韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/63/3/63_12/_pdf

12アジア研究Vol. 63, No. 3,20177 伊藤正子

 

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Lai đại hàn Korean slaughter

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Vietnamese(killing)ExperienceParkInKorea

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これでも韓国好きな人は完全に病気!

 

 

 

 

そして200311月平和博物館建立推進委員会が設立された。

 

「苦痛・記憶・連帯」の精神にもとづき、戦争を記憶し、

傷を受けた人々との「苦痛の連帯」を目指している。

 

委員会はソウルの有名な観光地、

仁寺洞の近くに約100平方メートルの展示空間と事務所を持ち、

平和に対する感受性を育てるための様々な展示を行っている。

 

この平和博物館の主要なメンバーたちは頻繁に会合を開いて活動について話し合っており、先の国会議決が外交問題化した際、

ベトナムのマスコミ関係者や作家などを招請する計画をたてた。

 

また、『ハンギョレ21』の報道以後、

韓国各地の韓国戦友会がベトナム参戦を国家への貢献として

歴史に残すために建設を進めた「ベトナム参戦碑」や、

ベトナム戦争時代に派遣前の部隊が訓練を受けていた場所につくられた

施設「ベトナム参戦英雄兵士出会いの場」(江原道華川郡)などを

一緒に見に行く予定であった。

 

ベトナム側では、ク・スジョンが知り合いの

ベトナム人記者たちにこの計画を提案し、皆非常に乗り気であったという。

 

しかし、計画が上層部に上がっていくと、

どの新聞社やテレビ局もOKを出さず、

かえってそのような試み自体が問題と見なされた。

 

激増している「ベトナム参戦碑」などが、

マスコミ報道によって、外交問題の種になることを恐れたのだろう。

 

これはベトナム側で外交部(外務省)まで上がって問題化した。

しかしベトナム国家にとって問題だったのは、

ベトナム参戦碑や「出会いの場」の展示内容ではなかった。

 

ベトナム国家の顔を潰さない程度には配慮してくれ、

かつ割れた世論の問題は国内から出さないでおこうとする

韓国政府の方針に従わず、

勝手に「不穏」な動きをする韓国NGOの活動の方だったのだ。

 

こうして両国関係は良好なまま推移しているが、

ベトナムが「過去にフタをして未来へ向かおう」という

スローガンの貫徹に踏み切ったことで、

「記憶の闘争」状況をベトナムに伝えようとした韓国NGOの新たな活動は阻止された。

 

IV日本を巻き込む記憶の闘争へ

 

1.虐殺被害者ベトナム人の韓国訪問2015年はベトナム戦争終結40周年、

また韓国にとってはベトナム派兵50周年の年であった。

 

日本では戦争終結を記念して、民間で幾つかの集会が開かれたり、

学会や研究会でベトナム戦争を回顧するシンポジウムが開催されたりしたが、

韓国は戦争参加当事国であったにもかかわらず、そのような動きはごく一部に止まった。

 

催しを開いたのは、平和博物館を中心としたNGOである。

 

4月に、

韓国軍の虐殺事件の生き残りの被害者二人と、

ホーチミン市の戦争証跡博物館の館長が韓国に招かれた。

 

三人は一週間にわたりソウル、釜山,Busan、大邱,Daeguを訪問して市民と交流、

被害者の二人は懇談会で虐殺の体験を語って注目を集めた。

24アジア研究Vol. 63, No. 3, July 2017

 

一人は先ほど取り上げたBin'anの虐殺の被害者で、

慰霊祭で体験を語っている村の元党書記のラン氏である。

 

しかし大韓民国

枯葉剤戦友会(Korean Disabled Veteran's Association by Agent-Orange in Vietnam War

などの参戦軍人団体の激しい反発と抗議により、一部の行事が中止された。

 

レセプションの会場になるはずだった

ソウルの曹渓寺前で同会の約300人が集会を開き、

ラン氏を「民間人などではなくベトコンVietcongだった」と中傷するなど

軍歌を流しながら暴力的発言をし、力で行事を阻止すると息巻いた

(実際のところ、ラン氏が解放民族戦線に参加したのは、

虐殺で母と妹を失ってからかなり時間がたってからである)。

 

また三人は、京畿道広州にある

日本軍の慰安婦にされたと称するおばあさんたちが暮らす

ナヌムの家を訪れて交流し、ソウルの日本大使館前での「水曜集会」にも参加した。

 

世論の分裂は露わになったものの、一般市民に生の声で体験を伝え、

それがハンギョレ新聞などによって大きく報道されたことで、

「ごめんなさいベトナムキャンペーン」以来

久しぶりに韓国軍のベトナム戦争時の虐殺事件について

世論を再び喚起する効果があったと言える。

 

それに対し、この訪問についてのベトナム側での報道は皆無であった。

 

2.2016年の「ベトナムピエタ」像制作

2016年は、韓国軍による虐殺が多く起こった年1966年から50周年であった。

 

そのため、2016年は50周年の慰霊祭が

ベトナム中部の多くの村で開かれることが予想された。

 

そこで韓国ベトナム平和財団建設推進委員会は、

この行事に合わせて謝罪と慰霊の活動をすることにし、

具体的にはピエタ像を村々に建立する計画をたてた。

 

この像の制作を担当したのは、キム・ソギョンとキム・ウンソン夫妻で、

ソウルの日本大使館の向かいに設置された「平和の少女像」をつくった彫刻家である。

 

夫妻は2015年に、慰安婦のおばあさんたちの寄付をもとにつくられた

「蝶基金」でベトナムを訪問し、韓国軍による性暴力事例を共同調査したりしている。

 

ピエタ像(正式名:ベトナムピエタ、ベトナム語名:Lờiru cuối cùng, 最後の子守歌)

の大きさは縦横70センチ、高さ150センチ、重量150キロのブロンズ製である。

 

この像は、まだ名前もつけないうちに亡くなった赤ん坊とそれを抱きしめる母を彫ったもの。

虐殺の犠牲者の霊を慰めることと、

ベトナム戦争の問題に対し韓国政府が責任ある態度をとるように

呼びかけることを目的としている

TuổiTrẻ, 26-4-2016, Tượng Pieta-một lời xin lỗi Việt Nam,tr.16)。

 

推進委員会は一般からの寄付を募っており、

116日のハンギョレ報道後10日間で700万ウォン

(約67万円,6USドル,14,271万ベトナム ドン)の寄付が集まった。

しかし、結局ベトナムの村に設置する許可はおりず、

201610月、ピエタ像はダナンDa Nang City)博物館に寄贈された。

 

韓国軍の虐殺事件について、ク・スジョンたち韓国NGOとは別に、

もともとダナンDa Nang City)博物館は、韓国軍の虐殺事件について、

生き延びた人たちの写真や虐殺事件の概要について独自の資料展示を行う

など、この問題に熱心に取り組んできた機関であった。

その延長線上でピエタ像の受け入れを決めた。

 

館内には、新しく韓国NGOから寄贈された書籍や各種資料も、

独自のガラスケースを設けて展示している。

 

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題253.

『トゥイチェー』紙によるシリーズ報道

20169月、『トゥイチェー』紙は訪越したハンギョレの

コ・ギョンテ(高・暻兌)記者へのインタビュー記事を7日に載せたのに引き続き、

11日から17日まで7日間連続して、

韓国軍による虐殺の生き残りの人たちを大きなカラー写真とともに

取り上げたシリーズを掲載した

TuổiTrẻ, 7-9-2016 NhàbáoKohKyoungTae: Sựthậtchữalànhvếtthương,11-9-2016 Sốngsótsauthảmsát – Kỳ 1: Suốtđờiđaubuốt,12-9-2016 Kỳ 2: Nhữngphậnđờibithảm,13-9-2016 Kỳ 3:BônvàBông – haichịemthấtlạc, 14-9-2016 Người“nghệsĩmù”,15-9-2016 Kỳ 5: Chờbiatưởngniệm, 16-9-2016 “Nhiệmvụcuốicùng:Sốngđểkểlại”, 17-9-2016“ThànhthậtxinlỗiViệtNam”)。

 

 

当時の事件を生々しく当事者の口から語ってもらう。

それとともに、多くの家族を失って孤児になったり、

大けがで体の一部が欠損して障害者になったり、

傷の強い痛みが引き続いて苦しんだりしてきた、

そのため、苦難の人生を歩まざるを得なかった、

そんな人々の事件後の人生を丁寧に追っている。

 

そして、「毎年学生のみなさんや大韓民国の元兵士たちがやってきて、

親しく状況を尋ねてくれたり、励ましてくれたり、慰めてくれたりしている。

だが、国家からの正式な謝罪はまだない

などという生き残りの人たちの発言を引き出した。

 

4.声を上げたベトナム人とベトナム社会の反応このようななかで、

事件の当事者ではないベトナム人からも、

韓国政府の責任を問う声が上がるようになった

 

Phú yên省出身で1977年生まれのチャン・クアン・ティ(TrầnQuangThi)である。

 

ジャーナリストのティは、出身地が韓国軍が駐屯したPhú yên省であった

だから、

子供の頃から虐殺事件とその後の生き残りの人々の苦難について

大人世代から日常的に耳にしていた、

グッドウィルでも活動してきたこともあって、韓国軍の虐殺問題に詳しかった。

 

20164月に自身のフェイスブックに掲載した

一文はベトナムで議論を呼び、89,000回もシェアされた。

かなり異例のことであったと言ってよい。

 

ここで内容を簡単に紹介し、ティの主張とそれに対して、

ベトナム社会からどのような反応があったかについて具体的に見ておきたい。