佐藤瞳の試合を見ました。

 

 

僕は小学校で卓球を始めて、中学校で卓球部だったので、今でも卓球の試合を見るのはついつい面白い。そのうえ佐藤瞳さんは、みんながあんまり目指さないカットマンでこれだけ世界的な選手になってしまった。少年時代の僕もみんながあんまり目指さないかカットマンをやっていた。高島 規郎選手にあこがれていた

 

 コメントにいろいろ書かれているように、本当に美しくバックハンドのカットをテーブルから遠く離れた位置から低く返していく。これは一つの芸術だなと思う。逆回転で、なんか星飛雄馬の大リーグボール3号のように帰っていくカットの玉の飛跡が僕は好きだった。喧嘩っ早い打ち込みに対して、ひたすらに守り抜く姿がなんかステキに見える。

 

  というわけで、タモリが80年代にクライと言った卓球がいつのまにかけっこうメジャーなスポーツになっている。それに日本はかなり強い。僕が中学生だったころでも、河野満であるとか、ちゃんと日本人は世界大会で優勝していたりもしたのですけれど、やっぱりバブルのころに日本人には卓球は人気がなかった。何しろ猫も杓子もスキーもしくはテニスである。テーブルじゃなくて地面でやるほうの。

 

  ところで、もうひとつ、なんとなく見てしまうテレビ番組がある。サンテレビなんかでよくやっている釣りの番組。自分が釣りなどしないのに、何故みるのだろうなと自分で不可思議を感じているのだけれど、よくよく考えれば、僕は小学生のころに夏や春に下湯川のお婆さんの家まで行ってはひたすらに安い釣り竿で釣りをしていたのであった。ひたすらに、畑で掘り出したミミズをカンカンにいれて。

 

 そんなわけで、今でもなにか興味があることといえば、少年時代にやっていたことなのだなと思う。ラジオもそうだ。真空管のラジオを初めて組み立ててAC100Vを通す恐怖。そしてそれが鳴るときの感動、真空管のフィラメントのぼーっとした輝き。結局、僕はいつまでも少年のころを核に持っているのだろう。そういうもの作りを結局ぼくは職業として生きた。父と母のもとで、まだ子供として暮らしていた、安心しきった贅沢な時間を僕は生きていたのだった。そうしてはぐくんでもらったものを自分の生きるための道としてなんとかこの年まで金をかせいで生きてこれたということ。

 

  ということを佐藤瞳の試合を見ながら、思うのであった。なつかしの弱小緑が丘中学校卓球部。となりの城南中学校卓球部は僕が中2のとき全国優勝し、そこの監督をしていたのがなんと僕の父だった(*)。というわけで、家には卓球の本、雑誌、道具がどっさりありました。

 

*全然卓球とかうまくもない父で、実は市内にあった卓球道場 王子クラブ出身の子供たちが軒並み入部するので自動的に強い城南卓球部なのであった。それでも団体選の組み合わせを考えるために、敵のデータ集めをし、全国大会に引率し、骨を折った父であった。