ある日 下湯川の教員住宅に沢山の人がきた。その中に、赤ら顔の外人さんがいて、それはオドワイヤ神父さんだった。
畳の二間の襖を外して、ミサをした。たくさん座布団をしいて、大人の人がたくさん正座していた。途中で女の人がチリンチリンと小さな鐘のような形の鈴をならした。僕ははじめてカトリックのミサを見たと思ったが、それは嘘で、一年に一回か二回新宮の教会に連れられて行って、正面のマリア ヨゼフ イエズスの壁画のある聖堂でミサを見たことがあったはずだ。幼すぎて記憶があいまいだ。子供たちは、教員住宅から外へ追い出され、従兄と姉ともに窓から中を覗き込もうをしていたような記憶もある。母は30代であって、末の弟を生む前だったのだろうか。
ちいさな水力発電所のある下湯川に、四村川中学校があって、あとはすこし歩いて湯の峰荘の横をとおっていけば湯の峰温泉もあって、そっちのほうが観光客もいるもので、にぎわっているようにも見えた。
そういうことを、アンドレギャニオンの曲をYoutubeでききながら思い出していると、
やっぱり、人間は哀しくて、悲しいことが真理だと、どこか奥深くで悲しみに癒されるという奇妙な感覚をおぼえた幼き日の感じがよみがえってくる。9月に母を見送って二か月。今月納骨し、もう母がこの世界にいなくなった。晩年には老人だった母は、あの教員住宅に住んでいた家族だったころには、工藤先生のとても若い妻で、ああしてはるばる新宮から(その当時ははるばるだ全く)たくさん来てくれてミサをした時代は70年代の高度成長明るいころで。なんとなくまだ日本人にキリスト教なんてもののあこがれもあって、だから結婚式ものきなみ洋風にウェディングドレスを着るようになって、それが戦争からよみがえった平和な日本の象徴だったように思う。戦時下のあるときには、洋物は全部禁止でいろんな洋物の言葉もまるでギャグのように日本語で言い換えていたりしたような、おそろしく統制しきってがちがちの上からのお仕着せを、自由に明るく破っていきたい時代だったのだと思う。
母をこの手の中に看取り、どんな大切なものも去るということを、思い知り、しかしそれは寿命だったと諦める力を、神がちゃんと与えてくれた。いやむしろ、神が送ってくれた三人の神父さんのしてくれた葬儀がいちばん僕の心配していたことを消し去ってくれたから、だからあれはちゃんと神の計画だったと信じられる。神の御手に抱かれて母は去った。だから、それは自然の流れであって、あの下湯川を流れている川のさらさらとした静かすぎる夜にきこえた音が今でも、やはりそのままのはずであるように、人の一生の短きをずっと超えて変わらない決まり事としてあり続ける。
そういう決まり事は、必ず愛するものとの別れというあたりまえの真実を最期のときにもたらすのも決まりなので、やはり人間はもともと悲しいということをみとめなければならないと思う。それで、そういう哀しい宇宙というか、死というものがあるこの世界の意味はいったいなんだろうと思えば、よくわからないけれども、この哀しいと美しいが微妙に近いところ居あるようにも感じてきて、あながち悲しみも悪ものでもない気もするのです。
むしろ
ヘラヘラと笑って明るくごまかしてみても、どこかむなしいところもあって、真実ではないとうような気もします。
人生は忍耐だという人もいる一方で、いやいや人生はもっと明るくという人もいる。なにかよくわからないけれど、人を傷つけないために忍耐することを選ぶ人もいるのである。ヘラヘラとしていることが傷つけることもあるのであった。
明るさが人を傷つけることもある。悲しみに救われることもある。