ドラマ『カルテット』のカルテット(弦楽四重奏団)Doughnuts Holeさんのお歌『おとなの掟』とのコラボレーションです。
幼い頃から、ずっと真っ黒な中で生きていた。
厳しい両親は兄弟のいない自分に過剰なまでの期待を押し付け、すべてを雁字搦めに縛り付け、浮かび上がる吐息一つ消える暇さえも与えてはくれず。
決められ与えられたことのみが正しい道であり己のあるべき姿なのだと、それ以外のものがあるということさえ知らずにいた。
幼馴染みも姉のような存在も、ひとりきりの孤独からは救ってくれたけれど、それでも冷たい闇夜は永遠に続き、己が何をしたいのかさえ分からぬまま抱いた願いを飲み込んで匿うように変わらずずっとそこにあり続けた。
だから。
どれほど寒い冬でも、ひとりきりでいられる非常階段は居心地がよかった。
子への期待を諦め関係すらも放棄した両親に代わって付けられた教育係や、見てくれや家柄にすり寄ってくる他人たち。
暗闇に明かりを灯してくれた友だちや姉のような人もいるけれど、それでも己の心に温度がないのは変わらないまま。
幼稚舎から初等部・中等部・高等部…場所は変われど唯一深呼吸が出来る場所が、非常階段だった。
誰の心も非常事態などではなく、だからこの場所へは誰も来るはずなどない。
吐き出す真っ白な息が、それでもまだ己の心が凍りついていないことを証明してくれるかのようにも見えて。
いま、もっとも無垢な本音は、何なのかさえ分からない。
悴んだ声では、なにが歌えるのだろう?
例えば他の誰もが言うように、たとえそれが嘘でも本当でも、好きとか嫌いとか欲しいとか、己にもあるのだろうか。
ただそう思っていれば皆と同じで、孤独感なんてないと気持ちがいいだけの台詞なのではないのか。
ああでも確かに、己のことでさえも嫌いと言えるのならば。
形さえあるかどうかも不明な自分の存在に白黒付けるには相応しい、滅びの呪文なのかもしれない。
でも。
最近持て余しているこの気持ちは、何なのだろう。
突然非常階段にやってきて、何か大声で叫んで、すっきりしたようにあっという間に戻っていった、女の子。
呆気にとられる、とか、びっくりする、とか、己にそんな感情があると初めて知ったのがその数秒後。
そして、声をだして笑うことが出来ると教えてもらったのが、数分後。
ゴミだらけになって追いかけられていたり、数人の男子生徒に襲われそうになっていたり、とにかくいつも忙しそうで、気になった。
気に、なった…?
まだ、何も知らない真っ新な子供時代、与えられていた教科書を暗記していれば、どんな問題を出されても正解不正解のどちらかを選べると思っていたし、それは全くの事実だった。
言われたことをそのままこなす、ただそれだけを間違いなく出来ていれば静寂の中に過ごすことが出来ていた。
けれどそれはト書き通りに生きているだけで、指示がなければ何も自分からは動くことができないのと同じ。
だから、その女の子にどうすればいいのか分からない。
アドリブには慣れていないくせに、云いたいことは溢れ出し、己の中に現れた誰かが姦しくて仕方がない。
ただ、やっぱりそれはその子の前だけで、他の誰がいてもいなくても同じ凍てついた世界のままなのだけれど。
そして。
他の人が言うような好きだと思われる感情を向けていた人が、ただの憧れだとようやく理解かって。
けれどその時にはもう手遅れで。
もっと早く気付いていたら、この腕の中にいてくれたのだろうか。
彼女に伸ばせるはずだったこの両手を雁字搦めに塞いでいた知識を手放してみたら、どれほど軽いと感じられるのだろうか。
もうずっと選択の余地があると知ることなく過ごしてきた長い長い時間に、どれほどのものを取りこぼしてきたのだろうか。
与えられるものだけが全てではないともっと早く気付けていたのなら、いまあるこの瞬間は違うものになっていたのだろうか。
言葉という鎧も呪いも一切合切、生まれた場所も時間も有りっ丈を脱いで剥いでもう一度あの時に戻れたら、そして好きとか嫌いとか欲しいとか口走ってみたのなら、どうなっていたのか。
そんなことを想像する自分が滑稽で、白黒付けることはどれほど恐ろしいことなのかと、ようやく腑に落ちて。
たったひとりに対してだけは飾らない自分でありたいと、本当の自分を知ってもらいたいと切実に生きたいと思えばこその、深淵が足元で口をひらく。
それから。
寄り添い、抱き締め、涙を拭い。
過剰なまでに身につけていた狡猾さで、遠く離れた恋人を思う彼女のさみしさにつけ込み、未熟だけれどあげられる限りの優しさとあたたかさで包み込んで、その笑顔が己に向くように仕向けた。
人生は長いから、好きな相手と結ばれないことも、他の人を好きになることも、あるのが当たり前だと。
世界は広いから、どれほどの強い感情でも、その隔てられた距離を排してまで続けることは難しいのだと。
無情な世の中は、だから、己の力で変えることも可能なのだと、教えてくれたのは彼女だから。
ただ知らなかっただけで、試してみれば呆気なくも手に出来た自由は、白黒以外にも選べるものがあり、そのグレーという曖昧な範囲はしかも濃淡さえをも変えられるものだった。
未来を望んだ人と別れて不幸になった彼女を腕の中に入れて己は幸福になって、それでもその場所が彼女にとっての新しい幸福だと笑ってくれるから、これまでないと思っていたはずの感情のいろいろあれこれが一気に溢れ出して慌ただしい胸の裡だけが煩いほどに騒ぐ。
それはどうやら、これまたないと思われていた表情からも少しずつこぼれるようになっているらしいけれど、彼女専用だから構わないことにして。
いまは。
己の取った手段を倣って同じように彼女を攫いに誰かが来たりしないよう、おとなになった俺はその方法を永遠に秘密にして彼女を守るのだ。