新宮市 松山団地 海の見える実家は、僕が子供時代を過ごしたところではないけれど、子供時代に通った少林寺拳法の同院の真ん前の土地に母が98年だったかに建てて移った家だった。もとの実家は、建って数年で南にビルが建って住みにくくなった。そこで市のあっせんで松山造成地を手に入れたが、両親はふんぎりがつかず小さな家を建てて貸していたのだった。父の他界から10数年ほどして、その土地に母が新築移り住み、あれから25年住んだことになる。もとの実家は買い手がついて売れたので、実家は松山団地の海の見える家となった。

 

  そこから8月3日 午前2時半、老母とともに車を駆って兵庫のたつのまで7時間の旅をした。あの実家を後にして、もうもどることは無い旅になると、母自身も車の中で何度かいった。朝2時半に出たのは、神戸の通勤ラッシュに当たらないためだった。残念ながら、加古川まできたところでラッシュになったので、すこし遅れたが、なんとか朝9時には兵庫の我が家についた。

 

  たった二日前までは、新宮の 介護施設に入所させるつもりで、いろいろな手続きを進めていたのだが、最後に面会の現状のことを聞くに、今はコロナのせいで、ガラス越しの15分面会しかゆるされてない、ということ、この状況はいつまで続くかわからないということ、を聞くに及んで、この入所は今生の別れに匹敵するという覚悟を持つ必要があると痛感した。それで夜通し悩むことになった。すやすやと眠る母のベッドの脇にいき、手をにぎった。僕が兄弟の中で一番 母に苦労を掛けたということを知っている。ゆえに、最後にこの実家にもどって介護している状況となって、母を施設に見送る役が回ってきたとも思っていた。準備は、先日まで介護していた姉がほぼ終えていた。僕は、いくらかの確認と、笹谷医院での骨粗しょう症の注射を終えると、あとは母を施設に入れて兵庫に帰るだけのはずだった。

 

 施設に入るともうあまり会えなくなるから、カレン神父が最後に会いに来てくれて、次の日カトリック教会にいって人々と神父にまた会って、皆さまから暖かな言葉をうけ、入所したら皆面会にいくからねと言われていたのだったが、その面会自体がほぼ厳しいという状況で、遠距離に兄弟が散ってしまい母一人郷里に残すという状態を、本能的に僕の奥深くの何かが拒否していた。

 

 夜通し悩んで、朝の9時、僕は動き出した、ケアマネさんに、やはり施設入所をやめること、兵庫に連れていくこと。兵庫でのほうが面会に今はある程度緩和が進んでいることを伝えた。心はいくらかすっきりした。

 

  兵庫行の準備に作業を切り替え、明朝早く2時とか3時とかに新宮を出るということを決めた夕方、神父さんにその旨電話すると、おどろきまた寂しがった。そして今からそちらに行くという。カレン神父さんにこんなに頻度高く会ったのは一体何年ぶりなのだろうか。神父自身が心臓の病気をかかえているというその身体で、車にのせてもらってやってきた。

 

  入るなり、神父はまた前と同じように抱擁し、まるで自分の母親(か姉といったほうがいい年齢差か)のようにいくつしんだ。そして、僕の選択したことを神が加護するように、僕らの未来を神が導いてくれるための祈りをしてくれた。こんなふうに神父さんといっしょに神にいのるということをしているのは一体何十年ぶりなのだろう。

 

  神よ、あなたの子がどこにあってもいつも幸せであるようにあなたの愛で導いでください

  またこの息子がこの母を連れていきたいという気持ちをもったことにあなたの愛が働いることを

  信じます

  私たちがどこにいてどこに離れても あなたの愛の中で一つであることを信じます

  あなたのことを信じて歩むこの家族をあなたの愛により祝福してください

 

  神の愛を信じ、いっしょに主の教えられた祈りをとなえましょう

 

    天におられるわたしたちの父よ、
    み名が聖とされますように。
    み国が来ますように。
    みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
    わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
    わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
    わたしたちを誘惑におちいらせず、
    悪からお救いください。
    アーメン。

 

 (久しく教会にいかない僕はこの口語になってしまった主祷文をうまく唱えられない)

 

   祈りを終えて神父は言った。妹が兵庫には遠いのでは?

   遠くなりますが、新宮に母がいれば妹はずっと名古屋から通うことになりますと僕は言った

   神父はあの教会に会計の係はもうやめさせたほうがいいと言った(神父が任命しているわけではないのだ。)

   僕は妹が名古屋から新宮に通ってずいぶんを体を酷使し、何度か入院したことを思っていた。

 

 僕は

 

   妹は、あの年齢になってやっと自分がしたかった仕事に就いたのです。

   妹に自分を生きてもらいたいのです

 

  といいうとなぜか涙がでてきた。神父は僕に手をにぎって僕の言っていることを感じ取っていた

  妹は母が倒れてから大学のある三重から新宮に移って 保健師をしながら博士号の研究をしながら

  母の介護を5年ばかりしたのだった。学位は、看護学の世界だと大学の教授職を得る価値があったが、妹はもう55だった。

 

   18で、僕のいた筑波に医療短期大学の学生として妹は郷里から荷物をさげてやってきた。あれから30年以上たっていた。いろいろなことがあった。妹は看護の修士の学位と、保健師の資格を持ち、結婚し群馬の短大で准教授をしていたが、一年発起して博士の学位をえるべく三重大学の大学院に50代で入学した。ちょうどそのころ母が大病して倒れたため、妹が学生生活を断念し、大学に籍はおきつつも、上に書いたような生活して母をささえていた。そしてこの春から名古屋の私大の教授となって実家を出た後、先月まで姉が家族をおいて千葉から介護にきていた。しかしそれも限界となり、僕が最終的に施設にいれるために新宮に来たという順番になる。

 

  母は僕らをいつくしみ守った。いつしか兄弟で母をいつくしみ守っている。

 

  結局 僕が兵庫に母を連れて帰った。体力的にももう新宮にもどることはないだろうと思う。

  自分でといっても、僕の妻、孫 息子 がこちらにいて、みなでいれば心強いということと

  母自身は いつかは あんたのところに行くわといっていたことばを そのまま受け止めて

  はるばる旅をして連れてきた 僕はどちらがよかったか悩んでいた

 

 神にいのり 神は どちらを君が選ぼうとも神はきみの幸せだけ望んでいるという

 答えを感じた