仕事に復帰した 泊まり込み看取りのために休み、看取り、喪主をし、神父さんを新宮まで送り、三連休あけてからもいくらか手続きをし、昨日出て来た。職場に訃報メールが流されていて、香典とか参列は辞退と言ってあるけれども、何人かの人はなにか悔やみの言葉を言いに来てくれたり、香典やお供えをもってきてくれた。
この世界はしかし、休み前と異なる新しい世界、”肉体をもって生きている母”のいない世界となった。僕は生まれから一度も母のいない世界を経験したことがなかった。(考えてみれば物心ついたたと同時に母がいない世界を生きる人もいるのだ。)僕は母の愛とかを、普通に受けて育ち、いつしか年老いて僕を頼りにすることになった母の最期を看取った。
夢のように思えた。母が呼吸を止めたとき、僕は手を握っていただろうか。記憶がない。しかし目のまえでちゃんと最後の命の消えるとこを見届けたのはたしかなのだ。
ホルヘ神父との出会い、田中神父(ヒロト君)との再会、くたくたになって駆け付けてくれた老カレン神父。
こうして、僕は家族を見送るたびに、何か奇跡のような出会いがあって、キリスト教の神父さんたちにお世話になりつづけている。
葬儀も終わり、親族もそれぞれの日常にもどり、僕は自宅の床の間(ちっくなところが一応ある)にキリスト教的仏壇(どういえばいいのか、そういうものがある)と遺影、マリア様の像を置き、たくさんの花を妻が美しく並べた。ここは母が昨年寝泊まりして暮らした部屋だ。この部屋に、昨年の盆の前に母を呼んで暮らさせ、デイサービスに通わせ、11月半ば、あまり寒くならないうちにと言って新設の綺麗で豪華(見学してきたなかでは)な施設に入ってもらった。
介護する側として、自宅での介護に不安を感じてきたときは、施設を考えたほうがいいと言う話をいろいろ聞いていた。そういうふうになりつつあった。だから母に正直に施設に入ってくださいと言ったものだ。
--- ええよ。入るよ。
と答えたものだ。緒形拳の楢山節考のような会話であった。(楢山節考のように、そこで死ぬという覚悟を決めた、ええよ、はいるよ。)。
ーーどんなとこでもええ、
と母は言った。
ーーーどんなとこでも、ご飯食べさせてくれて、生きっとらせてくれたらええ
と言った。それは思い出すだけで哀しい言葉すぎて、だからどんなとこでもええわけがなかった。僕はおそらく20 箇所くらいもの施設の見学をした。どこに入れば幸せなのだろう。最大プライオリティは面会の自由だった。コロナ以降介護施設は面会させてくれない。こちらにつれてきた理由は故郷の施設はほぼ面会不可だったからだ。僕は、まったく制限なしのところを探しまわった。施設探しは難航を極め、結局、新設のそれなりの高価な施設に入ってもらった。スタッフも明るく、きれいなところで、新設だから人間関係が作りやすいと言われて、それを信じた。wifiが使え、面会完全フリーだった。入居後何度も何度も面会に行ったので、施設に人から、なんて優しい息子さんと言われたが、それは故郷から連れ去って来て最期をむかえさせようとしているしかなかった罪滅ぼしとしての息子さんなのである。いつまで時間が残されているのかわからない。僕は暇があったら会いに行った。
今年に入って7月からこっち、寝た切りになるまで、半年以上の間、ここで母は、名古屋からよく面会にくる妹、仙台から面会にくる弟、千葉から面会にくる姉、それにもう大人になって仕事している孫が全部で5人、さらに曾孫、そんなものたちが入れ替わり立ち代わり母に面会し、看取りになると最後の一週間は全員が姫路のどこかのホテルに滞在して、かわりばんこで付き添った。そういうことを職場の同僚に言ったら、仲良いい親戚ですねとかいうのだけれど、そんなこと考えたこともなく、ただ、そうなった。母が彼らを愛したからだと思う。
プレザンメゾンから最後のおたよりが昨日、届いた。毎月、利用者の様子を写真つきで家族に知らせてくれるやつだが、退去したあとでも最後のが届いた。最後のおたよりは、母の元気なときの写真などが沢山貼ってあり、
ーー 職員のことを、いたわって気にかけてくれました
とも書かれていた。そういう人だったらしく、なにか介護士さんにしたもらうたびに、もうしわけありませんねえ こんなことしてもらって と言っていた。
あとでいろんな人から話をきく。僕の母は、たくさんの人を大切にして生きて来た、ということがわかる。綺麗な人やったとか上品やったとか、僕がまったくそうは思ったことがなかったようなことを言ってくれる方がけっこういた。マリア様の歌、あめのきさき で送り出した母は、ほんとうにマリア様のようで、洗礼名もマリアだった。送り出してしまって、遺影をながめていると、綺麗な人やったり上品やったりすることが、当たっていたように思えてきた。