01. 頑張るのは何の為?
天の門の向こうは、未来という名の世界だという。
今ある自分が死に、その後何百年も経たあとの時間など到底信じられることではなかったが、それでもその医術は確かに常識の枠を超えていた。
気が強く、相手がどれほどの身分であろうとも視線をそらさず真っ直ぐに見据える。
その大きな瞳は自分たちよりも少し色が薄くて、まるで玻璃のように澄んでいた。
治療中の鮮血は平気なくせに、敵相手のわずかな切り傷からの小さな流血にでさえ自分が痛いかのように顔を歪める。
もとのところに戻りたい、こんな世界はいやだと流す涙さえ、零れ落ちてしまうのが惜しくなるほどに透明で。
無理矢理課せられたものを持ち前の強気で突っぱねればいいのに、それでも頑張るのは何の為?
勾引すように連れて来たのは、自分。
必ずもとの世界に返すからと、保証などありもしない約束で身柄も時間も拘束して。
じっと見つめられ、目を逸らしたのは多分、後ろめたさという名の、希望。
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02. やり遂げた君の表情に
あの時、諦めていなかった人数はいかほどだったのか。
王妃は首の側部を切られ、殺めることを知る武人であればこそ、そこが致命傷であると分かってしまっていた。
それでも万が一の可能性があるのならばと、己の生命を懸けて天の門をくぐり、見つけたその人。
面倒な邪魔者を蹴散らすのは問題ない、ただ、彼女が一緒に来てくれることを了承してくれればよかった。
けれど自分は口下手で言葉知らずで。
さらに時間に制限もあったからとはいえ、無理矢理連れ去るようなことになって。
天の門をくぐってから戻ってくるまでに、どれくらいの時間の経過があったのかはわからない。
けれど、まだ王妃の命は尽きておらず、かなり衰弱していたから快復に時間がかかるとは言われたが、助かったというその事実だけが必要だった。
ただただ王妃のことだけに皆が心患っていたその時、それまでずっと泣き叫んでいたその人の違う表情があった。
ひとつの命を救った、それをやり遂げた君の表情に、魅入られたものが自分の他にいないことを、なぜか祈った。
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03. 見守る立場からもう一歩
あれがない、これが足りない、この世界に来たころはそんなふうに当たり散らしていた。
けれど侍医とともにいることでこの世界でのやり方を覚え、今現在の状況の中で出来る限りの彼女の医術を加える。
この香草知ってる、育てたこともあるのよ、そんな言葉を耳にするたびに、彼女はいつも自分の世界に戻ってからのことを考えているのだと知らされるのだ。
帰らせてやりたいと思う気持ちに偽りはない。
こちらの都合で望まぬ苦難を強いているのだし、連れて来た目的はすでに果たされているのだから。
とはいえ、門が開かなければどれほど望んでも戻ることは叶わない。
ならば、見守る立場からもう一歩進んで、わずかなりとも手伝うことは出来ないかと。
キ・チョルをはじめ、噂を聞いて彼女をどうこうしようという輩はあとを絶たない。
だから、連れて来てしまった以上、それに付随する義務の一環として、今まで通り護衛はする。
けれどそれだけではない何かを、護りたいと思いはじめていた。
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04. これが僕なりの応援
護ると決心はしても、具体的にどう、となると難しかった。
そもそもおとなしく言い置いていった場所にいてくれることさえ稀なのだ。
あちこち動き回り、誰彼なく話かけ、いつの間にか皆に受け入れられていて。
ならば、彼女が心置きなく動ける範囲を広くしてやろうと思った。
怯えた目をしたり、一歩を踏み出すのを迷ったりするような場所を減らせばいい。
禁ずることは容易い。
けれど、それでは何も変わらないと教えてくれたのは彼女だから。
凍結してしまった心を溶かしてくれた彼女に出来る、これが自分なりの応援の仕方。
彼女も周りも、それを望むのなら。
せめて限られた時間でしかなくても、そばにいる彼女の笑顔が消えないように。
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05. 君を見続けて変わったこと
寝ること、食べること。
そんなものは戦い生きるために必要なことでしかなかった。
けれど、それがいつしか、安らぐため、楽しむため、そんなものになっていた。
君を見続けて変わったことは他にもたくさんあって。
気付いた時にはかなりの衝撃だったけれど、決して嫌ではなかった。
そしてそう思う自分に、また驚いたのだ。
そんな自分に構わず、彼女は相変わらず奔放に笑顔を安売りする。
値切る必要もないほどの大盤振る舞いなそれに、厄介なヤツらまでも魅了されてしまっているから、いいんだか悪いんだか。
そしてそれを無言で受け入れる自分には、もう驚くことさえ面倒で。
好きにさせておけば機嫌がいいから、なんていうのは負け惜しみでしかないのだろうけれど。
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06. ねぇ、たまには…
自分なりに、満足するとまではいかないまでも、それでも出来る範囲で最善を尽くして来たはずだった。
なのになぜ、これほどまでに彼女の一挙手一投足に振り回されるんだか。
それなりに持っているだろう警戒心は、けれどなぜか違う場面で発揮され、重要な時には役立たずで。
結果、暇ではない職務に加えて、余分な手間が増える。
面倒で迷惑でしかないはずなのに、そういう時には笑みを浮かべているぞと背中をどつかれた。
咄嗟に、仕事に戻れと怒鳴り返しはしたけれど、言われて初めて、嫌だとは思っていなかった自分に気がついて。
メヒに対しての気持ちとはまるきり違い、だから自覚が遅くなった。
同士で、妹分で、仲間だったメヒは、他の誰よりも大切ではあったけれど、今思えばそれは家族愛に近かったのだろう。
けれど彼女には、傷ついてほしくなくて、泣き顔を見たくなくて、笑っていてほしくて、そういう気持ちがなんなのか分からなかった。
だから、ねぇ、たまには…あんたが思い描く恋人がするようなこと、やってみようか。
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07. 涙を堪(こら)えて泣かないで
気づいたのは、最近。
なんだかんだと離れている時間も長くて、自身も結構忙しくて気遣える余裕がなかったことも原因のひとつだろう。
それでも、いつしかそれなりに医局のメンバーには受け入れられ、不自由ですら楽しんでいるように見えていたから、安心していたのだ。
おそらく、自分には気づかれないようにしていたのだろう。
明け方に近い深夜に戻って来た部屋で、微かに聞こえるすすり泣きの声。
今いるこの世界での辛さ、元いた世界に戻りたいと思う帰郷心、何よりも、ひとりであるというさみしさと孤独感。
分かっているつもりで、何も理解してやれていなかった。
笑えないならば、せめて無力な自分に怒鳴って詰って当たり散らしてほしかった。
涙を堪えて泣かないで、声を殺して我慢しないで。
かける言葉が見つからず、だからそっと背中から抱きしめるしか出来なかった。
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08. つらい時には笑わせるよ
あ、泣く…その一瞬のわずかな変化を読み取れるようになったのは、いつごろからだったか。
たとえ相手が皇帝だろうが権力者だろうが、未来という異世界から来た彼女にとっては『おっさん』に過ぎない。
そしてそのおっさんたちに対して怯むことも必要としない。
だから、相手は彼女ではなく、彼女が大切にしているものを攻撃する。
人であれ、物であれ、容赦なく奪い、壊す。
そうされたくなければ我らに従え、との脅しに、それでも彼女は負けない。
それでも心が痛まないはずはなく、にーっこりと擬音がつきそうなほどの笑顔で相手を見据える直前、ほんの一瞬にも満たない間、ぎゅっと瞳を閉じるのだ。
自分のために被害にあったものに対しての謝罪も、後悔も、辛さも、すべての感情を押し込めるように。
だから、すべらかな額を指先で弾いたり、艶やかな髪を一筋引っ張ったりして、怒ったり膨れたりするよう気を逸らし、彼女の涙腺が決壊しないように仕向ける。
つらい時には笑わせるよ、そんな気障な言葉は冗談でも自分は言ってやれないから。
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09. 「ありがとう」はこっちの台詞
『後世の歴史なんて、関係ない!』
未来の彼女が知っていた流れと、今この時とはところどころで差異があると言う。
それでも彼女は、目の前で亡き者にされる命を放っておくことができなかった。
当然だ、過去にあったと後に知るのと、救えるものを傍観し放置するのとでは全く違うのだ。
真っ直ぐな気質は企みを知って見過ごすことはもちろん出来ず、しかも負傷を治癒する技術(ウデ)も持ち合わせているのだ。
血や泥で汚れることを厭わずに動く彼女を、助けたいと思わないものはいなかった。
己の得意分野ではなくとも、それでも何か出来ればとうろつく野郎どもに、本当は迷惑だろうにいちいち笑顔で礼を言う。
「ありがとう」はこっちの台詞なのだ。
卓越した医術はもちろん、だがそれだけではない、彼女の笑顔。
彼女が元いた世界とは違い、殺伐としているこの時代、身分などをモノともしない真っ直ぐな姿勢に、膿み疲れた自分たちがどれほど救われたことだろう。
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10. 君の癒しになれますように
己の存在によって、学んできた『歴史』を変えてしまうことを、気に病んでいた。
こちらに連れてきたのは自分であり、歴史が変わってしまうのであればそれは自分の所為のはずなのに、彼女はそのことで責めることはなく。
咄嗟の判断ではあったが、彼女を選んで間違いはなかったと思う気持ちと同じほど、彼女を帰せなくなったことに対する謝罪の意識は強い。
否、帰せないのではない、帰したくないのだ。
本来ならば出会うはずのない、数百年の時を経た関係で、彼女は自分のことを歴史上の一人物としてしか知らないはずだった。
けれど今彼女はここにいて、ただそれだけでも些細な歪みは生じるし、彼女の知る過去という歴史は変わりつつある。
ならば、その全てを、彼女が望まざるとしても自分が責を負うべきだと決意した。
いつだって笑っていてほしい、だから、彼女の笑顔が消えるような時には君の癒しになれますようにと願う。
ずっと凍り付いていた心を溶かしてくれた太陽が、これからもずっと隣で輝いていてくれるために。
この命を賭けてでも護り続けると、何度でも自身に誓うのだ。
高校卒業と同時に、司がNYへと旅立った。
総帥である司の父親が倒れ、以来、会長職を兼ねる社長である司の母の楓が代理として奮闘し、嫁いだ司の姉の椿の配偶者の会社もそれなりに支えてくれていたがそれにも限りがあり、結果として、いまだ年齢的にも経験的にも未熟ではありながらも『未来もこれこの通り安泰です』というアピールのために後継である司の存在を必要としたからだ。
たとえF4ではなくとも、それなりに大きな会社を経営するものにとっては、立場としては飾りでしかなくともトップに名を置くものの体調不良ひとつで大きくその後の情勢が動くが故に、情報操作には細心の注意を払う。
今回はそれが事実であるために、道明寺としても情報の漏洩を悔やんだり嘆いたりしている暇などなく、情報源を探り穴の修復改善はもちろん、今後をすでに見放そうとするものがひとりでも減るように策を練らねばならず、鉄の女としての異名でさえ役に立たないのであれば、あとは東奔西走して誠意を示すしかない。
そんな状況下では、さすがの司も従わざるを得なかった、というところか。
そこには、司とつくしの仲を引き裂こうとした楓の思惑もあったのだろうが、結局は『道明寺』のために司が選んだ道であり、つくしも納得した上での決断だった。
その頃には楓もそれなりに司に対するつくしの影響力の強さを知り、また、身分も地位も後ろ盾すらもない小娘が自分に真っ向から楯突くことが出来るその真っ直ぐな心根は天の邪鬼な態度ではあったが認めており、だから司もつくしの同道を強く希望したが、未だ高校生活を残していることもあって頑強なまでにつくしはそれを拒否し、司がある程度結果を出せるであろう『4年後』を約束してふたりは遠距離恋愛を始めることになった。
そのことについてF3はもちろん、つくしの親友や後輩も口を差し挟むことはなく、とにかくふたりを応援しようという姿勢でいたのだ。
けれど、つくしは高校卒業と同時に姿を消した。
つくしはもともと、初恋の相手である類の想い人だった静に憧れており、その性格的にも静を追って弁護士を目指すだろうと誰もが思い、英徳大学法学部へ進むと疑わなかった。
一般家庭で、しかも楓の嫌がらせにより庶民としてもかなり厳しい経済状況であった牧野家だから、当然の如くつくしもはじめは就職を希望していたらしい、というのは、司が渡米したあともつかず離れずの距離をずっと保ち、つくしをして自分の一部だと言わしめた類からの情報だ。
けれど、就職や他大学を選択したのでは、F4の妹分でマスコットガールという名のオモチャであるつくしとの、せっかく手に入れた『限られた時間内での楽しみ』を奪われてしまうワケにはいかないと、どこまでも個人的な事由で動いたのが司を除くF3で。
もとより司は、事業に従事する代わりにと楓に条件を出してつくしを英徳大に入れるよう勝手に手続きをしたようだが、当然の如くつくしの猛反対によりそれは潰えている。
だからこそF3は、家族のために諦めようとしているつくしの勉強したいという意欲を過不足なく叶えられるようにと、奨学制度や特待生枠などを紹介したのだ。
金銭的なものだけにはとどまらず、由緒なるものさえも重要視される『セレブ』が集まる英徳だからこそ、大学は未来を担う人材を求む。
幼稚舎から始まるエスカレーター式で、金銭に恵まれているほとんどの在校生にはそれがあるとさえ知られないほどの存在ではあるが、政経財だけではなく宮にまで及ぶコネクションの良さにはどこよりも定評がある英徳大は、他校生にとっては近い将来の就職先の確保のため有名な国立大に並ぶほどの狭き門のひとつであり、さらに成績優秀者は在学中はもちろん卒業後も優遇される、幻とも言われる『特待生』制度は本当に合格者がいるのかと疑われるほどに倍率が高いのである。
だからこそ、金銭の力ではなく実力でそれを手に入れる、将来を約束されたも等しい立場を獲得出来る奨学生や特待生への試験は、とてつもなく厳しい。
が、つくしはそれに合格していた。
本人曰くの『庶民で貧乏』だからこそ、赤札を貼られたときでさえ、どれほどの嫌がらせや苛めを受けても『授業料がもったいない』と勉学を怠らなかったためもあるだろうが、幼稚舎から高校までは一貫した教育をモットーとする英徳が受け入れた途中入学者だということも考えれば、排他的で不合格にするために存在するとも思われている編入試験に合格したつくしは、F4ほどではなくとも英才教育を施されているものが多い在校生に比しても、かなりの成績優秀者であるのだ。
しかも内申的につくしは、本来は生真面目で明るく優しく、およそ人物像として理想とされる修飾語のほとんどに当てはまる上、教師でさえ手を出せなかった我が儘集団であるF4を人間的に根本から叩き直した事実は見逃せない事実であり、ある種の能力と言ってもいいほどなのだ。
だからF4が自ら動かずとも、英徳としてはつくしは喉から手が出るほどの人材であり、彼女がもたらすだろう英徳の将来に対しても有り余る期待をかけていたのは仕方のないことだろう。
けれど、蓋を開けてみれば、保証されたであろう安定のみではなくそれ以上を約束された将来を蹴り、行方さえも不明になっていたのだ。
『昨日までは、いつも通りだった』
そう、誰に共なく呟いたのは類だが、当然、遠くアメリカにいる司はもちろん、同じ敷地内で隣接しているとはいえかなりの広大さを誇る大学部と高等部では、お互いに意図しなければすれ違うことさえほとんど皆無に等しいF3が、おおよその動向は探れてもつくしの日常までは推し量るしかないが。
親や金の力、容姿や持ち物、そういう付属物にとらわれず、実力で成績はトップをキープし、赤札という顕著なものからF4と親しいという理由だけでだけの陰湿な嫌がらせや陰口などの苛めにも屈しないその態度と姿勢は教師たちの中にも波紋を起こした。
上に阿り下を蔑むものは年齢や場所を問わずどこにでもいるものではあるが、そういう存在を疎ましく思いつつも権力や保身に負けて口を噤んでいた人たちにとってつくしはある種の清涼剤であり、己の言動を恥じる心を呼び覚ますものでもあったのだ。
だからこそ、すでに寄付金等親の力の強大さで決まっていた卒業生の答辞を、かなりごり押しに近い形ではあるが、本来の成績トップ生徒であるつくしにと変更された。
そういう大人の事情とは別に、友人だと思っていた女子生徒と司との間で起こったことが原因でつくしに赤札が貼られて以来、事の大小・表裏の違いはあれど、良くも悪くもF4と近しい関係になったつくしをよく思わないものは多い。
答辞ひとつでさえ、お偉方にも名を馳せる英徳のものであるが故に、それを請け負った生徒の意気込みは想像をはるかに凌ぐ。
そして、それを取り上げられた時の負の感情も。
たったひとりの小さな恨みがあっという間に増幅し、本来は関係のないものまで余興として参加するまでになるのは、悪しき赤札の名残りだと言えないこともない。
つくしが、良心ある教師たちによって卒業式での答辞を依頼され、もちろんはじめは固辞していたものの、つくしと同じような環境にいるものに未来を与えるためにもと言われれば、基本的にお人好しであるから断り切れるものではない。
だから、それなりの野次は当然、生たまごならかわいい方で石などの固形物を投げられることも覚悟の上で、つくしは引き受けたのだ。
卒業式には出席する、頼まれた答辞もこなす。
それがつくしが出来る最低ラインだった。
学園長はじめ、教師たちがずらりと並ぶ席とは別に、政財界のみならず有名・著名な来賓が一角を占める。
ほとんどの英徳の生徒やその父兄にとってはそれは当たり前のことであり、多額の授業料や寄付金はそういう人たちとの繋がりに使われるのだ。
当然父兄席も、我が子の卒業を純粋に祝うようなものは少なく、コネを求めての出席者がほとんどである。
さらに今回は、幼稚舎からのエリートが務めるべきである答辞を高等部からの外部入学者、しかも一般庶民である生徒がするということで、意地の悪い興味を持つ親はもちろん、数少ないながらも同じような家庭環境にあるものたちも応援と共感の意を含めて出席することとなり、例年よりも来客が多くなったことは、学生たちには預り知らぬところではあるが。
すでに卒業し大学生となったF3もなぜか当たり前のように貴賓席に座り、おそらくは楓の代理であろう椿もその近くにおり、卒業生だけでなく在校生の視線を集めていたのは当然のことだろう。
ありきたりな送辞に続き、つくしの答辞も用意されたものを読み上げただけということがありありと分かるようなもので、式典は淡々と進行した。
つくしが壇上に上がった時にはもしやという心配もあったのだが、さすがにお歴々が同席する場での暴挙は躊躇われたのだろう、僅かな波乱もなく予定はすすめられた。
それでも場外では、卒業生の退場を、式場の外で待っていた過去の卒業生や式に出られなかった在校生・父兄はもちろん、英徳というだけでニュースに取り上げられるほどであるのにかなり特別扱いされている卒業生がいるという噂を聞き込んだマスコミ関係も多く待機していたため、常ならぬ混乱を極めた。
その中でひときわ大きな雑踏の中心にいたのはF3であり、相変わらずの雑音を気にもとめていないような態度で、つくしを待っていた。
卒業生は式典の最後で皆に見送られながら退場するという、ある意味ありきたりではあるが効果をねらった形式で退場しており、けれど最後列の生徒とほぼ同時に、在校生や父兄、教師や来賓も解散となっていたために、式が終わるのを外で待っていた他の在校生や他校の生徒などに阻まれて式場の出入り口は人ごみでごった返すことになるが、それはほぼ例年通りのことでもあった。
が、リーダーである道明寺がいないとしてもF3の存在感は半端なく、卒業生以上に人が集まっていたのは当然のことだろう。
主役であるはずの卒業生たちですら、自分たちのことをそっちのけでF3の周りに群がり寄り、たとえ偶然でもいいから同じフレームに収まれないかと写真を頼むものも少なくない。
「…逃げられたかな」
肩が触れ合うほどそばにいたふたりにさえ、喧騒に紛れて聞き取りにくいほど低く呟いたのは、類。
「相変わらず類の”牧野レーダー”の性能はよさそうだな」
ニヤリと笑う総二郎に、当然でしょと返す類の表情に照れなどの変化はない。
点滴を受けていたために布団から出ていたジャンディの左手指がわずかに動いたことに気付いたジフが、静かに、けれど素早く近寄った。
それはとてもかすかで、例え得意な閨の中でも同衾の女性のそれに気付いたかどうか、女性への気遣いにはそれぞれ引けを取らない自信のあるカサノヴァもドン・ファンも自信がないほど微弱なもの。
それだけでも、ジフのジャンディに対する想いの大きさや深さが知れようというものだ。
「ジャンディ?」
ジフがベッド脇の椅子に座り、上体を屈め、耳元で囁くように名前を呼ぶのとほぼ同時に、ジャンディの目蓋が震え、黒目がちな瞳がゆっくりと現れる。
「ジャンディ、俺が分かる?」
ジフの左手がジャンディの左指先を軽く包み、視線を合わせながら問うのを、ウビンとイジョンは固唾を飲んで見守った。
[…あ……ジフ、せんぱ…]
はじめは明るさに慣れずに幾度か瞬き、焦点が合わないまま彷徨った瞳が、徐々に語りかけられる声の方へと向けられ、同時にジャンディの唇が確かにそう動くのを見た、のに。
リビングに近い場所にいたイジョンとウビンはもちろん、間近のジフでさえ、その声は音として届くことはなかった。
長時間の睡眠のために喉が乾いて声帯がうまく機能しないことはよくある。
ましてジャンディは数日間高熱を発していたのだから、覚醒後すぐにその器官が使い物にならないのは当然だ。
だからといって、それが発見が遅れた理由にはならないのかも知れないが。
ジフ以外の人影に気付いたジャンディが、いつも見せる笑顔を無理に作っていることは分かったからこそ、イジョンとウビンは平然を装うのに苦労した。
ただでさえ小さく細い身体と誰よりも優しい心が傷ついているのに、それ以上の負担はかけたくなかったからだ。
[ごめ…な…い……あ…がと…ざい…]
ジフの肩越しに見えたのだろう、ジャンディはウビンとイジョンに向かってそう唇を動かした。
「あんたのごめんとありがとうは、もうみんな聞き飽きてるから」
くすりと笑って、空いている方の手でジャンディの身体を布団の上から軽く叩くジフに、ようやくその意味を知ったイジョンとウビンは取り繕うように笑顔を浮かべた。
「休んだ分の授業は、俺たちがフォローしてやるよ」
「その前にまずは栄養たっぷりの旨いもんを食べないとな」
先を急ぐように言い募るふたりに、ジャンディは無邪気に笑顔を見せるが、ジフの内心はかなり大荒れだった。
「声帯等、問題はないらしい」
ジャンディの声が聞けなくなってすでにふた月以上。
熱が下がるとすぐに専門家に見てもらったが、原因は不明のままだった。
『風邪や高熱による後遺症でもありませんし、あと考えられるのは、精神的なものですな』
そんな言い方をした医師の言葉を、ジフは信じ切れずにいた。
あの時、ジュンピョは確かにジャンディのことを思い出していた。
ジュンピョに付きまとっていた女も、プールパーティでジュンピョが記憶を取り戻したと分かったのかいつの間にか姿を消していたし、だから、関係としてはジュンピョが記憶を失くす前の状態に戻ったはずだった。
ジュンピョの事故以来、カン会長の態度もいくらか軟化したと聞いており、ならばジュンピョとジャンディの間に問題はないはずで、むしろ精神的には楽になってなくてはいけないのに。
「ジャンディ…まだ何か悩んでる…?」
ぽつりと落としたジフの声は、しんと冷えた深夜の空気の中に静かに解けていった。
[ごめんなさい]
熱も下がり、ユン家での栄養配分がしっかりと考えられた食事で体調も戻り、声が出ない以外は何も不調が見られなくなったジャンディは、申し訳なさそうにそう言った。
いや、それは音にはなっていないから、言った、というわけではない。
それでもジャンディの口唇はそう動いたし、ジフも音にならないジャンディの声を聞いたように思った。
本来ならば、体調が良くなり次第ジャンディは実家に戻るはずだったのだが、声が出なければ日常生活にも支障を来すし、接客業がメインのバイトになど当然行くことは出来ない。
だからとジフが声が戻るまではこのままユン家に滞在すればいいというのを、ジャンディははじめ、これ以上迷惑はかけられないと固辞した。
その答えはジフとしてはすでに予測していたことで、驚くことはない。
「だけど、今の状態だとご家族も大変だろ?」
ようやく家族揃って暮らせるようになったとはいえ、その貧乏っぷりは相変わらずだから、両親も商売を軌道に乗せるのに忙しいし弟だって学校に加えて内職の手伝いもしているため、ゆっくりとジャンディの口の動きや身振り手振りでの会話をしている余裕はない。
普通の生活は出来るジャンディの状態ではあるが、声が出ないということは電話ひとつ受けることが出来ず、たわいのない会話で成り立つ近所での買い物にも出られないから外出も躊躇われる状態で、ジャンディが家族に気兼ねなく家にいられるはずがない。
けれどユン家ならば、ジフの意向で普段人気はないが使用人はきちんといるし、必要とあればジャンディについてもらうことも出来る。
おじいさんだってジャンディのことを本当の孫のように思っているから、たまに海鮮鍋やお粥を作ってあげればむしろ引っ越して来いというくらいに大歓迎してくれるだろう。
[でも…]
「むしろ、ここにいてくれないと、俺が心配」
いつだって無理と我慢ばかりして笑顔で誤摩化すジャンディだから、ジフとしてはきちんと目の届くところにいてもらわないと、いざという時に名誉消防士として出動が遅れてしまう可能性だってあることが気がかりで。
[…あの、じゃあ…よろしくお願いします…]
ようやくジャンディがそう言った時にはすでにジフは、ジャンディの身の回りのものをある程度(というよりもほとんどを)家族が滞在する部屋から持ってくるよう使用人に頼んでいたのだった。
「ただいま」
[おかえりなさい]
そんなやりとりが当たり前になってきた頃、ジフが厚めの封筒を持って帰ってきた。
「ジャンディに、お土産」
大振りなそれは、見た目に比例するようにかなりの重さがあり、受け取ったジャンディは驚いてジフを見上げた。
「今年はもう間に合わないけど」
そう言いながら促すジフに、ジャンディは幾分訝しげな表情をしながらも、封筒の中身を取り出して目を見開いた。
それは、過去数年分の神話大医学部入試問題だった。
「試験には、ある程度の傾向と対策も必要だから」
市販の参考書だけでは足りない部分があると分かっていてもどうしようもないことを、こうしてさり気なくカバーしてくれるジフの優しさに、ジャンディは頭を下げることしか出来ない。
ジフにとっては親友であるジュンピョとの関係を有耶無耶にしてしまったジャンディは、本来ならば気にかけてもらうことも遠慮した方がいいと分かってはいるのだけれど、ジュンピョの有無を言わせない強引さとは違う、いつの間にか心の奥にするりと入り込んでくる優しさを拒むことが出来ず、気付けば飄々としたジフのペースに巻き込まれてしまっていて。
それはおそらく、声が出せていても同様だっただろうと推測出来るほど、自然なことだった。
[これ、納得出来なくて]
夕食後、ジフが使用した参考書も広げながら、自力では解けなかった問答を示すのが、ここ最近の日課だった。
[ここまでは分かるんだけど。でも、その後なんでこうなるのかなって]
専門的に勉強をしていれば何でもないことでも、市販の問題集をメインに独学で頑張っているジャンディにとっては些細なことで躓くことが多い。
そのたびに頼られるのが嬉しいと思ってしまうことに、些かならず罪悪感を感じてはいても、もともと望んで受けていたわけではなかった英才教育ではあるが、それにより他の生徒よりも先を進んでいるからこそ教えてあげられるという、ジフにとっては公明正大にジャンディと一緒にいられる時間を持てることに喜びを感じてもいた。
01. 鏡を見ては、いつも
朝の身支度時はむしろ、寝過ごしてバタバタすることが多いから、ちゃんと見ることは少ないけれど。
最近、違う活用法を見つけ、無意識のうちに笑みを浮かべていることに気付いた。
基本的に、とても律儀な彼の動線は、朝であっても、というか忙しい朝であるからこそ、きちんと決まっている。
起き抜けで、いつもはきっちりしている彼が、なんだかぼんやりと無意識に動いている姿も。
シャワーを浴びてすっきりしてからは、想像通りに口やかましくも、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる態度も。
真っ直ぐ見つめれば、照れるか恥じるか、素っ気なくなってしまうことが分かっているから。
唯一許される鏡越しに見ては、いつもの日常が始まることを、確認する。
他人に対しても、けれどそれよりも己に対して厳しい彼は、入念な確認を怠らない。
鏡を前に、前後左右をチェックするのを、普通はナルシストだと言うのかもしれないけれど、芸能人を目指す俺たちにとっては当たり前の行為。
そして、今日も完璧な彼の姿を朝から見ることが出来て、幸せになるんだ。
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02. 例えばで始まる無限夢想
相変わらず授業は大変だけど、面白い。
知らないことを知ることも、考えたこともなかったような自分の可能性を広げることも。
ひとりで頑張ることはもちろん、春歌たちクラスメイトと一緒に造り上げていくことも楽しい。
だけど、ふと想像してしまう。
こういうことを、彼と一緒に出来たら。
考え方も価値観も違うから、きっとあれこれ喧嘩腰になってしまうことも多いだろうけれど。
それでも絶対に、ドキドキして、ワクワクして、たまらないと思うんだ。
例えば、で始まるのは、無限夢想でしかないけれど。
卒業してプロになったら、叶うはず。
その時にがっかりさせることがないように、だから今は出来ることをやるしかないんだよね。
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03. 接触時には深呼吸
何よりもまずは、朝イチ。
あのきれいな顔は、起き抜けにはめちゃめちゃ心臓に悪い。
好きなんだから見られればうれしいとは思うけど、それなりの覚悟をしてからじゃないと、超過勤務でストライキを起こしそうになる。
校内での偶然ばったり、も、要注意。
全身鎧を纏ってますっていう、ある意味ストイックなほどの無表情さは、近寄り難いけれど神々しさもあって、女の子たちが騒ぐのも頷ける。
アイドルと一括りにされるけれど、個々のキャラクターはそれぞれで。
しかも、TVをはじめ、公の場では素の自分とはかけ離れたキャラクターを演じることも少なくはない。
自身ではない自分が一人歩きをはじめていることに、誰よりも本人が苦痛を感じていたからこそ。
本当の姿との接触時には深呼吸が必要になる。
僅かも飾ったり取り繕ったりしない姿を見せてくれることが、どれほどうれしいかってことを、いつ、教えてあげられるんだろう?
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04. 本日の運勢チェック
朝番組は、目覚まし代わり、兼、情報収集の機会でもある。
寝起きで働いていない頭で、政治家の汚職だの、芸能人の恋愛関係などを流し見る。
気になるのは、番組の最後の数分間。
本日の運勢チェックを怠るわけにはいかない。
金運はともかく、ラッキーカラーやラッキーアイテム如何によって、その日の小道具を変えなくてはいけないのだ。
相性のいい相手が彼の星座だったりしたらもう、1日何も手に付かなくなっちゃうほどに浮かれるし、逆もまた然り。
心底から信じているわけでは決してない。
それでも、ほんの少しでも近付けるのなら、一緒にいられるのなら、僅かな可能性にだって神頼みしたくなる。
気になって、それが始まるまでは何も手に付かず、最中は凝視してしまうから。
結果、毎朝『遅刻』を脅されることになるのだけれど、それもうれしいって言ったら、呆れられちゃうのかなあ。
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05. 気になるキャッチフレーズ
運勢のあと、番組終了の〆として、女性アナがメッセージに似た言葉を話す。
『今日は紫外線が強そうです、お肌のケアに気をつけてくださいね』とか『雨で気分も沈みがちですが大切な人のことを思って頑張りましょう』とか。
たいていそれは若い女性に向けたもので、定年間近のおじさんとかにはあんまりためにならなさそうなものが多い。
けれど、女性よりも外見も体調もきちんと管理することが当然とされるアイドル候補生で、しかも気になる相手がいるオトコノコにだって、それはかなり重要で。
誰も見たことがないなんて噂されるその人の笑顔が見られるのなら、藁にだってすがりたくなるというもの。
本日の気になるキャッチフレーズは、『今日は今年半分の最後の日、後半に後悔を残さないためにもやり残したことをしてしまいましょう』。
出会ってまだ3ヶ月、今年は半分過ぎたけど、今年度はまだ初期状態。
とはいえ、与えられた時間は限られているから、1分1秒をも惜しみたい。
やり残したこと、というか、やってもらいたいこと、は、ある。
『ねえ、オレのこと、名前で呼んで?』
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06. ささやかな願掛け
授業は結構、大変だ。
アイドル養成学校だからとたかをくくっていると、痛い目に遭う。
たとえ歌手希望だったとしても、作り手の意図をきちんと理解しなければ歌を自分のものには出来ないと、作詞作曲も必須で。
だけならともかく、普通の学生には必須の数学や化学、歴史なども、『常識を知らねば、世間一般の人が共感するいかなる感情も込められまい』なんていわれて。
歌うことはもちろん、技術としてはギターならばそれなりに自信はある。
春歌と一緒に曲を作った時に、苦労はしたけれど出来た時の達成感は格別で、個人的にも、スターリッシュとしても、もうその世界から抜けることなど考えられないと思った。
だからこそ、ささやかな願掛けをしたのだ。
みんなには内緒にしている、彼のもうひとつの存在。
それが作られたものであることは承知の上で、けれどだからこそ、いつか、彼そのものとして一緒にステージに立ちたいと思う。
お互いの秘密を、いつ、バラしあえるんだろうね?
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07. 理想のタイプを追って
春歌のおかげもあって、スターリッシュは学生でありながらもデビューすることが出来た。
もともと、芸能人としての養成学校であるから、デビューしたあとの言動なども細かく指導されている。
基本としては、とにかくプライベートでの言質を取られるようなことはするな、である。
新人であるが故に、番組の収録やロケなど、とにかく良くも悪くも俺たちの何かを探り出そうという輩は多い。
レンやマサなどは、ある意味他人の目が常にあるという環境で生まれ育っているためか、そういうのを逆手にとるすべも心得ており、あしらい方も上手い。
那月や翔は、地のままで応対しているのだろうが、ボケまくっている那月に突っ込みまくる翔は、外野をいつの間にか無視していたりする。
オレはそれなりに愛想をふりまいたりはするけれど、普段寡黙な彼は、さらに黙秘権でも施行しているかのように喋らず、表情筋さえも不動だ。
それぞれが、それぞれに違うのがいいともてはやされるからこそ、訊かれる頻度が多くなるのが『理想のタイプ』。
『好きになっちゃったら、それが理想のタイプでしょ』
だから、その理想のタイプを追っている最中なんだ、他のことは放っておいてくれないかなって思うのは、ワガママなのかなあ?
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08. 落ちて昇って沈んで浮いて
今までは全然気にしなかったことが、彼のたった一言で気になって仕方がなくなる。
音楽のことや将来のこと、食べ物も、その視線の先も。
言葉を飾ることをしないから、それは時に厳しく、けれど、賞賛も真っ直ぐに届く。
心に曇りがないから、否定も容赦ないけれど、迎合をよしとしないからこそ賛同にも偽りがない。
だから、落ちて昇って沈んで浮いて、最近自分は精神的に多忙だとため息をつく。
それでも決していやなものではないというのが、さらに自分を落ち込ませる。
小さなことで一喜一憂する自分を、どう見ているのか、または、何も思わないのか。
チラリチラリと横目で確認、たまにはじっと凝視して探る。
気配に敏い彼は、そうしている自分に気付いているはずなのに、きれいに無視を決めこんでくれる。
沈めるのなら、きっと今、床板に嵌りこんで階下を突き抜けているはずだ。
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09. 眠れぬ夜さえ幸福の時
『恋をすると女の子は綺麗になる』なんてよく言われているけれど。
男の子は、どうなんだろう。
しかも、もともとそれ以上綺麗になれないくらい綺麗な人は、恋をしたらどうなっちゃうんだろう。
綺麗の折り返し地点というものがあって、そこまでいっちゃったら今度はどんどん綺麗じゃなくなっちゃうとか。
それとも、自分が想像出来ないくらいの綺麗というものがまだまだあるのだろうかとか。
たとえ相手が自分じゃなくても、もちろん自分であればいいとは願うけれど、ともかく、彼が恋をしたのなら。
「見て、みたいかも」
恥じらったり、赤面したり、戸惑ったり、吃ったり。
完璧なほどのポーカーフェイスがそんなふうにかわいらしく崩れるのが、やっぱり自分の所為であってほしい。
そんな想像は、同じ部屋で眠っている彼の吐息が気になって眠れぬ夜さえ幸福の時間にしてくれるのだ。
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10. 良く効くお薬を下さい
「草津ってどこだっけ」
いつもの部屋の、いつもの位置で、いつものように課題と格闘していた時。
いつものようにワイワイと喋っていた時、ふと友千香が呟いたのが気になったのだ。
「群馬の…かなり上の方だったはずだが」
Aクラスの自分よりもきっと難しくて大変だろう課題を、見ている限りはよどみなくすすめているその手を止めずに答えてくれる。
言外に『行きたいのか』と問われ、ふと考える。
「行きたいっていうか…や、でも行っても治らないんだっけ」
聞こえなかったのか理解出来なかったのか、不審そうに振り向いた、そんな表情や一挙一動にまで、やっぱり好きだと何度も思う。
だから、恋愛に良く効くお薬を下さい。
痛みや傷が消えるようにこの思いが無くなるんじゃなくて、ちゃんと彼が自分を好きになってくれるように、そんな人になれるお薬を。
01. 同時刻に合わさる回線 / 同刻ログイン
最近ハマってる、オンライン上でのチャット。
プレイボーイと言われてはいても、毎晩女の子と過ごす訳ではなく、それなりにゆっくりとした夜を過ごすことも多い。
たいていは深夜前後に少しだけ覗くのだが、かなりの確率でほぼ同刻ログインしている人がいることに気付いたのだ。
ここに来る人は、程度の差こそあれ、たいていは車に興味のあるやつばかりで。
偽名は当然ではありながらも、話す内容から、どこかのガレージ勤務なんだろうなとか、改造するのが趣味なんだろうなとか、マニアックなものが多い。
はじめこそ、その人物は会話に加わることは少なく、みんなの会話をみて楽しんでいるようで、別に気にもしなかったのだけれど。
たまさかに入るその人の一言が、会話の流れや参加していたメンバーの意識を根底から覆すことがあって。
決して押し付けがましい訳ではなく、けれど、誰もが気にせずにはいられないほどの影響力。
オンタイムとはいえ、文字だけでそうなのだから、現実だったらどれほどなのかと考えた時に、ふと思い当たった、約一名。
確信もないのに、でもそれが正解のようで、ワクワクした。
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02. 存在を確かめるすべ
確信は、まるきりない。
そもそもがみなHNという偽名であるし、発信位置を示すものも隠され表示されてはいない。
今自分がいる場所とその人の居所、その間に横たわる距離と時差を考えれば、普通ならベッドの上にいる時間。
とはいえ、自分が知る限り、その人は睡眠時間を削ってでもというタイプだから、夜を徹してか早起きしてか、キーボードを叩いていても不思議ではなく。
しかも職業柄、想像とはかけ離れたところにいてもおかしくはない。
結局、画面上からではその存在を確かめるすべはないということだ。
それでも、万が一という一縷の望みをかけて、なるべくこまめにコメントを返す。
想像が正しければ、ずっとこのチャットの画面を見ている訳ではなく、他のことをしながら覗く程度のはず。
だからこそ発言回数は少なく、けれどそれまでの会話から流れを読み取り、的確に言葉を残す。
あまりにもらしくて、いつの間にか、たとえ違う人物であったとしても好意を持つだろうと、思うほどになっていた。
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03. 綺麗な文体に惹かれてた
略語や、スラングとまではいかないまでも結構砕けた言い方が多い自分。
参加者は世界各国からだろう、たどたどしい言い方や、明らかに翻訳サイトを使っているのだろう表現がよくある。
その中で、その人の文体は、一線を画していた。
英国王室で使われているという、ある意味古典的なまでのそれは、けれど想像する人なのだという勝手な先入観もあったのだろう、とても流麗で。
その綺麗な文体に惹かれてたと言っても、過言ではない。
たとえ思い描く当人ではなくても、馬鹿丁寧なくせに嫌味はなく、おそらくは得意分野だろうと思われる話題には饒舌で。
先入観がなくとも、超がつくほど好きなことには純粋な人なのだろうと、容易に想像がつく。
だから、ひとつの賭けに出ることにした。
不特定多数の人が参加するチャットではなく、個人的に話をしたいと。
素性は訊かない、会うことも望まないという条件を提示し、悪意や邪な思いはなくただ純粋に、ドライバーとしておそらくはメカニックだろうその人の意見を聞きたいのだと告げた。
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04. 恋愛感染メール / 恋愛ウイルス浸透中
話題が話題だから、メンバーは世界中から参加しており、時差など有ってないもの。
けれど、ふとまるでエアポケットのように空く時間があることも確か。
[連絡先を]
だから、本当に偶然チャットルームにふたりだけになった、そのタイミングで入力されたメッセージ。
簡潔なその一言は、何時誰がまた入ってくるか分からないからだと理解していても、その人らしいと口許がゆるむ。
万が一のために、新しく取得しておいたフリーメールのアドレスを素早く打ち込む。
公共の場であるから、今この瞬間にも誰かが入って来る可能性がある。
だから、その後はどうでもいいことを、表示制限行数を超えるまで、独り言のように適当に打ち込み続けて。
別窓で開いていたメールのアカウント画面が新着を示す。
それを見るまでもなく、それが恋愛感染メールであることは分かりきっていた。
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05. スクロールの先に待ってた文字
届いたメールに、チャットの相手で間違いがないと安心してもらうために、すぐに返信した。
出来れば、他の人が入って来る前に、受け取ったと確認してもらいたくて。
けれど、チャットの画面は一向に変わらぬまま、時間だけが過ぎてゆく。
仕方なく、アドレスが表示されている部分を消すために、まるで独り言のような文字を細かい間隔で改行して増やしてゆく。
一言でもいいから、何か…と期待しつつも、画面いっぱいが自分の呟きで埋まった頃。
ふと、メールの方の画面を開いてみて、愕然とした。
当然と言えば当たり前、わざわざチャットで話さなくても、メールでの返信があれば充分なのだ。
いつの間にかチャットルームからその人は退室しており、自分も急いで適当なあいさつを残して画面をメールに切り替えた。
件名は、らしいというか『Re:』。
チャットでの無駄なスクロールの先に待ってた文字は、素っ気なく、礼儀正しい、けれど、どこか親近感の湧くものだった。
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06. 通信不可能 / User Unknown
サーキットで顔を合わせても、今までの態度と全く変化はない。
相手が自分だと気付いていないのか、知っていて知らないふりをしているのか、もしかしたらその人だと思っていた自分が間違っているのか。
グランプリも終わり、次のシーズンまではそれぞれの生活に戻る。
身体の調整、マシンの改善、レースはなくともそれなりに忙しい日々。
相変わらず相手の詮索をしないまでも、数日ごとのメールは続いていた。
それがある日突然、前触れもなしに『メールの送信に失敗しました』というメッセージに変わったことへの、驚愕と、放心。
連絡先を教えてもらってから今まで、送れないなんてことはなかったし、まして通信不可能(User Unknown)なんてそれ以外でも初めてで。
もらったメールに、返信をする、これまでと変わらない過程のどこかに、問題が起きたのだろうか。
もしも本当に相手が自分の想い描く人物であるならば。
パソコンのメールさえも出来ない状態って、かなりヤバいんじゃないの…?
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07. 文字が声で届いた日
どう考えても、個人的に連絡を取るような理由などない。
公的にはライバルでも、私的には接点は皆無なのだ。
チャットで知り合った相手ではあるけれど、それが本人であるという確証はない。
そもそもが国家機密並みに極秘として守られる情報が、ネットという媒介上であっても国を越えて容易に届くものではない。
多用していたチャットルームも、こまめに覗くようにはしていても、その人が参加している気配はまるでなく。
最悪は、所属のチームに頼んで、例えばライバルとの親睦を深めるなんて言い訳ででも、連絡を取ってもらうしかないのかと、やきもきしていた、その矢先。
[グーデリアンか?]
携帯電話に届いた、未登録の番号。
長い数字の羅列は、国外からのものを示していて。
待ちわびていた文字が声で届いた日、それはきっと、人生最大の驚き記念日だろう。
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08. オフラインの今でさえ
別に、チャットから始まった相手に連絡を寄越した訳ではないかもしれない。
何か、そう例えば、仕事の関係でたまたま、という可能性も皆無ではないだろう。
基本的にプライベートは業界内でも秘されており、個人的に教えあう以外知る方法はないけれど、彼ならば単なるレーサーではないのだから、機密にも近いかもしれない。
そもそも相手は自分がメル友だということを知らないはずなのだし。
売ったケンカを買ってくれた時の居丈高な声よりも、穏やかで低めのそれは、心地よく耳に馴染む。
「えっと、どしたの」
なのに、返せたのはどこまでも馬鹿っぽい単語の羅列のみ。
パソコンの電源は入っているが、ネットは繋がっていない。
それなのに、画面の表示はオフラインの今でさえ、手の中の小さな機器ではオンラインで。
心臓がまるで、ハードロックバンドのライブ会場のようにどかどかとうるさくビートを刻んでいた。
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09. 誰も居ない空間に「おやすみ」
告げられた内容は、予想もしていないものだった。
いや、想像したことは、何度もある。
けれど、現実になることは絶対にないとはじめから諦め、夢に見るくらいなら許されるだろうと、消極的なまでに心の奥底にしまっておいたもの。
同時に、そういう事情なら、自分のプライベートな番号をFICCYに請うことも出来たことも頷ける。
これまでのこと、来期からのこと、それに伴うイロイロやゴタゴタなど、話題は尽きなくて。
けれど、そういう自分にとっては苦手な分野を全て請け負ってクリアにしてくれると言う。
だから、と続く言葉に、否と言うべき理由はひとつもない。
[詳細は、ハワイで]
そういう些細な手配でさえも、こっちのお偉方に話を通して用意してくれるから。
切れた受話器の向こう、もう誰もいない空間に『おやすみ』と言えることさえ、幸せなのだと知った。
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10. やっと会えたね 初めまして?
飛行機で、9時間ちょっと。
前後の時間も合わせると、半日がかりの移動になる。
それでも、職業柄、世界中を転戦しているから、飛行時間の長さや時差などは慣れっこだ。
慣れっこじゃないのは、こんなふうにまでして会う約束をした相手への想い。
普通を装って、今までのような態度を取って、それでも来期からの約束をして、ふいに。
「あれは、お前だろう?」
惹かれてやまない声が綴った、自分のハンドルネーム。
姿がなくても声を知らなくても、抱いてしまった恋心は、今ようやくきちんと相手を見、話すことも触れることも出来る距離にある。
『やっと会えたね 初めまして?』そんなふうに、始めてみようか。
公的な立場でもなくオンライン上でもなく、ただの『俺たち』という立場の新しい関係を。
この想いに、永遠に蓋をして。
未来永劫、口を閉ざしていよう。
許されざる思いが、溢れ出てしまわぬように…。
「ジャンディが倒れたって!?」
裏口からの扉を叩き割るんじゃないかという勢いで駆け込んできたのは、イジョンとウビンのF2。
中庭に面したリビングで本を読んでいたため、彼らが裏門から入ってくるのを見ており、ジフは驚くことなく迎え入れた。
「ん、熱出して寝込んでる」
ジャンディは、あの悪趣味なプールパーティで自ら水中に飛び込み、ジュンピョの記憶を取り戻させた。
すぐにズブ濡れのふたりを急いでホテルへ連れて行き着替えさせたが、カン会長からの、本人ではなく周囲への攻撃から始まりジュンピョの記憶障害に伴ういざこざに至るまでの心労と疲労が祟ったのだろう、翌朝ジャンディは高熱を出してしまっていたのだ。
それなのに進学のこともあってか家族には心配かけないよう何でもないフリで学校に来たようで、いつもの非常階段でぐったりと座り込んでいるのをジフが発見し、自宅に連れ帰ったのである。
診てくれた主治医は、以前にも過労と栄養失調で倒れたジャンディを覚えていたようで、ため息まじりで『出来ればもう少し日常生活にもご配慮ください』などと余計な一言を言い置いていったのに、ジフとしてはそう出来るものならとっくにしている、と内心で悪態をついたものだ。
それでも、彼にとってもジャンディは初めての患者なのだ。
元大統領で、現スアム財団のトップであるユン・ソギョンが本来いるべき場所であり、けれど過去の事情から、孫であるジフが独り住まいをしている、広大な屋敷。
ジフが体調を崩した時には、まず連絡が来るのが当たり前ではあったものの、それは決して頻繁ではなかった。
身体的にはともかく、精神的に弱かったジフは、幼少の頃は事あるごとに不調になったものの、持ち前の気丈さからか、または他人と接触する不快感からか、主治医であるはずの人物でさえ呼ぶことなど、ほとんどなかったからだ。
それなのに、緊急事態だと、遅い時間にも関わらずジフは迷わず連絡を入れた。
ほんの少し前まで、いつもと変わらない笑顔を見せてくれていた、それが失われてしまう恐怖に、堪えられそうになかったのだ。
それは、ジャンディがジュンピョに会いにマカオに行くという前夜に、突然訪れた時と似ていた。
もう二度と会えないのではないかと、己がどれほど辛くても、そのためならば全てを押し殺せると覚悟したほどの彼女の笑顔が失われてしまう、それだけが怖かったのだ。
その後も高熱は2日ほど続き、今朝になってようやく下がる兆候を見せ始めたものの、いまだ目を覚ますことなく点滴で解熱剤と栄養を入れている。
「で、具合は?」
私設のリビングからも見えるジフのプライベートルーム、そのベッドにいるジャンディを横目で見ながら、イジョンが問う。
おそらく、バイトを休むことをジフからの連絡で知ったジャンディの親友から、様子を知らせてほしいと頼まれたに違いない。
カサノヴァとまで呼ばれたイジョンが、たったひとりの、それも今までは相手にすらしなかった庶民の女の子一人に振り回されているのを見るのは、ジフとしては正直おもしろくて仕方がない。
それは、似て異なる状況だったジュンピョに対しては決して感じなかったものだ。
理由など考えなくても分かる、その相手が自分が好きな人かそうでないかの違いだからだ。
ジフが長年憧れ続けていたソヒョンへの想いを後押ししてくれたジャンディは、フランスまで追っていった挙げ句に結局は恋愛ではなく家族というものに対する憧憬の象徴でしかなかったのだと気付いて帰ってきた時、ちょうどジュンピョに恋人宣言をされていた最中だった。
どさくさ紛れに異議を申し立て、その後いつもの非常階段でやんわりと問い質してみたところ、どうやらジャンディとしては気乗りがしない様子であり、おそらくはいつものジュンピョの思い込みなのだろうと見当をつけて。
そもそも、赤札の被害にあっていたジャンディがどうしたらその加害者に対して好意を持つことになるのか、最初の経緯から不思議だったのだ。
思うことが何一つ叶わぬことがなかったジュンピョだから、そのやり方はどうしても横柄になりがちではあるが、それでもある意味おめでたいほどの純粋な真っ直ぐさは尊敬に値するし、もしもジャンディがそこに惹かれたのならば仕方がないと諦めることも出来ただろう。
けれど結局、それは世間知らずの純粋培養のためであり、どこまでも親の言いなりになるしかなかったジュンピョの、ジャンディのためならばその親すらも凌駕してみせるほどの意地を見せなかった芯の弱さが敗因であろう。
どんな交換条件があったのかは分からないが、それでも不本意ながらも親の言う通りにジャンディを傷付け、親の用意した婚約者に逆らいながらも流され。
その間に、ジャンディは傷つき、泣きながらも、新しく歩むべき道を見つけ、切り拓き、努力した。
だからその結果がジュンピョの想いからかけ離れていたとしても、仕方がないことなのだ。
通常、ジフが在宅するプライベートな時間には誰もいないようにしてもらっており、建物の位置的にも外部からの目が届かない場所であるため他人の目を気にする必要がなく、ジフの部屋はきちんとした仕切りがない。
裏口からも近く、中庭に面した場所は全てガラス張りであり開放感はあるものの、もともとそこから訪問する人が限られているため不具合は感じていなかった。
だが、今この状況で、ジャンディの姿が誰からもあけすけな状態であることに、ジフはかなり後悔していた。
もちろん、そうは言っても、そこから来る人というのはF3かソヒョン、または秘書や顔を知るSPくらいしかいない。
それでも、だからこそ、F4全員を根本から覆したジャンディは、恋愛感情の有無にかかわらず大切な存在であり、だから彼らが心配して駆けつけてくることは分かっていた。
そもそも、ジャンディはジフの家に短期間ではあるが滞在していたことがあり、その時用意した部屋は今でも使用可能な状態であるから、そこに寝かせればよかったのだ。
それなのになぜか、ジフはそこを使う気にはなれず、自分のベッドを提供した。
それには、私用のリビングやダイニングからも目視出来るという理由だけでは、なかっただろう。
「基本は、風邪。あと、過労と栄養失調」
答えながら、ジフはふとため息をついた。
ジャンディはいつでも、頑張りすぎる。
それも、自分のためではなく、家族の、友人の、そして知人や他人のために。
以前、深夜のバイトを探していたと、ジャンディの親友から聞いてそのバイト先を探して訪れた時でさえ、すでに身体は疲れて悲鳴を上げているにも関わらず、頑張ることしか出来ないのだと強がっていた。
今回だって、ジュンピョとあの意味不明な女のためにジャンディは心身共に傷つき疲れていた矢先のことであり、そうでなければ水はジャンディにとって優しくはあっても拒絶することなどなかったはずなのだ。
人魚のように自在に水の中を泳いでいたのを、夢も現実も全て奪い取った原因はジュンピョであると、ジフは今でも思っている。
直接の原因は、ジャンディが自らジュンピョを庇ってのものだと言っていたけれど、そういう事態を引き起こした大元の原因は、過去の所業の所為とは言えジュンピョなのだから。
「栄養失調って…」
ジフの言葉にF2が絶句する。
厳寒期ではなかったとはいえ、それなりの準備もなく宵の時間に全身びしょ濡れになったのだから、風邪を引いてしまったのも仕方がない。
また、いつもバイトで忙しい上に、ジャンディのことだけを忘れたジュンピョとのことが精神的にもきつかったのだろうから、過労も頷ける。
けれど、贅沢という言葉では表し切れないほどに特別裕福を許されていると自覚はあるが、それでも一般庶民の生活はジャンディと知り合ってからはある程度普通というものを把握しているからこそ、その症状名を、最近では誰よりも身近にいた人物が患っていると聞くことが信じられなかったのだ。
「…俺は、2回目」
いつもいつでも、頑張りすぎて、無理しすぎて。
自分の限界さえ気付かず、だから身体が先に悲鳴をあげ、SOSを出す。
「もう、頑張らせたくないのに」
呟いたジフの言葉に、受け入れてもらえるのであれば可能な限りを尽くし、手を差し伸べ、己の中に包み込んで守りたいのかが滲み出ているようで、F2は言葉もなくジャンディを見つめるジフの切ない視線にため息をついたのだった。
「要不要がはっきりしてるって言うか、興味がないことはとことんスルーすっけど、執着したらしつこいんだよな」
ジフの渋面を前に、それでもF2はここぞとばかりに話を続けた。
「ジュンピョの場合はあれは加減を知らないって言うんだろな。脳内と口と行動があれほど直結してる人間もめずらしいくらいだ」
「あれで神話のトップなんだもんな。ある意味、カン会長の心配も分かる気がするよ」
口調に容赦がないのは、それくらいでは関係が揺らがないという自信があるからだ。
短気で、感情がそのまま言動に表れるジュンピョではあるが、ある程度発散すれば根に持たないのが長所であり、その裏表のなさが時に乱暴で粗暴でもあるのに恨まれたりしない理由だろう。
純粋無垢で、取り繕ったりすることを知らない子どもがそのまま大きくなったのが、ジュンピョだ。
だから、命令することに慣れた者特有のその強引さに辟易しつつもジャンディがジュンピョに惹かれた気持ちも分かるし、同時にそれは恋愛感情というよりも母性本能に近いものだったのだろうと、イジョンもウビンも知っていた。
それは、ジャンディに大人の恋愛感情がなかったからこそで。
もしかしたらジュンピョよりも先に、ソヒョンの件があって本人も周囲も気付くのが遅れたけれど、ジフはジャンディのことを特別だと思っていたのかも知れない。
ソヒョンがフランスへ発つ前にジャンディと話をし、無表情なジフの『笑顔』を取り戻してくれと頼んだらしい。
それは、ソヒョンには、ジャンディがジフを変えてくれる存在なのだと分かっていたことを意味する。
両親を亡くし、祖父にも去られ、ジフは感情を失くした。
それを、取り戻してくれるのがジャンディだと、ずっとF4の姉として見守ってくれていたソヒョンには分かったのだろう。
同時に、ジフのソヒョンへの感情が、どれほど強く激しくても、幼いものでしかなかったことも。
「ジフの場合は、真逆だよな」
続いていた会話に、己の思考に入り込んでいたジフの意識が浮上する。
「加減してるってことですか?」
腕の中のジャンディが興味津々に問うのに、ヤツらではなく自分だけをみてくれと、こんな時にですら思ってしまうことにジフは僅かに自嘲する。
「加減っていうか…ジフの場合、容赦がないというか言動の結果をしっかりと分かっててそれでもやる酷薄さがあるってことだな」
「敵なしのF4の中で、もっとも敵にまわしたくない筆頭、ってか?」
そう言ってくすくすと笑うF2はともかく、カウルまでもがその笑いに賛同していることにジフは割り切れない。
救いは、ジャンディが理解出来ずにジフに真っ直ぐな視線を向けてくれていることか。
「大丈夫だから」
何が、とか、どうして、とか、そういう些末なことをすっ飛ばして、ジフは腕の中にある幸せを具象化した存在に告げる。
いつでも、どんな時でも、この腕はジャンディのためにあるのだと。
その想いが一方通行であった時でさえ、自分を必要としてくれることになによりの幸せを感じていたのだ、今はその気持ちが自分に向いているというだけで至福であり、むしろそれ以上を望んではいけないと自戒するほどで。
「ありがとう」
ジャンディの口癖のような言葉が、こんな時にもこぼれ落ちる。
謙虚すぎるほどに自分に厳しいジャンディは、だから、どんな時もまず、謝意が出てくる。
ありがとう、ごめんなさい。
聞きたいのはそんな他人行儀な言葉ではないのだと、おそらく当時は遠慮会釈ない暴言も口にしていたのだろう相手のジュンピョを羨ましく思ったこともあった。
でも今は、それがジャンディの偽らない心なのだと分かるから。
「ジャンディのありがとうは、聞き飽きたよ」
そんなふうに、冗談にしてみせるほどの余裕も出てきた。
だからこそ、幼少の頃からを知っているF2には誤摩化しが利くはずもなく、さらにからかわれるネタにされてしまうのだけれど、それすらも愛しく思えるようになったのはジャンディのおかげだと、ジフはちゃんと分かっていた。
ひとしきりジフとジャンディをからかって満足したのか、それともイジョンがカウルとデートでもするのか、夕食をと誘ったけれど3人とも断って帰っていった。
「先輩」
ソギョンもそう遅くならずに戻るだろうとキッチンに立ったジャンディが、刃物を持つ手元に意識を集中しながらも、お互いの位置を背後に感じられる場所で書類を手にしているジフに声をかけた。
「カウルがね、ちょっと驚いたって」
3人の帰りがけ、カウルがジャンディを抱きしめながら何かくすくすと笑いながら囁いていたことは知っていた。
自分たちと同じくらい、いやおそらくはそれよりももっと純粋で深いふたりの仲を知っているから、冷やかしまじりで、でもきっと心からの会話がなされているのだろうと、ジフはF2と話をしつつも意識をジャンディに向けていたのだ。
『ジフ先輩って争ったりしないイメージだったから』
そう、カウルが言っていたのだと、ジャンディは教えてくれた。
確かにジフは一見、F4の中でも一番表情に変化がなく、良く言っても無愛想、むしろ無表情・無感動などとにかく無というという言葉が当てはまるほどだったが、ジャンディに関わるようになってからの姿しか知らないカウルにとっては、子どものように破天荒で唯我独尊に振る舞うジュンピョに比べれば確かに温厚であっただろう。
実際、どんな時でもジャンディのことを最優先にし、いつでも守るようにそばにいたジフはカウル本人を認識してはいてもあまりよく知らず、カウルにとっても顔を合わせても交わすのはせいぜいが一言二言、それもジャンディに関することのみで。
それでも、あまりよく知らなかったウビンや、当時はわざと女性に対していい加減な態度を取っていたイジョンたちよりも、権力や外見、財産等を自慢したりひけらかしたりすることもなく、どこまでも優しくて優しくて優しいおとぎ話の白馬の王子様、そんなイメージだったらしい。
だから、F2から暴露されたジフの意外な面に、それでもなぜか違和感がなかったことに驚いたのだと言ったらしい。
ジャンディもカウルも、年としてはF4よりひとつ下であるだけで、当然すでに成人年齢をいくつか過ぎているというのに、いまだに少女と呼んだ方がしっくり来る雰囲気を持っている。
見た目が幼いというわけでは決してなく、ふたりとも出会った頃よりもずっときれいになっているのだが、世間擦れしていない無垢な心がそう見せているのだろう。
もともと国を担う後継者ということで同級生よりも進んだ教育を特別に受け、学力は当然のこと、経営はもちろん処世術や護身術までをも叩き込まれてきたF4だから、その見た目だけではなく纏う雰囲気からしても、一歩も二歩も先に大人の仲間入りをしていたのだから、一般の生徒と画していたことには自覚がある。
だからこそ、社会に求められる一般的な年齢の姿も好まれる嗜好も熟知しており、むしろ逆にジャンディたちがあまりにも無防備なほどに純粋なことに、いまだに慣れることが出来ないでいるのだ。
早くから決められた立場に膿み、好みは違えど女性関係が華やかだったイジョンとウビン。
与えられてきたものを当然だと疑いもしなかったジュンピョ。
自身を含め、何をも大切に出来なかったジフ。
その全員を根底から覆したのが、『単なる庶民』であるはずのジャンディだった。
切欠はそれぞれでも、『気にかかる』が『心配になる』まで、それほど時間はかからなかった。
顕著だったのはジュンピョで、嫌がらせをした挙げ句、反論してきたジャンディに『俺に気がある』と幸せな誤解をし、あれこれいざこざはありつつも、その押しの強さが功を奏したのか、関係は実っていたはずだった。
真逆のジフは、想いを自覚した時にはすでに遅く、でも何よりも大切な存在だと気付いたからこそ誰よりも『幸せに笑っていてくれれば』という想いは強く、自分ではない相手を想って泣く人を抱きしめ、その痛みを共有していた。
どちらも教えてもらえなかった普通の人間関係に不器用で、けれどいい意味で世間擦れしていないジャンディにはその差が分からず、おそらくは寄せられる想いに気付いてはいても、静と動の両極端ともいえる態度に戸惑っていたのだろうことは想像に難くない。
であればこそ、心がどこに居たがっているのかを自分で分かるまでにこれだけ時間がかかってしまったのだろう。
それをジフは責めるつもりもないし、もっと長く、いやいつまでも待つつもりでいた。
自惚れでなく、ジュンピョよりもジャンディに近いところにいると思っていたし、たとえジャンディがジュンピョといると決めてもふたりの関係が終わるとは考えなかったからだ。
どんな時でも、どれほど些細なことでも、ジャンディがもどかしくなった時にはいつでも自分がいることを思い出してもらえればいいと、本気でそう思っていたのだ。
もう10年以上もソヒョン以外、もしかしたらF3のことでさえも我関せずで過ごしてきたのに、ジャンディが現れてからは彼女に振り回されてばかりだった。
もちろんそれはジャンディの所為ではなく、ジフ自身、自覚がないままに行動した結果がそうであったということなのだが、それは自身にとってもF3にとっても驚愕に値するほどのことだった。
乱闘騒ぎが日常のジュンピョはもちろん、もともとの組織の成り立ちのために必要に迫られているウビンも、複雑な家庭環境のせいで荒れ気味な女性関係から起こる面倒な関係の清算のために仕方なくというイジョンも、頻度に差はあれど、それなりの立ち回りは経験している。
が、そもそも荒事になるほど他人と交流を持たないジフにとっては、基本から応用、実戦に対応出来るまでに叩き込まれている体術を使うことすら、初めてだった。
面倒になりそうなことは極力避け、巻き込まれそうになっても適当にあしらって火の粉が降り掛かるのを回避することは、ジフにとってはカードゲームよりも容易いことだった。
打つべき手を打ち、回避出来る事項は前もって根回しをしておく、それは呼吸することと同じくらい身に染みついた習慣だった。
おそらく、ジュンピョにとっても、はじめはその程度のものだったはず。
よくある、『女生徒からの告白』。
真実は、嫌がらせを受けたジャンディがジュンピョに文句を言いに来たのだけれど、それさえもお目出度いジュンピョは初めての経験だからか己の都合のいいように解釈し、ジャンディがジュンピョに惚れているという結論を導き出していた。
外見や背景、ジュンピョ当人でさえ、あの頃はそういうステイタスシンボルに囚われていた。
そういう全てを粉砕してくれたのが、ジャンディだ。
社会的なステイタスを理解せず、『普通の人として』、F4と真っ向から対峙してくれた。
優遇されることが当たり前で、邸にいるものたちは当然、雇われる立場の人がいるということさえ気付かなかった。
周りにいるものは全て『家』に目が眩み、財産や地位、そうでなければその外見が目的なものばかりだと、頑に思い込んでいた。
そんな自分たちがジャンディと出会って、今までモノクロームだった世界に色がつき、音が溢れ、眩しいほどに輝いていることを教えてもらった。
でも、それだけでいっぱいいっぱいで、気付くことが出来なかった。
ジャンディに感化されたのは、自分たちだけじゃないっていうことに。