声をかけた。

**********
其の漆拾玖。

10. 今更だけど言わせてよ

「ドーナツとサーモンサンドさえ与えとけばいいとか、思ってないよね?」
どうでもいいことならベラベラと口達者なくせに、肝心なことは煙草を銜えて一言も話さない。
出会いは偶然だったし、結果的に規模の大小はともかく、兄弟喧嘩に巻き込んでしまった事実は否めない。
それでも、そこに至るまでに幾度かは離れる選択肢もあったのに、結局は自らの意思で付き合ってくれ、今に至るのだけれど。
死闘とも言えるほどの兄との決着をつけ、満身創痍でふらふらになりながらも見つけたのは、別れた場所で待っていてくれた彼の姿。
それからずっと、不機嫌とはまた少し違うような無言の時間が続き、せっかく一緒に居るのに居心地が悪くて仕方がないから。
「今さらだけど、言わせてよね」
意を決して、宣言した。
ヒトではない自分にだって感情はあるし、出来れば、好きな人とは一緒に居て心安らぐ時間を過ごしたい。
びっくりして、数瞬の間固まって、それから苦笑しながら髪をくしゃくしゃにしてくれたから、これからもきっと、ふたりで大丈夫だね。

其の漆拾。

01. 震える背中は君の哀しみ

詳しい事情は分からないまでも、フザケた海上レストランで見つけた態度の悪いコックは、ルフィの誘いを頑に断っていた。
過ごした時間は長くはない、けれど、ルフィの人を動かす力は身を以て分かっている。
たとえそれが無茶でも理不尽でも、海賊を敵視していた海賊狩りも法螺吹きも盗賊も、結局は仲間に率いれてしまった。
だから早々にこいつも白旗を揚げるだろうと思っていたのに、あのルフィが手子摺るほど、なかなかに頑固らしい。
仲間に止められても腹を空かせたやつには食わせ、自分たちを襲うと分かっている大海賊団に食糧を与える。
その態度に解せないものを感じつつ、それでも海に出てから何度も空腹に悩まされた自分にとって、その極限にこいつが現れたのなら信じもしない神に感謝するだろう。
結局、オーナーや仲間に放り出されるようにルフィの元へ来たが、全てが納得出来ていた訳ではなかったのか。
小さな船の中、少ないとはいえクルーはあれこれ理由をつけてはまとわりついて放さない。
それでも深夜、ギリギリまで落とした灯りの中で見えた、震える背中は君の哀しみに違いなく。
それを癒す方法も知らない不器用さは、彼が彼らしく振る舞えるよう、真剣に喧嘩を仕掛けるしか出来なかった。

**********

其の漆拾壱。

02. 頭上の蒼月を仰いで

「酒」
ただ一言、それだけ。
勝手に持ってくとうるさいからとか、ひと声かければ旨いつまみがついてくるからとか、言い訳はあれこれあるが。
それでもおそらくは、何でもいいから彼の大きな瞳が暗い色に沈むのを見たくないからだ。
少なくとも、キッチンに立っている時には楽しそうな表情を見せるから。
普段は威嚇するような表情や態度しか見せないし、そういうのも自分に対してだけと思えば、優越感もある。
見張りのための夜食と、軽いつまみをもらって、酒瓶を受け取る。
邪魔の入らない見張り台で、頭上の蒼月を仰いで酒を煽る。
己の中でざわつくものが、まだ何か分からないけれど。
ただ、孤独ではないのだと、教えたくて。

**********
其の漆拾弐。

03. 君の寝息を子守唄に

料理人として、ある程度は好みを把握したいと、なぜか絶対に一番不適当だろうという自負のある自分に、意見を求めてきた。
他のメンバーにも同様に訊いたのだと言われ、ならば普段は皆無に近い会話の種にでもなればと、一緒にいることになった経緯を思ったことを付け足しながら教えた。
ルフィのワガママによる海軍との決裂、ウソップが思いを寄せる女の子との終始、そして己も関わることになったナミとの一件。
淡々と話していたつもりなのに、そりゃもう、時間的に寝ているだろう仲間を起こしかねないほどの大爆笑をしてくれるから、呆れ半分、安堵半分。
「大事に、してくれっぞ」
年齢的にもその言動からも、いまだ幼い印象がある我らが船長だけれど、おそらく、いや絶対、何かあった時には身を呈して戦ってくれるだろうと、それは希望であり、確定であり。
漏れた言葉は、この船をどんな形であれ、選んで乗り込んだことを後悔してほしくはないと思ったから。
ぼつぼつと話していた、それをどこまで聞いて理解したのか、いつの間にか我が船のコックは疲れからか、宿敵のように忌み嫌う人の隣で無防備な寝姿を晒しており。
結局、この船に乗ることになった経緯は喋らないまま、知ることが出来ないことに忸怩たる思いはあれど、それでも、酔っぱらって無防備になる姿は、自分だけのものと思いたい。
その君の寝息を子守唄に、うっかり見張りであることを忘れて航海士から大目玉を食らったのは、まあ、いつものことだろう。

**********
其の漆拾参。

04. 背中より絡めた指で伝え合う

常套句である『背中の傷は~』。
それほどまでに守ってきたその場所を、無防備なまでに意識の外に置けるようになったのは、いつからだっただろう。
己の信念にはバカがつくほど真っ正直な船長は、仲間を信じているが故に、周りを気にしたことなどない。
狙撃手も航海士も、基本的に接近戦は不得手だ。
料理人だって本来は戦闘員ではないはずなのに、悪魔の実の能力者ではないのが信じられないほど、その強さは喧嘩っ早いの一言ではすまされない。
しかも、恩人であるオーナーのレストランを守るために磨き上げられたものは、戦闘技術だけではなく、冷静なまでに周りを見、先を読む力だ。
我先にと、それはもう嬉しそうにすっ飛んでいく船長以下、元気よく逃げる航海士と威勢よく援護は任せろと叫ぶ狙撃手に、苦笑が漏れる。
「ったく、大事な仕込みが台無しだ」
気配もなくふわりと背後に降り立つ男の後ろ姿が、紫煙をくゆらせて愚痴る。
一瞬だけ、背中より絡めた指で伝え合う作戦は、気持ちがいいくらいに前向きだ。

**********
其の漆拾肆。

05. 鼓動は思うより正直で

全員がそれぞれ、個人戦を得意とするはずだった。
というよりも、ルフィに無理矢理仲間に引きずり込まれるまでは、個々で戦うしかない状況にいたのだ。
得物はもちろん、戦闘スタイルも違い、だからこそ各々の得意分野を発揮し、それがいい具合に互いの不得手なところを補っていたはずだった。
だから、わざわざ打ち合わせなどせずとも、接近戦を得手とするものと遠距離からの狙撃で援護するものと、いつの間にか決まっていたのに。
不機嫌そうに紫煙をくゆらせ、斜に構えたその背中はとても静かで、常のうるさいまでの彼とは別人のよう。
悪魔の実の能力はなくとも戦闘能力がバカ高いふたりが、いつの間にか互いに背中を守りあうのが当たり前になっていた。
そのことに気付いた時、自分の鼓動は思うより正直でびっくりしたことを覚えている。
己の意識外のことなのだから、当然それは相手がそうしてくれていたのだということ。
なぜ、とか、いつから、とか、疑問は尽きないけれど。
信念の背中を無意識のうちに預けていたということがその答えなのだろうと、うっそり口角をあげた。

**********
其の漆拾伍。

06. 声で伝わるその表情

「てめぇのピアスが付いてる方に3人、腰の鞘の先が向く方に5人…」
囁くような低い声が、背後から伝わる。
前後はともかく、左右に自信がないことは、空に行った時に自覚したが、別に困ることではない。
もともと、グランドラインに入ってすぐの恐竜がいる島で、これまでの常識を覆されたから、今さら驚くことはないが、位置の説明に言葉を選んでくれる料理人は、ありがたい。
いつからか、お互いに背中合わせでいることが当たり前になった。
目前の敵は全て蹴散らす、それがモットーだったし、それで不都合を感じたこともなかった。
が、正面の敵と真剣勝負を挑んでいる時に背後で邪魔をする輩がいるということを覚えたのも、ルフィの名前がそれなりに知れ渡るのと前後していた頃からだった。
おそらく皮肉げに、片方の口の端を僅かにあげて銜え煙草で笑っているのだろうけれど。
声で伝わるその表情は、どこまでも不敵で楽しげで。
だからこそ、自分も些かも構えずに気楽にいけるのだと、いつからか気付いていた。

**********
其の漆拾陸。

07. 振り向かず聞いてね

喧嘩なら、数えきれないほどしてきた。
普通に会話するよりも口喧嘩をしていた方が多いし、戦闘を放り出して大乱闘をしたことだって何度もある。
それでもいつしか背中合わせの立ち位置が当たり前になり、隣に並ぶことがめずらしくなくなり、船長の両脇を固める双璧と呼ばれることも少なくなくなった。
女性を尊重し、同性を大切にする。
その態度はあからさまに違い、仰々しいほどに女性を敬うかと思えば野郎どもに対しては横柄なまでに上から目線で。
だから、おそらく守るべきものの一番最後に自身があるのだろうと気づいたのはまだ最近。
そういえば、遠い過去、ルフィが夜中にあさったせいで食糧がどうのともめた時、ひょんなことでその体が痩せ細っていたことを知った。
ワケの分からない高熱を発したナミを助けるために、自ら雪崩に飲み込まれたこともあった。
正面から言っても聞き入れないほど意志が強い頑固者であるということも分かっているから。
背中合わせのまま、振り向かず聞けと、語りかけるのだ。

**********
其の漆拾漆。

08. そこに在るという証

食材に拘るのは、料理人であるが故のことで、当然だ。
食糧にうるさいのも、予定が立たない航海を考えれば当たり前のこと。
栄養面でさえ、ヨサクとジョニーとの再会の原因を考えれば、口煩くなるのは仕方がないと思う。
しかも、たかだか10日間の絶食でさえしんどいと経験した過去を思えば、その10倍近くの時間の望みさえ持てないような状況を幼少の頃に経験していれば、その厳しさも理解出来ようというものだ。
解せないのは、その鬱陶しいほどの気遣いを、主に女性たちに施すのはいいとして、野郎たちにもおこぼれはちゃんとくれるからありがたく、けれど、自分にはほとんどしないということ。
赤子やスズメに例えられるように、幼少の頃の体験は大人になってからも影響を及ぼすというが、仲間に飢餓を経験させたくないとしても、それにしてもあまりにも献身的すぎる。
そして気づいた、やつの身体は、壮絶な体験のあと、きちんと栄養を吸収することが出来なくなってしまっているのだと。
今まで会った北の海出身のヤツらはかなり大柄で、おそらくは小さい部類に入るのだろう東の海出身の自分たちと変わらぬ彼の身体は、おそらくはその過去が原因なのだろう。
その時に消えていても不思議ではなく、おそらくは誰も気付きさえしなかっただろう命が今そこに在るという証は、手配書が示してくれるだろう。
だから、自身のことには潔いほどに命すら投げ出すことを知っているから、最後まで諦めずに足掻けと、願うのだ。
**********
其の漆拾捌。


09. 受け止めるよ 何度でも

今日も今日とて、ヤツの怒鳴り声が目覚ましの合図となっている。
大方、頬に傷のあるネズミと鼻の長いネズミが倉庫に付いている鍵を壊してでも冷蔵庫をあさったのだろう。
それでも最近はその賑やかさも裕福な島に寄った直後に限られており、ネズミどもも食糧が潤沢にある時のみを狙っているらしく、それなりに学習していることを笑って過ごしていいものか。
もちろん、そうするだろうことを見越して日保ちしない食材を多めに仕入れていることも気付いていたし、航海士と考古学者の長けた情報収集能力のおかげで、ログが示す次の島までのおおよその日程も割り出せているからこその、贅沢ではあろうけれど。
とはいえ、侮れないのがグランドラインであり、気候や海の荒れだけではない難事も起きるし、その恩恵で甲板に魚が打ち上げられることもあれば、逆に予測以上の航海でひもじい思いをすることもある。
そんなとき、コックは何が何でも食糧を釣れ!と非戦闘員に発破をかけつつ、女性には出来る限りの範囲で最高の、野郎どもにはなるべく腹持ちがいいようにと嵩増しをしたものを提供することに余念がない。
その作る量に、自身の分が入っていないことは当然で、女性陣と、おそらく船医は気付いているかもしれないが。
航海が長くなるに連れ、その回数は多くなるが、それは何度でも受け止めようと決意した。
彼ほどではないにせよ、それなりに空腹の辛さを知るが故、けれど同情ではなく、仲間として、喜怒哀楽全てを共有すればいいと思う。
年長組からの憐憫や年少組からの申し訳なさではなく、同年代だからこその『何か』で。

**********
其の漆拾玖。

10. いっせーので走り出せ!

「島が見えたわよ」
淡々とした考古学者の声は、張り上げているワケではないがそこここに口を咲かせているのだろう、きちんと全員に届く。
浮かれ騒ぐ年少組に、降船後の予定を確認する年長組。
次の島までのおおよその時間を聞く前からせめて生鮮食品での料理をと食糧の算段をするコックに、得物のメンテナンスを考える剣士。
降りてみるまではどんなところなのかは分からないが、それでも変わらぬ風景がある。
いつの間にか耳を咲かせていたらしい考古学者からログの溜まる期間と町の様子を知らされる。
航海士から毎度似たような注意がくどくどとなされるが、はたして聞いているものはどれほどいるのか。
ただ、やりたいことも叶えたいこともそれぞれ違うが、ここはそのために必要な通過点なのだということは共通なこと。
ならば、船長の一声を待つのみだ。
「いっせーので走り出せ!」

其の漆拾。

01. 紹介できない想い人

出会いは、強烈だった。
西洋人形のような外見と、全てを見通すかのような透き通った瞳と。
他人と違うことなど全く問題ではなく、むしろ噂されることが面倒とさえ思っていた全てにきちんと意味があるのだと教えてくれた、その人。
それを証明するかのように、見えない視力の代わりに人の過去が分かるのだと知ったのは、まだ知り合って間もない、学生時代。
日々激しくなる戦火の中、それでも絶対に戻るのだという確信があった己と比べ、気に入らない親父やその眷属に頭を下げてまで探った彼の居場所は、本来ならば有り得ないはずの機関で。
戻る可能性の少ない場所に居る彼を案じたのは、他人には無関心な自分にとってはとても希有なこと。
だから、古書肆として始めた店にわざとらしい陽気さで現れ、以前と変わらぬ自侭な態度をとる自分を受け入れてもらえるのがうれしかったなどとは、やつの他の知人には知られたくないことだ。
本来の自分ならば、相手の都合など歯牙にもかけず、思った通りに振る舞うはず。
なのに、胸中に燻る想いさえ当人に告げる事無く、誰にも紹介出来ない想い人は、今日も見事なまでの仏頂面で難しい本を開いている。
それでも、他のやつがいる時と自分だけの時とは纏う雰囲気が全く違うということを、自覚しているのかな?

**********

其の漆拾壱。

02. 愛してる…その囁きに縛られて

気まぐれにやってくる、金褐色の猫。
来て何をするでもなく、ただごろ寝をし、出涸らしのお茶を飲んで帰ってゆく。
構うことはない、とそう思うのに、視界の端のきらめきを無視出来ないのは、きっと。
「愛してる」
…その囁きに縛られているからだ。
妻のある身で、しかも同性だ。
しかも、もともと常識から遠くかけ離れたところにいる相手なのだ。
たとえそれが学生時代の先輩であろうとも、無碍にしてもいいはずだった。
それをいつまでも己の領域に入り込むのを許しているのは。
「…そういう、ことなのだろうよ」

**********

其の漆拾弐。

03. 今だけは、その薬指は私のもの

「いらっしゃい」
寡黙で気難しいと思われている夫の交友関係は、広くない。
学生時代からの付き合いであるという、雪絵さんのだんなさまと、探偵の方。
いかにもという見た目の刑事さんや、敦っちゃんの紹介だったらしい出版者関係の方々。
元来面倒くさがりで、本さえあればその他には生きてゆくのに必要なもの全てを排除しかねない危うさに、惹かれたのかもしれないけれど。
「えの…」
来訪を告げ終わる前に、我が物顔で入り込み寛ぐ客に、ほんの少しの意趣返しを込めてお茶に最中を添えて出す。
その後も最近当たり前になりつつある面々が揃い、またも副業に手間隙を費やされることになったらしく。
ため息をつきつつ、淡々と経緯を説明する、その中に不必要なほどに現れる探偵さんに、少しだけ妬いて。
ぐっすりと寝込んだ今だけは、その薬指は私のものだと、そう思うのはきっと…。

**********

其の漆拾参。

04. まだ見ぬ面影に怯え

庭に面した縁側とを仕切る障子を開け放ち、贅沢なほどの陽射しを浴びながらごろりと寝転ぶ。
座敷の机に置いたワケの分からぬ書を睨みながら、それでも彼の人が片手で構っていたらしい柘榴は満足したのか、小さく鳴きながら横を通り過ぎていった。
音はない、言葉もない。
ただ、おっとりと穏やかに寄り添う細君が実家に行っていると猿から聞いたから、寛ぎに来ただけ。
生まれる前から許婚者がいるなんて時代ではなかったが、それでも、御国のために命を捧げる前にと急ぐものは珍しくなかった。
お互いにそういう相手はいなかったものの、それでも敗戦後、成人男性の不足は国家にとって大いなる問題で、子孫繁栄がまことしやかに奨励されていて。
だからこそ、いつかやってくるだろうはずの、まだ見ぬ面影に怯えてしまうのだ。
自分以外と、そういうことをするのを、そしてそれは当然のことと、受け入れなければいけないということに。
わかっているから、せめてものひとりの時間を独占しようと、足掻く。
ここにいると、そばにいると、無意識のうちに刷り込むように。

**********

其の漆拾肆。

05. 口にすれば終りそうで

気まぐれな猫のように、毎日来るかと思えば、何週間の無沙汰も構わない。
来ても何するわけでもなくごろ寝ばかりのくせに、突然厄介ごとを持ち込む。
その時期が妙に符合するようだと気付いたのは、もうずいぶん前のこと。
「今日はいないから、茶はないぞ」
いない日にいつも来る訳ではなく、いても遠慮なく入ってくるけれど。
それでも統計的にみて、決して避けている訳ではないと言い訳になる程度に、頻度は少ない。
なぜ、とも訊かず、気にするな、とも言えず。
それを口にすれば終わりそうで、怖くなる。
なぜなら、と答えず、気にしてない、とも言わない。
だから、軋む痛みがどこにあるとも、告げられない。

**********

其の漆拾伍。

06. この身も心も痛すぎて

またあの人は来ているのだろうか。
学生時代からの付き合いで、だから訪ねてくるのに不思議はなく、自分を避けているわけでもない。
それなのに己の不在時が気にかかるのは、どこを見ているのか分からぬ薄い色の瞳の所為。
決して視線が合わないのは、視力に問題があるからだと聞いてはいても、背後を見透かすような瞳はたまらなく居たたまれなくさせる。
横柄な態度も、偉そうな物言いも、我が物顔で居座ってごろ寝をする姿も。
何よりも、まるで暗号のような数少ない言葉で分かりあい、他には絶対に見せない笑顔を彼にだけは向けるから。
その顔を見る度に、好みも心も痛すぎて、だから実家へと足を向ける回数が多くなる。
そしてあの人が来訪する頻度も高くなる。
悪循環と分かっていても、きっと止められないのだろう。
彼が、望まぬ限りは。

**********

其の漆拾陸。

07. 悦びと罪悪の渦

下僕のひとりが、また何やら面倒ごとに首を突っ込んだ。
依頼人だという人の話も、受け答えする下僕たちの言葉も、鬱陶しいのひと言に尽きる。
分かりきった結末を受け入れずに訪ねてくる輩に、なぜ卑屈にならなければいけないのか、いまだもってそれは理解不能だ。
それでも、たいていは依頼人の要望が面倒なのか京極堂を巻き込むことになるが、ヤツは暴れる機会を作ってくれるから、どんな作戦であっても大歓迎。
迷惑そうな表情をしつつも、彼も結構楽しんでいると分かるから。
『見えた』ものだけを話し、分刻みの行動を指示される。
日頃の鬱憤を解消出来るならと、思いっきり暴れれば、四角四面のヤツが高い声で引導を渡す。
それは唯一、悦びと罪悪の渦に巻き込まれる瞬間でもある。
どんな状況であれ、一緒にいられることを許された喜びは、その場にいられない存在である人に対して申し訳なさがわき起こる。
それでも己の思いを優先することに、躊躇いはないのだ。

**********

其の漆拾漆。

08. そっと残した「証」

何にも惑わされず、何にも影響されることもなく。
ただ己があるままに行動してきたはずだった。
それは社会的には不自由でありつつも、そういう世俗的なものにとらわれなければ自由で。
協調性がないと言われ続け、勉学の成績が良かっただけに、逆にそれが、個人では不可能でも多勢ならばという攻撃に拍車をかけたらしい。
腕力はもちろん、体力もないと言い切る自信がある故に、なるべく荒事にならないように頭脳戦で応対する。
得意分野と長口舌で畳み込んでゆけば、相手が反抗することなど考えもしない馬鹿な奴らは煙に巻かれたようにおとなしくなる。
それでも危ない場面はそれなりにあったが、なぜかそういう時にはいつも、色素の薄い瞳で視線を斜に構えたヤツが現れた。
氏素性は歴としたお坊ちゃんで黙っていれば西洋の貴公子にも見えるくせに荒事が好きだから、暴れられる機会を嗅ぎ付けていたのかもしれないが。
けれど、ヤツがそのたびにそっと残した『証』は、次の荒事まで消えることはなく。
形のない痛みは、治療法が分からないだけに、厄介だった。

**********

其の漆拾捌。

09. 痛みという名の思い出だらけ

動くのは、自分のためだけ。
頼まれれば、面倒そうな素振りは見せつつも、結局協力するのはそこに楽しみを見つけているから。
それがどんなものなのかは、知らないし、知りたくもない。
好きな分野のことを滔々と説明する機会はもちろん、でもそこにはいつもあの人の光が見え隠れする。
影ならば、まだよかったのに。
その姿にも、考え方にも、ひと欠片の暗さのないあの人の存在は眩しすぎるほどに明るくて。
私では救えない夫を、いとも簡単に引き上げる。
縁あって夫婦となっても、増えて積もってゆくのは時間と、痛みという名の思い出だらけの日々。
いつか、思い出さえもなくなる明日が来るのが怖くて、それを先に引き延ばしたくて。
また己の足は京へと向かい、背後に残した部屋に光が差し込んでくる…。

**********

其の漆拾玖。

10. そしてあなたの選択は…

放任主義な親よりも自分のことを分かってくれるから。
黙ってそれぞれに好きなことをしていても居心地の悪さを感じないから。
ただ、思い慕うだけだから。
それぞれがそれぞれの心の内に理由を付けて、それを免罪符にして『いつも通り』を装う。
その危うさに、気付くような者は周りには居らず、けれどいつまでも続くとは到底思えず。
いつか、その綱渡りのような不安定な均衡を崩すのは、きっとたったひとり。
どちらを選ぶのか、どちらも選ばないのか、どちらをも選ぶのか。
それでも願っていることはおそらく皆同じで、ただ、今のような曖昧な関係がいつまでも続くこと。
『いつか』は逃れられないことだけれど、出来得るならばそれが少しでも遠い未来であることを。
そしてその時のあなたの選択は…おそらくは自身でさえも分からないこと。

己の腰に両腕を巻き付け、下腹部を枕にして眠る人の髪に、シャルルは梳くように指先を滑らす。
朝、稀にシャルルがディーンよりも先に目が覚めるとディーンの左腕がシャルルの肩を抱き込むような体勢でいることが多いのだが、夜半、ふとのどの渇きを覚えて覚醒した今、めずらしくもディーンがシャルルに抱きつくようにして眠っていたのだ。
寝ている時でさえ、無防備に見えて、それでもほんのわずかな音や気配の機微で即座に臨戦態勢を取れるのであろうし、おそらく今この瞬間でさえそうなのだろうけれど。
常に手に届く範囲に何かしらの銃や武器を隠し持っており、おそらく一瞬たりとも安寧のない時間を過ごしてきたはずで、でもそれが当たり前で、むしろ寛ぐとか安らぐとかそういうことを言葉の意味以上には知らなかった人。
もしかしたら過去の情人たちとも同じように過ごしたのかもしれないが、それでも今は、すでに起きているのかもしれないのに、そのまま幼子のような姿を見せてくれることも、シャルルが触れるのを許してくれることにもうれしくて笑みがこぼれる。
薄いカーテン越しに漏れる月の光を受けて浮かび上がる、プラチナブロンドよりも青みを帯びた、アッシュブロンド。
アルビノのように完全に色素が抜け落ちているわけではなく、けれどブロンドと言えるほどの色味を残しているわけでもない、とても微妙で希少な色だ。
ふわふわと細くやわらかいシャルルの猫っ毛よりわずかにコシがあり、手櫛で整えられるほどにはわずかにクセのある髪。
明るい昼間はそれほど目立たないけれど、夜の闇の中ではまるで月の光をそのまま戴いたかのように見える。
日照時間の極端に少ない北欧ですら、これほどきれいな銀灰色の髪を持つ者は滅多にいないだろう。

そしてもうひとつ、シャルルが見飽きない蒼が、凍てついた海の奥深い濃藍の瞳だ。
暖かみの全くない、凍てついた氷に閉ざされた土地にある海を思わせるが、それでもシャルルはこの色が好きだった。
今は閉じられて見られないその色を、
「冬の夜の色だよね」
いつか、そう表現したことがあった。
同じ場所から見る海も、季節によって違った表情になる。
穏やかにまろみを帯びた春、開放的に澄んだ夏、憂いを纏ったさびしげな秋、そして何ものをも寄せ付けない厳寒の冬。
北へ行くほど冬の季節は長くなり、年中融けることのない氷に覆われた所の、他者を拒む荒波、己自身を傷付けることさえ厭わないというように黒々とした断崖に砕け散る飛沫が唯一の『動』となる。
白銀色に輝くその向こうにあるのは、吸い込まれそうなほどに深い闇の蒼。
どこまでも終わりなく続く深淵の闇の海を閉じ込めた瞳と、漆黒の中に幽く光る星々を反射し青みを帯びて浮かび上がる雪のような髪。
それがシャルルの中にあるディーン・リーガルの色だった。

「あったかいのにね」
ディーンの髪を梳きながら、シャルルはふふっと笑った。
体温はもちろん赤い血すら持たぬ死神のように言われていることは、その仕事柄当たり前のことで、むしろそうでなくてはいけない存在ではある。
生い立ちを知り、『人』ではなく『殺人鬼』として育てられた過去を思えば、悋気や独占欲を隠さずに見せてくれることがどれほど希有なことかも分かってしまう。
だから、シャルルはディーンを拒めないのだ。
鍛え抜かれたディーンの体力は底がない。
どれほど情事にハマっていても、常にディーンの意識は外に向けられている。
それでも、だからこそ、意識を根こそぎ奪われ動けなくなるほどまでに愛されるというのは、シャルルがそんな状態になってしまっても護ってくれるという証。
普段は血行がいいのか子ども体温なのか手足の末端までもあたたかいシャルルだし、比してディーンの指先はその印象通りいつでもひんやりとしていた。
なのに、シャルルを求めてくれる手は熱くて、触れられるだけで全身が性感帯になっているように反応してしまう。
「ねえ、今あなたが欲しいって言ったら、呆れられちゃうかなあ」
さんざん啼かされて、イかされたあとで、気死するように眠りについて。
身体は休息を求めているのに、抱き締められながら指先で髪に触れるだけで、心が欲しがってしまう。


シャルル自身、さみしがりであることに自覚はあった。
物心がついてすぐに両親が亡くなり、兄弟のように育った叔父も滅多に会えない場所へと去った。
その時から母親代わりだった人も数年でいなくなり、父親代わりの人は年中忙しくてほとんど家にいなかった。
大切にされ、愛されていると分かっていても、それでひとりで過ごす時間の寂しさが薄れるワケではない。
ディーンも、仕事のために何日もシャルルをひとりにすることはあるのに、そうと分かっていてなお、全てを捨ててでも一緒に居たかったのだ。
とはいえ身体はとても気持ちに素直で、ディーンが不在になると途端に全てがどうでもよくなってしまう。
「また痩せたな」
仕事から戻って来たディーンが確認するようにシャルルを抱き、漏らす一言。
その言葉を聞いてシャルルが申し訳なくなるのは、一緒にいると自分で選んでおきながら、未だひとりでいることに慣れられないこと。
幼い頃の記憶の中で両親はいつも一緒に居たし、フランがいた頃は忙しい時には職場である劇団に一緒に連れられていたから、食事というものは、家族や友人と一緒に楽しむものだとインプリンティングされていて。
もともと、家族からは惜しみない愛情をもらっていたし、義母を敬愛してやまない人たちもシャルルをかわいがってくれていたから、それが当たり前になっていたのだ。
刑事だった頃でさえ、張り込みの時でも誰か彼かはそばにいて、手元にあるのが粗末なコンビニのサンドウィッチであっても美味しく思えたのに。

だから、ディーンが『仕事』に行く時には、シャルルはホテル内はもちろん、歩いて行ける範囲にあるカフェやベーカリーなどを攻略するのを目的にする。
依頼に期限があるのならともかく、遂行するタイミングを待つのに数日から数週間かかることは当たり前で。
予め長くかかりそうだと分かる時には、ディーンはなるべく都心にあるホテルや賑やかな町のコテージを用意して、シャルルが退屈しないように取り計らってくれる。
何より、『殺し屋』の情人としてそういう世界に住まうものたちに認識されつつある今後、ディーンが不在の時を狙ってシャルルに危害を加えようとする輩も増えることは明らかで、ディーンの『仕事』の内容は訊かないことが不文律のようになってはいるが、だからこそシャルルはディーンが安心して『仕事』が出来るように最低限として体力を温存し、我が身だけでも守らなくてはいけない。
全てを捨ててもディーンと一緒にいることを選んだというのはそういうことなのだと、ちゃんとシャルルも理解はしている。
でも結局、ひとりでの食事は味気なくて、普段は3食おやつ付きなのが、量が減り、回数が減り、なんとか義務感から固形物を口にするよう頑張れるのは、1週間か10日。
2週間もすると、ただただ窓に寄り添って眼下の通りにディーンの姿が現れるのをじっと見つめるだけになってしまう。
他の誰かを愛してシャルルのことを忘れてしまうのではないか、ディーンほどの腕を持つ者は他にはいないと信じてはいるけれどもしかしたらもう二度と会えないような状態になっているのではないか。
大切な家族との死別を他人から知らされる恐怖はおそらくはトラウマになっているのだろうし、義父エドでさえ職業柄何度も、『もう死体になっているかもしれない』という状況に陥ったことがある。
そしてディーンは、誰よりもその危険を常にその身に纏っている人だから、シャルルは、『ひとりで待つ不安』に慣れることがないのかもしれない。
だから、いつ戻るという確約のないディーンの不在時は、食欲はもちろん、眠ることさえも出来なくなってしまうのだ。
もともと知識は豊富だし語学も得意ではあるけれど実技はからっきしな上に体力も自信を持って『ない』と言えるほどだから、殺し屋である彼と一緒にいることが彼の負担になっていることは否定出来ない事実である。
それでもいいと、一緒に居てくれさえすればいいのだと抱き締めキスの雨を降らせてくれるけれど、『仕事』に行くディーンの手伝いになれないことはおろかむしろ足手まといになりそうで、待つことしか出来ないくせにちゃんと待つことすら出来なくて、それがさらにシャルルを落ち込ませてしまう。
そうなるともう悪循環で。

いつもは周りの人が体型と比べてびっくりするほどに食べるシャルルだが、フランもなくなり、エドが忙しくて家にいない時などは顕著に食欲が落ちた。
ディーンと駆け落ち同然に家を出、しばらくは一緒に過ごしていたから忘れていたけれど、少しずつ仕事を受けてひとりになる期間が長くなるにつれ、それはまた現れはじめて。
食欲が落ちたとは思っていてもひとりでいる時にはよくあったことで、あたたかいスープや甘い飲み物などは口にしていたし、シャルルに自覚はなかったのだ。
ディーンが帰って来て、いつも通りに無事を確かめるために愛を交わし、身体が満たされたところで胃袋も…という時になり、オーダーしたルームサービスを口にした途端、シャルルは酷い嘔吐感に襲われた。
風邪をひいたとか熱があるとか、とにかくそんな普通の体調不良ではなく、それ以前に口にしたものも食あたりになるようなものではなかったはずで。
なんとか水分は摂れたが、それでもディーンが不在にしたと詫びだか土産だかに買ってきてくれた大好きなチョコレートでさえも身体が拒否反応を起こしたことに、シャルル自身が驚愕した。
ホテルに頼むよりはとファラに連絡を取って翌日来てもらい、診察というよりもカウンセリングを受けたシャルルに下されたのは、『摂食障害』という結果だった。
また自分の体調管理が出来ていないことでディーンに迷惑をかけてしまうということが怖くて、シャルルは涙を浮かべるが、こぼれる前にディーンの唇に吸い取られた。
ファラ曰く、『抱くだけが愛じゃない、ちゃんとシャルルの心を知ろうとしないディーンの所為だ』ということらしい。
ディーンを選ぶことで手放した全てのもの以上にディーンがシャルルの精神のメンテナンスをするのは当然の義務だとまで、頼りになる女医さんは言い放っていったのだ。

通常、身長はともかく、平均よりもかなり骨格が華奢で痩せ気味のシャルルだが、その体型からは想像出来ないほどによく食べる。
コース料理はもとより、ダイエットに苦しむ女性たちから呪われそうなほどに甘いものは際限がないのではないかというくらいうれしそうに平らげるから、栄養を吸収出来ないような病気にでも罹っているのかとディーンは心配したほどだ。
これまでディーンに近づくような人物に、心から食事を楽しむようなものはいなかった。
ディーン自身、裏のルートを使ってまでもコンタクトを寄越すクライアントはそれなりの報酬が用意出来る=ある程度以上の地位にあるもの、という前提の元、どんな相手でも軽く見られないようにとマナーは厳しく叩き込まれはしたが、口にするのはただ生き存えるために必要な栄養やカロリーを摂取するためであり、高級レストランを使用するのも味に拘るためではなく他の耳目から姿や会話を隠すためでしかなかった。
その時間を共有する相手も仕事がらみか欲の捌け口かの違いはあれど、コトが済めばもう容姿や名前さえも『処理済』の判とともに記憶の引き出しに放り込まれるだけの『過去』になる。
それが、TEEで初めて出逢い、共に車両のレストランでテーブルを共にして以来、食事は楽しいものと、がらりと認識が変えられてしまった。
とはいえそれは、数ヶ月を置きつつも偶然に出会うシャルルとのものに限られていたから、ディーンとしてはかなり早くからシャルルと過ごす時間が貴重なものであるという自覚はあったし、シャルルの食欲が気持ちのバロメータであることも分かっていた。
だからこそ、誇りに思う家族や仕事はもちろん何もかもを手放してまでついてきてくれたシャルルに対し、命以外に捨てるものがない己が出来ることはシャルルの幸せ、特に美味しいものを食べさせることは絶対に守ることだと肝に命じていたのだ。
そのためならば、特に養父エドとの確執は怖いものなしのディーンですら閉口するほどだったが、それがシャルルに起因するものであれば、妥協はしないまでもある程度は甘んじて受け入れる余裕はあった。

が、それ以前の問題なのだと気付いたのは、いつだったか。
シャルルを攫うように連れ出し、シャルル自身覚悟の上で職場に出す辞表も用意してはいたが、ディーンが身を置く世界は全てが隠蔽される闇であり、実体のない存在である。
愛され必要とされることと同時に、いつそれがなくなってしまうのか、最初から『情』というものを教えられなかったディーンには到底理解出来ない感情ではあるが、その『情』を頼りにさびしさをも我慢してきたシャルルにとっては、己が選んだディーンとの関係とはいえ、『待つ』時間の辛さは到底余人には計り知れない意味を持つ。
そしてそれが、食欲、睡眠欲、その他生きていく上で必要なものですらをシャルルから奪ってしまうほどだとディーンに教えたのは、駆け落ちしてから何度目の仕事の時だったのか。
ディーン自身、本当にシャルルがそばにいてくれるのか不安だったこともあり、連れ出してからしばらくは仕事も請け負わずにいたから、気付くのが遅れてしまった。
それでも『アリョーシャ』はもちろん、ディーンを欲する輩はあとを絶たない。
これまでの報酬でそれなりに贅沢をしても充分に余裕があるほどの財産はあったが、依頼を断り続けることによる逆恨みがシャルルに向かう危険性も考慮し、少しずつ、なるべく短期間で済むようなものからディーンはまた受け始めた。
そのことはシャルルも分かっており、詳細は決して訊ねないものの、ディーンが出かけることを止めることもしなかった。
数日で済む仕事は、戻って来た時こそ不安と安堵とが混じる微妙な笑顔ではあったけれど、以前と変わりなく過ごせていた。
が、『ディーン・リーガル復帰』とでも噂になったのか、面倒な内容なものも増え始めてから、シャルルをひとりにする時間が長くなり、そのたびに体重を落とす身体を心配したのは当然のことだったのだろう。


「お望みなら、今すぐでも、何度でも叶えてやれるが?」
クク、と含むような笑いとともにディーンの顔がシャルルの方を向き、腰にまわされていた両腕がゆっくりと、不埒さを強調しながら動き始める。
「やっぱり、起きていたんだ」
シャルルの声には、微苦笑はあってもただ事実を確認するだけのもので、非難するような含みはない。
「お前に触れられて、俺が起きないとでも?」
ニヤリと笑いながら伸び上がるようにシャルルの上に移動するディーンに、
「…もしかして、別のところも起こしちゃった…?」
シャルルの太股に当たるものを感じ、今度こそ本当に苦笑する。
「俺はいつでも臨戦態勢だ」
なぜか得意げに聞こえるのは、『いつでも』に『仕事』はもちろんだが『シャルルに対しては』という意味の方に重きを置かれているからだろうか。
「…うん」
それが分かるから、シャルルも素直になれる。
ディーンとの行為の途中で意識をなくしてしまうことはしょっちゅうだ。
特にディーンが仕事を終えて戻って来たその時は必ずと言ってもいいほどで、それはいつ命を落とすか分からない世界に身を置いているふたりにとっては無事を確かめる意味でも激しくなってしまうから仕方がない。
しかも今回は、相手の動向が直前で変更されたのか、予め知らされていたものとかなり違っていたらしく、さらに都度、予定変更を余儀なくされ、傍目にはそうとは分からなくとも、シャルルと一緒にいる時からかなりのストレスを溜めていたようで。
だから、シャルルから離れてからですらほぼひと月に近いほど長くなってしまった今回の依頼を済ませたディーンに、待っていた部屋に入ってきた途端、おかえりと言う暇もなく抱きすくめられ、唇を塞がれて。
もちろんそれは待ち望んでいたものだから拒むことなんてあり得ないのだけれど、いつもは余裕で玩ぶように始まるそれがただただ性急に求められたことに驚き、理由を尋ねる暇さえなく翻弄された。
でもそれは、シャルルにとっても必要な儀式とも言うべきものなのだ。
どれほどディーンが凄腕であっても、万が一というものは常に背後霊のように付きまとう。
積極的に協力出来ない以上、シャルルとしてはせめて邪魔にならないように待ち、万が一の時には自力で逃げることしか出来ない。
それでも以前、逃げることは出来てもその直後に事故に遭って記憶をなくし、さらにはその後ひと月以上も昏睡状態に陥った過去があるから、ディーンにとっても待たせているシャルルの無事を確認する行為は必然であり。

ひとしきりお互いを貪り合い、相手がいることでしか得られない安息の眠りを堪能した後は、ディーンにとって『シャルルの体重を戻す計画』が始まる。
出来得る限り、シャルルが好きだと言ってくれる髪を触れられる範囲に居て、可能な限り、シャルルが好きだと言ってくれる瞳にはシャルルだけが映るようにする。
長い間使われた形跡がなくくすんだシンクを磨き上げ、胃に優しいものを作り、親鳥が雛に与えるように、そこにディーンがちゃんといるのだと分かってもらえるように、シャルルの口に運んでやる。
『ちょっと力を入れたらポッキリ折れそうで思い切り抱けない』とか『腰の骨が当たって俺が痛いんだ』とか、添える言葉に問題はあるのだけれども。
液体からゲル状のものになり、すり潰したものからやわらかくした固形物を受け付けられるようになって、自分から料理をしたいとキッチンに立てるほど快復するまでそれは続く。
それが単なる介護や看護でないことは、溢れるあまやかな雰囲気が証明しており、何度か様子を見に来たファラが覗き趣味を発揮せずに早々に退散したことでも明らかだ。
そして本人は気付いてはいないだろうが、シャルルとは違う意味で孤独だったディーン自身、そうやって誰かに必要とされることに喜びを感じていることも元心理学者はちゃんと知っていたのだ。

シャルルに、外に出られるほどに体力が戻ると、今度は部屋に青いものが増える。
まずは、花。
デルフィニウムやトルコキキョウ、アネモネ、ニゲラ、アガパンサスなど、とにかくその時期の花屋にある『青』を買ってくる。
さらに食べ物でも赤い肉よりも青みを帯びた銀色の魚が多くなるし、中身はともかくパッケージの色だったり、使い捨てのペーパーナプキンだったりと、それは驚くほど多岐にわたる。
そしてその全てが『期限のあるもの』『捨ててしまえるもの』ばかりで、花瓶や装飾品など一切ないことがディーンの臓腑を締め付ける。
それでも、ディーンが不在の時ならばさみしさを埋めるためと理解も出来るのだが、本人が居るようになってからというのが解せなくて、一度訊ねたことがあった。
『あなたがいないのにあなたの色を見ると余計にさみしくなるもの』
そんな答えを幸せそうな笑顔で言われてしまえば、太陽のような金色の髪と瞳を持つ華奢な青年の奥にある闇が己の瞳の色よりも冷たく深いことを改めて知らされたようで、それでも生業を辞めることも出来ずにひとりの時間を過ごさせてしまう罪深さにありもしないどこかがギリギリと痛むのに、結局出来ることはそばに居てやることしかなくて。
だから結局ディーンに出来るのは、最大限シャルルを愛し甘やかすことしかない。


『あなたに勝るものなんてないんだよ』
シャルルがくれるその言葉に返せるほど見合うものなどなくて、だからディーンは想いが少しでも伝わるようにとまた、細い肢体を抱き締めるのだった。

ウビン
音もなく降り続く雨が、視界を曇らせる。
思い出すのは、まだ、決められたレールから外れることは赦されないと思い込み、その場凌ぎの快楽を求めていた頃。
F4と言われつつも、それでも自分だけは彼らの知らない裏の世界と繋がっていて、そのおかげでの地位だということに膿んでいた。
国も、企業も、人でさえも、きれいなだけでは生き存えてはいけない。
闇があるからこそ、光が明るくあれるのだ。
そう頭では理解していても、心の中ではいつでもF4の名に値しないと自分を卑下し続けていた。
だから、全てを消してくれるような雨は、吐露出来ない自分の代わりに泣いてくれているようで、嫌いではなかった。

ジフ
己の存在を否定し、けれどどうすることも出来なかった幼い自分。
音もないほどに深い闇に包まれた夜に思い出すのは、両親を飲みこんでいった明るすぎる炎と、葬儀の場でも俯いたまま、そして全ての事実から逃げるように去っていった祖父の背中。
考えなしの悪戯から引き起こされた事故、その罰として肉親の全てを失った。
幼馴染みたちや姉のような存在であった彼女がその闇から少しだけ明るい世界を見せてはくれたけれど、どうしてもそこが自分の居場所だとは思えなかった。
けれど、だから、見つけた非常階段は鎧った分厚い殻を外せる唯一の場所だった。
非常事態にもならない限り、誰もいない、誰も来ない。
闇にも邪魔されず、降りそそぐ陽射しの中で眠ったりすることが、何よりも大切だった。

イジョン
息の詰まるような毎日の中で、そこだけが特別だった。
笑うことも、冗談を言うことも、何よりも自分が自分でいられるただひとつの空間で。
でもそれは、その人がいなければ、ただの空っぽの部屋になる。
何度も何度も、のどにかかったその名前を、夢の中で、記憶のすみで、数えきれないくらい呼ぼうとした。
でも出来なかったのはきっと、自分のことで精一杯だったあの頃は、そうしても何も変わらないと知っていたから。
そして今なら。
こんな自分には、きっと一度くらいでも振り返ってくれるかと期待さえ出来ないほどだと、ちゃんと分かってる。

ジュンピョ
拉致されるように離れたあの時は、家のことで忙しく、とにかく全てがそれで穏便になるのならと言われたままを受け入れて、結果、これ以上傷付けたくなくて、さらにひどい言葉を重ねた。
仕組まれた婚約者にも腹が立ったし、何よりもそれを断ることができない自分にも苛立っていた。
自分よりも相応しいやつがいる。
それがネックになって起きた、記憶喪失。
たとえ見知らぬ相手だとはいえ、いや、その時は全くの他人相手だったからこそ、取った自分の態度は赦されるはずもないほど酷い言動だったと分かる。
それでも、許すと言ってほしいと思うのは、ワガママなのだろうか。
もう一度振り返ってくれると、期待するのはダメなのだろうか。

ジャンディ
誰も悪くない。
きっと、それぞれがそれぞれなりに、そのとき出来る最善を尽くしてきたはずで、だから、後悔はしないでほしい。
おうちのことも、過去の自分も、大切なものも、自分の選択も。
だから、痛くても苦しくても、心から離れないで目を背けないで、ちゃんと向き合って。
その時があるから、今の自分があるのだと、受け止めて。
偽らず、素直になって、深呼吸をして、認めて。
本当の自分がどこにいるのか、ちゃんと感じて?

ジュンピョ
記憶を取り戻しても、以前のふたりには戻れず。
いや、そうじゃない。
誰のことを思っていたのか、その視線の先を追えば最初から明白だった。
それでも、いなくなった寂しさを自分が埋めてやれればとも思ったし、それが叶ったと浮かれた日々もあった。
けれど、やつがいなくても心はここになかったし、数えきれないほどの日々を一緒に過ごしても、自分だけを見てくれることはなかった。
悔しくて、苛立って、力任せに荒れることもあったけれど、何をしてもアイツの愛はやつのところに止まっていて。
泣いても喚いても、どうしたって手に入れることが出来ないと分かってしまえば、出来ることはただひとつしかない。

ジャンディ
来たくて来たんじゃない、それが唯一の矜持だった。
それでも、好きなことをしてもいいと言われたのはうれしかったし、そこから始まる未来を夢見たりもした。
その全てが作られたもので、わずかな自由さえもないのだと気付いたのは、すぐだった。
ここに来るまでは、決して裕福とは言えない暮らしだったけれど、家族みんなで力を合わせて頑張って幸せだった。
でも今は、家族とも離ればなれで、ただ寂しくて、物理的ではない痛みという意味を知らなかった今までの暮らしを、懐かしく思う。
付けられた傷を一生懸命涙で洗っても、傷口はぱっくりあいたまま、その周りは醜くアザができていて。
その痛みを和らげる術なんて知らず、ただ、膝を抱えて震えを堪えるしかなくて。

ジュンピョ
意のままにならないものなどなかった。
思い通りになり過ぎることにすら苛立って、荒れていた。
何が不満なのかさえも分からず、それを暴力という形で発散するしか方法を知らなくて。
そんな自分を変えてくれた、たったひとりの女。
自分のものにしたい、手放せない、そう思えた最初で、きっと最後の人。
許すとか、もう一度また振り返って自分を見てほしいとか、そんな勝手なことを言えた義理じゃないけれど。
ただ、自分では結局あげられなかった幸せを手に入れてほしいと願うのだ。

ウビン
恋愛感情などではないと、言い切れる。
家族とは違う、恋人とも言えない、けれど、とても大切な存在なのだ。
本来ならば知り合うことさえありえないはずで、けれど何の因果かいつの間にか自分たちと一緒にいることが当たり前になった。
し過ぎるほどの苦労をして、普通なら味わわなくてもいいはずの痛みを受け入れて、気丈にもいつでも胸を張って前を向いて。
その影でどれだけ泣いていたかを知ったのは、翳りなくきれいに笑うようになってから。
辛かったはずなのに俺たちから離れないでいてくれた、それがうれしかった。
幼馴染みたちとはまた違う、男女の関係でもない『仲間』としてまた一緒にいられることは、半ば以上、諦めていたから。

ジュンピョ
自分のすることに、何を言っているのかは分からなかったがいちいち丁寧に言い返してくるということは、自分に好意を持っているからだと信じていた。
なぜなら、かなり暴力的ではあるが、それでも自分のことを何よりも大切に思ってくれるねーちゃんと同じだったから。
何の感情もなければ、ババァのような冷徹な態度になるはずだ。
そして受け入れてもらえたと思った余韻に浸る間もなく、始まった嫌がらせ。
どれほど抗っても、結局はその手のひらの上でのことでしかなかったと気付いたのは、もうその笑顔が自分に向けられることがなくなってからだった。
そのとき初めて、そう、ようやく『別れ』という意味を知ったのだ。
記憶喪失が理由じゃない、でもそれが切欠で、もう戻れなくなってしまっていたのだ。

ジャンディ
はじめは、見た目に恋をして。
叶わないと分かっていたから、僭越だと分かっていたけれど背中を押した。
それから色々あって、一番苦手なやつと付き合うことになって、それでもいつでも、一番心の奥底にいたのはひとりだけ。
勢いに振り回されるように、いつの間にか決まっていたけれど。
初恋で、想いは叶わないのだとちゃんと自分の心に決別をした。
それでも、心は忘れた振りができたのに、涙はどこまでも素直で。
いつでも拭ってもらえると思うから、きっとだらしなくなっちゃったんであって、ひとりでも大丈夫だと、言い聞かせる。

イジョン
幼かった思いを、今さら蒸し返そうとは思わない。
たとえ、昇華されなかった思いを、家を捨てた兄が享受していたとしても、仕方がないと受け入れられる。
それはきっと、どれほど酷い態度をとっても、時に愛しげに、時に痛そうに、それでもいつでもそばにいてくれる人がいたから。
今でも、あの時の自分を許してほしいと、自分だけを見ていると言ってほしいと、思うことはある。
でも同時に、もうひとつの純粋な瞳が脳裏にくっきりとよみがえるから。
自分から壁を作り、突き放し、結果、きちんと自分の想いを伝える前にきっぱりとふられてしまったけれど。
それでも、何年後かに振り向いてもらえると、信じてるんだ。

ジャンディ
たくさんたくさんいろんなことがあって、楽しいことよりも辛くて痛かったことの方が多かった気もするけれど。
それでもこれからも、どこにいても、やっぱりここにまた、戻ってくるのだろうと思う。
もう一度、何度でも、迷って、悩んで、繰り返し、繰り返し。
きっと離れることなんて出来はしない。
ここが、自分の居場所だから。
あなたを感じられる、ここだけが生きてゆくところ。
だから、どうか…。

「つくしさま、でいらっしゃいますか」
突然声をかけて来た、いかにも武闘派ですという体躯を覆っているそのスーツがその辺で売ってるようなものではなく、有名ブランドかオーダーメイドのものだろうということは、F4を間近で見てそれなりに目の肥えたつくしにはすぐに分かった。
ついでに、あきらが伝授したように、特殊で物騒なものをそのスーツの下に隠してはいないだろうということも。
だが、なぜ『さま』付きで呼ばれなければいけないのかが分からない。
こんなことは、司と付き合っている時には当然のようにあったけれど、そこで名前を呼ばれるのはいつも司の方であり、つくしはむしろその存在さえも無視されていたような感じであったのだ。
だから、
「まきのさま、お待ち申し上げておりました」
そんなふうに、まるで三角定規か分度器できっちり測ったような角度で頭を下げられても、戸惑うことしか出来なかったのは仕方がないことだろう。



つくしが忽然と姿を消してから、そろそろ3ヶ月。
F4が高校を卒業し、司はNYへと行ったが他の3人はそのまま大学へとすすんだ。
その頃からつくしも卒業後のことを考えはじめ、さほど考える間もなく就職もしくは目指すにしても国立か夜間のみ、英徳の大学は高すぎてとんでもないと言いきったが、F4がそれを許すはずもなく、成績如何によっては返済不要の奨学金制度があると言葉巧みにつくしをその気にさせ、学費を類・総二郎・あきらの3人で負担することにした。
外部受験生の入試を受けさせ、その結果きちんと入学出来る成績だったために大学側も異論なく受け入れることになった。
当然、入学してからの学力はつくし次第となるが、高校入試で、振り落とすためとも言われている外部用入試試験をクリアした時点で、F4ほどではなくともそれなりに特別な教育を幼少の頃から受けている英徳の生徒たちに比肩するほどの成績であったことは証明されており、頑張るとか努力するとかそういう美徳に恵まれているつくしだから、あとはF3がからかいついでに勉強を見てやれば危なげなく上位を維持出来るだろう。
ただ、つくし本人にはもちろんだが、司にも学費の負担のことは言わなかったし、学校側にもたとえ道明寺であっても他言無用と念を押した。
言えば司のことだから全額負担も厭わないだろうが、ある意味単純で裏のない司がそれをつくしにバレないようにすることも難しいし、たとえ表面的には付き合いを黙認しているとはいえ、母である道明寺楓がいい顔をしないことは分かりきっていたからだ。

そしてつくしが大学に入って半年ほど経った、夏休み明けの試験が終わって学生たちにほっとした雰囲気が流れる頃に、ふたりは決別した。
原因はやはり、距離だろう。
1万キロの距離は半日ほどの時差を作り、生活時間帯を正反対に変えてしまう。
つくしは学校・バイト・睡眠の間は『待機電力だってバカにならない』と、通話やメールの確認をする時間がある時にしか携帯電話の電源を入れないし、それもその存在すら思い出さずに充電し忘れていたりすることさえもしょっちゅうで、だからとにかく朝起きた時とバイトが終わった時の最低2回、出来れば寝る前にもう1回くらいは着信をチェックしてくれと類が頼み込んだほどだ。
それならばとりあえず起床から登校するまでとバイトから夜就寝するまでの数時間はなんとか連絡可能な状態になるからで。
それ以外はと総二郎が問うた時には『牧野の取ってる授業とバイトのスケジュールは知ってるから』などと類はしらっと答えたものだが。
また、司はと言えば文字通り、不眠不休で仕事に打ち込んでいた。
NYへ行ってすぐの頃は、わずかな休息時間を見つけてはつくしに連絡をしようとしていたが、そもそもつくしが同じ地域に住んでいるものでさえ捕まえられないような状態であるから、更に時差もある場所からなどまともに繋がることなどほぼ皆無、さらに司自身がNY以外のところへも頻繁に行くようになり、その場所によって自分と相手の通信可能な時間を計算するのが面倒になったことも一因だろうが、それだけの問題ではなくなっていた。
はじめこそ留守電サービスにメッセージを残したものの、おそらく司がいつ話せる状態なのか分からないつくしとしては邪魔をしてはいけないと思っているのだろう、折り返し連絡が来ることはなく。
仕事はきついが、反面司は自分に歯向かってくるものには良くも悪くも興味を抱いて負かしてやろうという気になるようで、思うようにいかない業績がその対象となった時、楓ですら驚くほどののめり込み方をしたのだ。
つくしと会えず、会話もなく、連絡すらもしなくなれば、実際に広がる陸海よりも心の距離の方が離れてしまうことは仕方のないことだった。
だから、夏休みも与えられた課題やレポート、そして学費はともかく生活費は稼がなくてはいけないからと相変わらずバイトを詰め込んでいたつくしは、司がどれほどNYへ会いに来いと言っても断り続け、結局は司が『もういい、勝手にしろ』と放棄した。
F3からすれば、短気な司がそれでも我慢した方だとは思うし、司はこの時はまだ恋人である関係まで手放したつもりはなかったらしいが、つくしはそれを別れの言葉として受け取ってしまったのだ。
その時には『分かった、勝手にする』との一言だけで、だが後日、日本の道明寺邸にいたタマに司から預かっていた携帯電話とプレゼントしてもらったネックレスを返してくれと渡し、タマはなんとか引き止めようとしたがつくしは『終わったことですから』と言い切り、それでもタマと、そして司にも『こんな結果になったけど、楽しかったしいい経験もさせてもらった。忙しいだろうけど身体を壊さないように気をつけてね』とありがとうの言葉を託したという。
それをタマから受け取ってはじめて司は取り返しのつかない言葉を吐いてしまったのだと気付いたが、結局その後も日本に会いに来る時間はおろか、つくしと話せるだろう時間帯に連絡を入れることすらままならず、修復は不可能となってしまったのだ。
その裏には、必要以上に司を激務に追い込んだ楓の陰謀もあるのではないかとF3などは疑っていたが、それでも仕事にやり甲斐を感じてしまった司自身の所為だろう。

その後も変わりのない日々が続いていたが、空気に冷たさが混じりはじめた頃に突然、つくしがいなくなった。
携帯が繋がらないのはいつものこと、同じ大学のキャンパス内でも取る講義が違えばそうそう会えるものではないし、司同様、類とあきらも大学に入ると同時に事業に少しずつ参加するようになっていたし、総二郎も家元代理の仕事を始めていたから、毎日登校していたわけでもなく。
ただし、類だけはちゃんとつくしが携帯の電源を入れてくれるよう約束して以来、朝はともかく、夜は寝る前にメッセージを入れていた。
律儀なつくしは、気付いた時にちゃんと返事をくれるが、間に合えば夜だし、朝起きてから気付いてくれる時には類がまだベッドの上で安眠を貪っていたりするので微妙にやりとりがズレることもある。
それでも最低1日1回、どちらかからはメールの送受信があるはずなのに、最後に類が送って以来、返信もなくすでに2日経っていた。
大学でも見つけた非常階段は変わらずふたりのくつろぎの場となっているのに、そこにもつくしは姿を現さず、休講になったとか臨時のバイトが入ったとかなども聞いていない。
「牧野は?」
念のため相変わらずF4専用スペースで寛いでいた総二郎とあきらに訊ねてみても、
「類が知らねえのに俺らが分かるわけねえだろ」
と返ってくる始末。
司との関係がとりあえず終わっている今、道明寺の介入はないはずで。
ならば少々遅くなる時間であっても確実に会えるだろうと訪ねたつくしのアパートを見て、類は不安が現実になったことを知ったのである。

漁村から戻り家族で暮らしていたアパートは、類たちからすれば自分たちの部屋ひとつよりも狭いほどで、そこで大人4人が暮らしているとは信じられないほどだった。
最近は弟の進もつくしの背を追い越し、しっかりとした男性の体格になってきていたし、両親とも貧乏暮らしを強いられているはずだが、実際に抱き締めたことのある類は知っているが、手を腰に当てて仁王立ちするイメージからは想像出来ないほどに華奢なつくしからは考えられないような、ふくよかな体型をしている。
だから、類としてもはじめは自分の部屋よりも狭い空間につくし以外はそれなりの体積のある家族4人が暮らしているなど信じられなかったが、それでもまあ、都合をつけてはふらりと寄っていたせいでいつの間にかその空間にも馴染み、小さな卓袱台の周りでお互いの膝が当たるほどにくっついて座り、それぞれの背中はタンスや壁などに擦るほどではあったけれど、その近さが家族の団らんというものを知らない類にあたたかさを与えてくれるようで気に入っていたのだ。
けれど、今目の前の空間は潔いほどに空っぽで、馴染んだ風景は何もない。
だが、襖に残る、なんだか変な動物の形に似た染みだけが唯一、ここが類の記憶にある部屋だと教えてくれていた。