https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/63/3/63_12/_pdf

12アジア研究Vol. 63, No. 3,20177 伊藤正子

 

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韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解6

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解5

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解4

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解3

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解2

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題戦争の記憶と和解1

Lai đại hàn Korean slaughter

Englisharticles futukiitihoyoujiyo

Englisharticles 2

LAOS DAM2

LAOSDAM

Vietnamese(killing)ExperienceParkInKorea

QuânđộiHànquốcHệTthốngMạiDâmCôngCộngTrongChiếnTr

KoreaComfortWomenSystemDuringKoreaWarKoProfưởng

これでも韓国好きな人は完全に病気!

 

 

2.NGOナワウリの活動先にも述べたように、

具秀姃が韓国軍に関する記事を書くきっかけをつくったのは、

韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題NGOナワウリのメンバーが

ホーチミン市にやってきたことであった。

 

ピースボートの船旅に誘われて参加したナワウリのメンバーは、ダナンで下船した際、

「ベトナム戦争と韓国軍」というタイトルのプログラムに参加し、

そこで2節でふれるハミ村の人々の話を聞いた。

 

当時30歳代前半の韓国人参加者たちにとり、初めて聞く話で、

当惑を引き起こすものであった。

 

しかも、この問題を日本人に提起されたことは、韓国人の苛立ちを倍増させた。

 

その後船内で行われた討論では、

日本人側から「韓国は日本に謝罪し反省しろと言いながら、

ベトナムに対してはなぜ謝罪しないのか」、

「日本に補償を要求するのに、ベトナムに対して何もしないのか」などの質問が出された。

 

参加していたナワウリのメンバーによれば、

「船内に異常な空気が流れた」という(キム・ヒョナ、2009:42–44)。

 

しかしその後、19994月になって、ナワウリのメンバーたちは、

自分たちの力でこの問題を明らかにするべきだと考え、自ら現地に赴く。

 

かれらはク・スジョンと合流して調査の旅に出るが、

この数週間の調査は断続的に計44年に及び、参加者には当時の参戦軍人もいた。

 

特に第一回調査は、共産党の内部資料を手に入れてからも公表に迷い、

二年間も机の中に放置していたク・スジョンに、

虐殺事件を明るみに出すことを決心させた調査となった。

 

ナワウリはこの後、2001年にホーチミン市でグッドウィルというNGOを結成した。

グッドウィルの当初のメンバーは、ベトナム在住韓国人ばかりで、

ベトナム人はこの問題に全く無関心だった。

 

ベトナム人自身にこの問題を考えてもらわないと主体的ではないと考え、

かれらはホーチミン市の大学の韓国語学科の学生をリクルートし、

うち数人を韓国に留学させ、韓国社会について勉強してもらうと同時に、

虐殺の問題についても提起した。

 

帰国後にかれらがグッドウィルの中心メンバーとなっていく。

 

2002年からナワウリとグッドウィルは、韓国軍が虐殺を引き起こした地域で、

幾つかの謝罪活動を始めた。

 

韓国人青年とベトナム人青年(ホーチミン市と村の若者たち)が

二週間、寝食を共にしながら両国の過去を振り返り、

真の平和に向けた実践を模索しながら、一緒に労働して汗を流し親睦を深める

「韓国ベトナム平和キャンプ」である。

 

労働によってつくったのは、まずは虐殺の犠牲者のための慰霊碑で、

その後舗装道路や橋の建設、虐殺の生き残りの高齢者たちの家の修理などをした。

 

共産党の「過去にフタをして未来へ向かおう」という方針のせいで

、ベトナム人でも青年世代はベトナム戦争の歴史について詳しくなく、

ましてや韓国軍の虐殺事件については知らない者が多い。

 

そのため、ベトナム人自身に、家族を殺されて苦しい思いをし、

今もおきざりの状態にある生き残りの

人々に手をさしのべることを自覚してもらうことも意図していた。

 

3.参戦軍人たちの三類型一方、

参戦軍人たちの多くは『ハンギョレ21』の報道に反発した

しかし、かれらも一枚岩ではなく、

韓国軍の参戦・犯したとされる虐殺に対する考え方により、

大雑把に三つのグループに分類できる。

 

最も多いのは、当時の政府のスローガンを信じて命がけで参戦したことは、

自らの誇りなので、その戦いを「虐殺」と非難され汚されることは非常に不愉快だが、

一方で戦場の状況からして、

偶然に「虐殺」事件は起こりえたかもしれないと感じている人たちである。

16アジア研究Vol. 63, No. 3, July2017

 

そのため、『ハンギョレ21』の報道を許容できないが、

一方で報道に反発する政治的な運動を過激に行う意志もなく、

もう静かにしておいてほしいと考えている。

 

その次に多いのは、戦友会の活動的なメンバーであり、

政府に働きかける圧力団体としても強力な運動を展開している人たちで、

強烈な反共主義者でもあり、

ベトコン」「共産主義」と勇敢に戦ったことを

「虐殺」と言われることに我慢のならない人々である。

 

そしてほんの数えるほどしかいないが、『ハンギョレ21』の報道とあいまって、

自分たちがベトナムで行ってきたことを真摯に反省し、

誠実に謝罪し、未来の平和のためにいかそうと考える人たちである。

 

かれらはこの問題の展開に大きな役割を果たした

 

 

このように、虐殺の実態が報道された結果、参戦軍人たちの間にさえ、

自国の負の歴史に向き合う人々を生み出し、

ベトナムの被害者との和解を目指す活動も盛んになった。

 

しかしながら、世論の分裂を乗り越えるところまではいかなかった。

 

やはり、北朝鮮との統一が成し遂げられていない韓国の現状が大きな影を落としている。

 

北朝鮮の脅威がある限り、

「共産主義の浸透におびやかされる南ベトナムを助けるために参戦した」との言説は、

正当性を持ち続ける。

 

しかしそれでも、民主化後の韓国では、保守政権下でもなお

記憶同士が「闘争」できる余地があった。

 

つまり政権の介入を受けて、『ハンギョレ21』が潰されたりすることはなかった。

一方、次節で見るようにベトナムには記憶の「闘争」の余地がほとんどない。

 

一党独裁の国家権力が、公定の歴史のみを国家の歴史として掲げ、

人々が個人の歴史を語る自由を末端レベルのみに押さえ込もうとする。

 

記憶の「闘争」をさせず、「統制」を徹底させてしまうのだ。

人々は「統制」が及ばないレベルでしか、自らの記憶を自由に語ることができない

 

II記憶の語り方―ベトナムの場合ベトナムでは、

各級行政組織(国家、省、県、社)によって、地域によって、また時間の経過によっても、

韓国軍の虐殺行為について、異なった記憶の語り方を示した。

 

具体的には、『ハンギョレ21』のキャンペーン開始時には、

虐殺の生き残りのベトナム人たちが前面に出て、

当時の悲惨な状況を素直に言葉にすることができたし、

『ハンギョレ21』の報道を追う形で

ベトナムの全国紙にも同様の内容の記事が掲載されたりした。

 

しかし、韓国の世論が割れていることをベトナム国家が認識し、

また『ハンギョレ21』の記事がロイター通信の報道を通じて、

全世界に拡散しだすと、事態は変化し始めた

(  金栄鎬 (キム ヨンホ)、2005:14)。

 

 

国家にとって、虐殺の記憶の語りが県レベルを超えて

国民に共有されるようになることは望ましいことではなかったからだ。

 

反韓感情が国民のあいだで強くなり、

ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、

ベトナム国家はこの韓国軍によるベトナム人戦時虐殺問題

全国的に継続的に報道されることを許さなかった。

 

これは、「過去にフタをして未来へ向かおう」という

ベトナムのドイモイ(刷新政策)後の方針のためである。

 

もともと1990年代初めにアメリカとの関係改善を目指して出したスローガンだが、

これをその後全ての国に適用している。

 

つまり、ベトナムは歴史上自分たちに被害を及ぼし

たいかなる国に対しても賠償を求めず、未来の関係改善こそを重視する方針をとっている。

 

一見未来志向に聞こえるが、

戦争被害の歴史を掘り起こして真実に沿った歴史を刻むよりも、

共産党の公定記憶に貢献するもののみが、

特に国家レベルにおいては「歴史」となることに帰結している。

 

その結果、被害国であるにもかかわらず、国家関係・国家利益を優先して、

現政権への貢献がなかった戦争被害者の声を封殺し、

多様な記憶の表明を許容せず、

弱い立場の自国民を犠牲にするケースさえ見られるのである。

 

1.Quảng NamHami村の慰霊碑をめぐる騒動―優先された外交関係

以下韓国軍による虐殺事件が相次いだ4つの省のうち3省を対象に、具体的に見ていく。

まず、中部の大都市Da Nang のすぐ南にある.Quảng NamHami村の事例を紹介する。

 

19682Hami村で135人の村人が韓国軍に虐殺された。

男性は南ベトナム解放民族戦線に入るか南ベトナム政府軍に徴兵されるか

どちらかだったので、残っていたのはほとんどが高齢者、女性と子供だった。

 

かれらは韓国兵に撃たれたり、

集められて家に入れられて手榴弾を投げられたりして亡くなった。

 

筆者に証言してくれた男性は、家にいると政府軍に連れていかれるので、

毎日早朝に家を離れていたが、

その日帰宅して母や兄弟、親戚など家族が殺されているのを発見した。

 

明かりをつけると韓国兵に撃たれるので、暗闇のなかで死体を集めて埋めた。

しかし、翌日に韓国軍は戦車で死体を轢いて整地していったとのことで、

だから、この男性は「二度家族を殺された」と証言した。

 

このHami村をドイモイ後1999年になってから、韓国の元軍人グループが訪問した。

資金不足で慰霊碑が建てられないことを聞いて

韓国の元軍人たちで25,000ドル(約277万円約58,005万ベトナム ドン)を寄付した。

 

Hami村の属する クアンナム省(Quảng Nam Province)は

慰霊碑と集団墓地の建設のための土地を提供し、村人たちは労働力を提供した。

 

昼休みは通常昼寝をする習慣の

ベトナム人たちが、慰霊碑建設のために嬉々として自主的に働いたという。