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『花のほかには』-fuyusun'sワールド-

fuyusunの『何じゃこりゃ!長唄ご紹介レポート』
自己満足ブログですみませんm(_ _)m

年代
作曲
作詞
1854年安政元年 十世杵屋六左衛門
三世桜田治助

安政元年は日本を大きく揺らした時代だ。

伊賀地震・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡の地震(実際には年号を改める前に起きている)、また翌年は飛騨地震・安政江戸地震。

何気に平成23年の今日のような地震当たり年ですね。

また、前年の嘉永六年にペリーが浦賀に入港して、そして安政元年に日米和親条約を締結する。

それから、1858年に起きた安政の大獄で命を失う吉田松陰が黒船に乗ってアメリカに密出国しようとして御用となってしまうという事件もありました。

日本の国土も揺れれば、政治も揺れる時代背景。


三世桜田治助は戯作者である。2代の門下で、松島半次、松島てうふを経て1833年治助を襲名。1838年四代目中村歌右衛門と提携し中村座に地位を占める。1862年に名を弟子に譲り桜田左交の名で活動、森田座につき、市村座の河竹新七(黙阿弥)、中村座の瀬川如皐 (3代目)と鼎立した人だそうです。

さて、

末広がりは、狂言の「末広がり」が題材となってできた長唄です。
数字の「八」とか扇とか傘の事を昔の人は末広がりといいました。
要を中心に広がる、即ち繁栄を示し、とても目出度い言葉なんだそうです。
今は
「ラッキーセブン」とか言って「七」という数字が良いと言いますが、昔の人にとっては「八」という数字も目出度い数字だったんですね。

主人公は、狂言で御馴染みのコミカルキャラの太郎冠者。
ある日、大名に
「末広を買って参れ」と言われて買い物に出された。
太郎冠者は迷わず傘屋で傘を買ってきました。けれど、大名が買って来て欲しかったのは「扇」だったんですよね。
何の事ないストーリー。
最初から、格好を付けずに
「扇を買って来い」と言えば良いのに…。
そんな事を言ってしまったら元もこうもありません。
まあ、太郎冠者がドジだと言いたい
そんなストーリーなんです。

実に、つまんないような日常生活のようなストーリーですがそのお陰でとっても分かりやすい曲です。

この曲は、踊りでも長唄でもお囃子でも初心者が習う曲なんです。
馴染みやすい曲だからでしょうか。
ストーリー性もあるし音楽としてもリズミカルで楽しい曲なんですよ。
この曲を演奏しているととっても楽しい気分になれるのでだから、初心者の手ほどき的曲なんでしょうね。それに演奏時間も短いし…。

私の長唄の初舞台もこの曲を演奏したんです。まだ小学校五年生でした。
だからとっても思い出のある曲なんですよ。
この曲はいわゆる「松羽目物」に分類される曲です。能とか狂言とかから題材を頂いてけっこう格式がある曲の事。
踊りの舞台背景で能舞台のように松の絵を描いた背景を設置するんです。
ですから「松羽目物」と呼ばれています。
有名処では「勧進帳」なんかそうですね。でもね、「末広がり」のような曲は変に格式ばって演奏しちゃうと全然曲想に合っていない感じ。
つい「松羽目物」=格式と思っちゃうと重くなっちゃうけれどやっぱりコミックですからね。
でもね、反対にコミカルだからとオチャラケちゃうとぜんぜん「松羽目物」としての格式が無くなってしまうから、こういった曲は実は難しい曲だと思います。
重すぎず軽すぎずというのがとっても難しいと思います。
こういった曲をちゃんと演奏できるようになるのかな。

頑張ってお稽古に励もう。それしかないね。

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描く舞台の松竹も、千代をこめたる彩色の、若緑なるシテとアド。

罷出でしも恥ずかしさうに、声張上げて

「太郎冠者あるか」

「御前に」

「念なう早かった」

頼うだ人は今日も又、

恋の奴のお使ひか、返事待つ恋、忍ぶ恋

晴れて扇も名のみにて

ほんに心も白扇、

いつか首尾して青骨の、ゆるぐまいとの要の契り

かたく締緒の縁結び、神を頼むの誓ひごと、濡れて色増す花の雨

笠をさすなら春日山

これも花の宴とて、人が飲みてさすなら、

我も飲みてささうよ、花の盃、はんな傘、実にもさうよの、やよ実にもさうよの、実にまこと

四つの海、今ぞ治まる時津風、波の鼓の声澄みて、謡ふつ舞ふつ君が代は、

万々歳も限りなく、末広がりこそ目出度けれ、

末広がりこそ目出度けれ


現在
もともとのホームページから移行中なので、どんどん記事が増えていると思います。
でも、そのままコピペできないのが、私の性格。

作曲された時代背景を紹介したら、もっとわかりやすいかも。
長唄を通して、長唄だけじゃなくて日本史とか文学とか勉強できたら楽しいかも。
なんてね♪
中学生とか高校生の時に、こういった勉強方法を獲得していればよかった。
そうすれば、もっと楽しく勉強できたのになぁ。
時代
作曲
作詞
1841年(天保12年)
十世杵屋六左衛門
三升屋二三治


将軍徳川家慶の時代である。この方は十代将軍徳川家斉の次男である。家慶は45歳の時(1837年)に将軍職を継承する。けれど、十代将軍家斉は元気溌剌で実権は大御所の徳川家斉にあったといわれている。この家斉が亡くなったのが天保十二年の正月のことである。家慶の側近は父家斉の息のかかったものばかり。父の死によって解放されてまず行ったのが家斉の息のかかった連中を幕閣から追い出すこと。そして、寵愛した水野忠邦を老中の筆頭に置き“天保の改革”を行わさせました。

まあ、この当時の幕府の財政は火の車。とにか財政立て直しを水野忠邦は行ったわけです。

でも、人間、あまりにもキツキツというのは反感を持つばかり。世間に受け入れられなかったわけですね。

そういう時に現れるのが、反乱分子。革命を恐れ厳しい言論統制を行った。

天保という時代はオランダ経由で入ったヨーロッパの学術・文化・技術。つまり蘭学が盛んになった時代なのですね。しかし、幕府は蘭学なんてもってのほか。学問は儒学(儒教にもとづいた学問)のみ。それも朱子学(南宋の朱子によって再構築された儒教の学問)のみが学問であると統制。という事で、高野長英や渡辺崋山などの蘭学者たちを弾圧(蛮社の獄)が行われたりした。

「世の中お金よ!」ばかりではないと思いますが、国家の経済事情が悪くなると、必ず革命的分子が出現する。国家はそういった反乱分子を浮上させないように厳しく取り締まり、きつきつな統制をとろうとする。でも、そうすると民衆は自由を求めて反発する。悪循環。

そんな時代背景のあるなかで作曲された曲です。

三升屋二三治は江戸後期の歌舞伎戯作者。江戸蔵前の札差伊勢屋宗三郎。七代目市川団十郎を贔屓にして劇界入り。文化一年(1804年)に家督を継いだのですが、文化十年のある時。江戸三座の関係者を連れて八百善で大盤振る舞いをしたことをきっかけに廃嫡になってしまった。金に不自由しない立場からいきなり奈落に落ちた彼ですが、その後は劇作家として生きる。

こうして素晴らしい芝居や曲を残しているけれど、親の立場になればとんだドラ息子です。


私のまわりの人は、「五郎」とこの曲を呼びますけれど、本当は「時致」というのが本当の題名らしいです。

ご存知、曽我五郎・十郎の兄弟のお話がベースとなっているお話です。
彼等は鎌倉時代の人物。という事はこの「曽我狂言」の舞台は鎌倉近辺でございます。
だいたい、この兄弟も伊豆の方の人なんですよね。
けれど、踊りとか観ていると絶対舞台は江戸だよねという感じです。

この曲のストーリーは鎌倉の大磯の遊郭、歌詞にも出てきますが、化粧坂というところに遊郭があったのでしょうね。ここの少将という名の遊女が五郎の恋人です。この少将からラブレターをもらった五郎がルンルン気分だったかは分かりませんが、雨の中を少将の待つ遊郭へ向かうというお話。
踊りでは、「雨の五郎」という題名になっているのは傘をさして五郎が登場するからなのでしょうね。
で、踊りの場合は遊郭に行く途中、酔っ払いに絡まれて大立ち回りをして、五郎の豪快さが表現されているようです。

この曲は、本名題を「八重九重花姿絵」という九変化もの中の一つの曲です。
「時致(長唄)」「若衆(常磐津)」「稽古娘(長唄)」「鳶の者(富本)」「西王母(長唄)」「雷(常磐津)」「漁師(富本)」「鳥羽絵(長唄)」「狂乱(常磐津・長唄)」と九つあります。

漢の武帝が描いた「鯉魚の一軸」という鯉の滝のぼりを描いた絵があって、その絵からある日鯉が抜け出して川に逃げてしまいました。
大工の六三郎がその鯉を追いかけ大格闘。その鯉の格闘の中で、かつてこの鯉が食べた人物が一人一人吐き出されて踊るというようなお話のようです。
なんか、面白そうなお話ですね。

うん?という事は五郎は鯉に食べられちゃったの?

この曲は長唄として大変短くて全体で約十五分前後の曲です。
舞踊用の長唄には決まった形式があります。


①置き:背景等を説明する部分。

②出端:登場人物の登場。この曲の場合はセリの合い方なのでセリからの登場なんでしょうね。

③くどき:登場人物の心情等を表現しているところ

④踊り地:お囃子的にいうと「太鼓地」

⑤チラシ

⑥段切れ

けっこう分かりやすい曲という事から、初心者向けの曲とされているようですが、簡単そうで難しい曲という印象があります。特に最初の部分は「外記節」調という事でちょっと変わっているので難しいという印象があります。
また、この曲の踊り地はとても華やかで大好き♪
その前まで、ちょっと男っぽい曲調がいきなりパッと情景がはんなりと明るい感じになって、聴き心地も良いですし演奏していても楽しいです。
この曲を聴くたびに本当にメリハリがしっかりしていて、短い曲なのに良くまとまっているという感想を持ちます。

五郎は結局非業の死を遂げるわけですが、豪快でカッコいいというアイドル的な人物という印象を私は持っています。
曽我物の曲はどの曲も華やかで力強くて大好きです。

さて、歌詞を読んでいただくと分かると思うのですが、冒頭で舞台は「大磯ですよ」と唄っているのに、最後は何時の間にか江戸の吉原に変身しちゃっています。
今の世の中だと「筋があいません」とかクレームが来ちゃいますよね。
でも、当時は細かい事は気にしない。
そんな江戸の人々の粋な物事のとらえ方いいですね。
これが、曽我物語についての学術論文だったら問題でしょうけれど、娯楽ですから、結局「楽しければ良い」わけですものね。
気にしない、気にしない。

長唄全集(十三)五郎時致/蓬莢/芳村伊十郎(七代目)
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さる程に
曽我の五郎時致は
倶不戴天の父の仇
討たんずものとたゆみなき
弥猛心も春雨に
濡れてくるわの化粧坂
名うてと聞きし少将の

雨の降る夜も雪の日も
通ひ通ひて大磯や
廓の諸分のほだされて易く
誰に一筆雁の伝て
野暮な口舌を返す書
粋な手管につい乗せられて
浮気な酒によひ月
晴れてよかろか晴れぬがよいか
兎角霞むが春の癖
いで、オオそれよ
我も亦
何時か晴らさん父の仇
十八年の天津風
いま吹きかえす念力に
のがさじ遣らじと勇猛血気
その有様は牡丹花に
翼ひらめく胡蝶の如く
勇ましくもまた健気なり

藪の鶯気ままに啼いて
羨ましさの庭の梅
あれそれよと春風が
浮名立たせに吹き送る
堤の菫鷺草は
露の情に濡れた同士
色と恋との実くらべ
実浮いた仲の町
よしやよし
孝勇無双の勲は
現人神と末の代も
恐れ祟めて今年また
花のお江戸の浅草に
開帳あるぞ賑はしき

時代
作曲
1787年(天明七年)
初代杵屋正次郎

1787年(天明七年)は、徳川家斉が第十一代征夷大将軍になった年です。

15歳という若さで天下のナンバーワンに。そして、彼は先代の時代に権勢を振るった田沼意次を免職。変わって松平定信を老中筆頭に据えて「寛政の改革」をした人です。

将軍の寵愛を受けるのは何も側室だけではありません。

将軍の信頼を最大限に受け、その威光をかさにワンマンな政治をする人はだいたいどの時代にもいらっしゃいますね。

田沼意次も十代将軍徳川家治の信頼を受けてその権勢を振るった。一説には賄賂にまみれた政治家だったとか。まあ、この時代、飢饉とか疫病が流行って田沼らはその対策に動くけれど全部裏目に出て事態を悪化させたとか、あまり優秀でないラベルの張られたお方。

賄賂大好きな人が政治のトップに立つと、庶民が苦しい思いをする。今も昔も変わらないです。


初代杵屋正次郎という人は、浅草の奥山の的屋や道端・境内で独楽回し伴奏をしていた人で、スカウトされて歌舞伎界に。二世杵屋六三郎の門弟を経て、1768年頃より森田座の長唄連中の中に名前が上がるようになり、1775年頃よりタテ三味線をつとめるようになった人物だそうです。

この時代からスカウトなんてあったのですね。

曽我ものの一つの曲です。
曽我ものとは、曽我十郎・五郎の敵討ち物語。江戸庶民がこよなく愛したヒーローたちです。という事で、けっこう、この二人の敵討ち物語が題材となった、歌舞伎や舞踊は沢山あります。

この曽我兄妹の敵討ちは鎌倉時代に起きた実話です。
曽我兄妹も仇の工藤佑経も、平将門の乱に出てくる常陸国司藤原惟幾の子孫である工藤一族。伊豆半島一帯に勢力をはった有力な武士の一族でした。
ある時、伊東祐親(兄妹の祖父)、河津祐通(兄妹の父)と工藤祐経との間に所領相論が起こった。1176年、祐通は祐経の家来によって殺害されてしまいました。
その後、祐通の母は幼い二人の子どもを連れて、同じく工藤一族の曽我祐信と再婚。
仇の祐経は源頼朝に寵愛を受け、鎌倉幕府の重臣となっていました。
曽我氏のもとで元服した二人は、1193年、富士の裾野の巻狩において祐経を討ち果たす。兄の十郎はその戦いの場で息絶える。弟の五郎は幕府に捕まり処刑されてしまう。兄は21歳、弟は19歳。短い生涯を閉じたのでした。

草摺とは鎧のすそにピラピラしているものがあるじゃないですか、アレの事です。
曽我狂言の一つの所作で“草摺引”というものがあります。
正月のある日。祐経の宴席にて兄の十郎がなぶりものにされていると聞いた五郎がいきり立って鎧を抱えその場に行こうとする。そこへ、二人の良き理解者であった小林朝比奈は「早まるでない」と、草摺の引っ張りいきり立つ五郎を止める。という場面を戯曲化したものです。
この草摺引が初めて題材になったのは、初代市川団十郎が演じた『兵根元草摺(つわものこんげんくさずり)』という狂言だそうです。その後、ちょこっとずつ脚色が変えられ色々と狂言が作られたそうです。

この朝比奈と言う人は、木曾義仲の妾、巴御前の息子と言われている人です。太刀の猛者と知られている人で、弁慶・小次郎に並ぶ日本の勇士の代表と言われている人だそうです。

この『草摺引』がもととなっている長唄は、この『勢い』の他に『正札附』、『花の巻』というものが代表作のようです。
『正札附』の場合、止める役として朝比奈というバージョンと、朝比奈の妹の舞鶴というバージョンの二つがあるそうです。
で、この『勢い』の場合は・・・・なんと、女装をした朝比奈なのだそうで、吃驚仰天です。
五郎の恋人は化粧坂の少将と言われる遊女です。
そうそう、歌舞伎に『助六』というのがありますが、助六=五郎で揚巻=化粧坂の少将です。
まあ、時代は鎌倉初期なので、あんな豪華なおいらん姿なんてありえませんが、お芝居ですから絢爛豪華なおいらん姿の朝比奈がいきり立つ五郎を止めるという場面設定だと思われます。
知らなきゃ、化粧坂の少将が五郎を止めているんだと思い込んじゃう・・・・。(無知というのは怖い)

いきり立つ五郎を止める下り、男同士という力強さより、色っぽさを感じる曲想になっています。
何故、女に変身してしまったか疑問。
歌詞に「止めるは鬼か小林の、朝比奈ならぬやさ姿」。思えばギャグのような歌詞ですね。

さて、この曲は短いし、親しみやすい旋律なので、初心者の曲として三味線もお囃子もお稽古する事が多いようです。
そうそう、子どもの頃、初めての三味線のお稽古場のお弾き初めで唄わされたなぁ。
それもお稽古していないのですよ。すごいいい加減。
突然、譜を渡され「隣のお姉さんと一緒に唄っていればいいから、大丈夫、大丈夫」だって。ぜんぜん大丈夫じゃない。
『勢い』という曲とはそういう出会いでした。以降、長唄の方ではお稽古して頂いた事が一度もありません。
お囃子の方では、大皮はこの曲で手ほどきでした。
小鼓と太鼓は、『雛鶴三番叟』の次にお稽古しました。けっこう短いけれど大好きな曲です。
はじめにやる曲って以外と印象が強く覚えているものですね。
今まで、数多く曲に出会っていますが、せっかく暗譜しても覚えているかどうかなんですけれど、最初の頃にやる曲というのは、意外とちょっと糸口さえ見つければスルスルと手組みが蘇ってくるものです。

短い曲だし、『正札附』より地味なせいか、あんまり演奏会などではこの曲聴く事ありません。

勢ひ和朝に名も高き、曽我の五郎時致、逆沢潟の鎧蝶、裳裾にすがる鶴の丸、

素袍の袖をかき撫でて、留めるは鬼か小林の朝比奈ならぬ優姿。

女のよれる黒髪に、引かれて止まる心なら、やらじと引けば時致は、日頃の本望父の仇、

妨げなすなと突き飛ばし、廓のじゃれとは遊ふぞよ、離せ留めた。

留めてよいのは、朝の雪、雨の降るのに去なうとは、そりゃ野暮ぢやぞへ待たしゃんせ。

起請誓紙は嘘かいな、嘘にもじゃれにも誠にも、余所に色増す花眺め、

そして騙して、それそれ其顔で、怖いこと云うて腹立しゃんす。

そちら向いてゐさんしても、顔見にゃならぬ、末を頼みの通う神

かよわき少将朝比奈が合力は素袍の袖添へて、互に劣らぬ有様は、

貴賤上下おしなべて、感ぜぬものこそなかりけれ。

神聖である場所は女人禁制である。
相撲の土俵に女性が上がれない。
大昔は、鳥居を潜るのも憚られた。
船上に女性は不吉だから載せてはならない。
これらは女性という存在が「穢れ」のものと思われていたからです。
まあ、随分失礼なお話です。

清浄とは、健全な秩序を成している状態を指すそうです。もっとも清浄な色は白色。白色は色に交わっても色に穢れないものなのだそうです。
私的感覚でいうと、白は何色でも染まるものという印象があるが・・・そういう見方もあるんですね。
逆に穢れとは、生命の疲弊や、死といった状態のこと。女性は毎月流血します。流血は死をイメージするもの。また、出産する。この医学が進歩している今日においても、出産はけっして楽なものではありません。時として子供を産み落とすために、自分の命を引き換えにするケースもあります。
古事記において、イザナキが死んだ妻のイザナミを求め黄泉の国を訪れる。そこには無残な腐った姿のイザナミがいて、黄泉の国から懸命に逃げたというお話があるじゃないですか。
あのお話に・・・なぜ女性が穢れなのかが示されている気がする。
しかし、大昔は生命誕生は神秘のものとして、女性は穢れのものであると共に「斎む」ものともされている。でも、仏教導入により「男性よりも女性の方が救われにくい」ということもあったり、、、なぜか、「斎む」ものということが忘れられ、女性は「穢れ」のものという考え方が残ってしまった・・・なんて言っている人がいた。

「翁」とか「式三番」とか、能という芸能というより、神事。儀式という感じですね。
『翁千歳三番叟』はこの能の「式三番」に近いもので格式の高い長唄とされているけれど、まあ、長唄は長唄ですからね。女性が演じていることもありますね。
けれど、もともとの『翁』って、こんなにも神事に近い神聖な芸能であることは心していないといけないのでしょうね。
長唄の中でも特別な曲のような気がします。
しかし、随分前ですが、
どこぞの女性知事が相撲の土俵に上がらせろ。女性差別とか騒いだことがありましたね。しかし、相撲はそもそもは神事で日本神道に通ずるものですから、そういったことを知ったうえで騒いだのかなと思いました。
差別はあってはならないけれど、性差は仕方がないことと私は思っています。
どうひっくりかえっても女性は男性になれません。
年代
作曲
1856年 十世杵屋六左衛門


この曲ができた1856年(安政三年)は、日米修好通商条約の立役者であるタウゼント・ハリスが静岡県の下田に入港した年代。のちのち下田の芸者だったお吉をお妾とした人物ですね。

また、小学校の校庭の片隅で、薪を背負って読書する少年の像で有名な二宮尊徳が没した年でもあります。

長い間鎖国を貫いた江戸時代に黒船が到来し外国の文化が入ってきた。尊王攘夷を唱えるものもいれば、弱体化した幕府にしがみつき、徳川の時代を継続させようと働く人もいる。

二年後の安政五年から一年間は、安政の大獄という尊王攘夷を唱える人たちなどをものすごい勢いで弾圧するという物騒な事件が起きます。

きっとたぶん、安政という年代は徳川の時代が弱体化して暗く物騒で不安定な時代だったのではないでしょうか。

そんな時代でも、歌舞伎界は頑張っていたんですね。この時代、けっこう今に残る素晴らしい長唄が作曲されています。


十世杵屋六左衛門は、九世杵屋六左衛門の次男。幼名が吉之丞。その後杵屋三郎助を名乗り、1830年(天保元年)に杵屋六左衛門を襲名する。

『石橋』『外記猿』『傀儡師』といった外記節復興を目論んだ曲を残している。

外記節とは、江戸古浄瑠璃の一派。薩摩浄雲の門流、薩摩外記直政によって始められ、貞享年間(1684~88)に広く愛された。歌舞伎(かぶき)に進出して荒事に多く用いられ、豪放な性格を有するが、50年ほどのうちに廃れてしまったもの。それを再び立て直そうと六左衛門は考えたようだ。

この『翁千歳三番叟』も『外記三番』と言われている。


さてこの曲は長唄の三番叟ものの中で一番格調が高い曲とされている。

もともと能の『翁』をもとにできている三番叟もの。この『翁千歳三番叟』の歌詞はほとんど能と同じなのだそうだ。

(能の『翁』を観たことがないので実際のところ分からないのですが・・・)

能の『翁』は、土着的芸能で催されているものを謡曲化したもの。ご祈祷色の強いもので神聖なるものと扱われている。

能の世界では、「翁」を演ずるものは別火というお清めをして臨むのだそうです。
穢れを忌んで穢れたものと炊事の火をともにしないという禊だそうです。別火の期間は妻であっても穢れものである女性に接してはならない。また、喪中のものも穢れたものなので接してはならないそうです。
当日、楽屋には「別火」と張り紙がされ、女人禁制となるそうです。
・・・そこまでするかの固苦しさ。

歌舞伎は、この固苦しさを和らげたいとして、三番叟にターゲットを変更するという工夫をしたそうです。

だから、どの曲も『○○三番叟』なのだそうです。


格式の高さといえば・・・能ほどではないけれど、色々ほかの長唄では見られない儀式的な事にお目に掛れる曲です。

例えば

普段、囃子方が白扇を持って舞台に出ることってないと思うのですが、この曲では小鼓方の方々は白扇を持って登場するらしい。
ネット検索したら、その昔、『翁千歳三番叟』は『切腹三番叟』と呼ばれていたらしい。失敗したら、その場で「すみません」と切腹しなきゃいけなかったのだそうです。で、脇差携帯で舞台に上がっていたそうな。と本当か嘘かみたいな記事を発見した。で、その脇差の名残が白扇なんですって。

※のちのち人から聞いた話では、その白扇をどちらに置くかよくもめるそうです。

戦闘態勢で脇に刀を置く場合は、すぐに刀を抜けるように左側に置きます。でも、普通は右に置きます。時代劇を見て観てください。右に置いています。あれは「あなたに敵意はない」という礼儀なのだそうです。

ですから、想像ですが・・・置くのは右だと思います。


次回は、なぜ翁の楽屋は女人禁制なのか調べたいと思います。お楽しみに♪




天下泰平国土安穏、今日のご祈祷なり、

在原や、なじょの翁とも

あれはなじょの翁とも、そよやいづくの翁とも

そよや

千秋万歳の喜びの舞なれば、一さし舞はう万歳楽

万歳楽

万歳楽

おさえおさえ喜びありや、我此処より外へはやらじとび思ふ

あら目出度や、物に心得たる、あどの大夫殿に、そと見参申さう

丁度参って候

誰がお立ちにて候ぞ

あどあど仰せ候ほどに、御身あどの為に罷立つて候、

今日の三番叟、千秋万歳と舞うて下さりそへ、色の黒い尉殿

此色の黒い尉が、今日の三番叟、千秋万歳、所繁昌と舞納めうずる事は、何より似て易うさふ、

先づあどの大夫殿は元の座敷へおもおもと御直りそへ

某座敷へ直らずる事は、尉殿の舞よりいと安うさふ御舞ひなうては直り候まじ

あらやうがましや

さあらば鈴をまいらせ

あどの大夫殿に申すべき事の候

何事にて候ぞ

皐月の女房が笠の端をつらね、早苗おつ取って打ちあげて謡うたは、面白うはなく候か

実におもしろき事にて候

さらば大夫殿に、うたうて聞かせ申さう

これのんなんな、池の汀に宝御船が着くとんの

艫舳にはんな、恵比須大黒、中は毘沙門吉祥天女

四海波風静けき君が、御代はかしこき天照神の、

影も曇らず怨敵退散、五穀成就民豊か、八百万代も国や栄えん


はあ長かった・・・(汗)

実際に演奏会で聞いても四十分とか五十分くらいかかっている。

超大作ですね。