あのね、それでね、と休みなく動く唇を見つめていたら、話が終わったわけでもないのにそれがふと止まった。
「花沢類」
呼ばれて、視線を呼んだ声の主のそれに合わせるようにあげれば、なんだか困ったような、不審そうな色をのせている。
「…聞いてる?」
おそらく訊きたいことはそれではないだろうに。
「聞いてる」
だから、そう答えるついでに〜だったんでしょ、でどうしたの?とちゃんと聞いていたことを証明して続きを促してやれば、閉じていた唇にさらにきゅっと力が込められた。
「じゃあ…」
往生際悪くなおも言葉を濁しながら、それでもやっぱり気になっていたらしく、分かっているのに俺がわざと対牧野にのみ通用する無垢を装った視線を向けてやれば、案の定、砦は陥落する。
「何、っていうか、何処、見てたの?」
さすが牧野、直球だ。
じゃあこちらも、直球を返すだけ。
「あんたの唇」
「…へ?」
ほんの僅か、多分、10秒にも満たないくらいの空白のあと、眉間に皺を寄せながら発せられた音がそれだった。
「牧野の唇って、形がいいよね。動くの見てるの、飽きないもん」
飽きないんじゃなくて食べたくなるってのが本音だけど、実行するのはまたあとで。
さすがに彼女お気に入りのカフェでそれをしたら、金輪際誘ってもらえないどころかしばらくは音信不通も覚悟しなくちゃいけなくなるだろうから、それは勘弁願いたい。
「そそそそそそんなことっははははははなざわるいにいいいいいいわれるとっ」
りんご?トマト?いや牧野はいちごが好きだったんだっけ?
頬だけではなく、首筋まできれいに朱を佩いて、やっぱり美味しそうで食べたくなるんだけど。
「俺に言われると、んー、迷惑?」
絶対にありえないだろう回答を、それでも牧野が弱いと分かっているわずかに切なさを含んだ視線と表情でわざと訊く。
「そそそそそそう、じゃっ…な、ないっ、ないんだ、けどっ」
真っ赤になって、焦りまくって、なのに俺を責めるのではなく、むしろ申し訳なさそうにするのが、どうしようもなくかわいい。
だからいつも、つい、からかってしまうんだよなあ。
うん、牧野が困るのは、俺をそうさせる牧野自身の所為、自業自得だよね。
「…嫌味にしか聞こえない」
ぶすくれたお姫様は、俺に背中を向けたまま。
あきらや総二郎がいうには、女の子は『かわいい』とか『きれいだ』とかいう言葉に弱いらしいのだけれど、むしろ牧野には『完璧すぎるあんたたちに言われても信じられない』と不評だ。
本当にちゃんと本心からそう思ってるんだけどな。
唇だけじゃなくって、黒目がちですぐに潤んで揺れる瞳とか、控えめサイズだけど形のいい鼻とか、すぐに赤くなるすべらかな頬とか、すりすりしたくなる額もぱくっと噛みたくなる耳も舐めつくしたい首筋も…うん。
いつからか花の四人組と呼ばれるようになった、俺を含めた幼馴染みの4人。
物心ついた時から静や椿ねーちゃんというハイスペックな女性が身近にいて、どんな遺伝子のいたずらか、それぞれに特徴はありつつも老若男女問わずから褒め讃えられるような容姿を生まれ持ち、ありがた迷惑なことに家柄もよく、ついでに頭の中身も身体能力も平均以上だったようで叩き込まれた帝王学やら護身術やらのおかげで、向かうところ敵なしだった。
ナルシストではないけれど自分たちだってかなりの高レベルだという自覚もある俺たちだから、美醜に関してはその基準はかなり厳しいという自覚はある。
その俺たちをして、美女を侍らせることに関しては誰にも引けを取らない総二郎やあきらに『磨けば光る』と言わしめ、どこまでも俺様な司を初心な少年に変え、静ですらどうでもよくなるほど俺を夢中にさせているというのに。
ほんの少し、言葉の使い方を間違えてしまったようで、帰りの車の中でもドアにぴったりとくっつくように座り、こちらには背中を向けたままでいる牧野。
窓ガラスに映る顔はさみしそうで、だから今すぐにでも抱き締めたいのだけれど、いや、抱き締めてキスをしてくにゃくにゃになるほど愛したいのだけれど。
ちゃんと、俺が言うことに嘘はないって、いい加減信じてもらいたいから。
「牧野」
「…なに」
微妙な間はあったけれど、それでも呼びかけに返事をしてくれたことでうれしくなる俺って、本当に牧野バカだよね。
アパートまで送って、自然に部屋の前まで送り届けて、いつも通りに一緒に中に入って。
はじめの頃は運転手さんに申し訳ないからって、わざわざ蓋付きの紙コップを買ってコーヒーを差し入れていた牧野。
花沢に雇われてからどれくらいになるのか知らないけど、その時の驚きようを見たら、それが初めてだってのがまる分かりでうっかり爆笑しちゃったよ。
今は、俺がドアのところで引き返して車に戻らなければそのままお泊まりコースだろうと、慣れたものでさっさと帰ってくれるほどになった。
一介の使用人である運転手でさえ、そこまで分かってくれているというのに、なんで本人はこんなにも鈍感なんだろうね?
「何が、ダメ?」
だから、端的に聞いたのに、あ、眉間にシワがよってる。
自覚はないけど、いつもあいつらに『言葉が足りない、単語で話すな!』って言われるから、もうちょっと修飾語を足さないといけないかな。
「俺がかわいいとか言うと、牧野、いつも怒るよね。言っちゃ、ダメなの?」
ミニチュアテーブル、卓袱台っていう名前なんだって牧野に教えてもらったものをはさんで、真面目に訊く。
座る前に用意してくれたマグカップの紅茶は、牧野がよく行くスーパーで買う安いティーバッグのもので香りなんてないのだけれど、牧野が作ってくれたというだけでその湯気でさえも優しく思えるんだってこと、きっと分かってくれないよね。
「…だって」
お揃いであることを喜んでることすら知らないだろう牧野は、マグカップを両手でぎゅっと握って、小さく言った。
「花沢類は、王子様だもん」
…ごめん、牧野。
文章読解力はかなりあると自負しているし、先を読んだり予想することは得意だし、牧野のことなら何でも分かるって自信もあるけど、今の会話の流れからその答えが出てくるとは思ってなかったよ。
自分でもびっくりするくらい、牧野の生活に違和感なく溶け込んでいる自覚はある。
以前、司が約束だからと牧野が用意した鍋料理を食べに来たらしいけれど、やっぱり最後まで合成映画みたいな違和感があったって泣き笑いのような表情で牧野が言っていた。
俺はその点、パパさんたちがいた時からけっこう頻繁に訪ねて来ていたし、もともとラフな服装が好きだったこともあって、不必要な威圧感とか金持ちがどうというような印象は与えてないはずだったんだけど。
しかも『王子様』って、なんで?
それがなんで、不機嫌な原因になるの?
「ピンチの時の花沢類」
いい加減待ちくたびれてしびれを切らした俺が問い質そうと息を吸い込んだ、そのタイミングでお姫様はそうのたまった。
「いつだって、どうしようもないってくらい大変な時にはなぜか、花沢類が助けてくれたでしょ」
司が始めた赤札はもちろん、確かに司の母親の嫌がらせを受けた時も、そして司自身から突き放された時も、確かにそばにはいたけれど、助けた自覚はない。
「うれしかったし、ありがたかったし、だから頑張れたけど」
女の子の夢の王道として、大変な時に、颯爽と白馬に乗ったかっこいい王子様が宝塚もかくやという衣装で蹄の音も高らかに現れお姫様を救うというのは、ありえないからこその夢であるそうで。
「だから、花沢類も、私にとっては夢なの。夢みたいなほど完璧な人に褒められても、信じられない」
乗馬は趣味程度でなら出来るし、衣装だってあきらほどではなくともまあ着こなせると思うけど。
「俺、夢なの?」
そんなの、ヤだよ。
ちゃんと牧野のいる現実にいさせてよ。
あ、逆でもいいか。
「じゃ、牧野も俺の夢の中においで?」
いつもバイトで忙しくて、誰よりも超現実をひた走ってる牧野だし、むしろ夢の中を彷徨う俺を元気いっぱい邪魔してくれたりもするけれど。
ふたりでゴロゴロしてる時は本当に幸せだなあって思ってるのに。
「無理!」
ってそんなきっぱりはっきり即答しないでよ。
「花沢類みたいにきれいじゃないし、スタイルもよくないし、かわいくないし、貧乏だし…」
「かわいいよ」
「だからッ」
何だろう、ちっちゃいのに一生懸命きゃんきゃん吠えてるわんこ?
「やっぱ、かわいい」
だからうっかりさわりたくなっちゃうんじゃん。
ギュウギュウに抱き締めて、髪に頬ずりして、なんだかいろいろ騒いでジタバタしているからキスでおとなしくさせて。
「かわいいって見た目はもちろんだけど、それだけじゃないでしょ」
性格とか考え方とかちょっとした仕草とか。
牧野バカな俺にとっては、牧野のことならどんなに些細なことでもかわいいと思えちゃうんだからね。
いや、かわいいっていうより、美味しそう?
英徳じゃ、女性とは化粧しているのが当たり前なくらいだから、きっとすっぴんの牧野はそれと比べて否定するんだろうけど、それ、間違ってるからね?
全員同じラウンドに立たせたら、すっぴんでも化粧をしてても、絶対に牧野がぴか一なんだから!
何より化粧をしないから肌はすべすべモチモチでずーっと触っていたいくらいだし、パーマやカラーリングとは無縁の髪は艶サラだし、家族のためにいつも頑張ってる手指はちょっと荒れてたりもするけれど、それですら牧野の勲章のように思えるんだよ?
スタイルは…まあちょっと痩せぎす感が強いけど、頭も骨の中もスカスカな女たちが必死にダイエットしてるみたいに不健康なわけじゃなく、食べてる分以上に心身忙しくしてるから太れないんだろうから仕方ないけど。
きっとお姫様みたいなドレスを来て、仁王立ちしてる牧野だって、閉じ込めて誰にも見せたくないくらいかわいいよ?
腕の中から上目遣いで睨まれて、なんだかそれがおねだりしているように見えるのは錯覚じゃないはず。
そしてなんとなくまだちょっと不満そうに尖らせてる唇がアヒルになっててやっぱりかわいくて、ここはカフェじゃなく牧野の部屋で他に誰もいないから、だから遠慮なく食べに行く。
かわいい上に美味しい牧野が悪いんだからね。
だからさ、いい加減俺の気持ち理解してよ。
悪いけど、俺は夢の中に住んでる王子じゃなくて、あいつらに言わせるとむしろ悪魔なんだってさ。
俺が本気になれば、司は怯えるし、総二郎は遁走、あきらでさえ諸手を上げて我関せずを表明するんだよ?
だから牧野、そろそろ降参して、俺のところにおいで?
ごちそうさまなんて不要な、食べ放題な幸せを満喫しよ?