湯川流河さんからバトンタッチして工藤統吾がこれからここをひきついで書くことにしました。名乗るほどのものではないが、名乗らないほどのものでもないので。

 

和歌山県東牟婁郡(今は田辺市)本宮町下湯川に生まれたのと、母の旧姓が湯川であり、きくところによると秀吉が天下統一に手御焼いた和歌山の豪族湯川氏は武田信玄の武田氏とも血縁があったとこかで、本当にそういう系図が残っている。母は下湯川の湯川氏の家のものであり、祖先が武家だったらしく、本当に本家に鎧があったり、分家の私の祖父母の家に火縄銃があった。

 

  下湯川は四村川と呼んだ熊野川へと流れ込む小さな川ながれ、その周りの切り立った斜面に少しの家が点在しているようなところに幼い日の僕は住んだ。その川の流れを思い出して流河というペンネームのようなものをひねりだしてしばらく書いてみたが、母を送り出して、なんとなく母と父がくれた、東京オリンピックにちなんだ統吾をここに復活させてやることにした。そうすると、知人が読んで笑ったり赤面したりするかもしれんが、もういいだろう。老人だし私も。理屈がへんだが。

 

ということで僕は湯川家の末裔である。(湯川秀樹先生も田辺の人ということになっているけれど、和歌山の湯川家に婿に入ったらしいですね。)

 

  工藤は東北に多い名で、青森では一番多い姓らしい。父方が山形です。山形にも工藤は多い。曽我兄弟の悪役の工藤祐経が先祖だともいう。

 

  父の父が吹いていた尺八を修理したはいいが、鳴らすと家族がうるさいと文句をいうので、残念ながら、飾ってある。本当に残念である。しかたない。高校のときかなにかにこれを父からもらい、すこし練習もしたのだけれど、なかなか上達はしなかった。ユーチューブなんかみていると若い人でも上手に吹いていろんな楽曲を演奏していて、いいなあと思ったのだけれど、まあしようがない。もはや若者ではないので、なんでも自由にやっていいわけではない。

 

 おもいたって、ファインマンを一巻から読み直している。こないだ立花隆の”臨死体験”上下巻を図書で借りてきた。なんとなく、母を送り出してまだ49日もたたない今、こういう本を読んでみたくなった。トムソーヤというまるでアメリカの小説の主人公のような名前の男性の臨死体験が印象的だ。臨死体験後、なぜか(そういう素養はまったくない人だったのに)量子力学を勉強したくなってしまい、大学にいきなおしたとかいいう。臨死体験後、なぜか知的好奇心が倍増するひとがしばしばいるらしい。自分が臨死体験したわけでもないのだけれど、母を見送って、自分には時間がもう限られていることをまた痛感した。というわけで、僕もトムソーヤのように、やはりもういちど初心に帰ってファインマンでもひっくりかえしてみようかなという気になった。

 

 

 

 

  

 母が逝って ひと月たってない。昨日、部屋を整理していたらツカザキ病院でとった頭のMRIが出てきた。母の。

70才のときで、こっちに来ていたのだ。けっこう若いころに、なにか変かなと言って撮りにいったのだろう。

ツカザキの待合で、母と座って待っていた様子を僕は思い出すことができるのに、それがもう18年も前だったとは、驚いている。18年なんて、あっという間に経ってしまうのだろう。それでも、そのころからもう、ずっと僕は母のことを心配して生きていたのだ。長い年月だった。

 

  バカの一つ覚えのように、母のことを思うと、やっぱり本宮町下湯川の四村の小さい教員住宅のくらしから、僕と母との時間が始まったこと。その部屋から僕の記憶ははじまって、長い時間すぎて、こないだ、つまりまだ一か月たたたない最近、母は帰天した。あの教員住宅の壁の高いところに、マリア様の絵が貼ってあった。あれは今、実家のどこかにあるのだろうか。

 

 

 聖母子の絵だったとおもう。

 

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  なぜ神父さんは外人なのだろう、とそのとき不思議だった。そのうち日本人の神父さんもいることが、だんだんわかってきたのだけれど、和歌山県内の教会はみんなアイルランド人の神父さんばっかりだった(むかしは)。なぜうちは、他の家とちがって外人さんの教えてくれるキリスト教なのだろう、という不思議をしかし、なにもいだかなかった。こういうもんだということ。日曜日は教会にいかねばならないので、朝からは遊べないのである。そういうもんだ。

 

  それでも、結局、全部よかったと思う。それで、僕はまだ、いきている。時間が与えられた。貴重な。時間。

 

 1974に日本で公開なので僕が10歳の三年生のころに、エクソシストが上映されていた。

今見たら、これはとてもまじめに作られた映画で、当時ホラーと言われ、失神者続出とか宣伝文句されていたのと印象がまったくちがう。エンタメではなくて、これは完全に宗教の映画に見える。日曜学校の先生をしていた庄司さんがクラーク神父さんと何人かでこれを見てきたといったとき、まじかいなと思ったのだけれど、神父さんはきっと本国での評判も知っていたのでしょう。これは完全に宗教の映画です。

 

 実はアマプラでさっき見てしまいました。久しぶりに。前見た時よりも、とても心にのこってしまいました。リーガンの悪魔祓いを相談されたカラス神父さんは、なんと母の介護をしていたのでしたが、清貧の誓いを守る神父には金がなく、寝たきりになった母に適切な医療をうけさせることができないまま死をむかえさせたことがトラウマになっている。そしてそのことが、この映画の最後まで、呪縛のようにカラス神父を責め続けた。そんな視点でこの映画を以前はみていなかった。

 

 カラス神父はリーガンに憑いたサタンを自分にひきうけて死ぬのだった。けれども、それはカラス神父自身が自分を許せなかった代償として選んだ死にも見えた。

 

 70年代のアメリカ。ベトナム戦争の影響がみてとれる状況設定。すべてなつかしく、そしてなにか悲しい、けれどもあの時代の日本は成長著しく輝いていた。

 

  この映画を信者さんたちと見に行ったクラーク神父さんは、お母さまの介護ということもあって、60代くらいでアイルランドに帰国された。そして昨年くらいだったか、亡くなられた。お母さまのそばで、看取ったあげられたのだと思う。

 母をとても心のこもる神父さんたちによる葬儀で送り出してから、ああして送り出せたことはほんとうによかったと、何度も妻と話をする。

 妻は、大谷派のお寺の娘なので、いくらもお葬式を見て来た人であるけれど、あのような心のこもるお葬式を経験したことがなかったので、これはもうキリスト教徒に改宗しようかと思ったとさえ言う。いやあれは特殊な状況であって、あんな奇跡はあんまりないものなのだと、僕は言う。

 

 僕は葬式に金がかかりすぎる日本の現状が諸外国からみて異常だという話も知っていたし、そんななかで大和会館さんにたのんだので、まあまあ普通くらいにお金のかかるお葬式にはなったのであるけれど、結局、いまはああいうふうにしてよかったと心のけっこう深いところで思っている。妻はよく、お葬式は、遺された人のためのものですと言ったものだ。亡くなった人は阿弥陀様が救い上げてもう浄土に行っている。キリスト教もにたように考えている。

 

 カレン神父を新宮に送る帰路道中、僕は臨死体験の話さえも神父さんとした。なにか多くの人が神のような光を見るというではないですかと。神父さんは、そういう臨死体験ばなしのことはもちろん知っていて、そうですよ、それはあるのだと思いますと、言った。

 

 話は別の方向に飛ぶ。子供のころ絵に描いたようないじめられっ子の僕は、テレジア幼稚園で学んだ、罪もないのにいじめられて殺されてご復活したイエズス様のお話は、心の中心にずばっと入った。なにがありがたかったか?僕は一人じゃないとおもえたからであった。

 

  昔大河ドラマの "信長"を見ていたときに、捕らえられた宣教師が、ものすごい苦しみを知られているときに、二人の宣教師のうち一人が、もう耐えられぬと言ったとき、もうひとりが言ったのが

 

  ---  主の苦しみを思え

 

だった。それを聞いていた、キリスト教でもなかった元妻が、妙に感動し、これを見てキリスト教に入信する人いるんじゃないかなと言ったものだ。元妻は、けれどもその後病を得、4年後に他界するとき、本当に洗礼をうけてカトリックになり、マグダラのマリアという洗礼名をもらった(僕が成田神父に、それにしてくださいと頼んだ。彼女は苦しみを経て来た人だったからと)。そして逝ってしまった。あれから30年。

 

 30年前、妻が亡くなり、故郷に幼き息子を連れ帰って職探しをしていたころに、僕を暖かくむかえてくれた新宮の教会に、19歳の青年となって、これから神父になりますと言っていた田中ヒロト君が今は立派に成長した神父さんになって、こないだ母の葬儀を、先輩のホルヘ神父と、そしてカレン神父ともに執り行ってくれた。神様の導き。19のヒロト君と、楊枝の山中のまだ50代だったカレン神父の家にそのころ遊びにいったものだった。

 

 僕は、ずっと以前から、イエズスさまは人間の罪を背負って死なれたので、人間の罪は許されたというキリスト教の真髄のとこがまったくわからなかった。実は今もわからない。古珠和尚と話したキリスト教の原罪は善悪を知る実を食べたことだったという根源のところ。古珠和尚はそのとき、それは分別ということだ、ああ仏教とおんなじなんだなあと感動しておられたのが、もう何年も前の和尚遷化のころだった。

 

  この話は、結局全部つながっているので、どこからどう切って、僕がイエズスキリストの中を歩いている。

 

  母を送り出して、十字架の意味がすこしだけわかりました。幼稚園でいじめられていた僕が、おなじように苦しんでくれたイエズス様に魅かれたのとおなじことに思える。34歳で、イエスは死んだと言われている。人生で一番輝くくらいの青年イエスは、内奥の父が直観させたことをまっすぐ信じて生き抜いた。自分の中の中心に神がいてくださるイエズスは、誰かと比べなくても至福の人の子だったので、ずっと誰をも愛することができたのだ。自分たちが思い描くことができるいろんな人の形を超えてどんなふうなひとだったのだろうと想像するとき、やっぱり僕は神父さんたちのことを思い出す。ただありがたい話をして天寿を全うした偉人ではなく、イエズスはその成果を自分で甘受することなく、罪人として処刑、葬儀はなく、アリマタヤのヨセフが遺体をひきとって墓に入れたのだった。

 

 そこに、死があった。キリスト教のまんなかに、死があって、十字架についた遺体をあがめる。それはとても悲しくて、ある意味暗い。けれども、母を送ってあらためて思ったことは、人間はかならず死ぬ。プレザンメゾンで一番ベテランの看護師さんが 人には最期がかならず来ますと言った、そのとき僕の目からは涙がこぼれおちた。けれども、そこに十字架に、もう死んだイエスがいる。死はかならずおとずれるけれど、神が神の子としてこの世界に与えたものは、やはりみなおなじように死体になったということをみるとき、幼稚園でいじめられている僕がやはり、イエズスに救いをみたように、母が死んでも、イエズスがもう先に死んでいてくれたことから、なにか安心のようなものを、感じとっている。復活があったかどうか、そんなことはわからない。けれども、イエスが死んだことだけで、なにか癒されて来るものがあった。人がかならず通らなければならない死をイエズスは同じように通って行った。

 

 

 

カレン神父はナビの言う通り名古屋回りで来たので、大和会館にたどりついたとき、10時間以上も運転して疲れ果てていた。

  齢83の神父さんに、来ていただけますならば電車でと言ったが、今から車で行くといったら止められる人はいなかった。

  神父さんは、ーーー 私の愛する人のため

と言って体力の限界で駆ってきたのであった。

 

  次の日葬儀が終わり、カレン神父は親族といっしょに遺骨を拾った。すべて終わったあと、その日のうちに、カレン神父は帰らなばならぬという。明日用事がある。しかしナビを頼りにまた名古屋回って帰すわけにはいかぬ。そこで、新宮までの道を熟知する私(喪主)が、葬式終わったと同時に、服を着替えて神父の助手席に座って、湾岸線での帰りのナビした。というわけで、告別式の終わったその日の遅く、僕はカレン神父の運転する車で、新宮についた。

 

  カレン神父は運転をさせてはくれず、自分で運転すると言ってきかない。神父が寝ないようにずっとなんかをしゃべり続けた。6時間くらい、神父の中古車の中、いろんな話をしながらの旅をした。この神父さんとの出会いは30年くらい前に、私が妻を亡くして、幼き息子をつれて新宮にもどって仕事を探していたころのことで、ちょうど復活祭のころに、クリアリ神父がこの神父さんを呼んできて新宮の教会のみなさんに紹介した。なんでも、多宗教との対話という、第2バチカン公会議以降のカトリックの方向性にのとった重要な役割を帯びているのであるとのことであった。というわけで、カレン神父は、熊野で活動していた、横笛奏者の福井幹さんが住んでいた山中の家を安く借りて熊野に住み始めた。新宮の主任司祭が不在のときはミサをしてくれたり、仏教関係の僧侶などとも交流を深めていた。横田南嶺老師とも会ったことがある。

 

  ーーー 私はこないだ東京にいったね。そこには、たっくさんの人があるいていたね。私、その一人ひとりに、あなたを神が愛していることを伝えたいね

 

 と通夜の席でもかたり、みんなでふむふむときいていた。”自分には価値がある”ということ。神様に愛されていること。みんな人に、外に、認められたいばかりで、苦しんでいるから。と言った。

 

  帰りの長い車の旅の中で、神戸にさしかかるとき、まだ日は沈んでいなかった。神戸六甲山にむけての斜面に建物が立ち並ぶ、独特の神戸の街並みが美しく目にはいと、神父さんは、やたらと感動している。湾岸線を通るのは初めてのようで。神父さんは、こないだ東京にいって、やっぱり都会は人の住むとこじゃないで、と言ったばかりであったが、神戸の都会の街並みは、いい感じに調和があって、感動している。

 

 僕は言った。

 

 ーーー 古代人が、大仏を作ったりしたわけですが、やっぱり現代人はすごいですよ。湾岸線は、すごいでかい橋を何回も通るのですが、これがちゃんと物理で計算してあって、阪神震災でも耐えたし、毎日車が無数にとおってても壊れない。それにでかい。ほらいま、通りますよ。

 

 でかい海を見下ろす橋を通って行くところにさしかかる。神父さんは、やっぱり、うわあすごいね、これを見てと言って、太くて巨大な橋げたに感動している。都会は住めるとこじゃないねと言ったことは、どこかに忘却し去って、素直に現代テクノロジーの街に感動している。いくつもの橋を通るたびに感動している。それから、日が落ちてきて、雲の形や色、海太陽に、感動しまくりながら、日が暮れて、紀の川インターで休憩した。

 

  お食事代もなにもかも、神父さんが払ってくれてしまう。私が財布をとりだすと、ダメと怒られる。そんなこんなで、すさみまでたどりつき、下道で新宮にむかい、途中さすがに神父さんおつかれで、休憩を提案し、イートインのあるコンビニを見つけてはいると、やっぱりコーヒーからおかしから、全部神父さんもちで買ってくれる。ちなみに神父さんの収入は教会が決めてあり、些少なのでふつうの人よりずっと清貧である。

 

 神父さんは、コンビニの店員に、あなた子供家にいるの?と聞く。遅い時間に子どもさんが待っているんじゃないかと心配したのか。神父さんは、神父が結婚しないのは非現実的だと、お通夜の席で言っていたのだけれど、カレン神父さんは、家族をもたないカトリックの神父なので、誰の病者見舞いでも、仏教徒のところでも、行く人なのであった。

 

  遅く新宮についた。せっかく来たので、墓石の文字ほりの話をつけたり、納骨の日程をジョー神父としたり、弔電をくれていたお宅にうかがったりして、帰りはくろしおにのって帰った。

 

 

 

 

 

 

葬儀を終えて 10日たった。

 

これでよかった。今朝そう思えた。相続のこともあって、母につかった金の領収書などまとめていたら、昨年つれてきてから、栗原病院に何度もつれていったことを思い出した。あそこに訪問看護ステーションの事務所もあってケアマネがいて。寒くなってきたころ風邪ひいて咳がとまらないので葛根湯が処方され。

 

  車いすにのせて、公園を散歩した。ひ孫と風呂にはいった。ひ孫を風呂にはいれたことに感動している母。ひまごに再会できた喜びの顔を写真にとったとき、写りがいいので、遺影に使えると思った。そのとおりになった。みな美しいいい写真だという。

 

  介護施設を無数に訪問して話をきいたこと。栗原にレスパイト入院をさせたときに、面会時間が制限されていてとてもつらかったこと。なんといってもしかし、新宮から朝2時半に起こして、こちらに連れてくる長い運転。命がけのような運転。

 

  プレザンメゾンに何十回ももしかしたら百回以上かも、面会にいった10か月。たぶん百回以上だと思う。甥姪とこんなに話をしたことがなかったこと。母のことで兄弟とまたつながったこと。泊まり込んでの看取りの何日間。いろんなこと。母のために体力をくたくたになるまで使うこと。一番心配していた葬式が、神がしてくれたように、一番願っていたような形でできたこと。三人もの愛情ふかき神父がしてくれたこと。お通夜が明かるかったこと。母の呼吸が止まるまでをしっかりと見届けたこと。

 

  精一杯ということ。僕が結局、こうしたかったということをした。こちらにひきとって、よかった。

 

  母にもう一度 僕は時間をもらったと思う。

  風立ちぬの言葉が またぴったりした

 

   ーーーー 風立ちぬ、いざ生きめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇よみがえってきたほどの、――云わば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまでに愉たのしい日々であった。   堀辰雄 風立ちぬ

 

 

 

 

 

 

 

 

 仕事に復帰した 泊まり込み看取りのために休み、看取り、喪主をし、神父さんを新宮まで送り、三連休あけてからもいくらか手続きをし、昨日出て来た。職場に訃報メールが流されていて、香典とか参列は辞退と言ってあるけれども、何人かの人はなにか悔やみの言葉を言いに来てくれたり、香典やお供えをもってきてくれた。

 

  この世界はしかし、休み前と異なる新しい世界、”肉体をもって生きている母”のいない世界となった。僕は生まれから一度も母のいない世界を経験したことがなかった。(考えてみれば物心ついたたと同時に母がいない世界を生きる人もいるのだ。)僕は母の愛とかを、普通に受けて育ち、いつしか年老いて僕を頼りにすることになった母の最期を看取った。

 

 夢のように思えた。母が呼吸を止めたとき、僕は手を握っていただろうか。記憶がない。しかし目のまえでちゃんと最後の命の消えるとこを見届けたのはたしかなのだ。

 

 ホルヘ神父との出会い、田中神父(ヒロト君)との再会、くたくたになって駆け付けてくれた老カレン神父。

 こうして、僕は家族を見送るたびに、何か奇跡のような出会いがあって、キリスト教の神父さんたちにお世話になりつづけている。

 

 葬儀も終わり、親族もそれぞれの日常にもどり、僕は自宅の床の間(ちっくなところが一応ある)にキリスト教的仏壇(どういえばいいのか、そういうものがある)と遺影、マリア様の像を置き、たくさんの花を妻が美しく並べた。ここは母が昨年寝泊まりして暮らした部屋だ。この部屋に、昨年の盆の前に母を呼んで暮らさせ、デイサービスに通わせ、11月半ば、あまり寒くならないうちにと言って新設の綺麗で豪華(見学してきたなかでは)な施設に入ってもらった。

 

 介護する側として、自宅での介護に不安を感じてきたときは、施設を考えたほうがいいと言う話をいろいろ聞いていた。そういうふうになりつつあった。だから母に正直に施設に入ってくださいと言ったものだ。

 

  ---  ええよ。入るよ。

 

と答えたものだ。緒形拳の楢山節考のような会話であった。(楢山節考のように、そこで死ぬという覚悟を決めた、ええよ、はいるよ。)。

 

  ーーどんなとこでもええ、

 

 と母は言った。

 

  ーーーどんなとこでも、ご飯食べさせてくれて、生きっとらせてくれたらええ

 

と言った。それは思い出すだけで哀しい言葉すぎて、だからどんなとこでもええわけがなかった。僕はおそらく20 箇所くらいもの施設の見学をした。どこに入れば幸せなのだろう。最大プライオリティは面会の自由だった。コロナ以降介護施設は面会させてくれない。こちらにつれてきた理由は故郷の施設はほぼ面会不可だったからだ。僕は、まったく制限なしのところを探しまわった。施設探しは難航を極め、結局、新設のそれなりの高価な施設に入ってもらった。スタッフも明るく、きれいなところで、新設だから人間関係が作りやすいと言われて、それを信じた。wifiが使え、面会完全フリーだった。入居後何度も何度も面会に行ったので、施設に人から、なんて優しい息子さんと言われたが、それは故郷から連れ去って来て最期をむかえさせようとしているしかなかった罪滅ぼしとしての息子さんなのである。いつまで時間が残されているのかわからない。僕は暇があったら会いに行った。

 

  今年に入って7月からこっち、寝た切りになるまで、半年以上の間、ここで母は、名古屋からよく面会にくる妹、仙台から面会にくる弟、千葉から面会にくる姉、それにもう大人になって仕事している孫が全部で5人、さらに曾孫、そんなものたちが入れ替わり立ち代わり母に面会し、看取りになると最後の一週間は全員が姫路のどこかのホテルに滞在して、かわりばんこで付き添った。そういうことを職場の同僚に言ったら、仲良いい親戚ですねとかいうのだけれど、そんなこと考えたこともなく、ただ、そうなった。母が彼らを愛したからだと思う。

 

 プレザンメゾンから最後のおたよりが昨日、届いた。毎月、利用者の様子を写真つきで家族に知らせてくれるやつだが、退去したあとでも最後のが届いた。最後のおたよりは、母の元気なときの写真などが沢山貼ってあり、

 

  ーー 職員のことを、いたわって気にかけてくれました

 

とも書かれていた。そういう人だったらしく、なにか介護士さんにしたもらうたびに、もうしわけありませんねえ こんなことしてもらって と言っていた。

 

 あとでいろんな人から話をきく。僕の母は、たくさんの人を大切にして生きて来た、ということがわかる。綺麗な人やったとか上品やったとか、僕がまったくそうは思ったことがなかったようなことを言ってくれる方がけっこういた。マリア様の歌、あめのきさき で送り出した母は、ほんとうにマリア様のようで、洗礼名もマリアだった。送り出してしまって、遺影をながめていると、綺麗な人やったり上品やったりすることが、当たっていたように思えてきた。


  

 

  

 

 

湯灌の専門の女性が二人来て、なにかモックンの”おくりびと”みたいに、丁寧に、母の遺体を隠しながら洗ってくれたりしている間、こころなしか母の顔が気持ちいいと言っているように見えた。

 

  メークがほどこされると、やっぱりモックンの映画みたいに、20年くらい若返った美しき母が、そこに眠っていた。

 

  前の晩、甥姪に兄弟が施設施錠の時間がきて去ったあと、泊まり込みは妹と私でついていた。昼間のうちに、看護師長が、おわかれの時間を大切にするように言った。だから昼間は甥姪に子供らが、母を囲んでずっと声をかけながらついていた。看護師長さんが、やっぱりみんながいうように、「聞こえてますから」と言ったからだ。夕方ホルヘ神父がきて、祈った。御聖体の小さなかけらを唇のわきにつけた。僕と姉と弟と妹と妹の息子がいっしょに聖体拝領した。

 

 --- キリストの体

 --  アーメン

 

 ホルヘ神父が言った。

 

  ーーー マリア様の歌なにか歌える?

 

 パソコンに”あめのきさき”が入れてあった。鳴らして、みんなで歌った。母がまるで意識が起きたように目をみひらいて、あたりのみんなを見ながら、アヴェマリアとともに歌おうと努力していることがわかった。口を開こうと努力してる。 妻が感動している。

 

  その晩に、母の呼吸がとまった。医師が呼ばれた。診断をもらった。大和会館に電話し、自宅への搬送を手配した。プレザンメゾンの夜勤スタッフに見送られ、僕の家に母が帰ってきた。すぐに大和の職員がきて深夜までうちあわせた。

 

  すでにホルヘ神父に母が亡くなったことは伝えた。

  あわただしく、葬儀の準備をした。ホルヘ神父が、田中ヒロト神父を呼んでくれた。ヒロトくんが将来神父になる前の子供のころから、母は知っている。そして、故郷の教会から、母のことをずっといつくしんでくれたカレン神父が、老体にむちうって、車を運転して通夜の晩にきてくれた。カレン神父は、昨年の夏に、母をこちらに引き取る決心をしたときに最後に会いに来てくれて、僕と母のために祈りをしてくれた。そして母が新宮にいて、病んでいたときも見舞いにきてくれた。その神父が、やはりまた、母の最期に遠い道のりを、ナビをたよりに、しかもナビが言う名古屋回りというおそろしく遠回りな道を信じて、疲れ果てて、夜に大和会館(というセレモニーホール)にたどりついた。

 

 

  車から出てきたカレン神父は、足がおぼつかないが、なんとか立って歩いてくる。妹が神父様と叫んで、走り寄り、大柄な白熊か本物のサンタクローズのようなカレン神父が抱き留めた。僕が近寄ると、その兄妹を両サイドにだきかかえて、祝福した。

 

  カレン神父は通夜の席に来て、母の棺に対面したあと、遅い食事をした。

 

  告別式に、三人の神父がそろった。一人は、飾磨の教会のホルヘ神父であり、何度も母を見舞い、看取り、納棺の祈りをささげ、最初の出会いから、私たちは兄弟ですと言ってくれた。もう一人は、河内長野から田中神父であり、彼が子供のころから母は彼を知り、また彼の家族にもずいぶんとお世話になった若き神父様であり、奇跡のようにホルヘ神父の神学校の後輩なのだった。それに田中さんのお父さんは、実家を建て直してくれた三和建設の担当の人だった。そしてもう一人は故郷の新宮からいつくしみふかきカレン神父様。

 

 大和会館の人が見たことないと驚くほど、立派な儀式用の品々を田中神父がたくさんもってきたので、もしかしたら教会でするよりも見事な式になっていた。歌は、親族一同がカトリックというわけではなく、みなが歌えないと思って、三つ、youtube premiumから流して、歌詞カードを配った。ホルヘ神父は、昨晩を徹して母の顔写真までついた式次第を作ってきてくれた。式次第には僕が選んだ三つの聖歌を歌うタイミングもちゃんと書かれてあった。

 

 

 

 

 

  花をたくさん棺にいれてもらい、美しく化粧されて若返った母は、子供たち孫たち曾孫たち、そして私の妻とその家族、こころから母のことを大切にしてくれた三人の神父さんに見送られた。  

 

 

昨夜、二日連続で母について施設に泊まった

 

昼間になると、また甥や姪、姉に妹、弟、それに息子に孫、妻が集まって来た

看護師さんが(施設の往診医は日が決まっているので、ここは本当にこの頼りがいのあるベテランの看護師さんが、

実質的にお爺さんお婆さんを守り抜いている)、今朝の様子を見てもう、時間がないことを教えてくれた

 

ホルヘ神父を呼んだ

今日は日曜主日、かけもち三つの教会のミサのちょうど間の時間にかけつけてくれた

 

聖書と典礼の3つの朗読を、僕と息子が読み、神父さんは

今日の福音の、イエスの奇跡のことを話した

 

そして、天使祝詞を5回祈ったあと

マリア様の聖歌をなにか歌えますか? と言った。

 

僕は、ノートPCにYoutube premiumでダウンロードしてあった

 

 

あめのきさき天の門

うみの星と輝きます

アヴェ アヴェ アヴェマリア

アヴェ アヴェ アヴェマリア

 

をかけ、みなで歌った。

 

  母が急に、目をはっきり開き、口をあけて、いっしょに歌おうとしていることがわかり

  妻が感動している。

 

百合の花と気高くも 

咲き出でにし清きまりあ

アヴェ アヴェ アヴェマリア
アヴェ アヴェ アヴェマリア

 

 聞こえています。と看護師さんが言ったとおり、本当に聞こえている。



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この晩、母は帰天しました。2024/9/8 88才。

2024/10/5 記す

 

 

 

僕は姪たちの叔父で甥の伯父である。と書き下して、僕のなかで伯父と叔父の定義がクリアになる。ネットでググって確認したうえで書いたので、これで間違いない。

 

  妹と妹の息子、姉と姉の娘3人、弟。はるばる千葉に東京に神奈川に名古屋に仙台から、休みもとって、おばあちゃんに会いにきた。先週も来ていた。このいとこたちが、なにかすこぶる仲良しで、もう社会人だから、歳もアラサーになってきている。社会の中核を担うような年齢にさしかかるこの子ら。

 

  僕は兄弟の中で、一人だけ疎遠にして勝手に生きていたので(だからなぞのおじさんと言われていた。甥や姪が会ったことがないおじさん。)、母が嘆いたものだが、こうして、母が自分の生命をつかって、なんとか親戚を集めて、かかわらせてくれる。長男らしくない長男として僕は、そういう長男の定義を無視して生きてしまった。そのぶん、昔の日本の長男のような高圧はしないけれど、そういう責任のようなものから、逃走していたいという無理な願望を持ってきたのは確かであって、けれどもそういうのも母が元気な間の幻だということを、いつのころからか、たぶんもう10年以上まえから、わかり始めていた。

 

  昨夜は、かけつけた甥に妹は宿がなくて、たつのの私の家に泊まり、孫といっしょにポケモンゲームでもりあがったらしい。妻はよく、彼らのためにもてなしというか、気をつかってくれた。僕は施設に泊まった。

 

  さっき夕方ホルヘ神父に電話した。母の様子を伝えた。兄弟や甥姪がきているから会わせたいといった。甥と僕の息子はカトリックの幼時洗礼を受けている。ホルヘ神父さんは、母のことも、しかし僕のことも気にかけてくれる。

 

  疎遠だったこれらの親類と、母を囲みながら、どこかでだんだんとなじんでいくのを感じていた。母が、そういうふうに強く望んでいた。そのとおりの夢を、母は夢の世界に眠りながら実現していく。

 

  みながさっきホテルに帰った。僕が残ってまたここに泊まる。母と話す。僕が独白するだけの会話だけれど、聞こえていますと看護師さんが確信をもって言うから。

 

   ーーーーおかあちゃん あの子ら 仲ええね

 

 そう言ってみて、僕自身がもう、世代をゆずりつつある人間になっていっているのも感じる。あの子らが仲良く、ほうぼうから集まってきて、祖母を囲んで、なぜか楽しく(重苦しさよりも、みなで囲めば心が助け合っているのか、あるいは若さゆえのパワーの生命のゆえか)、すごしていってくれること。ただ、寝たっきりのおばあさんの顔をさすったり、腕をさすったりして、ときどき好きなことをしゃべって過ごしている。

 

  そんなものを見ていて、そうだよ、そういう幸せもある。母の顔は安らいでいる。昨日あたりから目をしっかり見開いていという時間よりも、まどろんでいたり瞑目している時間は増えているけれど。母はこの歳なのに、美しい前歯(これは知らんまに、昔の昭和のかっこわるい金歯をおしゃれなインプラントに母が変えてもらっている。まったくいつの間に、といってこの囲む人たちが、笑う)を見せて寝ているので、なにか恍惚に幸せにも見えている。本当に幸せかもしてない。