01. 例えば君がいなくなったら
多分、自分にとって唯一なのだと思う。
家族よりも深く、理解してくれている人。
『見える』ことを不気味がったり興味本位で近づいたりせず、ありのままを受けとめ、その理由までも解明してくれた。
何もかもが、全く正反対なのに、一緒にいるだけで、それが当たり前なのだと分かる。
だから、例えば君がいなくなったら。
そう考えるのはとてつもなく怖い。
先の戦争でも、自分は生き残る自信はあったのに、もう一度会える未来が想像出来なくて。
過去しか見えない『目』なんて、いらない。
幸せに過ごす未来だけが映る『目』が欲しい。
もしもそれが妖怪の範疇でも構わないから。
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02. 痛みを伴う予感
初めてそれを実感したのは、結婚の連絡をもらった時だった。
それまで浮いた噂ひとつなかったから、大学卒業と同時に、ということに驚いたからだと思い込もうとした。
西洋の磁器人形のようだと幾度となく言われた外見のせいで、女はともかく男にもあれこれ言い寄られた自分と違い、きちんと見れば整っている容姿なのに、痩せぎすな上にいつでも不機嫌そうな仏頂面をしているせいで取っ付きにくい容貌だと思われていたのに。
だから、恋愛なのか見合いなのか、そんなことすらいまだに知らない。
ただ、自分にですら滅多に見せない無邪気な笑顔をその人には無条件で晒すのかと考えたら、形のないどこかがジクリと膿んだ。
それは、どれほど自分が奔放に振る舞えるとしても、絶対に許されない位置。
当然のようにそこに居座って笑う人を、これからは受け入れて見続けなければいけないというのは、痛みを伴う予感だった。
それでも。
会えなくなるよりはマシだと。
痛みでさえ受け入れられれば、この時間は永遠に続くのだと、信じたかった。
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03. 平気じゃないのはたぶん僕
「今日はいなくてね」
そういう日を狙っている訳ではないけれど、言われれば嬉しいことには違いない。
出涸らしであっても茶は茶だし、定位置でごろりと寝転ぶのに遠慮もしなくていい。
本を読んでいるか本を読んでいるか本を読んでいるかだから、あたりは静かで。
何も話さなくてもいい空間は、結構気に入っていたのに。
いつの間にかすっかり、ここが他のヤツらの集合場所になってしまっている。
なんだかんだ言って面倒見はいいし、訊いたことには懇切丁寧に教えてくれるから、居心地はいいし頼れることは認めるけど。
ただ、自分だけのものだったと思っていたことが、そうじゃなかったと改めて知らされたようで。
こんな状態でも、平気じゃないのは多分自分だけ。
もどかしくて歯痒く思ってるなんて、きっと気付いてないんだろう。
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04. 想う数だけ聞こえる音色
何よりもまず、紙を繰る音。
和装独特の、硬質な衣擦れの音。
急須から湯飲みに茶を注ぐ音。
風が庭の木の葉をそよがす音、軒にかけられた風鈴の音。
「京極堂、邪魔するよ」
…サルと下駄と…下僕たちの声、敦っちゃんもいるか…。
ようやく聞こえる、不機嫌そうな主の声。
静寂を好むクセに、迷惑そうな表情をするクセに、それでも決して追い返したりはしない。
鬱陶しい雑音のあとに続く、滔々と響く蘊蓄。
それはまるで、子守唄のような。
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05. ご褒美=(イコール)君
なんだかんだで、数週間。
古書店の主で、神社の宮司で、憑物落としの拝み屋ではあるけれど、何でもかでも解決する便利屋ではないのに。
おもしろくなくて、鬱憤を晴らすように暴れてやった。
そう出来るように、計画を立て、取り計らってくれたから。
興味のないことにはとことん無関心でいるかのように見せながら、こんなふうに誰も気付かないそれぞれの細部まで考えている。
だからいつも、ひと仕事を終えたあとは疲れ切ってしまう。
そんな時は、細君も近付けさせない。
ただ、幼子のように小さくまるくなって、無防備に僕の腕の中にいる。
それはなによりのご褒美だ。
この時間があるから、きっとずっと、この恋は手放せないのだろう。
「やむなく暴力沙汰になったとしても、動きは最低限、狙うのは急所のみっていう、悪魔みたいなヤツなんだよ」
「…護身術の基本だから」
「ジャンディは見てなかっただろうけど、モデルの時もマカオの時も、ジフが一番やり方に容赦なかったんだぜ」
「そ、雑魚は放っておいて狙うのはリーダーのみってね」
確かに下手な攻撃で相手を逆上させる可能性を考えれば、確実に落としておくのは理に適っているし、無駄に体力を消耗するのは得策ではなく、司令塔がいなくなれば下っ端などとるに足りないゴミに成り果てる。
のだが。
「でもそれより怖いのは、暴力沙汰にしないように手を回すんだよ」
「しかも誰にも分からないように、いつの間にか、な」
ウビンの言葉に追い討ちをかけたのはイジョンだ。
「どういうことですか?」
不思議そうに訊ねるジャンディを見て、カウルがくすくすと笑った。
「なに、カウルまで」
少し不機嫌になりかけたジャンディに、ジフがいいタイミングで入れ替えた熱いお茶を持たせる。
ありがとうございます、と律儀に笑うジャンディを、ジフは自然に抱き込むように隣に座る。
「争いごとは嫌いだから、そうならないようにしてるってこと」
ふんわりというジフにジャンディは素直に頷くが、ウビンとイジョンは渋い表情を作った。
「…ジャンディ限定でな」
ぼそりと呟いたイジョンの言葉に、カウルが
「いつも先回りされてましたもんね」
と無邪気に続けた。
「カウル?」
「ジャンディの話はジュンピョ先輩のことは文句ばっかりだったのに、ジフ先輩のことはいつも大変な時にはいつの間にかそばに来て助けてくれるって言ってたでしょ」
「それはそうだけど」
それがどうして手を回すだの先回りだのになるのかがジャンディには分からないらしい。
「昼寝して楽器弾いてばかりに見えて、俺らの誰よりもジフは頭が切れる、策士だからさ」
「だから、普段がとにかく動かないヤツだからこそ、逆にその分、ジフが何か行動を起こす時には非常事態だってことなんだ」
いい募るF2に、
「あ、非常ベル…」
ジャンディがふと思い当たったように呟いた。
「いつも聞き逃さないようにしてたからね」
その言葉は、カン会長の手がカウルやジフへ伸びた時に全てを諦めて家族のいる漁村へ逃げたとき、探しに来てくれたジフがくれたものだ。
ジュンピョとの距離が掴めなかった時はプールまで何度も来てくれた。
カン会長からの心身的な嫌がらせに堪えられなくなる時には、抱きしめて涙を拭いてくれた。
マカオの空港では、真っ直ぐにジュンピョに向かって怒りを表してもくれた。
「俺たちも、ジフにそんな行動力があるなんて知らなかったけどな」
イジョンが茶化すのにもジフは動じず、
「素直にぶつかる決心もすがる勇気も必要だって、教えてくれたのはジャンディだから」
ジャンディの目をふわりと見つめながらそう言った。
「ジャンディがジュンピョを好きなら、ジュンピョといて幸せに笑ってくれるのなら、どんなに困難な問題にもぶつかっていくし、何にすがってでも絶対に守るって決めてた」
そして、長い両腕の中にジャンディの細い身体を抱え込む。
「その結果が『今』なら、何の後悔もないよ」
「でもちょっと、びっくりです」
ふとそう呟いたカウルに、イジョンが視線を送る。
「ずっとジャンディには特別な人だって思ってましたけど、こんなに甘いタイプだとは知らなかったので」
クスクスと笑いをもらすカウルの視線は、ジャンディを抱き込んでいるジフの両腕にある。
「ま、あんまり、っていうか滅多に見られるもんではないよな」
そういうイジョンも、カウルとほとんど隙間がないほどくっついて座ってはいるが、さすがに手を回したりはしていない。
「木のロボット以来か?」
「かもな」
ウビンとイジョンが、おそらくはF4にしか分からない話題なのだろう、ニヤニヤと笑うのをジフがじろりと横目で睨んだ。
「気をつけろよ、ジャンディ。ジフはハンパなく執着心がすごいからな」
「そうなの?あんまり拘りってなさそうだけど?」
誰でも何かしら拘るものはある。
F4は環境的にも金銭的にもその許される範囲が広かったために、服やアクセサリー、持ち物をはじめ、飲食物その他に至るまで、それぞれにどのブランドだのデザイナーがいいだのとかなり贅沢に選択してきている。
その中でジフだけは、値段を気にすることはないにせよ、基本的に好みに合えば何でもいいというスタンスを貫いており、F4の中でも比較的ラフな格好も着用していた。
「だからこそ、気に入ったりしたものを見つけると、な」
「ジュンピョとは違う意味で独占欲がすげえんだよ」
口々に言うF2に、ジャンディがわずかに引き気味に苦笑する。
「誰にも見せないように隠すし、触らせないように抱え込んで放さないし」
ちょうど今みたいにな、とウビンが笑うのにジャンディがジタバタし始めるが、むしろそれはジフの囲う腕の力を強めただけだった。
「分かりやすい代表がジュンピョ、分かりにくい典型がジフ」
「どういうことですか?」
ジャンディの代わりにカウルが問うと、イジョンがにっこりと笑った。
「タイプは違うけど、どっちも自分に素直ってこと」
意味が分からないと首を傾げるジャンディとカウルに、ウビンが補足した。
「自分を優先するのがジュンピョ、自分じゃないものを大切にするのがジフ」
「そう言われるとなんとなく分かるような…」
頷くカウルに、ジャンディが視線を向ける。
「ジュンピョ先輩だってジャンディを大切にしてたと思うけど、でも結局はジャンディの都合とか気持ちよりも、まずご自分がしたいように行動してたように見えたもん」
ずっとジャンディと一緒にいて、ジュンピョの突飛な行動に巻き込まれることも多かったけれど、でも渦中のジャンディよりもF4を一歩引いた場所から観察出来たカウルならではの視点は、今でもF4にとっては新鮮な感想を聞ける。
「でもジフ先輩は、ずっとジャンディのためにいろいろされてたでしょ」
鈍感なジャンディはずーーーっと気付かなかったみたいだけどね、とペロリと舌を出したカウルに、ジャンディが膨れっ面を向けた。
「しょうがないじゃない、あれこれいっぱいいっぱいだったし」
ぼそぼそと言い募り、
「…分かりにくかったもん」
小さな声で付け足されたのはおそらく、分かりやすすぎるほど強引なジュンピョに比べて、なのだろうとジフには容易に想像がついた。
ジュンピョに振り回され、カン会長に放り出され。
やっと見つけた道は、生活のためのバイトさえ返上しなければならないほど困難で。
だから、ジフが彼女を思ってするさり気ないあれこれに、目の前にあることに対処することで精一杯なジャンディが気付かなくても仕方のないことだった。
それでも、名誉消防士を名乗らせてもらえるほどにはジャンディの中に居させてもらえたのだ、当時のジフにはそれで充分満足だった。
でも、だからこそ、きちんと今後のことに向き合った時、自分の中での優先順位が変わっていたことに戸惑い、迫られる未来への選択に焦り、それなりに考え抜いた答えであるはずの今ですら後悔が全くないとは言い切れないことに忸怩たる想いを抱えていることは、カウルはもちろんジフもちゃんと分かっていた。
「今も?」
だからだろう、ふんわりとジフはそう、訊ねた。
「今は…っていうか、ちゃんと気付いてみたら、むしろ申し訳ないくらいなんだけど…」
ぼそぼそと続けるジャンディに、ウビンがからかうような視線を向けた。
「端から見てたら分かりやすすぎるほどだったけどな」
「そうそ、ジャンディのことになると、昼寝ばっかりしてたやつとは思えないほどの行動力だったからな」
イジョンの追い打ちに、ジャンディがきょとんと目を見開いた。
「私のこと?」
「ま、ジュンピョの派手な行動みてれば、俺らにもすぐに何か起きたって分かったけどさ」
「そうそう、その対応の素早さが群を抜いてたってだけで」
楽しそうなふたりに、ジフは憮然と呟いた。
「…褒めてないことは分かるよ」
01. 君の「ほんと」を知ってるよ
そもそもまず、思いっきり笑っているのを見たことがナイ。
もちろん、全く笑わないというワケではないけれど。
たいていは唇の端っこをちょっと上げて、ニヤリ、とか。
相手を上から見下ろす感じで睥睨し、鼻先でふっ、とか。
それって笑顔って言っていいの?ってなものばかりなのだ。
もしかしたら、赤ん坊の頃から笑ったことがないんじゃないかと邪推するほど、本当に笑わない。
それが。
見ちゃったんだ。
ふっとそよいだ風や、コンクリートの割れ目からのぞいた小さな花や、そんななんでもないものに向けた、ふんわりとした優しい笑みを。
そうか、それが『ほんと』の顔だったんだって、知った気がした。
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02. そういうトコも好きなんだけど
偶然ばったり顔を合わせた途端の、しかめっ面。
というよりも、明らかに不機嫌ですっという表情は、見慣れたものだけど。
ただ最近気付いたのは。
そんな顔を見せるのは、自分にだけってこと。
他の人には、能面のようなままか、せいぜいが愛想笑い程度だけ。
しかもちょっかいをかけるごとにその態度はどんどんあからさまになり、まるで懐かない野良猫が威嚇しているかのようで。
まあ、そういうトコも好きなんだけどさ。
きっと、誰にも触れさせない野良猫が懐いてくれたなら、最高に幸せなんじゃないかと。
ついそう想像してしまうのは。
あんただけだからって、知ってる?
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03. 押しても駄目なら引いてみる
好きな子にはついちょっかいをかけていじめたくなる。
多分それは、世のほとんどの男子の照れ隠し。
でも俺にとっては唯一の愛情表現。
警戒心丸出しの相手に、いくらレディキラーでプレイボーイであっても、甘い言葉なんて囁けやしない。
それに、からかい混じりでなら、おもしろいくらい素直に敵愾心むき出しで相手になってくれるから。
とはいえ、そろそろ『喧嘩がコミュニケーション』なんて言われてる関係を進展させてもいいかな?
強気な相手にはどこまでも強く、弱い相手にはとことん弱いって、知っちゃったもんね。
押しても駄目なら引いてみな、の格言に従い、今回はちょっとだけ、弱ってるフリをしてみせる。
ほら、驚いていつも通りの態度が取れなくて焦ってる。
多分、他の誰も知らないあんたのそんなお人好しなとこに、つけ込ませてもらうよ?
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04. その沈黙の意味は「Yes」?
『結構、行き詰まっててさ』
己の能力と、チームのレベルと。
思ったように走れないもどかしさ、出せない成績。
もっともっとと高みを目指したいのに、叶わない現状。
ふと本音をもらせば、表情の選択に困ったような曖昧な笑みが返ってきた。
「走りたいんだ」
ハイネルと、もっと。
言葉にしなかった部分も、届いていると、なぜか確信出来た。
真面目に真剣に聞いてくれる、だからこそのその沈黙の意味は、『イエス』だろ?
一緒に、走ろう?
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05. 今日は離れてやらない
成績が、ふるわない。
当然だ、ドライバーとしてだけではなく、メカニックとしてもマシンに携わっていれば、休む暇もないはず。
その上でさらに、内密に新規チームを立ち上げようとしているのだから、心身ともにその負担は計り知れない。
最初はただ、気に入らないだけだった。
でも、誰にでもすぐ仲良くなれる自分にとって、気に入らないなんて存在は初めてだった。
それは意のままにならないという単純なものではなくて。
根底には、こいつなら自分の隠された根底にあるものでさえも受け入れてくれるのではないかという、期待があった。
どいつもこいつも作られた表面の自分しか見ない、それが当たり前の世界で、唯一隠していた真実を受け止めてくれたから。
どんな関係でも構わない、ただ一緒にいたい、だから今日は離れてやらない。
愚痴も惚気も、ただ普通の会話でもいい、一緒にいてほしい。
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06. 言葉にしないけど分かってよ
公表は、来シーズンのはじめに。
そう決めたのは、きちんと形になり、軌道に乗ってからというのが表向きの理由だけれど。
そうしたいとごり押ししたのは、他ならぬ俺自身。
レースへの参戦登録等で関係者にはすでに情報が行き渡っているだろうが、ギリギリまでマスコミには邪魔をされたくなかったから。
寝る間も惜しむ彼の時間もだけれど、何よりも一緒にいる二人の時間を。
恋愛に関してはとことん朴念仁な彼は、そんなことにも気付かないのだろう。
言葉にしないのに分かってと、望む方が無理というものだ。
そもそも、好意を持っているということすら知らない可能性だってある。
「ちゃんと言っといた方がいいんだろうって分かってんだけどさ」
せっかく築いた関係が壊れてしまうのが、何よりも怖いなんて。
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07. ただ声が聞きたいだけ
シーズンの幕開けを直前に、ラボに籠り切りになってしまった。
テストだのなんだのと呼びつけられては酷使されつつ、それ以外は組まれたトレーニングスケジュールをこなす日々。
もう何日、まともな会話をしていないんだろう。
耳に届くのは、まるで機械のように無機質で淡々と用件だけを述べる声。
むしろサイバーカーに搭載されている音声の方がマシなくらいだ。
嫌味でも怒鳴り声でもいい。
ただ、ちゃんと感情のこもった声が聞きたいだけ。
ということで。
とてもとても欲望に素直に行動するのが、俺の信条だから。
夜這いならぬ、昼這いを決行することにしよう。
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08. 泣く一歩手前の顔をしてるのに
こっそり忍び込めば、数字の羅列が表示されているパソコンの画面の食い入るように見つめる姿があった。
いつものように、お気楽なフリで声をかけようとして、なぜか戸惑った。
もともと彫刻か人形かと思うほど整った容貌が、こちらの胸が痛くなりそうなほどに歪んでいたから。
刻々と数値を変える画面を、見ているようで実は、そうではなく。
何よりも大切にしたい人が泣く一歩手前の顔をしているのに、抱きしめて大丈夫だと言ってやれない自分の立場に苛立つ。
思うような数値をたたき出せないのは、自分だけのせいではないけれど。
それでも、出来れば自分が笑顔の理由になりたいと思うから。
眉間に寄せられた皺、噛みしめられた唇、白くなるほど握られた拳。
薄い肩がわずかに震えているのが見て取れて。
どうしても我慢出来なくて、背後からそっと、でもぎゅっと、抱きしめた。
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09. 何度でもこうして、ほら
いやだ、離せともがく身体を全身を使って拘束する。
同じレーサー、しかも身長はほとんど変わらないのに、大柄な部類に属する自分と比べると腕の中の存在は驚くほど華奢だ。
よくこれであのハンパないGに耐えられたと…いや違うか、そうじゃないからこその新チームなのだから。
「一休み、しよ」
真摯であるからこそ、無理を重ねたがるから、こうやって強引にでも休ませる。
チームのトップに立っているからクルーの誰も彼には逆らえない、これは俺だけの特権。
甘えることも弱い姿を見せることも出来ない意地っ張りだからこそ、俺が理由になれればいいと思う。
呆れたり、愛想をつかしたりなんかしない、むしろもっとそういう姿を見せてほしいから。
何度でもこうして、ほら、抱きしめるから。
吐露した心情も泣き言も、全部受け止めるから。
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10. ラスト・チャンス
多分これが、最後の機会になるだろう。
勝ちにいくためにドライバーを引退し、マシンを作り、統括する立場を選んだ彼。
ちょっとした事故のために走れなくなったレースに代理で出て、今回は金銀2台のマシンがコースに並んだけれど。
それでもいざという時には自分を犠牲にしても俺を走らせる彼に、漠然とながらそう思った。
目指す高みは同じでも、昇る道程は別々なのだと。
でも、同じ頂上を見ているのだと。
一緒に走っていたかった、そう気付いた時にはもう、遅かったけれど。
言葉通りではなく、裏に隠された深みを知ったから、もう大丈夫。
サーキットだけじゃなく、どこまでも一緒に走っていこう。
ラスト・チャンスなんて言わないで、これからいくらでも二人で乗り越えていこう。
「お帰りなさい、早かったんですね」
「うん、とりあえず顔合わせだけだったから」
嬉しそうに笑うジャンディに、ジフの声も軽くなる。
ソファの背もたれ越しに背後から腰を折ってジャンディの頬にふわりと唇を落としたジフは、真っ赤になって挙動不審になるジャンディの頭を愛しそうに撫でてから着替えてくる、と自室へ向かった。
「も、もう、ジフ先輩ったら、あは、あはは」
キョロキョロしたり両手をバタバタさせたりと忙しないジャンディの照れ隠しは相変わらずで、ジフでなくても確かに構いたくなるなとウビンは納得した。
初対面からしばらくは、会うたびにジャンディはジュンピョに嫌がらせをされ、いつも顔をくしゃくしゃにして怒り叫んでいた。
とにかく威勢がよくて強気で、そんな印象が強かったからきちんと見たことなどなかったのだ。
けれど、ソヒョンのための2度のパーティで制服からきれいなドレスに着替えて笑ってみせた時、イジョンとウビンは、実はジャンディがとても可愛いことに気付いたのだ。
黒目がちの大きな瞳、色白で肌理は細かく、F2が好む女性たちに比べるとやや凹凸に不足はあるもののほっそりと華奢な肢体は手足が長くきれいにバランスが取れていた。
それを後で話していた時に、ジフはさも当然というように、『校庭で初めてあった日から知っていた』と言い放ったものだが。
ともあれ、身近に頭脳明晰容姿端麗である国際モデルのソヒョンや、見た目も中身も地位も『伝説のカリスマ女王』と女生徒に憧れられるジュンピョの姉ジュニを見てきており、本人たちも伊達にF4と呼ばれているわけではないその自覚がある。
ジャンディは、そんな上辺だけに騙されない目を持っている自分たち全員を虜にしたほどなのだ、他の誰から見たって魅力のある人物であることは明白だ。
そもそもまず、見ず知らずの人を、いや一応店の客ではあったらしいが、自殺するのを引き止めるまでならともかく、それなりに普通の体格であった男子生徒の落ちる身体を細い女性が掴み留めるなど、有り得ないだろう。
ワンダーガールだのと騒がれて有名になり、自分たちの学校が非難の対象となり、赤札などおそらくは単なる切欠に過ぎず、だからこそ一般庶民であるジャンディは無駄にプライドだけは高いセレブを気取る他の生徒たちからひがみややっかみの捌け口として事あるごとに虐められてきたのである。
裏を返せば、良くも悪くも他の目を引きつけてしまうということだ。
そしてF4が関わったせいでそれは顕著になった。
さらにジュンピョとの関係は幸せなものばかりではなかったからこそジャンディの内面をより強くしなやかなものにし、ジフとの時間は穏やかで心休まるものであったためにジャンディの精神をより深くたおやかなものにした。
F4と並んでも遜色ない、むしろ誰よりもその価値があると周りに納得させるほどに、この数年間でジャンディはきれいになったのだ。
相変わらず自分に寄せられる好意には疎いジャンディだから、遠回しな態度に気付くはずはなく、真っ直ぐに告白されてさえも『私なんて庶民以下だし、貧乏人がもの珍しいだけですよ』なんて言っている。
これだけ長い間そばに居続けたジフの気持ちでさえずっと親切心だと思い込んできたジャンディだから、今更他の誰に心が向くことはないだろうとは思うし、強烈なジュンピョと真綿のように包むジフのふたりに愛されたジャンディが、普通の恋愛はもう出来そうにもないとも思う。
それでもやはりウビンは心配なのだ。
ジャンディに、どういう形であれ、ちょっかいをかけて来る人があとを絶たず、そういう輩に対してジフがどういう対処をするか、ということが。
「あのなジャンディ、こう見えて何かあった時、俺らん中で一番ヤバいのはジフなんだ」
「何かって、ヤバいって…」
ジャンディの表情から、『何か』がF4にであり、しかもとんでもない方に向かっていると察したウビンは、苦笑して否定した。
「違う違う、ジャンディに『何か』だよ」
「え、私に?」
意味が分からないと目で問うジャンディの隣に、ラフな格好に着替えて座ったジフが、余計なことを言うなと視線で牽制してくるが無視を決め込む。
「まあ、あんまりジャンディの前でそういう姿見せたことないかも知れないけどさ」
どっかのモデルがジュンピョを陥れようとジャンディを攫った時も。
スキーに行った時にジュンピョからのネックレスを騙しとったバカ女たちへも。
単身ジュンピョに会いにマカオまで行って質の悪いヤツらに陥れられそうになった時も。
「とりあえず軽く、再起不能にしてたから」
「え…」
「荒事はジュンピョか俺かって思ってるだろ?」
ニヤリと笑ってお茶をすするウビンに、ジャンディはこっくりと頷く。
「確かに力業ならそうなんだろうけどさ」
続けるウビンの楽しそうな表情にジフは諦めたのか、お茶を入れ替えに立っていった。
「基本的に俺らは護身術として一通り習ってるし、ま、俺はその中でもちょっと特殊な方だから必然的な部分もあるんだけど」
そう言うウビンに、以前のような自嘲的な陰はない。
「ジュンピョはあの通り馬鹿強ぇけど、力任せで強引なだけだから、結構単純なんだ」
いやそれでも喧嘩で負け知らずというのは相当なのではないだろうか。
「俺もどっちかっていえばそうだな。ジュンピョほどの馬鹿力はないから、当たりどころの狙いはつけるけどさ」
対多数の乱戦でもそれが出来るっていう方がむしろすごいと思うんですけど。
声に出さないジャンディの意見は、それでもジフにもウビンにも通じているが、そのまま放置しておくことにして。
「イジョンとジフはむしろ逆で一撃必殺のピンポイント狙いだよな」
「怪我したくないからね」
くすりと笑うジフに、ふたりともその手で芸術を生み出していることにジャンディが納得する。
「けどさ、決定的な違いってのがあって」
「ジフ先輩とイジョン先輩に?」
「そう」
きょとんとした顔をすると、ジャンディの雰囲気は高校の頃にたちまち戻る。
きれいになったとは言え、もともとが童顔で、大きな瞳が印象的で、そして何よりもその何にも穢されていない真っ直ぐなまでの純粋さのためだ。
そしてそれを大切に守ってきたのがジフで。
例え、どれほど自分の手を汚してでも、そういう覚悟がずっとジフにあったことはF3全員が知っている。
「イジョンはさ、結構情熱的で潔癖なところがあるから、後先考えずに突っ走るところがあるんだよ」
カサノヴァを気取っていた頃でも、ジャンディとカウルに対してはいい加減なふりをし切れず、カウルはもちろんジャンディやジュンピョまで馬鹿にした男に報復したり、マカオでは豹変したジュンピョに食って掛かったりもした。
「そんなふうには見えませんけど」
ジャンディの知っているイジョンは、カサノヴァの頃は飄々と上辺だけを楽しみ、スウェーデンから戻ってからはカウルを穏やかに包み込むように大切にしている、そんな荒事とはあまり結びつかないイメージだ。
「何より手を大事にしてるからな、好んで首を突っ込むことはないけど、な」
そうなんだ、なんて暢気にジャンディは頷き、
「じゃあカウルも安心だね」
なんてにっこりと笑う。
相変わらず自分よりもまず他の人の心配をするのがジャンディらしくて、ウビンはくすぐったくなった。
「で、ジフはだな」
それを誤摩化すように続ければ、ジャンディも興味深そうな視線になった。
「力に頼らず、というより力を使わなくていい方法を選ぶんだよ」
「力を使わない?」
ちょうどそのとき、イジョンとカウルが到着し、ひとしきり賑やかに挨拶を交わし、気付いたジフがふたりの分もあわせてお茶を持ってきたところでウビンが再開した。
「ジャンディ、俺らF4の大切な友人であり妹分であるお前にひとつ、忠告しておく」
珍しく真面目な顔でウビンがそう言ったのは、イジョンがカウルを迎えに行ってから来ると、少々遅れる旨を伝えた日だった。
その日ジフは財団関係で祖父と一緒に出かけており、ジャンディしかいなかった。
ジャンディは4回生としての生活が始まっており、その大変さに根をあげる寸前というタイミングでのことだ。
もともとの出来が違うとは言え、ジフはこんなにも大変な時期でもこれまでと変わらずジャンディの勉強を見てくれていた。
しかも、学部を移籍してのことで、そのしんどさは計り知れないのに、である。
受験のための時はもちろん、けれど入学してからの方がよほど過酷であるとしみじみと感じていたのは、高校時代とは違い、嫌がらせに付き合う時間が惜しいほどの勉強量の多さだ。
特にジャンディは、奨学金をもらっているから、それなりの成績を維持しなくてはならない。
『入学出来ただけでも奇跡なのにねえ』
はじめの頃は何度もそう言っていたジャンディだ。
「怒らせて一番怖ぇのは多分、ジフだからよ、頼むから気をつけてくれ」
だから自分のことだけで手一杯で、気をつけろよといきなり言われても、さっぱり意味不明でちょっとばかり眉間に力を入れてしまった。
「なんだかな、もーっ」
高校の時と同様、ジャンディは大学の医学部館でも非常階段で息抜きをしていた。
神話は幼稚園から大学まで一貫教育を施しており、ジャンディのような中途入学者は皆無ではなくとも、珍しがられる程度に多くない。
そもそもが、それなりに金と権力がある立場の子息しか通えないような制度だから、能力を見込まれての推薦であればともかく、一般庶民以下の暮らしをしていたジャンディにとっては、忌避すべき場所でしかなかった。
はずなのに。
「みんな、暇なんだねえ」
高等部に編入して以来の嫌がらせは、大学に入ってからも変わらず続いている。
公共のメディアを使って将来を宣言したジュンピョがいないから軽減するかと楽観していたが、なぜか今まで以上に近い位置にいるジフとの関係を責められ、しかもジフはもちろん同大学に在籍するウビンにもバレないようにと、陰湿さが酷くなっていた。
高校の頃に赤札を貼られて集中攻撃されていた時の方が、いっそあけすけに潔くてまだマシだったと思えてしまうほどのそれに、ジャンディはため息をつくことしか出来ずにいる。
「たまごも小麦粉も、消火器も思えばかわいいもんだったのかなあ」
3バカガールズの嫌味はともかく、当時はとにかく首謀者がはっきりしており無責任な娯楽としてであったためか、肉体的な傷だけですんでいたのだ。
「とにかく、ジフ先輩に迷惑かけないように頑張らないと」
庶民のくせに神話の医大に入ることがそもそも身分を弁えないとか、浪人することがまず能力的に医師になる資格がないだとか、ジャンディ本人に関する嫌味ならば我慢も出来るけれど、それがジュンピョやジフ、ウビンにまで派生するとなれば話は別だ。
庶民の悪知恵に誑かされてとか、F4の人のよさにつけ込んでとか、F4を神格化するものであればまだマシで、特に男性からはやっかみもあってか、『庶民に誑かされるとはその程度だったのか』などと人格を否定するような悪質なものさえあって。
目に見えるものならば反撃も出来るけれど、不特定多数による見えない悪意は末端の火を消しても大元の火種を処理しない限りはなくならないから、際限なく続くのだ。
特に、ジャンディが浪人したせいで、年齢は同じなのに先輩に当たる人や、逆に同じ学年だけれど年下になる同輩からは蔑みが酷い。
その中での救いは、少ないけれど外部からの進学者の存在だった。
F4の存在を世間一般的に知ってはいても、ジャンディとの関係までは噂程度にしか知らないから、天下のF4に付きまとう身分を弁えないヤツという認識が強い中、それでもジフやウビンの態度から察して当たらず触らずを貫いてくれる人もいないワケではない。
もちろん、F2がジャンディを大切にしているからというのが理由ではあっても、表面上は庇うことはなくとも陰では友人扱いをしてくれるからだ。
ジャンディとしても、神話に編入して以来、孤立することに慣れてはいても、心が痛まないわけではない。
だから、片手で数えるほどではあっても、実技や実習でペアやチームを組まなくてはいけない授業の時に、下心があったとしても声をかけてくれる存在は単位を取るためにはありがたかったのだ。
そんな感じで、初年度はジフとウビンの両名が、その後の2年間はジフが在籍していたのでトータル3年間は、嫌味や嫌がらせもありはしたがなんとか切り抜けられたけれど、と、これからを覚悟していた時に、ジフからインターンではなく院に進むことを告げられた。
理由としては、祖父の跡を継ぐためと誰もが納得するものではあっても、ジャンディはその中のいくらかに自分のことが入っていることを分かっていた。
約束していたジュンピョが迎えにくる時期が近くなってきていたのに、ジュンピョについていくよりもやりたいことを選んだのに思うような結果を残せていないことに焦りもあり、さらには、それでも選んだ道がジュンピョと一緒になることで諦めなくてはいけないのではないかという心配もあり、未来に希望よりも不安が大きくなっていた時期でもあった。
それをジフは、あくまで自分と祖父のためだというスタンスを貫きつつ、ジャンディを迎え入れる窓口を用意してくれた。
その頃にはジャンディももう、自覚はなくとも気付いていたのかも知れない。
ジュンピョがいなくても寂しいと思うことなく頑張ってこれたのは、いつでもジフがそばにいてくれたからなのだと。
そして、たとえジュンピョと一緒にいても、いつでもそっと微笑んで寄り添ってくれたジフがいないということには堪えられないのだということも。
しかもジフは、ジャンディでさえ気付かなかったその深意を汲み取り、ただ一緒にいたいというだけでは叶わない未来に、共有出来る具体的な方法を示してくれたのだ。
…と、そうジャンディが気付いたのは、ジュンピョが派手な登場の仕方で約束を果たしに来る直前だったのだけれど。
ともあれ、それぞれの事情と感情が何年も絡み合っていたものがそれなりにほどけないまでもゆるんで落ち着き、付き合っているはずなのにどこか遠くてぎこちなかったジュンピョとジャンディはそれぞれのやりたいことを選び、どんな時でも自分のことよりもジャンディを最優先にしてきたジフは積年の祖父との関係が良くなったこと幸いと、これまで以上にジャンディに近い場所を選択した。
似た者同士だからこそ意地を張り強がることしか出来なかった相手と、本人でさえ気付かなかった弱さや脆さを全て受けとめ抱き込んでくれる人と、心を寄せるのは自ずと決まっていたようなものである、というのは、一番近いところで三人を見守ってきたイジョン・ウビンのF2とカウルの言だ。
いまだにジュンピョはジャンディを諦めておらず、けれど諸事情という名の己の選択により国外にいなければならないので、時間の許す限りジャンディに電話やメールで連絡をしてはいるものの、時差を考慮に入れないせいでむしろジャンディを怒らせていることの方が多いらしい。
逆にジフは、相変わらずジャンディにだけは細やかな気配りをし、勉強の手伝いなのか食事や睡眠なのか息抜きなのか、とにかく無理をしがちな本人の身体や心が発するSOSを本人よりも早く正確に受信し、時には先回りをしてでも応えている。
幼少の頃から無気力で心を閉ざし、F3やソヒョンでさえ何を考え何を欲しているのか分からなかったジフだからこそ、ジャンディに対してのみ見せる言動や行動力に驚きつつも、ソヒョンを追いかけてフランスへ行った後の荒れようとは違い、いい意味で変わったことを喜んでいたのだ。
だが、だからこそ、マイナスの部分も知っているわけで。
興味のないこと、自分に関係のないことにはとことん意識を向けないジフが、逆にこれと思ったことには常軌を逸するほどに執着し、独占欲を見せるのだとF3が知ったのは、ジャンディが現れてから、つまり出会って以来10年以上が経ってからだったけれど。
それはジフ本人にとってさえも驚愕の事実であり、親の敷いたレールから逸れてまでも自分で選んだ道を歩くことを決めたソヒョンを追ってフランスまで行き、突き付けられた己の未熟さや無力さを自覚させられた。
そこでジャンディを恨むことをせず、むしろ好意を持ってしまったのは、おそらくジフの生い立ちにある寂しさが主な原因なのだろう。
物心がつくかつかないかの時期に、自分が原因だと思い込んでしまうような状況で両親を亡くし、同時に保護者である祖父もいなくなった。
己の孤独は全て己が原因なのだと思い込み、だからこそ人の気配を厭い、使われない空間の方が多い邸とジフの生活を護ってくれている人たちさえも遠ざけて。
うるさいことも人の気配も煩わしいと思っていたのに、静かなはずの非常階段で泣いたり笑ったりするジャンディがいないとさみしく感じ、誰もいないことが当たり前の邸でジャンディの気配があることに安心する。
そして、ようやく手に入れた幸せを、ジフはどんなことをしてでも守るだろうことは想像に難くないのだ。
そういう状況で、同じ敷地内とはいえだだっ広い学園内で、大学と院に別れてしまったジャンディを、ジフが心配しないわけがない。
高校と大学に離れた時にはまだジャンディはジュンピョ付き合っており、後輩と先輩、良く言っても親友の彼女と彼氏の親友という曖昧な立場でしかなかったが、今回はお互いに思いを打ち明けた、歴とした恋人同士なのである。
ジュンピョという存在があった時でさえ、ジュンピョよりもそばにいてジャンディの心配ばかりしていたジフが、堂々と誰憚ることなく近くにいられる現状でそうしないわけがなく、さらには学校だけでなく仕事の方にも時間をとられてしまうのだから、心配症に拍車がかかるのは明らかで。
F4に囲まれて学生生活を送ってきたジャンディは、事の起こりが赤札騒動だったためか、向けられるものは全て悪意だと思い込んでいる節があり、女生徒はともかく実はかなりの割合で男子生徒からは好意を寄せられていることを自覚していないのは、表面にやっかみやF4に対しての妬みが混じっている所為もあるのだろう。
そしてジャンディは、ジフがジャンディに絡む相手に見せる態度を知らない。
相手を庇うわけではないが、それでもなるべく穏便に済ませるためにも、なるべくジャンディにも気をつけてもらおうとウビンはジフもイジョンもいない機会を狙っていたのだった。
「ええっと、どういう意味、ですか?」
いつも穏やかなジフが怒ることなど、ジャンディは想像ができない。
「あ、一度だけあったか…」
まだ出会って間もない頃、ソヒョンがフランスへ行ってしまうのを止めたくて、ジフのために無茶なお願いをした後に、勝手なことをするなと怒られた。
ジフの苦しむ姿を見たくなかったと、ジフのためというよりは自分のために余計なことをしてしまったのだ。
それからすぐ、ソヒョンを追いかけてはくれたけれど、結局悲しませることに変わりはなくて…。
でもそれももう何年も前のこと、以来ジャンディには、優しい笑みやジャンディのために悲しそうな顔を見せることはあっても、怒りを露にした顔には覚えがなかった。
「ああ、ジャンディが怒らすんじゃなくて」
言葉が足りなかったことに気付いてすぐに、ウビンは続けた。
「ジャンディの周りに怒るんだ」
「私の周り…?」
首を傾げるジャンディの脳裏にはきっと、家族や親友、F4、と順番に浮かんでいることだろう。
「あ、ジュンピョのお母さん?」
だからそうぼそっとジャンディが呟いたことにも、ウビンは驚かずにいられた。
「じゃなくって」
くくく、と想像通りのジャンディがおもしろくて、つい笑いが漏れる。
「ジフも苦労が続くよな」
ふとそう思ったのと、
「うるさいよ」
背後からジフの声が聞こえたのはほぼ同時だった。
ジャンディがユン家に住むようになってから、ウビンとイジョンがちょくちょく訪ねてくるようになった。
学生時代は校舎の内外に溜まり場があり、そこに行けばたいていは誰彼がいたが、大学の途中からそれぞれが家業を継ぐために社会に出始めたために忙しくなり、それまでのようにしょっちゅう顔を合わせることが減っていた。
ジフは大学院に財団にと相変わらず在宅時間は不確定だったが、ジャンディは大学とジフの祖父の診療所のバイト以外なら家にいることがほとんどであり、特にイジョンはわざわざ約束をしないとジャンディとの接点がなくなってしまったカウルを連れてくるという名目もあって、最低でも月に2度は来ている。
それに都合がつけばウビンが便乗し、自分がいないのにとジフが不機嫌になるというのがここのところの日常になっていた。
「まずはおめでとう、ってとこか?」
ジャンディが移ってきてから数日後、イジョンとウビンがやって来た時、開口一番そう言った。
「ありがとうございます、なんとか留年せずにすみました!」
ジフに勉強を見てもらったおかげで試験は無事パスし、晴れて4回生となったジャンディは、我が物顔でソファに寛ぐイジョンとウビンにぺこりと頭を下げた。
「ああ、うん、それもなんだけど」
「え?」
それ以外に何があるのかと首を傾げるジャンディに、ウビンは片目を瞑ってみせた。
「ジフと、うまくいってんだろ?」
いわれた途端に真っ赤になって俯くジャンディに、イジョンもウビンも笑みが隠せなくてくすくすと笑ってしまう。
「あんまりからかわないでくれる?」
言いながら持って来たお茶の盆をテーブルに置き、そのまま湯飲みに注いでふたりへ差し出す。
ジュンピョやウビンの家では、それは使用人のすることだが、ジフが普段人払いを頼んでいるのでユン家では当たり前のことである。
イジョンも、自分のアトリエでは相手に見合った茶器を使うなどの気遣いを見せるが、基本は他人任せであり、ジャンディが手伝うように手を添えるのを眩しいような視線で見つめていた。
「ジフ先輩…」
縋るような目で見上げるジャンディの隣に座り、ジフは湯飲みを手渡した。
「なんだ、まだ先輩って呼んでんのか?」
驚いたように言ったのはイジョンだ。
「まだ、って、え?」
わずかに頬に赤味を残したまま、理解出来なかったのか瞬きをするジャンディを見て、ジフが抑え切れなかったように笑い出す。
そういえばジフがこんなふうに素直に感情を表現するようになったのも、F4の前にジャンディが現れてからだったなとウビンは高校時代の出会いをなつかしく思い出した。
「確かに出会ってから今までずっと高校でも大学でも『先輩』だったんだろうけどさ、めでたくくっついたことだし、ジフにも『先輩』から『卒業』させてやったら?」
にやりと笑いながら言うイジョンは、完全にジャンディの反応で遊んでいるとしか見えない。
「え、でもあの、」
突然のことに戸惑うジャンディに、イジョンはさらに続けた。
「ジュンピョのことは最初が喧嘩腰だったから呼び捨てだったけどさ、いつまでも『先輩』ってのはないんじゃない?」
「でも、ジフ先輩はまだ院に通ってて、だからまだ先輩だし」
困ったように目をきょときょとさせるジャンディの背中に、ジフはそっと手を置いて落ち着かせる。
「イジョンの言うことは気にしなくていいから」
軽く睨みながらそういえば、イジョンは大袈裟にため息をついてみせた。
「んだよ、やっと進展したかと思ってたのに」
その言葉に、珍しくジャンディが内容を察したのか、さっと頬に朱を佩いて俯いた。
「ジャンディ?」
名を呼ぶジフの声にも顔を上げず、ふるふると頭を横に振るだけで。
訝しげにジフがイジョンと、そしてウビンを順に見れば、ふたりは目を見合わせてにやりと口唇の端をあげた。
「ジャンディはきっと、最近きれいになったカウルちゃんを想像したんだろ?」
くくく、とウビンが拳で口を抑えて笑う。
それにじろりとひと睨みしてから、ジフは反対の手もジャンディにのばし、小さな頭を自分の肩の中に抱え込んだ。
「急がないよ、俺たちは俺たちのペースでいいんだから」
ゆっくりと、いつもより少し低めの穏やかな声で言い聞かせるように言う。
ジュンピョとは、彼の思い立ったら即行動という性格もあり、デートに行くのすら突然拉致されるようにということが多かったし、カン会長が絡んできてからは特に状況がめまぐるしく変わってひと息つく暇さえなかった。
そこにあるジャンディの意思はいつも、流されないように踏ん張る、というスタンスが常で、いつだって神経を尖らせていた。
だからこそ余計にジフは、ジャンディを焦らせたりしたくなかったのだ。
「俺たちっていうかジフの、だろ?」
「気が長いっていうか辛抱強いっていうか…」
ふたりが苦笑しながらいう意味が分からないジャンディだけが、ようやく顔を上げて小首をかしげたが、
「ジャンディが俺を先輩って呼んでくれる時間も大切にしたいからね」
ジフの言葉に、ようやくにっこりと笑顔を見せた。
「ま、ジャンディもだけど、ジフが幸せそうだからいっか」
ジャンディを抱きしめたままでいるジフを見ながら、イジョンがくすりと笑う。
え、とジャンディはジフを振り返り、ジフがわずかに頷くのを見て、イジョンを見る。
「前にも言ったことあっただろ?」
言葉を継いだのはウビンだ。
「ジャンディが初めてジフん家で過ごしてた時、二人とも心地よさそうで、何よりもジフが穏やかに見えたって」
「…そんなこと言ってたの?」
なぜかジャンディに訊くジフに、
「ジュンピョとジフ先輩と…いつも心配してくださってたんですよ」
ジャンディはにっこりと笑った。
「そう」
確かにウビンは幼少の頃からF4の中でも一番まわりに気を使うタイプだった。
暴力でしか表現出来ないジュンピョと自己表示しないジフが、ジャンディによっていい方へ変化したものの、その関係が崩れることを憂いていたことは想像に難くない。
マカオでの態度で分かるように、イジョンはどちらかといえば直情型だから、普段は軽く遊んでいるようでもいざという時には正義感が前面に出るし争うことも厭わないが、ウビンはなるべく穏便に収まるように心を砕く。
だから、二人とも三人を心配してくれてはいたのだろうが、イジョンは相手が誰であれジャンディが選んだ人とうまくいけばいいと、むしろ本意ではないにせよ最低な態度を取ったジュンピョを責めるようですらあったが、ウビンはどんな結果になるにせよ、三人がそれぞれになるべく傷つかないように願っていたのだろう。
恋愛に、誰も傷つかないものなど有り得ない。
当人同士が順調でも、気付かないだけでどこかで誰かが多少なりとも涙を流しているのが普通なのだ。
今回は当事者のうち二人が幼馴染みで親友という絆があり、しかも出会いが加害者と被害者と庇護者という微妙な関係で始まったから、どこまでが友情でどこからが愛情なのかがずっと曖昧だったことも拗れた原因のひとつではあったのだろう。
ジュンピョとしては、もともとジャンディは自分に反抗的な態度を取ったという赤札の対象でしかなかったのに、降参しないどころかむしろ歯向かい、ある意味スパルタな実姉のように攻撃して来たことから、イコール自分に気があると誤解し、自分の容姿や背景に平伏さない態度に苛つきながらも、阿らず、どれほどの逆境にあっても毅然とした態度を崩さない姿勢に惹かれたということは分かりやすすぎるほどに明らかだ。
逆にジフは、いつでもジャンディの隠された弱い部分を見ており、おそらくは表面に表れている態度との差に庇護欲をかき立てられたのだろう。
どちらが良いとか悪いとか、そういう問題ではないが、結果的により内面を知っている方が強かったというのは、どの恋愛関係にも当てはまることかも知れない。
「ジュンピョは…いいのか?」
躊躇いがちに訊いたのは、やはりというかウビンだ。
己で選んだ道とはいえ、家業のせいでずっと離れているジュンピョが、それでもまだジャンディを諦めていないことは明白だ。
「よくはないのかもだけど…でも、ずっと前に終わってるから」
ジフの腕の中で微笑むジャンディはすっきりした表情をしており、ウビンやイジョンの心配が杞憂であると教えてくれていた。
「今でも、ジュンピョは大切な人だけど」
ジフの肩にもたれながら、ジャンディはゆっくりと言った。
「今思えば、振り回されて、好きだって言ってもらえて、なのに頭ごなしに反対されて、だから、意地でもって頑張ってた気がする」
好悪で選択するのであれば、もちろん好きだと言えるのだろうけれど。
「でも、医者になりたいとか、ジュンピョのお母さんとか、そういうことがなくってもきっと、何かが違うって思ってたと思う」
「そういえば、ジュンピョの世界に引き込まれるのは手に余るって言ってたね」
「…覚えてたんですか」
庶民の中でも低下層な暮らしをおくっていたジャンディが、いきなり金持ちばかりが集まる学校に入れられ、その中でもトップの中のトップであり、他人が傅くことが当たり前というジュンピョとは、当然ながらうまく折り合いがつかずにぎこちない関係がずっと続いていた。
その時は、ジャンディが幸せならと、ジフはジュンピョのことを庇うような発言もしたし、不器用なりにも想っているのだと橋渡しをしたこともある。
それでも結局、ジュンピョはジュンピョの世界を守ることを決め、ジャンディはジャンディの世界で生きる道を選んだ。
金は、人を縛る。
日々動かす金銭が大きければ大きいほど、そしてそれを守ろうと思えば思うほど、未来への選択肢は減ってゆくのだ。
神話に通う生徒たちは、セレブだともてはやされ、贅沢三昧を満喫してはいても、自由な恋愛ひとつ出来はしない。
世界規模で影響力を持つF4は、その最たるものだ。
その中でもジュンピョは抜きん出て特殊で、けれど本人にその自覚はなく、だからこそ、純愛を貫くには状況が過酷すぎた。
そういう意味ではジフも立場的には同じだが、環境が違う。
祖父は元大統領であるが、財団は医学と芸術に的を絞った『心身の治療とケア』を主軸としており、規模こそ世界に通用するほど大きいが、ジュンピョの家の神話グループのように利益にあくせくすることはなくマイペースなやり方を貫いている。
むしろ、金銭的な損得勘定をしないが故に、逆に信頼を得、成功しているのだともいえよう。
だからこそ、ジフの祖父ソギョンは、純粋にジャンディの人となりを評価し、庇護し、受け入れたのである。
何よりもまず社の利潤を考慮し、最初から身分が違う邪魔者として排除しようとしたジュンピョの母親であるカン会長と、スタートの位置がまず違うのだ。
「いつかはもう一度、ちゃんとジュンピョとも話をしたいと思うけど」
そうジャンディは呟くが、ジュンピョがジャンディの夢を認め、恋愛関係を諦めない限り、話は平行線で折り合いはつかないのだろうけれど。
以来、イジョンもウビンも頻繁に訪ねてくるが、真剣な話題に触れることはない。
むしろ、それぞれ公私にわたり忙しいはずなのに、まるで学生時代の延長のような雰囲気で寛ぎ、たまにお酒を飲んで泊まっていったりするだけで、忙しいジフが、代理のように楽しむ祖父ソギョンを恨めしげに見ているのを笑うのが当たり前の光景となっていたのだった。
出会った頃には感情が読めなかった彫刻のような容貌が、ソヒョンを追ってフランスへ旅立つ空港で見て以来、いつの間にか優しくなったとジャンディは思い出していた。
余計なおせっかいだと怒られ、それでも誰よりも幸せになってほしかったから、出立間際にありがとうと額にキスをしてくれて嬉しかったのだ。
そしてそこで初恋は終わったはずで、ジュンピョの恋人宣言とジフの突然の帰国とで自分の気持ちすら落ち着かないでいるうちに、いつの間にか付き合っているのはジュンピョだということになってしまっていて。
それでも一時期はF4決裂の危機になってまでジフはいつでもジャンディを守ってくれたし、それ以降も今までずっと、そしてもしかしたらこれからもずっと、そうしてくれようとしている。
「でも私、ずっと先輩に甘えて頼り切ってて」
だから、カウルにだけはもらした正直な気持ちをきちんとジフにも言おうと思ったのだ。
「ジュンピョといた時も、ジュンピョのお母さんのことも、ジュンピョがいなくなった時も、いつもジフ先輩がいてくれたから私、頑張れたんだって気付いちゃって」
ジャンディとの未来のために、ひとりで会社を建て直そうと頑張っているジュンピョが好きだと思い込もうとしていたことも。
「高校の時は、突然だったし、全然連絡もなくって、だから会いたくって寂しかったんだと思ってた」
今回は、お互いが納得してのことで、それぞれにやらなくてはいけないことをそれぞれの場所でやるからだと、別れるのではなく、離れることを選んだはず。
「だから、勉強も大変だし、忙しくて寂しいなんて思う暇がないって、そう思ってて」
でもそれは、無意識のうちに変わってきている自分の気持ちに蓋をしていたのだと、気付いてしまった。
「なのに、先輩が卒業していなくなっちゃうって思ったら、これからどうすればいいんだろうって不安になっちゃって」
どんな苦境に追い込まれても、相手に甘えず自分で乗り越えるんだと、それだけが何も持たない庶民のジャンディの唯一のプライドでもあったのに、知らずジフに頼り切っていた自分が情けなくなってしまったのだ。
「ジフ先輩がいないとダメになっちゃうようなのはよくないって思って、だからひとりで頑張らなきゃって、それで…」
俯くジャンディに、
「俺はジャンディに甘えてほしいし頼ってもらいたいと思ってる」
甘く囁くように告げた。
「ジャンディが、俺がいないとダメっていうくらいぐずぐずに甘やかしたい」
両足の間にジャンディを入れ、両腕でその細い腰を抱え込む。
「本当は、どこかに閉じ込めて、俺だけしか見ないように、隠したい」
「え、あの」
「でもそれじゃあ一生懸命がんばってるジャンディの笑顔は見られないから」
額をジャンディの薄く小さな肩に乗せ、拘束を強くして逃げられないように囲う。
「ジャンディがまだ、ジュンピョを好きなことも分かってる。嫌いになったわけじゃなく、進みたい道が違ってしまっただけだからって」
本当は、ちゃんと目を見て告げたい言葉だけれど。
「でもいつか、ジュンピョを親友として見ることが出来て、俺のことを男として好きになってくれたら」
どうしても最後の自信が持てなくて、ジフはそのまま続けた。
「俺と、付き合ってほしい」
真っ直ぐなジフの想いは、どんな時もジャンディの心に真っ直ぐに届く。
「もちろん、もしジャンディが他の誰かを好きになってしまっても、俺を見てくれるようにするけどね」
少しだけ腕をゆるめて、鼻先が触れそうなほど近くでにこりと笑う。
「ジュンピョだったから諦めたし、始めようともしなかったって言ったことあるけど」
ジフの声がほとんど吐息のように低く、囁くようにひそめられる。
「もう、相手がジュンピョでも他の誰でも、諦めないし、手放さないから」
「先輩…」
言葉を詰まらせるジャンディを、ジフはふと立ち上がって、もう一度抱き寄せた。
いつもそうしていたように、右腕でジャンディの身体を、左手で小さな頭を引き寄せて、自分の右肩にもたれかからせる。
「院に残るよ」
「え」
突然の話題の切り替えに驚いたジャンディが身体を離そうとするのを、しっかりと抱きしめて引き止める。
泣いているジャンディを何度もこうして抱きしめたけれど、あの時の心臓を鷲掴みにされるような痛みは、今はない。
「韓方や民医学も興味があるし、経営の方もやり直したいし」
もともと経営学部に在籍していたのを、ジャンディが医学部に合格したのを機に移籍しているから、中途半端ではあったことは事実であるし、祖父の事業を引き継いでゆくのならばきちんとやり直した方がいいことも当然で。
「おじいさんが体調を崩した時に短期間だけど代行して、想像していたよりもずっと大変だって分かったから」
もうしばらくは一緒に通えるよ、という代わりに、細い肩をポンポンと叩く。
「ひとりで頑張らないで。いつだってそばにいて、手伝うから」
もう何度目かの言葉に、
「…ありがとう、ございます…」
ジャンディの小さな声がジフの肩に吸い込まれた。
「知ってました?」
しばらくして、ジフの肩から顔を上げたジャンディがそう訊いた。
「なに?」
「いつも先輩がハンカチとか指で涙を拭いてくれるから、いつもこうやって抱きしめて肩を貸してくれるから、目も心もだらしなくなっちゃったんですよ」
「…俺のせい?」
「ふふ」
小さく笑うジャンディに、ジフの瞳がわずかに細められる。
「先輩のせいです。いつだって先輩がいないと笑えないし、泣くことも出来なくなっちゃったんです」
「ジャンディ?」
話の方向が見えず、ジフが怪訝そうな表情をしたのを見、ジャンディは今度はにっこりときれいに笑ってみせた。
「ジフ先輩が、好きです」
「ジャン…」
「先輩は私の初恋の人で、先輩といるとぼーっと出来て心が休まるっていうか、無理したり頑張ったりしなくてもよくて」
「自然体、でいられた?」
ジャンディの親友がそう言っていたとイジョンから聞いていたから、言葉を引き継いでみたらこっくりと頷いた。
出会った頃からずっと、いつでも忙しくて、大変な思いばかりしていたジャンディ。
そのジャンディが、自分といる時にだけは休めていたということが、何よりもジフの心を救った。
「あんまりにもそれが普通で、だからやっぱり好きなんだって気付くのに時間がかかっちゃいました」
ごめんなさい、とふんわりと染まったジャンディの白い頬がきれいで、ジフが指先をのばそうとしたその瞬間にジャンディはそれをジフの肩にもう一度埋めた。
「大好き」
囁くようなその言葉と、ジフがぎゅっと両腕に力をこめたのと、どちらが先だったか。
「…これ以上ない、お祝いのプレゼントだ」
掠れるジフの声に、あ、とジャンディが顔を上げた。
「なに」
「そういえば、よく考えてみたら私、ジュンピョにもちゃんと言ったことなかったかも」
「え」
逃げないとか向き合うとか、そんなことはジュンピョにもジュンピョの母親にも言ったことはあるが、ちゃんと好きだと言葉にしたことはなかった。
告げようとした時にはもうジュンピョはいなくなってしまっていたから。
けれどそんなふうに言うジャンディが、それでも表情はすっきりとしているから、ジフも過度な心配は不要だと分かって。
「そう」
短く一言だけを返したら、ジャンディははははとちょっと照れたように笑って、
「だからこれも、先輩が初めて、です」
にっこりと笑った。
その笑顔が、差し込む陽光よりも眩しくて、
「俺も、こんなに嬉しいお祝いは初めてだ」
そっと薄紅色の唇にジフは自分のそれを触れ合わせた。
初めてのキスは、傷心の痛みで凍えていた心をあたためてもらった。
二度目のキスは、心ごと優しく包み込むように抱きしめてもらった。
「ジャンディ」
「…は、い?」
どこか夢見心地なジャンディに幸せを感じながら、ジフはそっと声をかけた。
「ジャンディは俺のもの、って思ってもいいんだよね?」
やわらかな空気を壊したくはないけれど、ジフとしては念を入れて確認をしておきたいことでもあるのだ。
「あ」
「…違うの?」
「え、そうじゃなくって。でもあの、先輩のお祝いなのに、私なんかでいいのかなって」
ここまできてもやっぱりなジャンディに、ジフはふんわりと微笑んだ。
「じゃあ、もうひとつだけ、いい?」
「はい?」
「ジャンディ本人とジャンディの荷物を、ここに戻してほしい」
「え?」
黒目がちの瞳を見開くジャンディに、ジフは笑みを絶やさずに続ける。
「俺もしばらくは勉強が続くから、また一緒にしよう?」
「でも」
「自分のものは手元に置いておきたいし」
「ええと」
「俺のカワウソは可愛いけど鈍感だから、美味しい餌に釣られて誘拐されそうだし」
「もう、なんですか、それ!」
怒ったフリで軽くジフの二の腕を叩くジャンディを両腕ごと包んで、もう一度キスをする。
「もう離したくないってこと」
触れるだけのものから、小さく啄むように。
あれこれ言いたそうなジャンディの唇が、音を成す前に甘噛みする。
出てくるのが浅い吐息だけになるまで、ジフは何度も角度を変えながら重ね続けた。
「おおジャンディ、来とったのか」
突然の声にびくりと固まったのはジャンディのみ。
「おはようございます、おじいさん」
ジフはジャンディを離さないまま、平然と挨拶を返している。
「おじいさん、ジャンディがここに来てくれることになりました」
恥ずかしくて顔をあげられないジャンディを胸に抱いたまま、ジフはあいさつの続きのようにさらりと告げる。
「せ、せんぱ…!」
「今度は年頃の男女が二人きりで、閉め切った部屋でいいぞ、はっはっは」
焦って暴れるジャンディをにっこりと押さえつけるジフに、さらにソギョンが追い討ちをかける。
「おじいさん!」
唯一自由になる首を思いっきり反らしてソギョンに向かうも、ふたりともジャンディの慌て具合などそよ風ほどにも気に留めずににっこりと笑いあっている。
「そうそう、それからジャンディ、もう二度と逃げ出そうなんて思うなよ?」
ジフとジャンディに向けてソギョンが片目を瞑ってみせた。
「あ…」
一度目は、さんざん助けてもらって世話になっておきながら、ジャンディひとりを潰すためにカン会長によりスアン文化財団を危機に陥れられたと知って、簡単な手紙1枚だけ残して離れた。
二度目は受験のために便宜を図ってもらったのを、大学進学とともにこれ以上迷惑をかけてはと辞した。
どちらの時も、ジフはもちろんソギョンにも、置いていかれる身にもなってみろと何度も言われたものだ。
「大喰らいのジャンディがいるなら、朝食は多めにしなければならんな」
飄々と言いおいて行くソギョンの背中を見ながら、ジャンディはくすんと照れ笑いをひとつもらした。
「今日にでも引っ越しておいで。どうせ荷物は少ないだろ?」
ジャンディの前髪をくしゃりと撫でてジフが言う。
「…お世話になります」
ぺこりと頭だけを下げたジャンディに、
「じゃあ、契約成立」
少しだけ深いキスをしたのだった。
「インターンシップはどこか決めたのか?」
ジフ自ら入れたお茶で一息ついてから、おもむろにイジョンが訊いた。
ジュンピョの帰国による騒動の間にも、ジフはしっかりと国家試験を難なく合格していた。
叫んでいるんだか吠えているんだか不明な雄叫びを残してジュンピョが帰って行って、なんとなくほっとした時に思い出したのが、ジフの試験。
はっとして慌てて訊いてみれば、なにを今更と知っていて当然の天気を問われたかのように平然とした態度で、
『パスしたよ』
と答えたものだ。
あまりに軽い返事に訊いたイジョンやウビンは一気に力が抜けたが、このブレのなさがジフなのだと改めて思いもしたのだ。
5歳の時に両親を事故で亡くし、葬儀のあと祖父も家に戻らなくなった。
それを全て自分の所為だと思い込んで殻に閉じこもったジフを優しく包み込んで守ったのがソヒョンだったが、それでも殻を薄くすることは出来ても取り払うことは不可能だった。
息を潜めるように、静かに、己の周りにアンテナを張り巡らし、些細なことでも自分に火の粉が降り掛からないように過ごしていた十数年間。
他人のことはもちろん、自分のことでさえも興味なさげに見えて、でもそれはジフなりの自衛手段だった。
そして、誰も壊せなかったその殻を、真夏の薄氷のようにあっさりと溶かしたのがジャンディであり、感情があること、意志を持つことも同時に教えたのだ。
何ものにも惑わされず、おそらくはソヒョンですら触れることが出来なかった、ジフの芯軸。
ブレないのは今でも同じだけれど、寄って立つその軸の位置がいつの間にか変わっていた。
己を取り巻くすべてのことに無関心な孤独な場所から、ジャンディの隣へ。
守るものを自身からジャンディに変え、守る殻を両腕に変え、ただただ腕の中にいるジャンディが傷つかないように大切に護り続けた。
たとえそのために自分が犠牲になろうとも。
結局そのジフの強固なまでの揺るがなさが、ジュンピョに振り回され、カン会長に責められ、くたくたに疲れてしまったジャンディを支えていたのだ。
あまりにも献身的すぎるそのやり方に、ウビンとイジョンは心配したこともあるが、
『世界に色があることも、自分に感情があることも、ジャンディが教えてくれた。好きな人は誰もそばにいてくれないものだと諦めていたのに、家族を作ってくれた。だから』
どれだけのことをしてもジャンディには到底返し切れないと言って、ジフは笑った。
その笑顔が、20年近くも一緒にいたイジョンたちですら見たことがないほどに穏やかであたたかなものだったことで、ジフの想いの深さを知ったのだった。
そしてそのブレのなさは、ジャンディに対してのみだけではなくジフ自身のことも同様で、というよりもジャンディのためにジフは揺らがないと言った方がいいかも知れないが、ともあれ、ジャンディが医師を目指すと決めて医大に進学した時からジフも経営から医学へと専攻を変え、卒業と前後して実施された国家試験をちゃんと受験し、周囲が気付かぬほどに気負いさえ見せることなく合格していたというのである。
「マイペースっていうか揺るがないっていうか…」
良くも悪くもそれがジフであると、親よりも近くにいたウビンもイジョンも分かってはいるが、改めてそれを思い知らされた気分だった。
「インターンにはならない」
きっぱりと告げたジフに、案の定、イジョンとウビンは訝しげな表情を見せた。
「必須じゃないとは言っても、臨床はやっといた方がいいんじゃないのか?」
どの分野でも、実際に現場に立って経験しなければ頭でっかちの役立たずであることは分かり切っており、己の才能だけで未来を切り開くことを決めたイジョンは特に、それを実感しているからこその言葉だった。
「いざとなったらおじいさんの診療所を使わせてもらうけど」
そう言い置いたあとで、けれど今は院の方へすすむつもりだと告げた。
もともとジフの祖父のような町医者になりたいジャンディだから、専門職ではなく広く浅くを目指しており、日常よくあるような症状の緩和を主とし、手に負えないことは専門医へ送るという立ち位置を目標としている。
為に、必須科目は仕方がないにせよ、なるべく全般的に適応出来るような科目を選んでいた。
そして、ジフとしてはそのためのバックアップが出来るような選択と、専門医へのコネクションを広げることを旨としていた。
「いずれ、ジュンピョやウビンにもビジネスとして話をすることにはなると思う」
そう言うジフのビジョンにはすでに、神話グループとイルシム組の持つネットワークを利用することも脳裏にあるのだろう。
だからこそ、研修生としてどこか(おそらくは神話系)の病院に詰めるよりも、ジャンディのいる大学に留まることを選んだのだ。
「医学はジャンディも頑張ってくれているし、それに今は韓方とか民医学に興味があるから」
西洋医学のように原因に直接作用する治療の仕方は、大きな病院や金銭的に余裕のあるものには有効かも知れないが、受けられない人たちがいることも確かで。
ならばむしろ、日頃から病気を防ぐ方法や時間をかけて体質を改善してゆく方法も、生活の負担にならない程度に必要なことではないかと、祖父の治療院に通うようになってジフは考えたのだ。
「科学的な証明はなくても、代々伝わる民間医療法は侮れないからね」
ネギもはちみつも生姜や唐辛子も、口径だけではなく症状の緩和に役立つなど、ジャンディに出会うまでは知らなかったことだ。
同時に、医大を卒業してもジャンディのそばにいるためには、院に進むのが一番手っ取り早いということもあった。
「それ、数年で出来ることなのか?」
核心を突いたのは、ウビンだ。
もともとの差は1学年、ジャンディが医大に入るのに二浪しているから、とりあえずは3年間という時間は確保出来るが、医学は日進月歩でどれだけ学んでも尽きることはない。
だからこそ、院に進んでしまうと勉学に果てがなく、そのままずるずると居続けてしまうこともあり、それを心配してくれているのだとは分かっている。
「俺がそこにいるって、ジャンディが思ってくれればいいから」
それがジフの答えだった。
「お祝い、何がいいですか?」
大学が春休みに入り、バイトも休みの、季節を先取りしたようなうららかな一日、ジャンディが早朝から元気にユン家に駆け込んできた。
早朝というのはジフにとってであり、時刻はすでに昼前を指しており、太陽もかなり高い位置にはあったのだが。
あいさつもそこそこに訊くジャンディに、いまだ布団の中にいたジフは要領を得ず、戸惑った。
「…お祝い?」
ジフにとって寝すぎるという言葉はあり得ず、むしろどんな時間帯であっても寝ていたのを突然起こされた時の常でよく働かない頭で、ガラス越しの陽射しの中に佇んで笑うジャンディを見つめる。
「卒業と試験の合格と、あと何よりもお誕生日!」
にこにこと笑うジャンディに、ジフもつられて笑顔になる。
もそりと起き上がってベッドサイドに座り、いつもよりも高い位置にあるジャンディの瞳を見上げる。
思い返してみれば、ジャンディにとって祝うべき相手はずっとジュンピョであり、ジフに何かしてくれたというのは『お礼』でしかなかった。
「あ、バイオリン…」
「え?」
出会って間もない頃、まだジフがソヒョンを想っていると思い込んでいた時、粉雪が降る中、ジャンディが切れたバイオリンの弦で傷ついた指をハンカチで包んでくれたことがあった。
それだけなら、F4に近づこうとする女たちがしそうなことであり、事実、イジョンやウビンなどは喜んで受け入れていた。
ジュンピョとジフは、性格は違えど他人と関わりあうことを忌避する傾向にあったから、むしろあのときジフがジャンディの手当を受け入れたことの方が珍しかったのだろう。
そして、苛ついて邪険に扱ったジフに対し、文句のひとつも言わず、放り出したバイオリンにまで、雪が当たらないようにと押し付けがましくなく心をくれたのはジャンディがはじめてだった。
「えっと、バイオリンなんて買えないです、多分、弦とかですらも無理だと思うんですけど」
ふと思い出して口をついてでてきただけの言葉なのに、心底情けなさそうな表情で告げるジャンディが、ジフにとってはたまらないほど可愛いのだといつ気付いてくれるのか。
「何でも、いいの?」
だから、ジャンディが迷う暇を与えないように、問いかける。
「あ、何でもじゃなくて、えっと、普段先輩が持ってるようなものは絶対に買えないし、でもあの、ちょっとくらいなら、バイトも増やしたし、頑張れますから!」
庶民以下の私でも、庶民程度のものなら!なんてガッツポーズをするジャンディに、ジフはふわりと目を細めた。
「多分、とても高価だと思う」
「え」
とても金銭価値には置き換えられないほどのものだから、正直にそう言えば、ジャンディは違う意味に取ったのだろう、大きな目をさらに丸くした。
「でも、ジャンディからしか、ほしくない」
「ええっと、先輩?」
ジフにとっては直球のつもりだけれど、ジャンディにとってはこれでも変化球で受け取れないのだろうか。
「ジャンディが、ほしい」
予想通りというか、返事も出来ないくらいにびっくりしているジャンディに、ジフはジャンディが弱いと分かっているやわらかな笑みを見せた。
「ジャンディが笑っててくれて、その相手がジュンピョならってずっと思ってたけど」
モデルの時もマカオの空港でもそう告げたけれど、ジャンディには届いていなかったから、そんなふうに言ってジフはくすりと笑った。
「ジャンディが、好きだよ」
「え、あの」
「だから、ジャンディの笑顔も、心も、身体も、時間も、未来も、ほしいって思ってる」
「クム・ジャンディ、じゃあジフの気持ちにはそれなりに?」
ウビンが訝しげに問うのに、カウルは苦笑した。
「とりあえずは、ジュンピョ先輩とのことは吹っ切れてるみたいだし、ジフ先輩の指輪も今度は受け取ったみたいだから、多分…と思うんですけど」
寄せられる好意には疎いジャンディだから、ジフの祖父からのものさえも、孫を差し置いてでも娘にしたいと思っていることなどつゆ知らず、『バイト先で知り合った重宝する娘だから』なんて考えかねない。
だからこそ、ジフが気付いた時には逃げることが出来ないよう、外堀から徐々に、けれど確実に埋めていく方法を選んだのは、対ジャンディならば納得も出来る。
「でも、とにかく診療所はこれからもお手伝いに行くみたいだし、それって、今後の経験値にも有利になりますよね?」
就職に際し、それがたとえボランティアであっても、経験の有無は重要視される。
また、医大は他の学部に比べて勉強量も多く大変で、これまで通りのバイトを続けていることが難しくなったジャンディに、ソギョンは早朝の新聞・牛乳の配達や深夜のガソリンスタンドを辞める代わりに、診療所で過ごす時間をバイトとすることを提案した。
はじめはたいしたことが出来るわけではないからとジャンディは固辞していたが、『そんな軽い気持ちで手伝いに来ていたのか』と言われてしまえば、納得せざるを得なくて。
だから、ジャンディがユン診療所で手伝っていることは、ジャンディの将来にとってもマイナスにはならないはずだし、卒業と同時に就職を望まれていれば、小さな診療所ではあってもそのオーナーの人となりを知ってしまえば学校側としては口を挟む隙はなく、ジャンディが不審を抱くほど、卒業までの単位取得の一部として課外活動の項目は呆気なく受理されたのだった。
「なら一応進展は望めそうなわけだ?」
愛だの恋だの、そんなものを超えているような関係の二人が、それでもこれからも一緒に過ごせる未来のために。
「さすが、カウルちゃんじゃなきゃジャンディの説得は無理だったな」
ただひとつだけ、カウルはイジョンとウビンに話さなかったことがあった。
『ほんとはね、受けるつもりだったの』
ジャンディがそう言ったとき、返事も出来ないほど驚いた。
ジュンピョがアメリカへ渡って、しばらくはそれなりに連絡を取ったりしていたはずだが、いつの頃からか次第に頻度が減り、気がつけば何ヶ月も経っていた、なんてことになっていて。
ジュンピョは、自分が理想とする企業にするためにリスクを承知で会社を根本から叩き直すのだ、大変じゃないわけはなく、その忙しさは半端ないものだと想像はできる。
同時にジャンディも今まで以上にバイトをしながらも医大への受験に臨むために、ゆっくりとひと息つく間も惜しんで勉強していた。
ふたりの間には距離だけでなく時差という難関もあり、お互いがお互いを思いやってしまう分、電話ひとつかけるのにも躊躇してしまっていたのだ。
それでも、24時間不眠不休でいたわけではないし、たった一言でもメールを送ることは出来たはず。
それをしなかったのは、もうすでに相手のことよりも自分のことの方が大切になってしまっていたということなのだろう。
『それでもね、頑張ってた時間は嘘じゃないし、お互いの夢を同時に叶えられる方法を、一緒に探せるといいなって』
じっと見つめるカウルに気付くと、ジャンディはふっと笑ってみせ、でも、と続けた。
『でもあの時、ジュンピョが来る直前にジフ先輩と話をしていて…自分が言った言葉で、気付いちゃった』
ジフがいなくなったあとの大学に一人残される不安に、冗談じゃなく自分も留年しようかと言ってくれた。
おじいさんの診療所のために勉強をしているはずなのに、そのためだけじゃないと言い切った。
そんな迷いのないジフの言葉に、
『怖くなっちゃった』
『ジャンディ?』
神話に来てからいつだって、気がつけばジフがそっと見守り、助けてくれていた。
ジュンピョやカン会長とのことでも、陰に日向に立ち位置を変えながらも、どんな時もさり気なくジフがそばにいてくれたから、頑張って続けてこられた。
それにいつの間にか甘え、寄りかかってしまっていたことを、
『先輩のおかげで』
『先輩が病院に移ったらこれからどうしたらいいのか』
そんな自分の言葉で気付いてしまった。
『ジフ先輩がいないからジュンピョと一緒に行けないっていうんじゃなくて』
ひとりでは何も出来ていなかった自分がついていっても、相手のためになるどころか足手まといの重荷にしかならない、それはカン会長がいつも言っていた弁えるべき身の程以前の問題だと思ったのだ。
『ジフ先輩に対しても、こんな私じゃダメだと思う』
「いらっしゃい」
ジャンディから確約ではなくともそれなりに今後を一緒に過ごす約束をもらってから少しあと、前触れもなくF2がジフの屋敷にやってきた。
F4の中でも、ジュンピョとジフ、イジョンとウビンという、強いてあげればという程度ではあるが親しさに差があり、ジフの屋敷にイジョンとウビンが理由もなくやってくることはほとんどなかった。
ジュンピョは事あるごとに連絡を寄越し、それは多分に理由はジャンディに関するものだったけれど、事あるごとに消化し切れない気持ちを吐きだすためにも何度か訪ねて来てはいたし、それが神話グループ次期総裁としての窒息しそうな環境の息抜きにもなっていたのだろう。
だが、カウルとの関係がそれなりにうまくいっているイジョンはジフと一緒にいるジャンディに気を使ってかいつもの溜まり場で顔を合わせることもあったが、ジフにとって同じ大学に在学している者同士なのにウビンときちんと顔を合わせるは本当に久しぶりだった。
「アンニョン」
「Hey, yo」
変わらないあいさつに、ふっとジフの気がゆるむ。
「久しぶり…だけど、どうかした?」
とはいえ、F4と一括りにされてはいても、特にジフはお互いを訪ねあうなど個人的な付き合いはあまりなかったから、突然の訪問に驚くのは当然だろう。
「カウルちゃんに、聞いたから」
らしくなく、イジョンが(F4だからこそ分かる程度に)照れながら言うのに、ウビンが
「ジャンディが幸せになりそうだって言うから、お祝いしようと思ってさ」
と続ける。
「試験は通ったようだけど、まだ…」
ボランティア研修での努力も認められ、学科と実技以外の点数も加算されて、ジャンディは進級出来ることが確定されている。
けれどそれは、本人はもちろん、外部にも非公開のことであり、F2がそれなりの権力を行使して調べ上げたことに違いない。
「あ、邪推すんなよ?」
ジフの表情を読み取ったのか、ウビンが先制を制した。
「ジャンディの動向は、もともとジュンピョからの依頼もあるけど、俺らだって心配だったんだ」
高等部に上がるまで、自分たちが特別扱いされているということは当然で、疑問に思うことさえしなかったF4。
それを根底から覆し、人としてのあり方を教えてくれたのが、ジャンディだった。
無謀で、向こう見ずで、ただ裏表なくいつもどこまでも真っ直ぐで。
だからこそ、今まで自分たちの周りにはいなかったタイプで、気になって。
それはジフだけではなく、ジュンピョもイジョンも、ウビンでさえも同様だった。
周囲が自分たちに傅くのは当たり前で、自分たちに歯向かう存在などいないと思い込んでいて。
だからこそ、F4の威力が通じない人物に、興味をもった。
ジュンピョの虐めにも似た嫌がらせに、どうせいつかは泣いて謝ってくるか退学するだろうという予測に反して、彼女はいつまでも強気だった。
…それなのに、ふとしたことで見せる弱さに、つい守りたくなってしまったのだ。
イジョンにとってジャンディは、最初はジュンピョの悪趣味の標的でしかなく、ウビンと『いつまで保つか』なんて賭けの対象にもしていた。
けれど、なかなか落ちないジャンディにジュンピョが苛立ちを表す頃にはすでにもう、恋愛対象ではないものの、興味のある人物になっていた。
F4きっての王者で覇者であるジュンピョに屈しない、それも女性がいるのかと驚き、それがこれまで気にもかけなかった庶民であることが分かり、なぜジュンピョががそれほどまでに入れ込むのかと訝しんだのが始まりだっただろう。
それはウビンも同様で、『あの』ジュンピョに回し飛び蹴りをくらわせたのはおそらく、ジャンディが最初で最後だろうと、妙な自信を持っていたりする。
また、イジョンは特に、ニューカレドニアに拉致するようにジャンディとカウルを連れてくるのに協力し、その後もジュンピョがジャンディと時間をもつためにカウルの相手を頼まれたこともあり、その時は面倒に思いながらも、相手を務めた。
けれど、それで知ったのは、カウルがどんな理由であれ泣いていたり傷ついたりした姿を見たくないということ。
ダブルデートの顛末でジャンディがジュンピョを責めに来ていた時、イジョンは泣き腫らしているカウルを保護した。
心底本意でなかったのなら、無視することも出来たはずなのに、結局声をかけ、カウルの意趣晴らしに協力したのはきっと、そこに自分の気持ちもあったから。
そういう意味でも、イジョンとしては是非とも、大切に思うカウルが誰よりも大事にするジャンディに、幸せになってもらいたいのだ。
極端な話、ジャンディの相手がジュンピョであろうがジフであろうが、イジョンとしてはどうでもいいことである。
ただ、カウルが悲しまなければ、喜んでくれればと、それだけなのだ。
「イジョンも、結局は人の子だった、ってことか?」
ウビンがくすくすと笑いながら言うことに、イジョンは照れながらも拳をぶつけて同意を示す。
「カウルも、そしてジャンディも、とにかく自分よりまず自分の周りの人間が幸せであることを願うんだよ」
それがもしかしたら『庶民』では当たり前のことかも知れないと、そもそもの基準を持たないから、判断に迷うけれど。
「でも今ならジフの気持ち、分かるな」
「え?」
「笑っててくれればいい、ってやつ」
まだ学生の頃、なぜ徹底して献身的になれるのか、イジョンはジフに問うたことがあったのだ。
確かマカオから戻って、ジュンピョの誕生パーティに出席するまでの間だったか。
それにジフは、さも当然のように、『ジャンディに笑っててほしいから』と答えたのだ。
ジフのその態度に気付いたのは、ジフとジャンディの退学を対象にした対決の時だった。
以来ジフは、今でもずっと、一貫してその態度を崩さずに貫き続けている。
好きだから、大切にしたいから、悲しませたくない、いつでも幸せに笑っててくれればいいと、それは今でも変わらない想い。
たとえジャンディの気持ちが自分に向いていなくても、ジャンディが幸せならば自分も幸せなのだと、迷いなく言い切った。
「でも、今はもう少し欲張りかも」
ふっと笑ったジフに、ウビンとイジョンが目をみはる。
「俺が、ジャンディの幸せな笑顔の原因になりたい」
ジャンディが笑ってくれる、その理由がどんなものであっても、それが自分に起因するものであればいいと願ってしまうようになった。
ジャンディが高校を卒業し、ジュンピョが渡米してから、その気持ちは日に日に強くなり、だからこそ進路を変えてまでジャンディと一緒にいられるようにした。
「そうだな、俺も、だから頑張れたワケだし」
イジョンが感慨深げに同意した。
ジャンディが失踪したとき、イジョンはカウルにきっちりと引導を渡されている。
それでもわずかな望みをかけ、渡欧後の未来に期待をしたのだ。
自分の過去を顧みれば、望みなどないはずだったのに、それでも待っていてくれた。
その時の気持ちはおそらく、ようやくジャンディから前向きな言葉をもらえたジフ以外には理解してもらえないだろう。
「何よりカウルがさ、嬉しそうなんだ」
「なんだよ、惚気か?」
珍しくも少し照れるようにして言ったイジョンを、ウビンがからかう。
「いや、結構大変でさ」
内実はともかく、出会いから別れ、再会までの期間がほぼ重なる、ジャンディとカウルの恋愛事情。
幼馴染みで、ずっとお互いに辛いことを分けあってきたこともあり、カウルはずっと『ジャンディが幸せになれなきゃ自分も幸せになっちゃいけない』と言っていたのだ。
それは、同じように幼馴染み同士であるF4にはない思いだ。
「ジャンディが神話高に編入してからのことも全部本人から聞いて知ってるからさ、ずっと”ジフ先輩なら”って言ってたんだぜ」
「まさか」
とにかくジャンディにとってジフは『王子さま』であり、憧れの女性の相手であり、だからあくまで手の届かない存在だったはずなのに、いつの間にか一番近くにいてくれる、安心出来る存在になっていたらしい。
「ジュンピョとはそれなりに楽しそうだったけどどこか無理してるようにみえたらしいけどさ、ジフといる時はいつでも自然体だったって言ってたぜ」
「…そ?」
そんなことを聞いて、嬉しくないはずがない。
確かにジフから見ても、ジュンピョと一緒にいたジャンディはいつも強がって無理ばかりしていたように思う。
家柄など関係なく、対等な立場でいたいからと頑張るジャンディの姿に、そこまで思われているジュンピョを羨ましいと思ったこともあるが、それはジャンディの本来の姿ではないと気付いたのだ。
そして、一緒にいる時間が少しずつ増えてゆき、ジフの前では弱さも脆さも見せるようになり、素直に泣くようになった。
ジュンピョが強引にジャンディの気持ちを自分に向けたけれど、ジフはゆっくりと時間をかけてその存在を馴染ませた。
ジャンディが、無邪気な笑顔を見せてくれるように。
「じゃ、一応成功、ってとこかな」
クスリと笑うジフに、ウビンとイジョンは声を合わせた。
「…やっぱ毒薬だ…」
「カウルちゃん、グッジョブ!」
事の経過をイジョンに話したあと、ウビンも交えて3人で会うことになった。
とりあえず、今後の展開は相手がジャンディだから予想できないけれど、それでもニブちんなジャンディがジフの気持ちに気付いてくれたのは大きな一歩だと、その日は珍しくもウビンもイジョンも気持ちよく酔いに身を任せていた。
それを見て、神話高に転校させられてから辛いことばかりだったジャンディに、陰ながら心配してくれる人がいたのだと、カウルは改めて嬉しく思い、押し付けがましくない程度に世話を焼いてくれるイジョンの隣でふわふわと僅かに酔ったのだった。
ジャンディがカウルと話をして数日後、今は大学へ場所を移したけれど恒例の非常階段で、ジャンディはため息をついていた。
「カウルの言うことも分かるけど…」
そして、誰を心の一番深いところで想っているかも自覚しているけれど。
「勿体なすぎるよね」
「何が?」
「せっ…」
独り言に返事があったことに驚いて振り向けば、いつものようにジフがふわりと笑って立っていた。
「こ、講義は?」
「教授の都合でお休み」
「あ、そう、ですか…」
その時、なぜか今日は、いつもはジャンディの笑顔を守ろうと決めてから故意にジフが近くしてきていた距離が、なんとなくジフがソヒョンを追いかけていったフランスから戻った時の緊張感に似ていて。
だからジフは、ふと同じ台詞を口にした。
「交際を申し込もうと」
「え?」
あの時から、7年近く経っているのに、ジャンディの反応が変わらないのがジフとしては嬉しくなる。
だから、
「今度は、冗談じゃない」
そう、同じようで異なった言葉で続ける。
少し戸惑ったようなジャンディに、きちんと告げておきたくて。
「ジュンピョに内緒で、でもない」
そう付け足せば、ジャンディもその流れを思い出してくれたのか、あはは、と戸惑うように笑ってくれた。
あの時も、ジャンディは変わらないと、嬉しく思った。
そしてその時から何年も経っているのに、それでもやっぱり変わらないジャンディが愛しいと、ジフは思う。
素直で、疑うことを知らなくて、気が強くて、自分に悪意を向けるのがどんな相手であっても真っ向から立ち向かうくせに、大切な人がわずかでも傷つくことには敏感で。
自分のことには無頓着で危なっかしくて、だから誰もが手を貸したくなってしまう。
それはきっと、親友や弟、両親だけでなく、F4はもちろん、ジュンピョの婚約者やカン会長の側近たちも同じ気持ちだったのだろうと推測できる。
損得勘定のない、ただ純粋に相手を思う気持ちは、それを受ける人全ての気持ちをあたたかなものに変えるのだ。
「あの、変な質問なんですけど」
イエス・ノーの返事の前に、なぜかジャンディから質問が出て、ジフは内心たじろいだ。
イジョンやウビンの話では、ジャンディはカウルと話した時、すでにジフとの関係を肯定してくれているようだったから。
「なんで、名誉消防士になってくれたんですか?」
だから、そんな根本から訊かれるとは、ジフでもさすがに想像してはいなかった。
「ずっと、ジュンピョの親友で、だから気にしてくれてるのかなって思ってたんですけど」
そんなジフのひそかな焦りには気付かず、ジャンディは続ける。
「ジュンピョと対立してくれたこともあったし、ジュンピョのお母さんからのことで辛かった時も、なぜかいつも一緒にいてくれて」
伏し目がちなジャンディの目が、潤み始めるのにジフは秘かに焦る。
「なんで、そんなによくしてくれるんですか?」
ジャンディとしては疑問なことでも、ジフにとっては答えは明快だ。
ただ、好きだから。
大切に、したいから。
そんな、普通の女の子ならば当たり前に受け取るだろう想いさえも、まずは疑わなくてはいけないような経験をしたジャンディに、ただただ幸せな恋愛があるのだとジフは教えてあげたいと改めて思ったのが、この時だったかも知れない。
「私じゃ、ご迷惑になりませんか?」
どれだけ言葉を重ねても、ジャンディの不安を取り除くことが出来ないという現実に、それほどの不安を植え付けたのが親友であるジュンピョであっても、ジフは許せなく思ってしまう。
「ジャンディが、いいんだ」
だから根気良く、分かってもらえるまで言動で示し続けるしかない。
「うちは、ジュンピョのところとは違うよ」
そんな、ありきたりな言い方しか出来ないことに、ジフは憤りを覚えるほどだった。
F4として、望むと望まざると、同級生たちとは違う教育を受けてきていた。
本来受けるべき授業は免除され、その代わりに英才教育を施された。
幸いなことに、F4は全員その特別授業についていけるだけの頭脳を持ち合わせており、いや、だからこそのF4なのかもしれないが、とにかく特別扱いを受け、かつ、それが当たり前であるという状態を作り上げるのに労苦はなかった。
それが当たり前で、他の生徒たちとの差異を、背景はもちろん、勉学的にも肉体的にも示し続けてきたからこそ、寄付金云々に加えて特別扱いを許されてきていた。
それを、ジャンディは真っ向から否定してみせたのだ。
身分でもない、金でもない、人を動かすのは人であるのだと。
それは、ジャンディにとってはあまりにも当たり前すぎることで、だから、今更それが理由だとはなかなか言えないけれど。
ともあれ。
『これからも、会ってもらっていいんですか?』
そんな風に、ジフと大学の非常階段で会った時に、ジャンディは切り出した。
それは、恋愛に臆病になってしまったジャンディからの、精一杯の言葉だったのだろう。
それでも、ジフにとっては最上の一言だったに違いない。
ジュンピョの豪速球とまではいかなくとも、ジフとしては変化球は通じないと、それなりにジャンディが受け取れそうな程度の直球を投げたつもりではあったけれど、ジャンディはベースボールプレイヤーの球を草野球の少年が受け取れないように、ぽろぽろと取りこぼし、真っ直ぐに受け取ってはくれなかった。
もしかしたら無償のそれが自分に向けられたものだとさえ、知らなかった可能性もある。
その理由も原因も分かるからこそ、無理強いはしないようにしてきたけれど、唯一の肉親である祖父にも認められている現状で、ずっと想いを寄せ続けている相手が近くにいるのに、どこまで自制が利くか不安でもあった。
「まだ、卒業以前に留年の可能性もあるし、だから、おじいさんの診療所を任せてもらえるかどうかも確約できないんですけど」
この場に至って、いまだにそれが理由であると思い込むジャンディの、その鈍感さにジフは相好を崩した。
「おじいさんは関係ない、ただ、俺と一緒にいてくれれば、それでいい」
だから、誤解や変な勘ぐりがないように、真っ直ぐに言葉を連ねる。
「今度こそ、受け取ってくれる?」
差し出したのは、以前と同じように、祖父から渡された指輪。
違うのは、今のジャンディの首元には、何もないこと。
「私で、いいのかな」
こんな状況でですら、まだそんな言い方をするジャンディに、ジフは切ないほどに愛しさが募る。
「受け取ってもらえなかったら、これは未来永劫、孤独なままになる」
祖父の思惑が多分にありながらも、ジュンピョのところに居られなくなったジャンディを引き取り、一緒に暮らすようになって。
一度だけしたデートの時に気付いた通り、一緒にいて気が楽で、何でもないことが妙に楽しくて、あたたかい。
ジャンディがそこにいて笑ってくれるだけで、みんなが笑顔になる。
それは、裏を考える必要がない、素直なものだから。
ジャンディが幸せに笑ってくれれば、その笑顔を見たもの全員が幸せになれる。
F4だけではない、ジフの祖父の診療所の人たちも、ジャンディの家族が暮らす漁村の人たちも。
おそらく、ジフがジャンディの両親がそれなりに職務を全う出来るよう頼んだ使用人たちにも、それは当てはまるだろう。
ただ、ジフやジュンピョとの関係で辛い立場だった高校時代、ジャンディにとってはF4と関わりあいにならなければもっと楽しい時間を過ごせたのかも知れない。
それでもジフとしては、ジャンディと出会えたことを無にするわけにはいかないのだ。
一悶着あった漁村から戻り、ジャンディの父親がそれなりに働けるようになり、狭いながらも家族が一緒に過ごせるようになった。
ジュンピョの記憶障害は予期しないものであり、けれどジュンピョのジャンディに対する態度は、見知らぬ人に対するものとしては最低のもので、ジフとしてはジャンディが今まで以上に傷つくことを恐れていた。
病院で公認されたカップルだの、うれしそうに話す女に吐き気さえ覚えるほどで、ジャンディを思い出さないジュンピョに苛立ち、らしくなくジュンピョに詰め寄った。
その時はイジョンとウビンが止めてくれたけれど、ジュンピョに対する嫌悪感が消えた訳ではなく。
ただそれ以上に、ジャンディが諦めたように話したことが、気になった。
記憶を失くしても、それでもまた最初からやり直せると思っていたと、でもそれは単に希望でしかなかったと、泣いていた。
マカオでのことで、けじめを付けていたと思っていたけれど、そうではなくて。
むしろ、そうでなかったからこその今回の事態に、ジャンディの心の傷の深さを思わずにはいられなくて。
ジュンピョの記憶がない時にこれまでの関係を清算するわけにはいかない。
そう分かっていても、ジフとしては、ジャンディを自分のものに出来る機会なのではないかと、邪な考えを抱いてしまった。
結局、ジフが懸念していたように、ジャンディは人魚姫になってしまい、その想いは泡となって消えてしまった。
王子さまは、助けてくれた人の大切さに今更ながらに気付いたけれど、結果としてそれは遅すぎて。
「私はやっぱり、人魚姫じゃなくてカワウソだったみたいです」
その言葉の重さは、全てを知るジフにしか分からない。
人魚姫の恋は成就出来ず泡となって消えたけれど。
けれど王子さまの親友に、カワウソは大事にされていて。
水の中に紛らわせてこぼした涙さえも、隠していたつもりだったのにちゃんと分かってくれていて、いつでも何度でも抱きしめて拭いてくれた。
ジュンピョがジャンディの高校卒業と同時に未来を仄めかしてアメリカに行ってしまっても、ジャンディが寂しいとか辛いとか思わずにすんだのは、どんな時でも寄り添ってくれている人がいたから。
むしろ、その人が先に卒業してしまったあと、ひとりきりになっても頑張れるか不安になるほど頼っていたことを自覚して、驚いたのだ。
ひとりで頑張っていたつもりで、ずっと陰から支えてくれていた存在の大きさに気付けなくて。
なのに、一言も責める言葉などなく、ジャンディの将来を考え、ジャンディがやりたいことを叶えられるように導いてくれる。
ジャンディだって、カウルに言われるまでもなく、ずっとジフの存在を気にはしていたのだ。
けれど優しい人だから、親友の彼女で、神話に馴染めないのを放っておけず、気にしてくれているだけだと思っていた。
ジャンディには、ジュンピョはもちろん、ジフにも好かれる理由が思いつかなかったのだ。
だから、頑張っていたジュンピョを裏切るような形で関係を清算しF4とは関係がなくなるはずだったのに、それでもそばにいてくれるジフに救われつつも、なぜ良くしてくれるのかが分からなかった。
そして言われた、『おじいさんの診療所』。
ジフは、ジャンディが頑張れるように、次の道を用意してくれている。
それも、ジャンディが一番望む形で。
だからジャンディは、ジフの提案を受け入れることにしたのだ。
せめてジフが忙しい間だけでも、おじいさんの助けになれればいいと、ただそれだけで。