僕は工作少年だったので、一人家でものを作っていて幸せなやつでした。

そういうことを言うと、ずっと前に高野寛が自分は工作とか家でやっているおとなしい子供で、あるとき音楽にめざめてこうなっているけどとてもロックやっている人になるなんて、と語っていたのを、今書きながら思い出した。それをきいたときに、ああおんなじだなあと思ったものでした。男の子はみんなと野球でもやってこいと、若き日の母が幼き日の僕を心配して悩んでいたのでしたけれど、その母も老婆になってこないだ天国に旅立っていきました。お母ちゃん、僕は結局大人になっても放射光施設で工作して飯が食えました生んでくれてありがとう、と、我が家にひきとって介護ベッドに寝ていた母に言ったものです。そしたら、このブログに何度もおんなじことを書いたけれども母は まあうれしいと 言ったものです。その母の旅立ちから早半年です。もうすぐ春が来ます。

 

 中二のころ、凝っていた工作は天体望遠鏡で(ちなみに中3ではブライアンメイのようにエレキを作っていました)、新宮市の有名なアマチュア天文家田坂氏から、父が(学校の先生でしたが)わざわざ8㎝のアクロマートレンズを借りてきてくれた。なんでも学生のとき田坂さんが磨いたんだそうで。その8cmを塩ビパイプにくっつけて作った屈折がまた良く見えて、ベランダから観たオリオン星雲も、アンドロメダも、月ももう感動で鳥肌でした。なにしろ通販で買ったシングル6cmの望遠鏡が、ひどい色収差で、こんなもんかいなと絶望していたものですから。

 

 やがてそのアクロマート8cmは田坂さんに返さなくくてはならない日がきて、我が家にある色消しレンズで遠くをみえるものは、父が買った3.5cmのたぶんビクセンの双眼鏡しかなくて、それで星をよく眺めたものでした。それでもさすがはビクセン、オリオンの星雲もおっきくは見えないものの、ぼわっとくっきりと、肉眼でみたのとは違って俺は星雲だぞという言葉を話してくれるほどには見えたものです。そのころ天文ガイドをよく買っていたから、広告にのっている天文ファンがよく使うのは、5cmの7倍の双眼鏡なんだなあとだんだんわかってきて、それが欲しかったのですが、少年はお金がなくて、買えないまま、こないだ還暦になりましたので、やっとこさ、けちってメルカリでそいつを半世紀近くの憧憬を満たさんとして、7000円ほどで買い取りました。 売主は面白い人で、

 

 星の観方のメモをつけてくれたのです。しかも手書きで。面白い人がいるんだなあ。

 

  ハイゼンベルグさんだそうで、もうネーミングがすごすぎます。流石は量子力学の父だ。そしてものはこちら。

 

  ずしりとくる5㎝の7倍、ビクセンです。

 

  昨今の寒波で、外に夜出るのがおっくうですが、温くなってきたら、見まくろうと思ってます。ひとまずオリオンは見ました。ああこんなもんだったかなあ、じじいになって目が悪くなったのかも、と子供の頃の感動とはなんか違うかな、それとも光軸ずれたんかいな、などいろいろあるけど楽しいです。ひさびさに自分のために高い(7000円がねえ、けちなもんで)もの買ったのがどきどきもんで。15年前に博士もらったときに買った万年筆以来の出来事でございます。けちなもんで。

  昼間の野鳥観察にも使えます。揖保川のほとりにはいろんな鳥が来ます。

  バカらしいとは思うでしょうけれど、人生で初めてこれでしげしげとながめて、ツグミとはどのような鳥かわかりました。つまりでかい雀です。

宝林寺さんにうかがい、古珠和尚が拍子木に彫った雲門関の拓本をいただいた。

 

 

  拓本なので原寸大であり、和尚はいつもこれを坐禅をの始めてと終わりにカチンをならした。右上と左下の朱印も和尚の手になるもので、この朱印は失敗しないように、水墨画家の平川さんが上図に押してくれたと、奥様が話した。

 

  正月に挨拶に訪ねたとき留守だった。昨年、私の母と同じころ、和尚の父上が亡くなられたとのことで今年は喪中となっていたが、その喪中はがきに、奥様が宝林寺を去られると決められたとあり、いつか訪ねるべきと思っていた。和尚が遷化しても、世襲の寺なら子息があとを継ぐことになる、というのは明治以降に禅宗の寺も真宗の寺のように妻帯して世襲するようになってからの話であるらしいが、宝林寺は世襲の寺ではなく和尚はもとよりお坊さんという職業で食っていくためにお坊さんになった人ではなかった。跡継ぎがいないと住職の家族は寺を出て行かねばならなくなるので、寺の嫁は跡継ぎを生まねばならない、と真宗の寺の娘である妻から聞いた。和尚さんはしかし、ただ最後のときまで禅宗の僧侶としての中身だけを生きる人だったので、いつかこの日がくることはわかっていた。奥様は和尚遷化の後も何年も坐禅会を続けてこられた。

 

  僕は宝林寺に通うよりも前からいくつかの禅寺や道場で坐禅をさせてもらったことがあった。宝林寺は、なにもややこしいことを言わず、ただ和尚さんと坐った。淡々と繰り返した。和尚はこの拍子木でカチンを坐禅をはじめ、終わり、白隠禅師坐禅和讃ではなくて、大燈明国師遺誡を読んだ。国師とは天皇に仏教を教えた先生のことだと教えてくれた。

 

  和尚は、”宗教とは坐禅をして穏やかになった人の集まりです”と言った。

 

 その言葉のとおり、淡々として宝林寺の坐禅に通った僕は、ふと気が付くと、以前の僕と違っていることに気が付いた。あまり意識したことはなかったけれど、以前の僕はもっと、おだやかではなかったと思う。なにか暗い考えに取りつかれたら、長く苦しんでいることが多かったように思う。

 

  僕はセラピストの中野真作さんに言われたことがあった。中野さんと出会ってから10年くらいたったころだったか。

 

ーーー出会ってから10年くらいになりますが、その間 工藤さんはずっと苦しんでいました。まるで苦しむ運命をもって生まれてきたかのように。苦しみの人、というふうに思います。

 

 ところがいま、僕はその時の僕が何に苦しんでいたのかわからない。中野真作さんに会ったのは32くらいだったが、生まれておそらくずっと32までの間僕は苦しんでいたのだと思う。そして何に苦しんでいたのか、思い出せない。

 

  和尚さんのところで坐禅に通ったことが自分をそんなに劇的に変えたとか思わない。劇的というなら、ビーユーセミナーやら

新求道共同体やら、僕はそれこそオウムには入なかったけれど、ひとがきいたら「ええっ!?」というような道をずいぶんと歩き、それでも32になったころの僕はやっぱり苦しんでいたのだった。それが、ついに昨日に職場のほうで60こえたあとの働き方についてという説明を担当のひとから受けるような時期になった今となって、あのころの苦しみを思い出せない。

 

 というのは正確な言い方ではない。もっと正確に言うと、そのことの無駄さとか、リアリティのなさに、今は気が付いてしまったのだと思う。僕が苦しんでいた内容は、本当は存在してないことだった。そういうふうに思える自分にいつのまにかなっている。初めて宝林寺にいったときに出てきた、あののしのしとした大柄な和尚さんが、地上におろした碇のように坐っている横で、僕らは坐禅をし、和尚の本当に最期の最期まで朗らかに生きた様を、僕らは見、そのせいでが、とにかく今の僕には、あのころのような苦しみがない。本当の宗教家というものは、ややこしいことを言わないで、その人が存在するだけで、ひとを癒すとか、そういうことがあるのかもしれない。

 

明後日出初式が揖保川河川敷である。そのころになると、毎年正月気分が抜けていく。

 

今年は皆既月食が9月8日にあるのだそうで、あら母の命日であったことよ。かなりの夜更けの皆既なのだけれど、なんとなく見守っていたい気になる。

 

  それととうとう、定年なので、年度変わって4月からは定年延長で働く身になるのである。2年の定年延長により、退職金を受け取るのを2年おあづけにして、これまでの7割の給料で働くということらしく、来週説明を受けるのである。

 

 というような、職業人生としての終焉がそろそろとまいりました。まあ職業人生というほどの内容のある職業人生でもなかったが、よく私のようなもんを養ってくれましたので、この職場は、残りの時間をちゃんと社会に役立つなんかをやらんでは申し訳ありませんとさえ僕は思っているのです。そもそも。。ここに来た時の私が求めたことは、なんらか科学に関係することができて金をもらいながら、物理の勉強をしていられればそれでよかったのでした。それが、学位ももらえたし、世界と競争するほどのプロジェクトで、世界最高云々といわれる光を観る装置や制御する装置の一つを自分が作れたりもしたし、それで沢山のひとが研究をし、たくさんのネイチャーやらの論文が出たのだし(自分が書いたのではないけれども)、十分によかったと思う。さらにそのうえに、この地域の学校や科学館で科学の啓蒙をする活動をいくつかやれて、そういうことを一緒にやってくれる仲間もできた。というふうに書くと、それはそれでよかったのだねとやはり思う。音楽活動もやったし。よく生きれた。というふうに自分をほめてやることが、だがしかし相変わらず僕は何かうまくできない。そうだ、ひとと比べて、無限になにか足らないといいつづけている。そういうことだ、どれだけやっても不満を述べている人間。

 

  と書きながら思い出した。あれはやはり20代でビーユーセミナーを受けた時、参加者の一人から言われてしまった痛烈な

 

  ---お前は、自分いまいちやいまいちやいうて、誰かにかかわってもらいただけやで

 

を思い出した。そうなんだ、24才だったよそのとき。こないだ2024は終わった。だから僕の永遠の24才も終わりにしましょう。24でビーユーでそんなことを言われたのさ。新大阪のあのセミナー会場で。悟りを開いた老師でもない、一般の参加者から。彼は言ったものだ、

 

  ーーなんやねん。おまえ、とびこんでこいや。一生の友達や思うとるのに。

 

 もちろん一生の友達にはならなかったのだけれど、あのとき出会った何人かは本当に一生の友達になった。僕は母をビーユーにエンロールしたから、母もあれを受けたのだった。妹も。それで、結局4人きょうだいの中で妹と僕が最後の晩に母のそばで母を看取ったのも、そういう因縁なのだろうか。

 

  とはいえ、今年は始まった。昨年に思い立ってボルンの相対性理論の本を読み始め、一般相対の前で少しやすんで、いろんな勉強をしているのだけれど、やっぱりマックスウェルという人はすごいことをやったのだなと思う。光は電気と磁気の波だということをしっかり数式から示せたのである。そのあと電波が実際に発見される。人の身体の中でおきていることも、脳のなかのことも電気のふるまいがほぼすべてだ。スマホもパソコンも。この世界も、宇宙のいろんな出来事も電子がからんだり光がからんだり、すばらしく電気が満ち満ちている。電気のことはしかしマクスウェルだけではなく、ファラデー、トムソン、ミリカン、ヘルムホルツ、ボルタ、順番はいい加減に書いたが、たくさんの人々の長い年月の研究の重なりによる。なんかすごいじゃないかと思う。

 

  そんなことを言っていると、あの1960年代の本宮下湯川の教員住宅で、父が作ったラジオが鳴っている生活が、もう記憶の果てなのだけれど、原風景としてくっきりしている。あれは、昭和すぎて、まるでファラデーのようにワクワクと電気の実験をしている感覚なのだった。玄関に裸電球があった、傘をつけた。それが今でもあるのだあそこの教員住宅はまだ立っていて、その電球がそのまんまの格好で。6石スーパー、5球スーパー、ぴーぴーいう混信する中波のAM(Amplitude modulation)。AMが振幅変調だということを、ここで仕事してロックインアンプを使ったりして、やっと理解した。

 

  年取って、父母をとものに送り出すと、自分もそこにむかっていることを感じざるをえないのだけれど、今は、そうやってはぐくんでくれた父母のことを思うと、この遺された時間を大切にいきたいと思えてしょうがない。

 

  

 

  

 

2024の最後の日となりました。24という数字のこの年は辰の年であって、母が僕を生んでくれた干支の年だったが、

僕が24のときも、やはり干支が三回目に回って来た年だったので、なにかと24という数字が、くりかえされているような気持ちになった。

 

 

 青春の幻影という曲は さようなら銀河鉄道999の中の曲で、999がヒットしてしまったので、もういっぺん作ってやろうとたくらんで作られた映画にしては、なにか抒情の部分で研ぎ澄まされていて美しくて、僕は好きだこれが。

 

  結局やっぱりメーテルは去らなくてはならないというこじ付け的強引さでもってくる最後のパタンが、それでもやっぱり 

 母は先に去らなくてはならないという 自然な(もちろんそうならない順番のこともある。それは哀しい。)ことを言っているので、やはり哀しいということがある。つまり今年母が去った僕にはこの曲が他人事ではなく感じ取れてしまうのである。それに最後のころの母は老婆なのになぜか美しかった。まるで青春のころの母に、僕にのりうつった父が会っているのだろうというような。数学と理科の先生だった父の願いを、形だけでも僕はかなえたような職に就いたから(それも苦労の末)、母は、お父ちゃんが生きていたら、どれだけ喜んだかとよく言った。お父ちゃんは新宮の墓を見ればわかるとおり、80年代に帰天してしまったもので、ようやく先月墓石に名前を並べて彫ってあげられた。やすらかに。父母。

 

  青春の幻影を聞きながら、やっと24になったばかりの頃の自分はやっぱり青春の不安というか、不安定というか、あのころの自分はとても好きなのだけれど、未完成すぎて 壊れてしまいそうで おそろしい。なにか生と死が隣り合わせな刃物の上に乗っているように思えた。24才くらいの僕は、とても僕らしくて、それでいてとても未完成で、危険な僕だった。

 

  というわけで、20の後に24をつなげる数字のならんだこの年がおわっていく。母が今年去った。母の去った年は’24だった。来年が来る。職業人生もさいごのころをむかえていく。手がけているものを作り終えたら、だいたい大騒ぎしてやることはもうないと思っていたい。

 

  内山興正老師の 進みと安らい を読み返した。

 

 

 

  アテを描いて、なにか物を欲しがって、独り占めしてニターッとすることを人生の目的にして生きているということばかりがこの世界になっているということは、冷静に見れば狂気であることよと語る。けれども、僕もそういうふうにして生きてきたようなところがある。なにせ業績とかいうものが欲しかった。しかし、もう十分だなと思う。納得するまではやらねばならなかった。人と比べてなにか、というようなことは、もう終わろうと思う。私は精一杯やったんじゃないだろうか。

 

  25がくる。へびの年。

 

 

 

死が二人を分かつまで、健やかなとき も、病むときも。。

 

と神父さんが結婚式の時にいうのであり、はいと答えて結婚する、ということになっている。

 

 ところで54で父が1983年の、そうだあれは僕が筑波大に悠人殿下のように学校から推薦してもらって通い始めてすぐの9月に、先に旅立ったので、あれから母は41年を、死が夫と分けていった自分と4人の子どもを守っていきて、父が亡くなった命日がそのまんま母の葬儀の日になったという奇遇な命日を母も得た。

 

  父が旅立ったったときに僕は18で、母がたびだったときに僕は59で、両方とも僕の目の前で最後の息をいわゆる引き取る様をしっかりとみとどけ、ついに新宮市の大浜の墓に3つの名前が刻まれてしまった。もう一人はなくなった僕の最初の妻で31才帰天とか書かれている。今から考えればずいぶんと若い。3人ともで洗礼名が書いてある。トマスにマリアそしてマリアマグダレナ。墓に誰かいれるたびに神父さんに納骨の祈りをしてもらった。墓の近くに最近、熊野川を渡る新しい大きな橋が架かった。橋を見ることができなかったねお母ちゃん、と言ってみる。

 

  さて今日は、何を書こうと思ったかというと、次は自分自身の死です。順番からいって。ついに母を送り出してしまった僕は、家族の中で、次は一番自分が死に近いだろうと思う。どうやって、最期を終えていくのか。還暦を先日超え、あと10年なのか20年なのか、30年はたぶんないだろう。10年と仮定するのがよいのではないかと思っているけれど、そんなふうに上手くは神はゆるしてくれないだろう。母が70くらいからこっち、ずっと脳梗塞だ、腸閉塞だ、骨粗鬆だと、不調のように言いながら18年を生きて88で逝ったように、それは長いのかもしれない。生老病死と仏教用語でいう、その老病死というとこばかりがリアルに襲い掛かってくる20年か30年かを人間は生きなくてはならないのかなあと思うと、神様は残酷ではないですかと初歩的な問題意識を僕はふたたび復習するはめになる。

 

  生前の母、この家につれてきた昨年に、介護ベッドに横たわる母とよく、いろんなことを話しした。プレザンメゾンに入ってからも、息子さんはなんて優しいのでしょうかとスタッフさんに言われるくらい足しげく、つまり仕事そっちのけで広畑のその施設に通っては、母といろんな話をした。時々名古屋から母を見にやってくる妹は、お兄ちゃんとお母ちゃんは仲良しだと言った。つくづくそう思いますというようなかんじで。そして、つくづく僕もそう思った。僕はマザコンなので、と施設長に言った。他の利用者のお爺さんやお婆さんにも、ひたすら面会にきてくれる人がいることを母がうらやましがられるので、やはり僕は、自分がマザコンですのでと言った。そうしてマザコンを標榜していた僕は、母が逝ったら号泣するつもりだったが、涙の一つもながさず、甥姪とともにやすらかに送り出して葬儀も終えて、母に名を刻むまで、やりおえた。トウゴはよくやったよと姉が言った。

 

  そういう風に仲良しの母ににマザコンの僕は言ったものだ。

 

ーーーー 生んでもらってよかたったよ。なぜなならば。。

 

 なぜならばの後は、母にはどうでもいい内容すぎてどうでもいいのだけれど、それを聞いて母がやたらと嬉しがったものだ。認知症が進んでゆくけれども性格がおだやかなままでいてくれた母が、まあようれしいよと言った、その嬉しいよを言ってくれたことが僕も嬉しいけれども、そんな嬉しいよも、短い時間のうちに忘却していった流れなんだろうなと思う。まるで瞬間芸術のようなものだ。しかし僕は覚えていて、こういうことを言ったのだ。

 

―― 僕は宗教のことと、科学ことを 学べたので 生まれてきてよかったよ

 

 そういうことを本気でいうくらい僕はまじめだなとつくづく思う。科学といってもたいした業績もない研究者で、宗教といっても悟りを開いたりしたなんかすごいもんでもないのだけれど、ほんとうにそうとしか思えないのですよお母さん。だから僕はそういったのですけれども、母にとっては理由よりも、なんでもいいから、生まれてきてよかったわとまじめに言うことを息子さんが最後のほうで言ったことは、

 

 ーーー そうやわ、あんたを生んで育ててよかったわ

 

とでも感じてくれたのではないかと思った。しかしそれも瞬間芸術なんだとつくづく思う。諸行無常といいますので。けれども生命というか宇宙というか、それをつかさどっているものは、止まらないもので、僕の理屈をこえて、やはり宇宙をうごかしていくから、無常といってもそのとおりそれが偉大なことなのだ。だからこれが瞬間芸術で、消え去ってしまうことになっても、別にいいことなのだった。

 

  定年を前にして、ちょっと最近ボルン先生(オリビアニュートンジョンの祖父 1954年ノーベル賞)の「アインシュタインの相対性原理」を熟読して楽しんでいる。適当に昔学んだ相対論よりも、やはりミンコフスキー空間の図を駆使して説明しているボルン先生の熱意のある説明を学んでいると、ああこれは美しいなあと思っている。光がこの世界の速度の上限で伝わること、という制限がなぜかこの世界にあって、それが時空の図のなかで正方形やらひし形につぶれてしまう世界を作っていて、僕らもなんかの仮想的なひし形の中に住んでいるのだなあと。アインシュタインはよくこんなことを思いついたな。でもなんかわかるんですよ。美しさに惹かれていたんだろうなという感じが。この感じも、瞬間芸術のように僕の老化していく頭脳が忘却していくんだろうな。哀しい、といいながら、その哀しさを神に預けて、僕らはみな老いて死んでいくことの理に平等の向かっていく。天この世界よりリアルな世界が待っているという願い。

 

 

 

悠仁親王 筑波大に合格とのニュースでした。おめでとうございます。

 

筑波大学の推薦を僕が受けたのはもう42年も前になってしまった。すごい年月だ。朝の暗いうちから新宮駅でY君とともに列車にのって前日入りしました。泊ったのは和光という名前の土浦のホテル。二人して時間があいたので、映画館で中井貴一の「親と子」を見た。平日だったのでがらがらで。今は議員さんの三原じゅん子も出ていた。

 

それから修士もあわせて6年筑波で過ごした。3年次のときに筑波博があって、そのころからやっといろんな店ができたりした。エクセルという(ソフトの名前のようだ)でかいディスコしばらくあった。ディスコって言われるものがあったのである。昔は。トラボルタがサタデーナイトフィーバーに出た後でその後編みたいなステインアライブという映画に肉体改造して出て、それを見に行ったのだけれど、あの映画は後で聞くにラジー賞をとったらしい。肉体改造はスタローンさんの指導によるもので、あの映画の監督もスタローン。80年代はみんなスリムなズボンはいてシャツはインで若者はウエストのくびれを挑戦的にさらけださねばならないのであって、腹の出っ張ってしまったおっさんにはつらいファッションだったものよ。

 

 というようなバブルの時代を筑波で六年すごして、バブル最頂点の89年に院を卒業して就職した。つまりバブルちょうどストライクを売り手市場の新卒として社会に出た、なんと贅沢な。あのころはよかったという動画がたくさんユーチューブにありますね。

 

 しかし筑波の生活はなんといっても、一年次でみんなほとんど入る学生宿舎である。あれに悠仁さまがお入りにならないで(やっぱり敬語で申し上げます)、自宅からお通いになるとは、かなりもったいないと私には思われます。学校終わって宿舎に帰る。宿舎といっても3畳くらいのワンルームマンションみたいなもので、隣もその隣もみんな筑波大生で、一人暮らしを初めてする少年少女が(女子棟と男子棟はわかれてます。行き来自由です。今もそうか?)一の矢とか追越とか平砂とかの宿舎群に大挙して住んでいる学生だけの世界です。大人のいない学生ばっかりの世界。期末試験最終日の晩はそこここから宴会の声が(まあ叫び声ですね。いっき、いっきとか。)聞こえてきます。管理棟には地元から採用されたと思われる茨城弁のおじさんおばさんが(今はどうなっているのか)働いていいるのですけれども。そのおじさんたちの茨城弁のイントネーションをききながら、ああ茨城にきたんだなあと僕らは思ったもので、やっぱりここは東京からは遠いとこなんだと感じたものです。

 

  宿舎祭があって、学園祭もあって、三里塚闘争もあっていくやつらもいたし、昼にメガホンで演説もしていたし、原理研究会に創価学会に阿含宗にと宗教でやっている学生もいたし、体育のほうにいけば同じ若者でも世界的な選手もごろごろといて、4年まで必須の体育授業の先生も一流のアスリートという贅沢なことになります。広いキャンパスを体育の時間に間に合うために必死で自転車をこぐのです。

 

  僕は親王様とおんなじで2学でバイオだったので、学生実験をしてみんなで悩みながらレポートを書いているのも、思い出せば楽しい思い出でしたよ。

 

  というような、筑波ライフを、これから悠仁さまがおすごしになると思うとなんか、感無量というか なんかみんな思うと思いますがOBなら、ちょっと心配ですよね。筑波ののりというかなんというか、学生宿舎ののりというか、ご自宅ではなく、ガードをしっかりやって宿舎でみんなとくらして、普通の友達とかいっぱいできて、ああ、なんか筑波きてよかったなあ となってご卒業くださりますことがいいなあと思うのです。天皇におなりあそばされるおかたが、筑波のあの独特の空間を数年経験するというのは、なかなかすごいと思います。画期的というか。新しい。

 

 

 

日本被団協がノーベル平和賞を受賞した。今朝テレビで被団協のことをやっていた。語り伝えていくということをご自身の使命として続けているかたの中でもそのころの記憶がしっかりしていた方、つまり、ある年齢以上で被爆されたかたが少なくなってきているというようなことを報じていた。

 

  先日”X線からクウォークへ”というセグレ博士(久保亮五先生の翻訳)の本を読み終えた。それなりに厚めの本で、読むのに骨が折れた。セグレは反陽子の発見でノーベル賞を受賞した人である。そして、この本にも書かれているとおり、ロスアラモスで原爆の開発に携わった人でもある。昨年の映画オッペンハイマーを見ると、そこには莫大な国家予算が投じられて町が作られた。亡命してきたボーアが一団に加わるときの歓迎の会で、楽しそうにボンゴをたたく青年ファインマンの姿もあった。

 

  セグレは、この本で、現代物理の黎明期がX線の発見から、続いてキュリー夫人らによる放射性元素の研究、なつかしい小さな実験室でのそれらの研究が、やがては量子力学という英知に結晶し、時代の流れともに、兵器にかかわる国家的な重大事項になっていく流れを書いている。セグレはそれらの時代を振り返って、知識が正しくない用いられ方をすることに危惧を表明しているが、一方、この本に語られるロスアラモスでの研究の様子は、なにかワクワクして楽し気なようにも読める。それはそうだろう。彼らは、自分たちの研究してきた極微の世界に莫大なエネルギーが隠されており、それを解放する方法を見出してしまったのだから。やってみたいという欲望をもう止めることができない。それは、彼らの青春のようなものなのだった。

 

  けれども、その青春は何に向かっているのか、その時浮かれていた彼らにはわからなかったのだ、と言わざるを得ない。そうして楽しく議論しながら、莫大な研究予算の遊びでできあがったものは、この時代に、どんどん減っていく生存者に、あのときその解放された極微の世界のパワーを容赦なく浴びせかけ焼きつくした。この投下に理由は、あったと、いろんな人が言う。あれでに日本は戦争を終わるという決断をできたともいう。しかしすべて屁理屈であって、生命あるものをそれらはただ焼いたのだった。ロスアラモスで物理学の大研究を楽しんだ人たちは、実は日本で彼らの青春の結実が生体実験として行われたということをどれだけ直視できただろう。見ないですませて、次のキャリアに皆向かっていったのだ。

 

  僕は、物理学を尊重する。それは人間が見出した奇跡だと思う。天才というものは、きっと神から智恵を得ているのだろうと想像もする。けれども、そうして神から与えられた才能を、どういうことに使っていくのか、ということの重大さの極めてあからさまな例をここに見る。今年被団協の平和賞受賞となるまでに、長い年月に原爆の開発に貢献することになってしまった知識を生み出した物理学者達がもっともっとたくさん物理学賞をもらって、彼らの人生を全うしていったのだった。

 干支を5回転すると還暦になる。同級生はみんなそうなのだけれども、今年 生まれてこのかた5回目の辰年を経験しているし、先日11月26日の誕生日をむかえてしまったので、自動的に還暦というものになった。(しかし65歳から74歳までを前期高齢者、75歳以上を後期高齢者という。すると僕はまだ高齢者とは言われないらしい。誤差だが。)

 

 還暦ですよ還暦。そのむかし20代のころ、とあるところで還暦を迎えた人を祝ったことがあり、ああ人生を長く生きてこられたんだなあと思ったものでした。そのかたが生きていたら、94だ。戦時の日本を生きてきたという人も、そうのちだんだん減っていく。けれども世界では戦争が行われていて、日本だけ例外というわけでもなく、人はみな(結婚して子を持っている人は特にそう思うようになる)平和を求めているのに、戦争は常に行われてきた。

 

  以前から何回も考えたことは、旧約聖書の古代から、ユダヤとペリシテという争いがずっとある。約束の地、と神が言った。けれども、僕らは地面がそんなに好きなのだろうか? けれども地面は私たちの安定をささえ、私たちの平和を支え、豊かさを約束し、それを神に感謝する。僕はたつの市に数年前に家をたてて、家族とくらしている。昨年の夏に、この新しい家に母をひきとって暮らさせられたことを、今となって、もう今年の9月にみんなで母を見送ってしまい終えた今となって、やっぱりここに家をたてて、新しいきれいなお風呂で母を洗ってあげられたことを、ああよかったと感じる僕は、古代ユダヤ人と同じように、地面をもとめて戦った意識となにもかわらない。だから、この地で、ペリシテ人とユダヤ人のようにいさかいが起きたなら、僕らはやはり集団で戦ったり殺したりしたくなってしまうのではないだろうか。そういう意味で、人間は何も変わらない。みな平和と豊かさを安心を笑顔と求めて生きているがために戦う。なんという矛盾。

 

 けれども、もう通過してしまいましたので、あんたは大切なことを生きなさいと、母に言われているように思っている。父も母も、けっこう早くにも見送ってしまい、息子だの孫だの心配の種はいくらもあるがもう、おおよそのところ、やって行けるようになるだろう彼らも。自分のことに集中してください。

 

  一番大切なこととは何でしょうか? たつのに母をつれてきたときに、一番心配していたこ。それは母がなくなったら葬儀をどうすればいいのかだった。カトリックだったので。けれども僕はこちらの教会に行ってないので、頼む神父がいない。もしくはたのめたとしても、義務的にしかしてもらえない(というわけではないけれど、知らぬ神父に頼み、知らぬ教会の人たちにやってもらうのはなかなかつらいものがある)。そんな僕のどうでもいい気持ちを、神はちゃんと察して、三人の神父さんを僕の目の前に登場させてくれた。それは奇跡だったと思っている。神の導きということはあるのだろう。それは誰かに説明しても、ふうんという程度のことなのだろうけれど、僕という個人にとって、あれは間違いなく、宇宙の法則としての神という科学の対象のようなもの以外に、何か人間のどうでもいいような願いでさえもいつくしんで聞いてくれている神というものがある。ということを証明してくれたようなものだと思う。神なのか天使なのか守護霊なのか聖霊なのか知らない。名前はどうでもいい。とにかく、神も愛もある。しかしの世界は愛が枯渇しているので、やっぱり戦争をやっている。この時代に。

 

  あなた方は地の塩になれとイエスがいった。塩が味を失ったら無意味だと。人間とはなんだろう。僕は干支を5回回し、ぼくを生んでくれた母を見送り、あと何年が僕にあるのかわからないけれど、地の塩になりなさいと言ったイエスの言葉は、前にも増して大切な、それはもともとの、あるいは人間みなが持っている機能のように思える。思うというより確信。特別な誰かというものではなく。

 

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マタイ 5章1
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
13 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
 

 

佐藤瞳の試合を見ました。

 

 

僕は小学校で卓球を始めて、中学校で卓球部だったので、今でも卓球の試合を見るのはついつい面白い。そのうえ佐藤瞳さんは、みんながあんまり目指さないカットマンでこれだけ世界的な選手になってしまった。少年時代の僕もみんながあんまり目指さないかカットマンをやっていた。高島 規郎選手にあこがれていた

 

 コメントにいろいろ書かれているように、本当に美しくバックハンドのカットをテーブルから遠く離れた位置から低く返していく。これは一つの芸術だなと思う。逆回転で、なんか星飛雄馬の大リーグボール3号のように帰っていくカットの玉の飛跡が僕は好きだった。喧嘩っ早い打ち込みに対して、ひたすらに守り抜く姿がなんかステキに見える。

 

  というわけで、タモリが80年代にクライと言った卓球がいつのまにかけっこうメジャーなスポーツになっている。それに日本はかなり強い。僕が中学生だったころでも、河野満であるとか、ちゃんと日本人は世界大会で優勝していたりもしたのですけれど、やっぱりバブルのころに日本人には卓球は人気がなかった。何しろ猫も杓子もスキーもしくはテニスである。テーブルじゃなくて地面でやるほうの。

 

  ところで、もうひとつ、なんとなく見てしまうテレビ番組がある。サンテレビなんかでよくやっている釣りの番組。自分が釣りなどしないのに、何故みるのだろうなと自分で不可思議を感じているのだけれど、よくよく考えれば、僕は小学生のころに夏や春に下湯川のお婆さんの家まで行ってはひたすらに安い釣り竿で釣りをしていたのであった。ひたすらに、畑で掘り出したミミズをカンカンにいれて。

 

 そんなわけで、今でもなにか興味があることといえば、少年時代にやっていたことなのだなと思う。ラジオもそうだ。真空管のラジオを初めて組み立ててAC100Vを通す恐怖。そしてそれが鳴るときの感動、真空管のフィラメントのぼーっとした輝き。結局、僕はいつまでも少年のころを核に持っているのだろう。そういうもの作りを結局ぼくは職業として生きた。父と母のもとで、まだ子供として暮らしていた、安心しきった贅沢な時間を僕は生きていたのだった。そうしてはぐくんでもらったものを自分の生きるための道としてなんとかこの年まで金をかせいで生きてこれたということ。

 

  ということを佐藤瞳の試合を見ながら、思うのであった。なつかしの弱小緑が丘中学校卓球部。となりの城南中学校卓球部は僕が中2のとき全国優勝し、そこの監督をしていたのがなんと僕の父だった(*)。というわけで、家には卓球の本、雑誌、道具がどっさりありました。

 

*全然卓球とかうまくもない父で、実は市内にあった卓球道場 王子クラブ出身の子供たちが軒並み入部するので自動的に強い城南卓球部なのであった。それでも団体選の組み合わせを考えるために、敵のデータ集めをし、全国大会に引率し、骨を折った父であった。

  

 

 ずっと介護とか母のことで開催を見送っていた職場の飲み会というものをひさしぶりにやった。なぜか理由はわからないが、ずーっと前から年に何回か縦割りがなくて上下関係まったくなしの飲み会を私が主催している。

 

  幹事なんで、姫路の福亭に早めについて店の前にいたら、商店街にでかい声で、呼びかけがひびいた。なんかたぶん兵庫県知事選挙の関係かなと思ったら、斎藤さんのスタッフの声だった。ひとだかりができていて、みにいったら 

  ご本人 姫路登場である。この晩は、姫路にはNHK党?の立花さんもきていて、にぎわいまくっていた。福亭前のこの写真は、まだひとだかりが大きく成長するまえだったのでわりと至近距離で一人のミーハーとして撮れてしまった。

 

  斎藤さんの件は、みんなが注目してしまうことになった。僕はパワハラなんてものが嫌いですので、最初はこれはまたこまった人が出て来たねえと思ったものだ。しかしながら、いつしか趨勢は斎藤氏有利に劇的に進行した。一票、実はわたしも入れました。なぜかというならば、こうなったらもう一度やらせてみるしかないのではないかと思ったから。斎藤さんが知事になれば、ふたたび合戦が始まることは必至とも思われる。しかし、それを我々は見る必要がある。それを通過しないと、なにも変わらないかなと。

 

  よく言われたことは、この件は、斎藤さんがいろんな箱ものの建設なんかを凍結してしまったので、そこに権益を期待していた業界のかたがたと、その業界に利益誘導(?)していた人々からのクーデターであるという図式をみんなが感じ取ってしまったことで、こういうことは実はだいぶまえに上郡の町長さんに知人がなったのですけれど、そのときも議会との対立というのがあって、けっこう地方自治体では起きがちだと思った。地元の有力者、地元の権力者、なんかこう、いやな感じであるとともに、また地元を歴代住んできて地元をわかっている郷土の名士の信頼厚い頼りにされてきたひとたち。

 

  しかしながら、僕らのようにやはり税金を食んでいるような仕事をしている者は、予算がどう使われるかと言うことが為政者の采配にかかっているものだから、なにかを目の色をかえてしまうのです。予算がつくつかない。事業が仕分けされてしまう。斎藤さんを選んだと言うことは、ある人たちにとっては、収入の減少につながり、その建設業にぶらさがる数多くの発注を期待していた会社さんもがくりとしていたりするんだろうとおもったりもします。(全く関係なければそんなん知らんわですむものだが。)その会社さんの従業員さんの家に小さなお子さんもおられたりもして。世の中は、それでも、やらねばならないことのために、理念として正しいリーダーを選び、その結果をしっかり受け止めていくと言うことになるのだろうなと思います。

 

  しかし、斎藤さんとして、まったく同じコースをたどって、混乱の県政をまねいてしまわないようにやる努力をかなりやるだろうなと思う。がんばってほしいと思った。現物を姫路でみてしまったし。商店街に出現して徐々にひとだかりができていく斎藤さんは、まったくキリストのように、ああ一人立っているなあと、つくづく思えた。すごいもんだ。