ある日 下湯川の教員住宅に沢山の人がきた。その中に、赤ら顔の外人さんがいて、それはオドワイヤ神父さんだった。

 畳の二間の襖を外して、ミサをした。たくさん座布団をしいて、大人の人がたくさん正座していた。途中で女の人がチリンチリンと小さな鐘のような形の鈴をならした。僕ははじめてカトリックのミサを見たと思ったが、それは嘘で、一年に一回か二回新宮の教会に連れられて行って、正面のマリア ヨゼフ イエズスの壁画のある聖堂でミサを見たことがあったはずだ。幼すぎて記憶があいまいだ。子供たちは、教員住宅から外へ追い出され、従兄と姉ともに窓から中を覗き込もうをしていたような記憶もある。母は30代であって、末の弟を生む前だったのだろうか。

 

  ちいさな水力発電所のある下湯川に、四村川中学校があって、あとはすこし歩いて湯の峰荘の横をとおっていけば湯の峰温泉もあって、そっちのほうが観光客もいるもので、にぎわっているようにも見えた。

 

  そういうことを、アンドレギャニオンの曲をYoutubeでききながら思い出していると、

 

 やっぱり、人間は哀しくて、悲しいことが真理だと、どこか奥深くで悲しみに癒されるという奇妙な感覚をおぼえた幼き日の感じがよみがえってくる。9月に母を見送って二か月。今月納骨し、もう母がこの世界にいなくなった。晩年には老人だった母は、あの教員住宅に住んでいた家族だったころには、工藤先生のとても若い妻で、ああしてはるばる新宮から(その当時ははるばるだ全く)たくさん来てくれてミサをした時代は70年代の高度成長明るいころで。なんとなくまだ日本人にキリスト教なんてもののあこがれもあって、だから結婚式ものきなみ洋風にウェディングドレスを着るようになって、それが戦争からよみがえった平和な日本の象徴だったように思う。戦時下のあるときには、洋物は全部禁止でいろんな洋物の言葉もまるでギャグのように日本語で言い換えていたりしたような、おそろしく統制しきってがちがちの上からのお仕着せを、自由に明るく破っていきたい時代だったのだと思う。

 

  母をこの手の中に看取り、どんな大切なものも去るということを、思い知り、しかしそれは寿命だったと諦める力を、神がちゃんと与えてくれた。いやむしろ、神が送ってくれた三人の神父さんのしてくれた葬儀がいちばん僕の心配していたことを消し去ってくれたから、だからあれはちゃんと神の計画だったと信じられる。神の御手に抱かれて母は去った。だから、それは自然の流れであって、あの下湯川を流れている川のさらさらとした静かすぎる夜にきこえた音が今でも、やはりそのままのはずであるように、人の一生の短きをずっと超えて変わらない決まり事としてあり続ける。

 

  そういう決まり事は、必ず愛するものとの別れというあたりまえの真実を最期のときにもたらすのも決まりなので、やはり人間はもともと悲しいということをみとめなければならないと思う。それで、そういう哀しい宇宙というか、死というものがあるこの世界の意味はいったいなんだろうと思えば、よくわからないけれども、この哀しいと美しいが微妙に近いところ居あるようにも感じてきて、あながち悲しみも悪ものでもない気もするのです。

 

むしろ

 

ヘラヘラと笑って明るくごまかしてみても、どこかむなしいところもあって、真実ではないとうような気もします。

人生は忍耐だという人もいる一方で、いやいや人生はもっと明るくという人もいる。なにかよくわからないけれど、人を傷つけないために忍耐することを選ぶ人もいるのである。ヘラヘラとしていることが傷つけることもあるのであった。

明るさが人を傷つけることもある。悲しみに救われることもある。

 宝林寺から、松籟は来月をもって終刊としますとの連絡。和尚遷化の後も、月一で刊行され続けていた寺報で、よく頑張られたと思いました。

 

 宝林寺は大燈国師生誕の地に建てられた寺で、西村古珠和尚が住職をされていたころに、坐禅に通うようになった。なぜかネルケ無法の「ただ坐る」という本の巻末に、国内で開催されている坐禅会のリストがあって、僕の住んでいる市内のその寺が紹介されていたので、行ってみた、というきかっけだった。

 

 行ってみると、和尚さんは、そんな本に紹介されていることなどあんまり知らなかったといった風であった。

 何年か通った。坐禅をして、茶と菓子をいただく。やがて掃除を手伝ったり、餅つきを手伝ったり、写経の会に出てみたり、皆で看板を作ったりと、いろいろと経験させてもらった。あんまり意識しなかたけれども、宝林寺で坐禅をさせてもらうようになった2010ごろからこっち、自分という人は以前よりも知らぬ間にずいぶんと平和な人になったと思う。

 

  和尚にきいたことがある。

 

   ーーー 宗教ってなんですか?

 

 和尚の答えは

  

   ーーー坐禅をして心が穏やかになった人の集まりですよ

 

  いまでも、いつになってもその答えはそのままそのとおりだと思う。世に永遠の真理というものがあるとすればこれだなと思う。和尚さんは禅僧だったので、”坐禅をして心が穏やかになった人”と言ったが、いろんな宗教でもヨガでも野球でも茶道でもイスラムでもカトリックでも物理学でも自己啓発セミナーでも読書でも登山でも合唱でもダンスでも。。。。なんでもいいのだと思った。特にこれからの時代は。何か心が穏やかになれるものをみつけたら、それで人生はいいのです。そういえば法然も、あなたが念仏を唱えられる人生をいきることができてたらそれで万事いいのですと言った。

 

  本山大徳寺から開山の生誕の寺としてその格を与えられた宝林寺というものは、その地域にこれからも存在していき、地域の皆様に親しまれていくことだろうと思う。”伝統”ということがある。けれども、僕はキリスト教徒なので、はじめて宝林寺にいった日から、本当にもうしわけないことであるのだけれど、本山との関係とかどういう由来とか、まったく関心がなく、ただ坐禅をさせてもらうことしか実は興味が無かったという罰当たりなのでした。そんなわけで、宝林寺の一大イベントである毎年の開山忌法要というものに行ったことが無い。それでも、和尚さんの伝えたかったことを、僕は少しばかりだけれども受け取ることができたと思う。

 

  朝の坐禅に和尚さんが入ってくる。白檀?のいい香りがする。カチンと鳴って始る。和尚はまるで宇宙に碇を下ろしたように座っているので、なにかその空間にともにいれば和尚につながって安心の宇宙に座っているようなところがあった。

 

  数年、坐禅会から遠ざかっていた間に、和尚が癌を発病されて、療養生活をされていた。友人から聞いてひさしぶりに訪ねた宝林寺でにこやかに迎えてくれた和尚さんは、痩せ細っていた。療養の間に、人生の時間が限られているからこそ、逆に精一杯生きようと決意された和尚は、以前にもまして、いろんな活動に力を尽くしておられた。再会からひと月もしない間に、しかし和尚は遷化した。それから早や、数年たち、先日、和尚が創刊された松籟も終刊との連絡。

 

  人は必ず、人生を終えていくので、私もいつかその道をあとの続くのだ。命を、どんなふうに使えばいいのか、答えは内側にあると和尚は言っていると思う。坐禅をして穏やかになった人が集まって、すきなことをして生きなさいという。

 

 宝林寺は、和尚さんがきて、ずいぶんといろんなことを活動されるようになりましたねと僕は和尚さんに言ったことがある。

 

 和尚さんは、言ったものだ。

 

  ーー なに、ここに妻と二人で何もしないでいてもよかったんだ。でもそれじゃあ”おもしろくない”。って思ってね。

 

 面白く生きること、精一杯生きること。和尚さんの葬儀に数え切れないくらいの人が集まったことを覚えている。檀家がない寺とは思えない。菩提寺だからとかではなく、地域のみなさんと歩んできた年月がその人を輝かせていた。

 

  その葬儀の日ももうなつかしくなった。けれども坐禅をして穏やかになって生きなさいという教えだけは、永遠に残る。それは一つの真理だからだ。それは正しいことだからだ。それは終わらない。命は終わらない。

 

だいぶ前に、葬式なんていらんと書いた。

 

親鸞上人も、「私が死んだらその遺体は賀茂川に流して、魚のえさにしなさい」と言ったらしい。

 

人間は死の前に無力なのでグリーフケアとしての葬儀は必要だが、文化によると思う。金をかけないでする葬儀が当たり前の国ならみんなつつましい葬式をするのだろう。

 

  母を送るのには、けっこう普通に金を使いました。ゆえに、葬式なんていらんと言っている僕が、なんのためにそんなことをしているのだろうと反省してみると、これは私の私によるグリーフケアだと思った。人と比べているのである。比較的まともに送ってやることができたとか、十分してやれたとか。そんな弱い精神を僕は持っているので、母をできるだけ幸せに(見えるように)送り出したいと思った。ゆえに、あんたはようやったよと、故郷の人たちにも言われ、家族からも言われ、そんなこんなで納得しようとしてみても、本当にそれですべてOKなのかと言われたら、それはわからない。残念ながら僕には霊は見えない。母は喜んだか、死んでから出会った神様の輝きがすばらしすぎてそんなことどうでもよかったとか、なんとか、ほんとにわからない。ムーディーの”垣間見た死後の世界”を読んだ少年の日から40年以上もたつのだけれど、僕には何の結論もない。

 

  通夜の晩に、カレン神父がいろいろ語ってくれたのだけれど、印象的な一つの言葉は、儀式などというものはいらないことなのだという言葉だった。それは教会にとって掟破りだなあとおもいながら聞いていたのだけれど、人間が”神”というものとしっかりつながっていることができるのなら、本当にそんなものは何もいらない。けれども、僕らはなにか象徴だか偶像だかがないと、不安でしかたがないので、そういうことをしてグリーフケアをするのだろう。旧約を読めば、神が人に与えたとても明らかな掟として、

 

 --自分のために作った偶像を拝むな

 

 であった。しかしながら、僕らは偶像を拝むしかないのだ。それが金であったり、荘厳な葬儀であったり。人がなにかをする。葬儀場が場所と人を働かせる。斎場で火葬する。コストはかかる。わびしく送り出すよりも、なにか心のこもったことをしてやりたい。そのために金がかかる。それでもそんなものは偶像だ。外の世界のことだ。と聖書が言う。

 

  神はいつくしみの神だから、この世界地球上で、人知れず、または戦地で、または災害で、葬儀もしてもらえずに亡くなるということがあっても、意識と思考と悲しみと嬉しさをたずさえて生まれた命であったものは、みな祝福されて世を去ることができるのでなければ、この宇宙を作った神はバカか悪魔でしかない。

 

  妻の実家の寺でも、門徒さんが減っていくこの時代に悩んでいる。神父さんは、もう教会に来る人はどんどん減っていく時代だということを、どこか諦めながらも、しかし本当の宗教への立ち戻りの時代が来たのだとも思っている。同じことを、ずっと僕も考えている。宗教というものは、終わっていかなければならないのかもしれない。時として宗教は、逆に人を不幸にしてきた。そんなことは、この時代に沢山の事件があって、日本人はみなでみてきた。弱い人の心につけこむ悪い宗教という図式が成立してしまうのは、なにかがうまくいかなくなってしまったからなのだろう。もしかしたら、誰もそんな風にしたくなかったのに、どっかで歯車が狂ってしまっただけかもしれない。オウムの事件の人たちは、僕と同世代だったから、処刑されないで今にいたって、今もなにか考えたり活動したりしている人たちも、親の死を見る年齢になり、自分の死が近いことも知り、”本当のこと”をいやがおうでも見て行かねばならない。平等に。僕も彼らも同じであって一切そこには差別がない。そういう意味でも同じ一つの命をやはり僕らは生きている。俺が偉いとかいう偏執狂に集団催眠していても、そのうち皆起きる。

 

  宗教がなくなった世界には何があるのか。人の命というものが、実はただの物質のかたまりが熱力学の法に従って形成した、宇宙の悠久のなかの瞬間芸でしかないということなのか、いや実は”いのち”というものが主体であって、その知性が本当に自ずから立ち続けているのか、もちろん僕の中に答えは出ている。つまり後者と思っている。その根拠は何と聞かれたら、しかし僕は信仰であるとでも答えるしかない。

 

---初めに言があった (ヨハネの福音の最初のところ)

 

宗教に毒された僕がいるだけとも言える。一切は他力であって、その信仰というものが打ち消しがたく奥深くから湧き上がってくるのは自分のひねり出した偶像ではないと断言できるのか、いやそれも本当はわからない。妄想と区別はつかぬものを恩寵と主張するのも、時々危ない。

 

 外の世界。宗教団体の役割。ローマが庇護して守ってこなかったらキリスト教は伝わらなかった。人類歴史ににそれは長く伝えられるべきものだったのか? 伝えられるべきものだったと思う。しかしもう、それも終わりに近いように思う。科学の進んでしまったこの世界では、人の自由を奪ったり、組織のために金を集めたりする行為に、十分なうさん臭さをみんなが感じ取ってしまう。組織の維持のための宗教から、命の発動が主人公である宗教。いやそうなったら、それを宗教とは呼ばない。キリスト教ではそれはキリストの再臨と呼ぶかもしれない。でももう、キリストとかいう用語を使うこともない時がくるのではないかと思う。

 台風は、予報のとおりに温低に変わったと思ったら、九州のほうから右にむかって激しい雨を降らせながら、ものすごいスピードで日本を横断してしまい、次の日 3日は、奇跡のような雲ひとつない晴天の南紀だった。

 

 

  31日から新宮に滞在して紀陽銀行を解約したり、墓を掃除したり、世話になった人に配りものをしたり。

 2日は、たしかに予報のような激しい雨が来たけれど、それは午後からだったから、遺骨のおまいりに、従姉と新宮で長い間世話になっていたケアマネさんがきてくれた。播磨で、どんな生活をしていたが、たくさん写真を撮ってあったので見せた。

 

  ーー兵庫に連れて行ったのはいい選択やったね

 

 とみな言ってくれるのは、そういう風に僕をねぎらってくれているのだとも思うし、当の母は僕がねぎらわれるかどうかにかからわず、もうすばらしき天界の人であるがゆえに、なにもいろんな理由をつけて幸せであったことを説明しなくてもいいのだよと思うのだけれど、生きている僕が苦しくないように、みなさんが思いやってくれているのだと、わかりませんか。わかります。

 

 

 そして今日納骨をしました。この墓に母が入ったのでした。石材の楠本さんが、いい天気になってよかったですねとひたすらにいう。教会で50日祭のミサをしてもらった後、一足先に墓地にきたら石材屋さんがもういろいろ準備していた。

 

  ミサのあとに、挨拶をしなさいとジョー神父が言った。

 

  ーー 母は昭和37年にこの教会で洗礼をうけました。そのあとで結婚したので、洗礼のときは旧姓の湯川だったのです。それから62年もたちました。田舎に住んでいてなかなか教会に来れなかったのが1970に家族で新宮に引越しして、家族で教会にくるようになしました。長きにわたり本当にお世話になりました。兵庫につれていきましてから、曾孫を遊んで楽しく暮らしていましたが、施設にはいり最期には病を得てこのようになりましたが、奇跡のように3人の神父様に最後をしっかりと葬儀してもらい、今日はまた、子供のころからお世話になったジョー神父様のもとで納骨の日が迎えられました。一生をキリスト教徒として、生きることができたこと、これ以上のことはありません。

 

  納骨には墓地まで神父様 けっこう多くの人がきてくれた。聖歌を歌い祈り、聖水をふりかけ、線香をともし花を飾った。この墓地は大浜の近く、黒潮の太平洋に面したところにある。本宮の山の中から、少しだけ都会の新宮に出てきて、そこには毎日でも眺めることができる黒潮の大洋があった。母にも僕にも、そこは広々とゆったりと、そしていろんな人と出会って生きた場所だった。

 

 統吾くん、ときどきは帰って来い、と教会の人たちが言う。母がなくなる今は、僕が子供だったり少年だったりしたころにお世話になった大人の人たちが、ずいぶんとというかほとんど他界していたりする。神父さんも高齢ではあり、墓地で解散したときに、ジョー神父と固く握手したその硬さは、やがてはこの世を去らねばならない共通の運命の中に生きているとでもいうような硬さだなと思った。

  

 

  遺骨を新車に積んて帰郷した。新車になってしまったのは、最近鹿にあたって旧車が破損したためで、10年以上17万kmも乗った何もオプションをつけないスケルトンのミライースだったし、修理代が購入代の半分くらい行く感じだったので、新車となった。新車もやっぱりダイハツさんのミライースだ。人生で一度もカッコのいい車を所有したいと思ったことがない。燃費が良くで、なんでもかんでも維持費の安いのがいい。それに今回は色さえも白にかえた。夜道安全だから。

 

  台風21がくるというので、本当に11月3日に納骨をできるかどうか心配になっているが、だいぶまえに神父さんにお願いしたし、教会のみなさんもスタンバってくれているらしく、もはや天にまかすしかない。しかしうそかほんとかわからないけれど、台風は温低に変化したのち二日からすごいスピードで東進して去ってしまうらしく、3日は晴れに各社の天気予報が変わっている。なにかと母は奇跡を起こす。

 

 新車を駆って、昨日の昼に たつのを出たのだけれど、すさみについたらもう16時。それでも日が沈むまで、海岸線リアスを満喫しながら、下里までを走った。そのうち すさみから串本までも高速がつながるので、そうすると海岸線を楽しむのは串本からとなってしまうけれど、とにかくそれでも早く紀伊半島を移動できるのは南の県民の念願なのだよね。東力さんが代議士だったころから。

 

  暗くなってから実家についた。葬式のあとカレン神父さんについうて来てからひと月以上たっている。納骨だし50日祭なので、そういう日程になってしまう。自然のなりゆき。けれども、この時期に新宮にいたことは、ほんとうに珍しく、何十年ぶりなのだろう。暑くも寒くもない新宮。高校か中学か小学校のころか、わすれてしまうけれど、虫の音が美しいようなころの新宮の夜は、ほんとうにひさしぶりだ。兵庫だととうに虫は鳴いてないかんじがするのだけれど、こっちは昨晩美しくないていた。そして大浜の音も風にのって聞こえてきた。

 

  母の遺骨を、とうとう実家の父の位牌(キリスト教風アレンジの)のそばに置いてあげた。明後日は、お墓にいっしょに入るのだ。それまで少し、ここで休んでもらおう。

 

  今日は墓に書類提出して掃除して、紀陽銀行で解約をやったあと、世話になったひとたちに たつのの土産を渡した。連絡できてなかったひとたちもいたのだけれど、みな知っていた。かしこい人やったとか言われたりする。そうやったと思う。僕が困らないようにと考えて、すべてやりおえていってくれたような母。こちらに来るとそれを思い知る。

 

 実家に父の遺した本がどっさりある。母はそれを捨てられなかった。昭和レトロなたくさんの本。そのなかから、スピリのアルプスの少女を取りだした。カルピス漫画劇場は見たが、原作は読んでない。百分で名著によると、これがめっぽういいらしい。読んでみた。たしかにそう。ハイジの天使ぶりに結構泣けてくる。ペーターの盲目のおばあさんがハイジという天使を得て幸せを取り戻すさまが。ロッテンマイヤーにしばかれるところまで読み進んだところ。

 

 2022にBS8Kで放送されたドラマだったということを知らないで、こないだ久さしぶりにジャケ買いならぬ、背表紙借りをした分厚い本を(いつものたつの図書館)、さっき読了しました。ドラマだと、大杉栄は栄太が、伊藤野枝は吉高由里子だったらしい。

  



 80年代くらいまでは、それでも僕らはちょっと社会主義に期待をしていました。だから、筑波大には法政大学から中核派のオルグがやってきて、三里塚闘争に学友たちが行き、しばしばしょっぴかれたものでした。この小説のみなさんのように。今となってしまうと、日本人の我らとてしては、北朝鮮、ロシア、社会主義のイデオロギーを推進した国の印象はすこぶるわるい。中国は商売上手と中国4000年の歴史が支えるパワーのなせるわざか、とにかく繁栄した社会主義国となったのだけれど、あれはそもそも社会主義なんだろうか?社会主義というイデオロギーに対する偏見としての印象は、もしかしてイスラム教への偏見と似たものがあるのかもしれないということを、こういう本を読んでいると感じてしまう。

 

 イスラム教は好戦的な宗教だと思い込んでいるのだけれど、それは偏見なのであって、

 

 

 だいぶ前に、”モスクで会いましょう”という番組があって、それをみながら、ああここには、いまどきの日本人から失われつつあるような愛というか思いやりというか、差別のない世界があるのではないだろうかと、そんなことを思った。

 

 村山由佳(同い年だな1964生まれ)の”風よ、あらしよ”が、伊藤野枝に語らせた”社会主義”はアナ派とポル派にしっかりわかれた中の、アナ派であって、そうしてたぶん、今の世に存在している北朝鮮、ロシア、中国のような国の方向は、これはまちがいなくポル派だなと思った。誰か優秀な人が実権を握って統制しないと、国はなりたたない。すると、社会主義国というものは、もともとそれが求めていたところの人間尊重といったところから、大きくはなれた独裁的な状況が発生しやすい、というかほとんどそうなってしまうのはなぜでしょう? それがずっと、疑問だったのだけれど、アナーキーだとうまくいかないという不安からそうならざるを得ないのだな。まるでエデンで善悪の知識の実を食って自分でなんとかしようを思ったことから失楽園ていう流れにどっか似ている。

 

  アナーキー(そんなバンドがあったな)無政府主義について、野枝が語るくだりは、故郷での村社会のもっていたある種の平和との共通点を指摘しているのだが、野枝自身は、その平和な故郷の息苦しさも語っている。そういうわけで、伊藤野枝のもとめたことは、思想としての社会主義・マルキシズムというよりも、自由・生命ということの追求の向こうにあるものなのだと思う。それでもそれは実験なのだ。だから自由といいながら、責任としての子育てやらの部分で、罪悪感を背負わねばならないことをいくつも持つ人生となった。

 

  そして、結末。甘粕という人は坂本龍一がラストエンペラーで演じた人であるのだけれど、このようなことをやった人であったとは、実は知らなかった。甘粕事件というのであった。大杉栄、伊藤野枝、そしてなんと彼らの幼い甥、の三人を殺害し、井戸に放り込んで死体隠しをしたという殺人事件であった(憲兵としての職務を忠実に果たしたという使命感での殺人。甘粕は大尉であり、部下らとこの犯行を正義と信じて実行した)。ここを読んだときに、ユダヤの祭司達が、イエスを憎んで殺したということと、どこか共通するものがあると思った。自由をもとめて自由に生き、発言しようとする人を、どうしてもゆるせないという、奇妙な感情。

 

 ところが、この甘粕という人、この事件で逮捕されたのだけれど、その後特赦かなんかで出てきて満州で暗躍する。そこからはラストエンペラーの世界である。森重久彌などは、この人をとてもほめている。そんなところも、人間とはわからないものだと思う。固定した自分、などというものはない。

 

 さて、現代を見れば、社会主義はどうもうまくいかなかったようだと僕らは思っている。アナーキーは?アメリカでヒッピームーブメンツがあり、あれは一つのアナーキーですが、しばらくしてみんなやめてしまったわけで。それでも、伊藤野枝は、あの故郷にあった無政府主義の原型のようなものを、自分は世界に広げたいと夢を抱いた。

 

 それは主義イデオロギーによって統制することで達成されるものではないというのが、そのメッセージにも見えた。それはどうやれば達成できますか?という問いはずっとあり続ける。イエスは神の国は実にあなたがたの中にある、と言った。もちろんこれは宗教であり、ジャンルが違う話だ。しかし外の世界になにかを作ろうとすることは、同じ力学で反動を生む。しかし樹々のように内側の催しから成長するものは、やがて気が付けば盤石な巨大なものとなる。

 

 

 O沢さんの棺に花を満たしたあと、皆さんで彼が好きだった酒をまんべんなくかけて、蓋をしたのだった。号泣している同僚がいたけれど、僕は涙が出なかったのだよ。何故かはわからん。僕は冷たい人間なのか、眠る彼の顔は、本当に寝ているようにしか思えなくて。号泣していた彼らは、それは睡眠じゃなくて、彼が本当に去ったということを、はっきり認識してしまったからだろう。でも僕は信じれなかったのだった。

 

 O沢さんのバカ話が好きだった。それは生き生きといまでも思い出され、そんな生き生きとしたバカ話は永遠にバカ話なのであって、ずっと生きているとしか思えない。僕はいい酒の飲み方とか知らないので、O沢さんは、いいウィスキー(だったかバーボンだったかブランデーだったか)を

 

  ---工藤さん 鼻から抜くようにして味わうんですよ

 

と教えてくれたのだった。そういう強い酒は確かに、蒸発は早くて、口の中にいてくれないので、鼻から蒸気でまるでナーザル製剤の薬品のように吸引するといったところが味わいかたなんですかねと発見させてもらいました。なにしろ豪華な酒なんて知らない僕は、初めてナーザルで酒を吸引して、へえなるほどねえと理解した。

 

  こないだ母を見送ったばかりで、また一人そっちの世界に行ってしまわれて、なんとなく知人たちの住処のメインがいつしか、あっちになっていく。それが年をとるってこと。過去の20年があっという間だったように、僕はこれから80までを加速して走るのだろう。世界に僕を存在させてくれた神様、時間はいつももうないかもしれないと思って、僕は生きようと思います。

 O沢さんとの出会いは、BL39XUで、彼はポスドクだったらしい。初対面だったのだが、なにかひとなつっこく、こっちのやっている仕事を興味深く聞いてくる男だった。僕はダイヤモンド薄膜のビームモニターの話をしたのだった。それがもう20年も昔で、あのときのO沢さんはだから、30ちょいの、青年だったのだと思う。理系の学生によくある、身なりに気をつかわない感じが、しかし僕にとってはなつかしい、つくばの貧乏学生のころを思い出させた。

 

 O沢さんは早稲田の理工だった。もういちどO沢さんに会ったのは、龍野のホープ軒だったと思う。こっちにきてからラーメン屋はいろいろ行ったがホープ軒はいいねえ、という。ホープ軒と僕らは言うけれど、ここは希望軒という書いてホープ軒だったのが、なんでも関東のほうにある別のホープ軒と名称で争って、結局希望軒(きぼうけん)という名前になったのだけれど、今はどっちで呼んでもいいらしいですよとか、つまらなすぎる会話をしたのだったはずだたぶん。やがて彼はパーマネントの研究員になった。そんなこんなで親しくなった。能率の悪い僕らは似た者のようで、仕事以外にどうでもいい科学実験の実演のボランティアなどをいっしょにたくさんやった。

 

 O沢さんは、みかけによらず博学でいろんな研究のことを良く知っていたし、それだけではなく食やら酒やらやたらとよく知ってまた羽振りのいい彼は”僕はエンゲル係数が高いのだ”と豪語していたのだったが、宵越しの金は持たないとかいう言葉がよく似合う人間だった。とにかく、O沢さんが語ると、みんなその蘊蓄に聞き入ったり、しかりながら酒が入り過ぎてだんだん説教と愚痴が勝ってくると、やれやれと思いながらも、いつしかそのうち撃沈してやすらかに仰向けに居酒屋の畳に熟睡すると、そのやすらかなる無防備なる寝顔に、どこかいやされるものもあった。

 

 やすらかな寝顔は、昨日の夕方、相生の葬儀場の棺桶に、やっぱりあのときとおんなじ、こんどはもっとやすらかで決して起きてこない眠りの深さの中にいた。通夜に、ずいぶんとたくさんの人が訪れた。相生に住んでいた。地元のヨット仲間と交流を深め、相生の飲食店街にずいぶんと顔のきく男になっていた。研究では、O沢さんとは、時分割測定のための、チョッパーという装置を、日本で初めて成功させた(なかなか面白かった。そしてちょっと、いやけっこう危険な装置だった。)。

 

  ご両親と弟さんが来られていた。僕は言った。

 

----- O沢さんのことはみんな好きだったですよ。いい時間をたくさんいっしょに過ごせました。今日はここの椅子が足りないくらいたくさんくると思いますよ(本当にそうなった)

 

 札幌の人たちだった。はるばる、遠い播磨で息子を荼毘にふすことになったことに、どんなにかお辛いことであろうと思い、できるだけ精一杯、僕らがO沢さんを好きだったことを伝えるのだった。

 

  月曜の未明に、眠るように亡くなっていたらしい。O沢さんらしいねとみんな言った。彼をなんと表現したらいいか。面白い人。この言葉が一番似合う。なにか破滅的な、それでいてコミカルな、それでいて、決して人を傷つけない、そういう人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 兄弟が4人いて、実家の土地に家、それに母が先祖からうけついでしまった山林、それに結局施設ぐらしでは使い切ることがなく逝ってしまったことで残っている貯金、を分けるために、遺産分割協議書であるとか、銀行が凍結だとか、税理士に司法書士、県税事務所に税務署、市役所での手続き、いろいろ、やったことのないことを、やることになるのだけれど、こういうことにならなければ、知っていても使わない情報であるわけで、やりながら、学びながら、いろんなことをやっている。

 

 という日々が、ふつうに親を送り出したら待っている、ということを誰も知らない。その時になるまでは。そういうことに興味がある人とかそういう仕事している人以外は。いや僕はしらなかった。。というか知りたいとは思わなかったけれども、やらなければならないのでやるのである。みんなそうしているんだなあとか思いながら。相続税支払いは10か月以内だそうで。税理士さんは、それぞれの兄弟に、取り分に応じた納税の振り込み書まで渡してくれるまでやってくれるとか、そうなんですか。そんな仕事なのかということも実際知らなかったし僕はサラリーマン親の子であって。

 

 さらには、けっこうな基礎控除というものがあって、相続税払う人は実際には多くないとか。けれどもうちは払わねばならないという計算になっているということも、いろいろ勉強してわかったので、税理士に頼んでいる。

 

  とかいう、僕が知らなかった業界で仕事をしている人々にずいぶんと知らないことを教えてもらいながら、たくさんのことをしばらくやってなければならないという。

 

 などという、こういう日々をあのとき過ごしていたのだなあと、僕はまた後から振り返るのだろうな。そんな振り返りは、やっぱりこの日記的ブログに書いておいた過去記事をときどき、読み返すと、つまらん個人の出来事を自分が見ているだけで、まったく世界にとってどうでもいいことなのだけれど、自分が感慨しています。

 

 昨年でいえば、母は今月のこの日には、まだプレザンメゾンには入ってなくて、それでもすでに、プレザンメゾンの入居のための手続きを進めていたころだったと思う。車いすの母を栗原病院に連れて行って、入居には健康診断書がいるからといって、そんなもんをいろいろ準備していたのだった。あのころ、いくつかの施設を候補にしていたけれど、空きのある施設が空いている間に健康診断とかいろいろやらねばならないので、とても難しくてチャンスを逃すということもあって、苦労していた自分がいた。

 

  もう一年たったのだよ。車いすにのせて母を押していく。思い出すとき、それは終わりにむかっている日々だと、そのときからわかっていたし、意識して暮らしていたし、かけがえない時間だと思っていたし、決して楽しい時間であるわけはないのだけれど、栗原の駐車場から車いすにのせて母を押していった情景が、やっぱりそうであるしかなくて、そうであることを、僕が苦しまないために、はるばる母をつれてきたのだったということがわかるし、僕が苦しまないように、はるばる母はついてきてくれたのだったと、思える。僕が苦しまないように、それが母の僕という人へのすべてだったように思える。子供のころからずっとそうだった。

 

  --- 母はここに入ったころに、あと一年で私は逝ってしまいたいと言っていたのです

 

と、最期のころに看護師のOさんに言った。Oさんは、すこし泣くように

 

 ---  そんなことを聞くと 私は工藤さん(母)の気持ちが、身につまされます

 

 と言った。その時僕は、母の、僕が苦しまないように、という思いをはじめて明確に理解したと思う。僕は悲しく言った。

 

 -- 母は、迷惑をかけたくないと思っているのです

 

 Oさんは言った。(さらに悲しく。)

 

 --  工藤さん(母)は、なにも誰にも迷惑なんかかけてません。ただおとなしく寝ているだけです。

 

 そのとおり、母は元気なときも、施設の職員に我儘をすこしもいわない人だった。最期のときも、そんなままだった。言葉は話さなかったが、全部わかっている目をしていた。

 

 立花隆さん(1940ー2021)という人はSACLAを取材にきたことがある。往路の車中で、やたらと楽しみだと語っている様子がその番組の中での立花隆さんの無邪気な様子だった。立ち上げ間もなくSACLAは世界記録を抜いた(XFELとしての光のエネルギーで)と言って、わが国の技術のすばらしさに目を輝かせていた。

 立花隆は田中角栄を失脚させたと言われている。(田中角栄という人の指導力みたいなものが、今の日本には失われているといった意見もある。)

 そして、この人はキューブラーロスムーディーのような臨死体験を詳細に研究した人たちにまで興味の範囲を広げている。リリーのアイソレーションタンクを経験してみたりもしている。怪しげなことから、政治や金のことから、科学のことまで、なんでも知りたい、なんでも書きたい人なのであった。

 

 

 
 二つこえrをかりてきて
 
 
 
 
 

 

  これらの本を二つ、読んでみた。先日母を見送ったばかりの僕には、この本の再読は(むかし読んだことがあったと思う)どういう感じだろうかと思い。母は天寿を全うしたと思っている。だから、悲しみよりも、どこか自然の感じのほうが僕には強い。もしも、これが母がまだ若くて元気なころに突然というなら、どんなにか悲嘆にくれたかしれない。もしろん、僕のように母に迷惑ばかりかけてきたものは、もっと苦しまねばならないかもしれない。みなで看取って親族葬をして、神父さんが心をこめて祈ってくれたこと、そういうプロセスすべてが、僕の今をささえてくれている。ということはたしかなこと。そんなことを考えたことがなかったが、人が悲しまないためには葬儀は大切なものなのだなとも思った。そうして、この世界には、しかし葬儀なんてしてもらえずに亡くなる人がごまんといることも忘れてはいけないのである。

 

 これは臨死の番組として放送され(けっこう驚異的な視聴率だったらしい。当時。2014)たものだが、番組では採用されなかった膨大な情報があって、それがあまりにも価値があると思った立花さんが、出版したものだ。

 

  僕が臨死体験本を初めて読んだのが、1980の高一のときだったか、リーダーズダイジェストに載っていたレイモンドムーディーの”かいまみた死後の世界”だった。これは世界的に大変なインパクトを与えた書となった。その後、この分野の研究はたくさんなされ、上に掲げた立花本には、そういった多くの研究、および立花さんが独自取材した情報がぎっしり詰まっている。

 

  あらためて立花本を読んでよくわかったのは、臨死体験というのは、その人の国、宗教、文化、によってけっこう違ったものになるという点だ。昔ムーディーを読んだとき、すべての人間は死ぬと、走馬灯のように人生のすべてを思い出し、すでに死んでいる親族などと会い、やがてトンネルを猛スピードで光のほうに向かって動き、愛のような人格があるかに思える光の存在に会い、そのへんで、臨死の人は蘇生するという典型的なパタンがあるという話に、衝撃をうけたものだった。しかし、その後の研究で、このパタンは、いろいろな変形判があり、インド人ならヤムラージという神が出現するとか、日本ならけこうな頻度で三途の川らしき川が登場したり、キリスト教圏の人はやっぱりイエス様に会ってしまったとか、生前のその人のバックグランドにあわせてカスタマイズされたものを見てしまうという。そうなってくると、あの世があるのではなく、やっぱりこれは最後の瞬間にその人の見ている夢なのではないかとも思えてくる。

 

  しかし、これを読んでいて僕が思ったのは、ユングという人が言っている集合意識みたいなものが、やはりあるのかなということだった。日本人として亡くなるときには、日本人の集合意識がだいたい思い描いている何かを見るのだろうなと。脳も停止している中で、人が何かを見るといっても、それはなにか本当は意識の奥の生命みたいなものが原初の経験をしているだけなのに、なにか三次元世界で経験したことのような具体性のある経験としてでないと、記憶に残らないので、そういうふうに再構成している(知らず知らず)のではないかなと僕は思っている。とかいうことを飯田史彦も言っている。生まれつき盲目の人の場合の臨死体験は、やっぱり視覚情報は無かったが、なにか強烈にすばらしい感じというものが感じられたとも本書にはあった。

 

  もちろん、こういう本を読んでみたくなったのは、母が今どこに行ったのだろうと思うからだ。しかし、文化や国籍、宗教に応じてすこしずつ異なる臨死体験をするというからには、やはりあの世という三次元世界の延長のようなものがあるのではなく、そういう考えでは理解のできない、まったく心、意識の世界が、死後の世界なのだろうなと思ってしまう。

 

  キューブラーロスもムーディーも死後の世界について立証することはできないが、その長年の研究から、それがなければならないという確信のようなものを得ていると述べている。神がこの世界を、捨て子のようにするはずがないという直観的な確信のように思える。僕もそう思う。