だいぶ前に、葬式なんていらんと書いた。

 

親鸞上人も、「私が死んだらその遺体は賀茂川に流して、魚のえさにしなさい」と言ったらしい。

 

人間は死の前に無力なのでグリーフケアとしての葬儀は必要だが、文化によると思う。金をかけないでする葬儀が当たり前の国ならみんなつつましい葬式をするのだろう。

 

  母を送るのには、けっこう普通に金を使いました。ゆえに、葬式なんていらんと言っている僕が、なんのためにそんなことをしているのだろうと反省してみると、これは私の私によるグリーフケアだと思った。人と比べているのである。比較的まともに送ってやることができたとか、十分してやれたとか。そんな弱い精神を僕は持っているので、母をできるだけ幸せに(見えるように)送り出したいと思った。ゆえに、あんたはようやったよと、故郷の人たちにも言われ、家族からも言われ、そんなこんなで納得しようとしてみても、本当にそれですべてOKなのかと言われたら、それはわからない。残念ながら僕には霊は見えない。母は喜んだか、死んでから出会った神様の輝きがすばらしすぎてそんなことどうでもよかったとか、なんとか、ほんとにわからない。ムーディーの”垣間見た死後の世界”を読んだ少年の日から40年以上もたつのだけれど、僕には何の結論もない。

 

  通夜の晩に、カレン神父がいろいろ語ってくれたのだけれど、印象的な一つの言葉は、儀式などというものはいらないことなのだという言葉だった。それは教会にとって掟破りだなあとおもいながら聞いていたのだけれど、人間が”神”というものとしっかりつながっていることができるのなら、本当にそんなものは何もいらない。けれども、僕らはなにか象徴だか偶像だかがないと、不安でしかたがないので、そういうことをしてグリーフケアをするのだろう。旧約を読めば、神が人に与えたとても明らかな掟として、

 

 --自分のために作った偶像を拝むな

 

 であった。しかしながら、僕らは偶像を拝むしかないのだ。それが金であったり、荘厳な葬儀であったり。人がなにかをする。葬儀場が場所と人を働かせる。斎場で火葬する。コストはかかる。わびしく送り出すよりも、なにか心のこもったことをしてやりたい。そのために金がかかる。それでもそんなものは偶像だ。外の世界のことだ。と聖書が言う。

 

  神はいつくしみの神だから、この世界地球上で、人知れず、または戦地で、または災害で、葬儀もしてもらえずに亡くなるということがあっても、意識と思考と悲しみと嬉しさをたずさえて生まれた命であったものは、みな祝福されて世を去ることができるのでなければ、この宇宙を作った神はバカか悪魔でしかない。

 

  妻の実家の寺でも、門徒さんが減っていくこの時代に悩んでいる。神父さんは、もう教会に来る人はどんどん減っていく時代だということを、どこか諦めながらも、しかし本当の宗教への立ち戻りの時代が来たのだとも思っている。同じことを、ずっと僕も考えている。宗教というものは、終わっていかなければならないのかもしれない。時として宗教は、逆に人を不幸にしてきた。そんなことは、この時代に沢山の事件があって、日本人はみなでみてきた。弱い人の心につけこむ悪い宗教という図式が成立してしまうのは、なにかがうまくいかなくなってしまったからなのだろう。もしかしたら、誰もそんな風にしたくなかったのに、どっかで歯車が狂ってしまっただけかもしれない。オウムの事件の人たちは、僕と同世代だったから、処刑されないで今にいたって、今もなにか考えたり活動したりしている人たちも、親の死を見る年齢になり、自分の死が近いことも知り、”本当のこと”をいやがおうでも見て行かねばならない。平等に。僕も彼らも同じであって一切そこには差別がない。そういう意味でも同じ一つの命をやはり僕らは生きている。俺が偉いとかいう偏執狂に集団催眠していても、そのうち皆起きる。

 

  宗教がなくなった世界には何があるのか。人の命というものが、実はただの物質のかたまりが熱力学の法に従って形成した、宇宙の悠久のなかの瞬間芸でしかないということなのか、いや実は”いのち”というものが主体であって、その知性が本当に自ずから立ち続けているのか、もちろん僕の中に答えは出ている。つまり後者と思っている。その根拠は何と聞かれたら、しかし僕は信仰であるとでも答えるしかない。

 

---初めに言があった (ヨハネの福音の最初のところ)

 

宗教に毒された僕がいるだけとも言える。一切は他力であって、その信仰というものが打ち消しがたく奥深くから湧き上がってくるのは自分のひねり出した偶像ではないと断言できるのか、いやそれも本当はわからない。妄想と区別はつかぬものを恩寵と主張するのも、時々危ない。

 

 外の世界。宗教団体の役割。ローマが庇護して守ってこなかったらキリスト教は伝わらなかった。人類歴史ににそれは長く伝えられるべきものだったのか? 伝えられるべきものだったと思う。しかしもう、それも終わりに近いように思う。科学の進んでしまったこの世界では、人の自由を奪ったり、組織のために金を集めたりする行為に、十分なうさん臭さをみんなが感じ取ってしまう。組織の維持のための宗教から、命の発動が主人公である宗教。いやそうなったら、それを宗教とは呼ばない。キリスト教ではそれはキリストの再臨と呼ぶかもしれない。でももう、キリストとかいう用語を使うこともない時がくるのではないかと思う。