こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

今日は次女の話をしようと思います。

 

 

 

 

昨日とても天気が良かったので

私が

「もう梅雨が明けるのかな?

 こんなに早く開けてくれたらいいよね」

というと

次女は

 「嫌だな。」

と。

 

 

 

 

 

先日も次女が言いました。

「私、雨好き。」

「なんで?」

「雨の音が好き。」

と。

 

 

 

 

もう雨の音が好きっていうだけで

なんて感受性があるんだろう

って思いました。

 

 

 

 

 

 

 

っていうのを思い出して

 

 

 

 

 

「雨が好きだもんね。」

というと、次女は

 

 

 

「色々(季節が)変わるから

 いいよね。

 

 あっっつい日に食べる

 アイスクリームとか。

 寒い日に食べるシチューとか。

 

 だから

 季節が変わるっていいよね。」

 

 

 

 

と。

なんと。

ポエミーだね。

 

 

 

 

中2女子

そんなこと言うんだ。

と思って感心していました。

 

 

 

 

次女は

色とか音とか

私が気にならないことに

よく気がつくんですよね。

 

 

 

 

小児科へ行った時に

「あのカーテンの色、いいね。」

とか。

 

 

 

 

 

 

私とは世界の見え方が違うんだろうな。

 

 

 

 

誰も彼もが自分と同じように

世界が見えているように

思ってしまうけれど

違うんですよね。

 

 

 

 

違う

 

 

 

 

自分と人とは違うのです。

 

 

 

 

 

 

 

違いがあって当たり前なのです。

子どもであっても

感じ方

思っていること

見えていること

捉え方

違うのです。

 

 

 

 

それが前提にあって

子どもと話すことで

決めつけることなく

受け入れることができますよね。

 

 

 

 

そう思っているんだ

って知れる。

 

 

 

 

 

 

思ったことを

話してくれるようになったのは

とても嬉しいです。

 

 

 

 

ありがたい。

ありがたい。

 

 

 

 

皆様も

素敵な1日を過ごせますように🍀

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🌼

 

 

 

 

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

「私はモブなのかな」と思ったことがあるあなたへ 

 

 

 

 

 

私もそう感じること

あります。

 

 

 

 

アニメ『ハイキュー‼︎』

には、そういう

地区大会での敗者

焦点を当てたシーンがあります。




アニメや物語では

たいてい主人公に

スポットライトが当たります。

 

 

 


その周りの選手たちは

言ってみれば

モブだったり

エキストラだったり。




日向たちが主人公だから

当然かもしれない。

 

 

 


一回戦で負けていくチームには

あまり焦点が当たらないのが普通です。




だから、

一回戦で負けた

女子の道宮さんや

常波高校の池尻くんの

視点からの語りが

始まった時は

胸がキューってなって

いつ見ても

涙が浮かんできます。




なぜなら

私も同じように

学生時代の部活で

負けて行った方だから。

 

 

 

 

気持ちがすごくわかる。

 

 

 

image

 

 

 

池尻くんが語ります。

「俺にしてはやったよな。

 それなりにサボらずやったし・・・

 テレビで試合を見た次の日は

 ふざけて、でも半分本気で

 「将来は日本代表になる」

 とか言ったりして

 そのくせ地味な筋トレになった途端に

 テンション下がったりして・・・。

 

 これで終わりか。

 早かったな。

 まだ6月だぞ。」

「筋トレも走り込みも

 もっと頑張ってたら

「レシーブ一本に

 もっと必死になれてたら」

 

 

 

道宮さんも語ります。

あの時もう少し・・・

 もう少しだけ頑張ってたら」

「もっと主将らしくできてたら」

「あと一歩足が前に出ていたなら」

「もう少し・・・もう少し・・・

 バレーをやれていたんだろうか」

 

 

 

 

「多分こんなふうにあっけなく部活を終わるやつが

 全国に何万人といるんだろう

 何試合もある予選を全部勝ち抜いて

 全国へ行って

 これがフィクションだとしたら

 全国へ行く奴らが主役で

 俺たちはエキストラみたいな感じだろうか

 

 それでも、

 俺たちもやったよ

 私たちもやってたよ

 

 バレーボール」

 

 

 

 

日向や影山のように

すごい努力もできない

すごい技術も才能もそれほどない

 

 

 

 

だけど

それでも

それでもいいんだよ

 

 

 

 

バレーボールだけじゃなくて

すごい努力ができていなくても

すごい技術や才能がなくても

あなたはそれでいいんだよ

って。

 

 

 

 

 

ハイキュー!!では

日向たちが主人公で

描かれていきますが

 

 

 

 

何万人といる

負けていく人たちも同時に

大切にしてくれて

 

 

 

どの人も

敵でも味方でもなく

素敵だよ

 

 

 

と言ってくれているような気がします。



 

 

私自身

何かで大きな結果を出せたわけじゃない。
人より劣っていると感じたり

うまくいかないことも多いです。




だけど

そんな私を

この作品は

 

 


「それでいいんだよ」
「あなたもちゃんと頑張ってきたよね」

 

 


って

まるごと

受けとめてくれている気がします。






特別じゃなくてもいい。
目立たなくてもいい。
すごくない普通の自分でいい。

 

 

 

そんなふうに思いました。






もし今、
「私は大したことないし…」とか
「目立てないし…」って思っていたとしても。




それでも

あなたが頑張ってきたこと

感じたこと
それはとても重みがあることです。
 

 

 

 

あなたが感じたこと

私が感じていたこと

 

 

 

 

それでいいんです。

 

 

 

 

あなたは素敵です。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

数年前から

子どもたちと見ている

 

アニメ『ハイキュー‼︎』

 

 

 

 

もう何度も見ていますが

大好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は
なんで『ハイキュー!!』が好きなんだろう?




もちろん

好きな理由はたくさんあるけど
まずは

主人公・日向翔陽(ひなたしょうよう)の姿に

強く心を打たれるんです。




最初の頃の日向は
緊張しすぎて

お腹を下したり

吐いてしまったり
エースに憧れ

『おとり』であることに不満を抱く


 

 

そんな弱さが

ちらりと描かれながらも
やっぱり彼はまっすぐで

子どもっぽいくらいに純粋で
「やりたいからやるんだ!」

という気持ちに正直なんですよね。




誰になんと言われても
周りの評価なんてお構いなしに
自分の

「好き」

「やりたい」

「負けたくない」

に向かって突き進んでいく。




そして

日向だけではない。

 

 

 

 

日向を周りを取り巻く

キャラクターたち。

 

 

 

 

どのキャラクターも

それぞれのキャラが

強い思いを持って

「勝ちたい」

という目標に向かって

頑張っています。

 

 

 






その姿を見て
どうして、心が動くんだろう。




きっとそれは

日向たちの「本気」の感情に触れることで
自分の中にもある

『頑張りたい気持ち』が

共鳴するから。




誰かが一生懸命な姿を見ると
まるで

自分も一緒に

走っているかのような
そんな充実感や達成感を

感じることがあります。




本気で何かに向かう時の

ちょっとピリッとした緊張感
集中している時の心地よさ
やりきった時の満足感




そういう感情を

自分も味わいたいと思っている
だから

ハイキューに惹かれるんだと

思います。




私は

ほんとは頑張りたい。
でも

なかなか動けなかったり
自信がなかったり
人の目を

気にしてしまう自分がいます。




だからこそ
まっすぐ突き進む日向たちの姿に、
「いいな」

「私もそうありたいな」

って思うんです。




『ハイキュー!!』が

これほど多くの人に愛されるのは
きっと

みんなの中に
「頑張りたい」

っていう気持ちがあるから

だと思います。




その思いが

作品を通して

共鳴しているのだと思います。




 

 

 

 

「頑張りたい」と思うあなたへ。

 

 

 


あなたの中の『火』が

共鳴によって灯るなら
きっと

何かに向かって

また進める時がくるはず。




私も。

 

 

 

 

それにしても

ハイキューの魅力

まだまだありますよ〜!

 

 

 

 

それは

また次の機会に。

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 


今日は、私の好きなアニメ
『スキップとローファー』

お話をしたいと思います。
(ネタバレあります)




この作品の中で、

私が特に好きなキャラクターは
なおちゃんです。




主人公みつみのおじさん
動物的な性別は男性だけど

女性として生きています。




物語の中では

青春時代に感じていただろう

苦しみや孤独
そっと描かれています。




 

 

 

特に印象に残っているシーンがあります。
(第5巻より)



みつみがまだ幼かった頃

保育園の帰り。

 

 

 


お花のかんむりを作って

遊んでいたみつみに

なおちゃんが


「なおきくんも

 そういうの似合う

 女の子になりたかったなー」

 

と言ったんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

みつみは

「ふ〜〜〜ん」

って。

 

 

 

 

そして

どこかに走って行ったみつみが

持ってきたものは

お花のブレスレッド

 

 

 

みつみはなおちゃんの手に

そのブレスレッドをつけてあげました。

 

 

 

 

 

 

 

なおちゃんが

「・・・・似合う?」

 

 

 

と聞くと

「うん!かわいい!」

ってみつみが。

 

 

 

 

そしてぎゅーってみつみを

抱きあげてハグをするんです。

 

 

 

 

 

幼いみつみは

なんの戸惑いもなく

当たり前のように
なおちゃんに

ブレスレットを作ってくれました。




男とか女とか

そういう枠組みを一切持たずに
まっすぐで純粋な優しさ。




きっとなおちゃんは
「どんなあなたでもいいよ」

って勇気をもらえたと思います。




そのシーンを読むたびに
ジーンと

胸があたたかくなり

目頭がキューってなります。






なおちゃんのように

『自分であること』

あきらめずに生きている人って
本当に素敵だなって思います。



 

人目を気にしていなくはない。

誰か知らない人の

ヒソヒソ声。

 

 

 

 

それでも

『自分をあきらめていない』

 

 

 

 

自分の好きなことから

スタイリストになって

精一杯楽しんで

やりたいことやっている。

 

 

 

 

全部の自分を受け入れている

というわけではなく

そういう自分にきっと

悩みながら

色々感じながら

それでも

生きている

 

 

 

そういう姿に勇気をもらうし

完璧じゃなくていい

そう思えるのです。

 

 

 

 

悩み多き

このままの私でいいって

思えるのです。




 

 


私もついこの前まで

仕事もせずに

アニメばかり見ていた時期が

ありました。

 

 

 


何をしてもやる気が出なくて

焦って

落ち込んで

自分を責めてばかりで

家に閉じこもって。。

まるで不登校。

 

 

 


そんなときに

夫と会話をしました。

 

 

 


「こんな働きもせず

 アニメばかり見てダラダラしてて

 ごめんね。」

と夫にいうと

 

 

 


「元気でいてくれるだけでいいよ」

って。




その言葉に、私は救われました。
「そのままでいいよ」

って言われた気がして

嬉しくて

胸がじんわり熱くなりました。





 

 

 

スキップとローファーには
どのキャラクターにも

悩みや葛藤があって、
完璧じゃないからこその

リアルな人間らしさがあります。




悩んでいいんだよ。

感じていいんだよ。

完璧じゃなくていいんだよ。




それを教えてくれています。

 

 

 

 

好きだなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

前回のブログでは

見えない人の『輪』に

恐れることない。

 

そんなものは

ないのだから。

 

自分はどうしたいか、を

大切にしたい

というお話をしました。

 

 

 

 

今日は

見えないもの

『空気』

について考えさせられたアニメ

 

 

『青春ブタ野郎は バニーガール先輩の夢を見ない』

 

 

というアニメからお話ししたいと思います。

 

 

 

 

1〜3話のテーマは『空気を読む』

その場にある『空気』を読んで

『空気』になろうとしていた麻衣さん

 

 

 

 

 

周りも『空気』として扱います。

 

 

 

 

 

そんな麻衣さんは

だんだんと『空気』のように

周りの人から見えない存在になっていきます。

 

 

 

咲太(さくた)君は

麻衣さんの存在を消さないために

その麻衣さんを『空気』にしようとする力と

戦います。

 

 

 

 

これから僕が相手をするのは『空気』だ

押しても引いても叩いても何もないあの『空気』

学校を取り巻く『空気』

 

右にならへの生き方は楽でいい

悪いことの判断を

全部自分でするのはカロリーを使うし

自分の意思を持つと

否定された時に傷つくことになる

 

その点

みんなと一緒であれば安心安全でいられる

みたくないものを見ずにいられる

考えたくないことを考えずにいられる

全部人ごとで済ませられる

 

だけど

みんながそうしてるからってだけで

誰かを苦しめていいなんて理屈はない

 

みんながそうしてるから

みんながそう言ってるから

それが正しいとも限らない

大体みんなって誰だ

 

 

 

 

そして

全校生徒の前で

愛の告白をすることで

麻衣さんの存在を刻みつけたのです。

 

 

 

 

自分の意思をもたずに

空気を読んで

集団でいることに安心している

そんな姿を

非難していました。

 

 

 

 

 

私は

梓川君のように

全校生徒の前で

愛の告白はできない。

 

 

 

 

 

だけど

私も自分の意思を持って

生きていきたい

 

 

 

 

そう思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

自分が「よし」と思うことをやれる。

誰かが「よし、いいね、あってるよ、それ」って

言ってくれなくても

自分で決めて、やれる。

 

 

 

 

誰かに

「それ合ってるよ」

「それでいいんだよ」

 

 

 

 

そういう言葉を誰かからもらわなくても、

自分の意思でうごけることに

私は憧れます。

 

 

 

 

 

 

 

ということは

まだまだ

そういう私ではない私

ということです。

 

 

 

image

 

 

 

 

でも、そんな私でいいじゃないか。

 

 

 

 

 

 

「私はどうしたいか?」

 

 

 

 

嫌なら断る

やりたいことはやる

 

 

 

 

そういった場を

増やしていけばいいんだよ。

 

 

 

 

 

まだまだ未熟な私を

責めることなく

優しく寄り添いたいです。

 

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

「自分は外側にいるんじゃないか」

「ここにいてもいいのかな」

そんなふうに

居心地の悪さを感じることって

ありませんか?

 

 

 

 

 

 

 

 

私は週に一度

心の学びのための読書会に

参加しています。

 

 

 


でも実は、

気分が乗らないときは

お休みしたり、
チャットグループも

読むだけで

ほとんど発言していなかったりします。

 

 

 

 

そんなとき、

私はどこかで思っていました。

 

 

 

  • 参加したりしなかったりって、勝手かな

  • 悪いな…

  • みんなに申し訳ない気がする

 

 

 

久しぶりに参加したとき、

「こんな私なんかを、

 優しく迎えてくれてありがとう」

って言ったら、

 

 

 


仲間がこう返してくれたんです。

 

 

 

 

「それ、当たり前だよ。
 読書会に来ようが来まいが、

 自由でいい。
 チャットも話したい人が

 話すだけなんだから、
 気にする必要なんて

 一つもないよ。」

 

 

 

 

「『私なんて』って言ったらダメよ!」

 

 

 

 

その言葉に、

胸がじんわりしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は勝手に

『人の輪』のようなものを感じて

そこに自分が

入れていないような気がしていたけれど

そんな『輪』なんて

本当はなかったんだ、と。

 

 

 

 

人の『輪』みたいなものなんて

そんなものはないのに

あるように思えてしまう。

 

 

 

人が集まる場にいると、

つい

『輪』に入りきれていない自分を

感じてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長女が以前

こんなことを言っていました。

 

 

 

 

「学校で“ぼっち”は、絶対、嫌。」

 

 

 

 

1人でカフェにもラーメン屋にも

行ける子なのに

学校という

「みんなが誰かといる場所」では

1人なのが嫌だというのです。

 

 

 

 

「1人の人がたくさんいる空間」

では平気なのに

「みんなが誰かと

 つながっているように見える空間」

では苦しくなる。

 

 

 

 

…ああ

よくわかる。

 

 

 

 

人が集まると

勝手に『輪』を感じてしまう。

そこに「入らなきゃ」と

焦ってしまう。

それは、

自分の中の無意識が

生み出すもの。

 

 

 

 

縄文時代では

1人では生きていけなかった。

その時から埋め込まれている

生きるための本能なのかもしれない。

 

 

 

 

だとして

現代では1人でいても

野生動物に襲われて

死ぬことはない。

 

 

 

 

だからこそ

もともと存在しない『輪』に縛られて

「どうあるべきか」と

考える必要はないのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

だからこそ、

今あらためて思います。

 

 

 

 

「私はどうすべき?」ではなく、

「私はどうしたい?」を大切にしたい。

 

 

 

 

どこにいたって

どんな関わり方をしたって

『わたしの気持ち』

いちばんの基準であっていい。

 

 

 

 

読書会の仲間たちは

そんなふうに

『関わり方の自由』

尊重してくれる人たちです。

 

 

 

 

私も

自分や誰かに対して

そんなあたたかいまなざしを

持てるようになりたいなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

誰かの輪に入れないと感じた自分

つながりを感じられなかった自分を

「ダメな私」と責めずに

そっと

「そんな『輪』なんてないんだよ。

 あなたは

 あなたの気持ちを大切にしていいんだよ」

って寄り添いたいと思います。

 

 

 

「どうすべき?」と人や場に

合わせそうになるときこそ

「私はどうしたい?」と

自分に戻ること。

 

 

 

 

自分を軸にして生きていきたい

と思います。

 

 

 


最後までお読みくださり

ありがとうございます😁

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

あなたは、つい

「ごめんね」と

言ってしまうことありますか?

 

 

 

 

今日は

そんな私の癖に気づいた時のことを

書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゆかちゃんのそれ、

 いらないよ。」

 

 

 

 

心の学びを一緒にしてきた友達が、

ある日そう言いました。

 

 

 

 

私はよく、

自分の意見を言ったあとに

 

 

 

 

「ごめんね、ちょっと言いすぎたかも。

 でも、気にしなくていいからね」

 

 

 

 

…と、すぐに謝ってしまうことについて

「いらない」

友達は言ったのです。

 

 

 

 

私はそんな癖があることなんて

気づきもしなかったのです。

 

 

 

 

言われてから

確かに、、、

 

 

 

そういえば

自分の話をした後に

謝ることはよくあるかも、、、

 

 

 

 

と気づきました。

 

 

 

 

 

 

その時の

心の動きを

観察してみると

 

 

 

 

自分が話し終わった後

 

 

 

 

(やばい

 話しすぎた

 嫌がられるかも

 うざいと思われるかも

 コントロールしたかも)

 

 

 

 

という不安な気持ちが

ふわっと出てきていることに

気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

友達は

「私は、意見を言ってもらえて嬉しいのに

 そのあと“ごめん”って言われると

 なんだか悲しくなるんだよね」

 

 

 

 

と言ってくれたのです。

 

 

 

 

その時

自分のことを怖いと思いました。

 

 

 

 

意識していない

無意識のふわっとした

思いが

 

 

 

 

「謝る」

という行動を選ばせていたのですから。

 

 

 

 

でもそれって

裏を返せば

「相手はそんなことで傷つく弱い人であり

 そんなことで私を嫌いになる人」

と思っているってことです。

 

 

 

 

全部自分の心が

作り出しているんですね。

 

 

 

 

相手は全く弱くも悪くもないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなふうに指摘してくれる友達

かっこいいですよね。

 

 

 

 

ちゃんと

感じたことを言い合える関係

って、ありがたい。

 

 

 

 

私は幼少期の出来事から

『人は怖い。』

『嫌われると生きていけない。』

という思い込みを

今もずっと持っているんですね。

 

 

 

 

だいぶ向き合ってきたつもりですが

強く強く握りしめている。

 

 

 

 

でも

この友達だったり

昨日のブログでも書いた

職場の方々だったり

 

 

 

 

『人』は怖くないし

『人』は私を傷つけない。

 

 

 

 

勇気を持って

謝るのをやめる

 

 

 

 

やっていこうと思います。

 

 

 

 

私もそんな友達のように

言い合える関係になりたい

と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

悩めるあなたも私も美しい。

それだけで尊い存在です。

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

新しい場所に行くと、

なんだか緊張してうまく話せない。

 

 

 

そんな自分がイヤになること、

ありませんか?

 

 

 

今日は、

そんな『はじめての場所での居心地の悪さ』

はどこからくるのだろう?

と自分と向き合った話をしようと思います。

 

 

 

 

 

 

最近、新しいバイトを始めました。

周りはとても優しく

丁寧に教えてくれます。

 

 

 

それでも

なぜか緊張して

「行きたくないな」と

感じていることに

気づきました。

 

 

 

 

心の中をよく観察してみたら

「私は何もできないから教えてもらう人」

「私はまだ仲間に入れてもらう側」

「私は失敗しても許してもらう人」

そんなふうに、

自分を

『してもらう立場』に置いている

と気づきました。

 

 

 

 

すると

「嫌われたら生きていけない」と思い込み、

聞きたいことも聞けず

断りたいことも断れず

結果的に曖昧な行動で

かえって誤解されるようなことも

起きていました。

 

 

 

 

だから、ある日決めました。

「対等になろう」と。

 

 

 

 

 

 

できないことはできないと言おう。

無理に合わせて買いたくないものは断ろう。

仕事も覚えてきたのだから

堂々としていよう。

 

 

 

 

『してもらう人』ではなく

『一緒に頑張る人』になろう

と意識を変えてみました。

 

 

 

 

結果は…

 

 

 

 

全然大丈夫でした。

ちゃんと聞きたいことも聞けたし、

言いたいことも言えました。

 

 

 

 

怖いことなんて

何も起きませんでした。

 

 

 

 

新しい場所や人間関係では

無意識に『される人』になってしまい

相手を『こわい人』『加害者』のように

思い込んでしまう。

 

 

 

 

でも、本当はそうじゃない。

 

 

 

 

自分がどう現実を捉えているか

自分が自分をどう認識しているかで

態度も言葉も変わってきます

 

 



その認識は

幼少期に作られると言われています





自分がどう認識していたのか気づいて

行動とともに変えていく




そうすることで

世界は変わります。

 

 

 

 

 

4月に新生活を始めた子たちも、

そろそろ

周りに合わせてきた疲れが

出てくる頃かもしれません。

 

 

 

 

うちの次女にも、

不安や緊張からくる反応が出てきました。

 

 

 

 

これまでだったら

あまり気にも留めなかった

子どもたちの一言にも

丁寧に寄り添っていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

悩めるあなたは美しい

それだけで尊い存在です。

 

 

 

 

最後までお読みくださり

ありがとうございました🍀

 

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

お母さんのシーンに

自分のダメ親ぶりを感じて

いちいち

私はダメだとチクっとする

という話を

昨日のブログで書きました。

 

 

 

 

そんな

自分の親ぶりを受け入れられない私が

ちょっとだけ

こんなダメな親でもいいのかなと

私の中にある

『親としての当たり前』を

壊してくれたアニメがあります。

 

 

 

 

今日はそのアニメ

『花咲くいろは』に登場する

主人公・松前緒花(まつまえおはな)のお母さんから

気づいたことをシェアしたいと思います。

 

 

 

 

公式ホームページです下矢印

 

 

 

 

 

緒花の母は

世間の目から見れば

「ひどい母親」に

見えるかもしれません。

 

 

 

 

・約束していた授業参観に来ない
・恋人と夜逃げする
・突然「おばあちゃんの旅館へ行け」と言い出す

 

 

 

 

親としてあり得ない

 

 

 

 

そう感じる行動ばかり。

 

 

 

 

けれど

作品を通して見えてくるのは
「ダメな親」と

一言で片付けられない

そんな気持ちにさせられました。

 

 

 

 

 

緒花は

たしかに傷つきながらも

非行に走るわけでも

誰かに依存するわけでもない。

 

 

 

 

むしろ

しなやかに

たくましく育っていく。

 

 

 

 

 

 

その姿を見ていると

「愛されなかった子ども」の

定型のようなイメージから

解放されるような感覚になりました。

 

 

 

 

親が『完璧』じゃなくても
『ちゃんと育つ』こともある。

 

 

 

 

不完全なままでも
誰かを大事に想うことは

できる。

 

 

 

 

そして

緒花の母は
「私はこうだから」と

自分をどこかで

受け入れているように見えました。

 

 

 

 

 

いい親じゃないと責めるでもなく
投げやりになるでもなく

ただ

「自分のまま」でいることを

選んでいたように感じたんです。

(アニメでは心の内までは描かれていないけれど)

 

 

 

 

私はずっと
「親はこうあるべき」

という思い込みを握ってきました。

 

 

 

 

 

なぜなら

『いい親であること”が、私の価値を証明すること』

だったから。

 

 

 

 

・子どもがすくすく育つ
・子どもがいい子である
・子どもが自慢できる存在である

 

 

 

 

そうなったとき

「私は価値のある人間だ」

って思えた。

 

 

 

 

 

でもそれって、

怖いことだなって思います。

 

 

 

 

子どもを通して、

自分の価値を証明しようとすること。

 

 

 

 


いい子でいてくれないと

自分が不安になってしまうこと。

 

 

 

 

それって、先生も同じ。

「いい子どもがいれば、いい先生になれる」
「だから、子どもをコントロールしたくなる」

 

 

 

 

 

私はたぶん、
『価値がないかもしれない自分』を

認めるのが怖かったんだ。

 

 

 

 

価値がないと感じた瞬間の

体中が痺れているかのような感覚

 

 

 

 

逃げ出したくなる悲しさ。

 

 

 

 

でも思うんです。

 

 

 

 

  価値があるとかないとか

  そんなものは

  ほんとうは幻。

 

 

 

 

人の価値なんて、
誰かの物差しで測れるものじゃない。

私は私のままで、すでに素晴らしい。
子どもも、そのままで、すでに素晴らしい。

 

 

 

 

 

「いい親」
「いい子」
 

 

 

 

 

そんな幻の正解を

追いかけるのはもうやめて

ただ、自分を知ろう。
自分の感情に気づこう。
自分の愛を、信じよう。

 

 

 

 

 

親として

目に見えるような

愛のある行動を

していない私はダメだ

と責めるんじゃなくて

 

 

 

 

「私はこういう親」
「私はこれが大事だと思ってる」
「私は私でいいんだ」

 

 

 

 

そうやって

自分自身の親としての形を

認められたらいいなと思います。

 

 

 

 

 

 

最後までお読みくださりありがとうございます🍀

 

 

こんにちは。

yukaです。

 

 

 

 

私はアニメを見ていて必ず

複雑な気持ちになるシーンがあります。

 

 

 

 

それは

 

 

 

 

『母』のシーンです。

 

 

 

 

感動する

と同時に

ちくっとする

 

 

 

 

 

 

 

それを言葉で表すと

 

 

 

 

親ってすごいな

親の愛って深いなー

でも

私はこんなふうにできない

私は愛のないダメな親だ

 

 

 

 

 

その思いは

映像と共に

流れていくので

すぐに忘れてしまう。

 

 

 

 

でも

 

 

 

 

作品を変えても

母が出てくるシーンには必ず

感動アンド自己否定

の複雑な想いが

出てきます。

 

 

 

 

『ブルーピリオド』

谷口八虎(やぐちやとら)が

お母さんに

藝大受験させて欲しいとお願いするシーンでは

お母さんが台所に立っている絵を渡すんですが

 

 

 

『この人

 本当に家族のことしか考えてないんだって

 絵をかいてなかったら

 こんなことにも気づけなかった』

って言うんですが

その中に

 

 

 

 

『食事はいつも

 肉や魚が

 一日おきだよなあとか、、、』

 

 

 

 

って言うんです。

 

 

 

 

 

それを聞いて

私はできていないよな

っていちいち思う

 

 

 

 

親の愛の深さを絵を描くことで気づいて

その気持ちを伝え合っている

そんな素敵なシーンに感動して

涙が溢れると同時に

 

 

 

 

私はダメだって、なる。

 

 

 

 

大好きな作品『アオアシ』

青井葦人(あおいあしと)が

上京する新幹線の中で読んだ

お母さんからの手紙のシーンとか

涙なくては見れない

 

 

 

 

母の愛は深いなって感じると同時に

私はあんなにしっかりしてない

 

 

 

 

とか

 

 

 

 

『メダリスト』

いのりのお母さんは

 

 

 

 

「フィギュアスケートは

 怪我をして辛い想いをするから

 させない」

 

 

 

 

と不安からの過干渉全開。

 

 

 

 

それを見て

過干渉だった昔の自分を

見ているようで

グサグサ突き刺さるものだから

 

 

 

 

ダメな自分を映し出されているようで

イライラしてしまう

 

 

 

 

けれどもそのお母さんも

いのりから気づかされるんです

 

 

 

 

楽しんでスケートをしている姿や

金メダル取りたいと宣言する姿から

 

 

 

 

不安を向けるのではなく

子どもを信じようって

 

 

 

 

そうやって

変わっていく。

 

 

 

 

そんなお母さんが

徹夜で衣装を仕上げるシーンとかも

愛を感じてジーンとする

 

 

 

 

と同時に

 

 

 

 

私はそんなふうに

変われるかな

 

 

 

 

っていう思いが出てくる。

 

 

 

 

また別の作品

『Buddy Daddies』という作品では

殺し屋の男2人で

ある理由があって

女の子を育てることになる作品なのですが

 

 

 

 

キャラ弁を作ったり

美味しいご飯を作ってあげる

シーンがあって

それを見ると

 

 

 

 

やっぱり

親の愛を感じてジーンとすると同時に

私はあんなふうにキャラ弁作れない

 

 

 

 

とか

 

 

 

 

作品を見ることで

自分の親からの深い愛を感じて

ジーンと感動すると同時に

 

 

 

 

自分が親としてはダメだって

思うのです。

 

 

 

 

あんまり自分のことを

いい親だと思ってない。

 

 

 

 

親という存在を見ると

いいとか悪いとかで

ジャッジしてしまうんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

書きながら

まだまだ私は

「親である私」

の部分を受け入れられてないことに

気づきました。

 

 

 

 

私がそう感じるのには

ある出来事があったのです

 

 

 

 

ひどい毒親だった私

 

 

 

 

過去に感じた感情が

消化されず残っている

 

 

 

 

その感情が

作品を見ることによって

ちくちくと疼く。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言えば

リアルでも

同じような気持ちになった出来事が

ちょくちょくありましたよ。

 

 

 

 

こうやって

未消化な感情は

感じてよーって

出てくるんですね。

 

 

 

 

深掘りする糸口になりますね。

 

 

 

 

 

あなたは

アニメやドラマ、漫画を見て

心がちくっとする瞬間

ありますか?

 

 

 

 

それはあなたの過去に感じた

未消化な感情を感じてよーの

サインかもしれません。

 

 

 

 

 

 

この後

深掘りしてみます。

 

 

 

 

最後までお読みくださって

ありがとうございました🥰