僕はカトリック信者の家に生まれ、いままで生きてきた途上で何度となく、神父さんのお世話になった。つい最近も、母の葬儀を三人の神父さん(故郷に帰って新宮の神父さんに50日祭もしてもらったから、正確には4人)にしてもらい、僕のこの世界の意識の始まりから一緒にいてくれた母はついに神のみもと、宇宙の輝く無限の世界、どこかわからないけれども、すばらしいところ旅だった。

 

  母はどこに還ったのだろう。自分自身の死もそこまで来ている。こないだ参加した高校の同窓会からまだ一週間足らずである。同窓会で最初に黙とうをささげた。鬼籍に入られた同級生や恩師のためだ。人は何のために生きているのか、という問いを、中学校のときにY君からきかされ、何も答えられなかった僕が、そのままもうすぐこの意味のわからない生の終わりに来ている。

 

  複数の同級生から、最近病気をして死と生のはざまを経験したから、まだ生きている今は、とにかくやりたいことをやってやるというようなことを聞いた。命に限りがあるということは、人間をして、時間を大切にしようという気持ちにさせる。

 

  昨日、コンクラーベ(邦題 教皇選挙)を見た。興味はなかったが、妻が先に見てきて、とてもいいとやたらというので。ネタバレできないが、最終的になるほどこれはという展開だ。男社会としてのカトリック神父さんの位階制度の頂点の教皇を決めるという事態が、まるでシンクロニシティのように、実世界でも行われたこの時期に、ちょうどこの映画があった。そして、その映画のメッセージは、形を大切にする教会と、形だけでは救われない人間ということだと思った。

 

  以前の記事で僕は、教会のミサとお茶のお点前が似ていると書き、それは形を重んじるという点だと書いた。人間の心はあやふやで頼りないので、盤石な型というものに沿って自分を放下していくことは、一つの解放、あるいは安心、うまくすれば救いに導く道であるかもしれない。道元ののこした曹洞宗の僧侶で、永平寺の修行生活はそんなふうにできていた、と語っているがいた。こういうことを書いていると、自我をワークの実践に投入することを唱えたグルジェフのことも思い出される。あるいは、僕が筑波でくらしているころ通った松代の教会で、若者を古いしきたりを重んじる東京のほうの教会(なんというところだったか忘れた。神父が囲いの中で信者に背をむけてミサをラテン語でする)つれていく先生(大学の先生だった)がいた。ついて行く若者の一人に、僕はきいたものだ(僕もその時は若者だったのだけれども)

 

    ーーーラテン語で昔のミサのやりかたして、それでは意味がわからないで困らないですか


すると、その若者は答えたものだ

   ーー いや、カトリックというものは、太古のものを太古の形のまま残してきたというところに価値があるのです

 

 なるほどそうかもしれぬ。人間はバカなので、いろいろ考えて新しいものに変えて余計だめにしていたりもする。あるときから「天にまします我らの父よ」という唱え慣れた主の祈りが「天におられる私たちの父よ」で始まる口語になって、唱えにくくなり、そんなものは般若心経のように意味がわかろうがわからまいが1000年以上も変えないでやっててもいいのにねえと思ったものだ。しかし最近、こっちの口語のほうも母の墓前で祈るためにちゃんと覚えたら、なかなかいい。日本の神父さんたちが、いろいろああだこうだとうなってひねり出しただけのことはあるんじゃないか。天使祝詞はこう変わった。

 

   アヴェ・マリア 恵みに満ちた方 主はあなたと共におられます あなたは女のうちで祝福され

   御胎内の御子イエスも祝福されています 神の母聖マリア 私たち罪人のために今も

   死を迎えるときも お祈りください

 

天使ガブリエルが若きマリアの前に、エルグレコの絵のように出現したときの言葉を前半の原型としている祈りが、口語によって本当にガブリエルさんがまぶしく輝きながら、マリア様を祝っているように感じられる。

 

   さてしかし、時代はどうなっていくのか。自分の人生が終わりのほうに来ているから、そう思うのか、それともこの時代に新しき教皇が決まり、なにかこういうと波紋を呼ぶ(ほどこのブログ読まれてないですけれど)かもしれぬが、これが最後の教皇なんじゃないだろうかという感じがしている。たぶん、教会が必要ではなくなるときがくる。いやこなければならない。人間は、神の子だとイエスが言い、天の国は、外のどこかではなく、内面に本当にあると言った。極めて重要なメッセージとして、それは誰の中にでも平等にある。民族、宗教、性別、貧富、身分、地位、性格、を問わず。それを信じられないうちは、おそらく教会があって、古き伝統を遺してまもって継承していくけれど、いつか人間が内面の神と直結しているのがあたりまえの人ばかりが多数になるようなことになったら、それはもう変わるか消えるかしなくてはならないだろう。けれども、その内面の直結した神というものを、カトリック教会は歴史の中で、しばしば異端という言葉で処理してきた面もある。結局わからない。

 

  己こそ己のよるべ、己をおきて 誰によるべぞ よく整えし 己こそまこと得難き寄る辺なりーー

 

 少林寺拳法の聖句であり、釈迦の入滅のときに阿難に語ったことばから作られている(と思う)。

 

 

 

 

 新宮高校の同窓会ってものに行ってみた。何か月か前から、還暦同窓会(ぎょっとするがしかし事実を受け入れるほかない。我らはもはや還暦なのである。)があるという連絡がきていたが、ちょうど父の蔵書処分のためだれもいない実家に帰省しているところだったので、今回は顔を出してみた。

 

 ホテル浦島の駐車場に車をとめて、シャトルバスにのると、やはり同窓生らしき人達(当然、おっさんに、おばさん)が載ってくるが、もう誰が誰やらわからない、僕は一番うしろのところに一人で座った。乗り込んできた女性二人連れのうち、ひとりが僕の顔をみて、あれ覚えがあるような、といったが、こちらはわからないので、ああどうもとかいってすわっていた。あとで、バスをおりて会場に向かいながら、階段をあるくその二人に見覚えがあり、もしかしてと声をかけると、よく知っている二人であり、僕が名乗れば、あらまあの世界であった。二人とも城南中学の教師であった父の教え子である。

 

 あとあと、何人かに出合いながら、しかし僕の風貌はあんまり変わってないのだそうだ。変わってないけれど、名乗るまでわからないってことはあるもんだねと思った。そこには42年とかいう時間が横たわっている。記憶の向こうからこんにちわ。

 

  会場につき、クラス(新宮高昭和58年、普通科だけで11クラスあり、土木科建築科かあわせて13クラス、総勢600人くらいの学年だったが、今回集まったのは180人とすこし。)の受付にいくと、すぐに名乗り合ってどうにか認識できた。

 

  会のはじめに黙とうをした。こういう年齢になりますと、恩師だけではなく、同級生がちらほら故人となっている。次回もし10年後にやるなら、もっとそうなっている。

 

  12時から3時までやっていた。いろんな写真を撮った。クラスごとの写真以外に、部活とか、幼稚園がいっしょとか、小学校がいっしょとか、中学校がいっしょとか、あらゆるつながりで壇上にあがって、カメラのタオカさんがシャッターを切る。少林寺拳法部の人は集合と言っているのをきいて、一年のときしか所属してなかったにもかかわらず、無理矢理に乱入してみた。なつかしき顔がそろう。勝浦の消防署長をやっているときいている同級生になつかしく声をかけ、名乗れば、ああ工藤ちゃーんと、あのときのまんまの言い方で思い出してくれた。42年以上ぶりの工藤ちゃーんだ。彼に文化祭実行委員長を頼んだのだったよ、生徒会長だったY君が。あいつは”人物”だといって。

 

  クラスの中に、ひときわあか抜けた女性がいた。なんでもいつのまにかクラシックの声楽の歌手になっている。他クラスの女子さんたちからも、あら素敵だわと言われたりしている。音大に進んだのではなかったが、高校のとき合唱部だった。就職して市民合唱団のようなとこに参加していたのだが、27の頃から指導してくれた先生が素晴らしい人で、運命的な出会いとなり、いつしか声楽家として立つことになったとのこと。中学校のころ新宮市にやってきて、勉強がバリバリできるので、緑が丘中のY君の学年一位の独走態勢を初めて崩した女傑だった。今は歌手となっていた。最近体調を壊したりしたこともあり、命には限りあると痛感したので、命のかぎりやりたいことをやってやるのだと、輝いていた。

 

 

 

  短い限られた時間の中で、風貌も変わってしまった古き知り合いを見つけ出すのはなかなかの努力で、あらよというまに終わってしまった。その日のうちに兵庫にもどらねばならず、一次会でおいとまし、GWの渋滞のなか帰路に就いた。

 

       ところで面白い経験をした。こういう経験をする俺は悲劇だな思ったが、実はおなじことを経験した人が他にもいたことをあとで知った。つまり同窓会アルアルなのである。こっちはよく覚えているのに、向こうはあんまり覚えてくれてなかったり、逆に意外な人がおぼえてくれているという不思議である(*1)。人間は、覚えていたいことを選んで、あとのことは忘れて生きていくのだろう。いくら説明しても思い出してくれない親しかったはずの人のもうしわけなさを見ていると、自分はこの人の潜在意識からも消えてしまったのだとさえ思う。逆に、意外な人が覚えてくれているという、そのアンバランスが、どうも人間の現実のようである。つまり自分は実は自分のことを知らないのではないか。しかし結局、今もいつもこの生命を生きること、今を生きるのがすべてだなと思う、死が訪れる日まで。自分の大切な命と人生である。

 

      最後になりましたが、このような会を開催していただきました監事実行委員会のかたどうもありがとうございます。

 

 

*1   あとで気が付いた。僕は少林寺部の人たちから、もっと口数の少ない人だったと言われた。あのころとまったく違う人になっている。兄弟からでさえも言われる。

 

 

 

 

  

 

  

 

 

こないだGW談義と称して、大学時代の友人たちを遅くまで語り合ったのだが、つくづく思うことは(昔からうすうす感じていたが、認めなかったのだろうが)、私は天下国家を論じるには意識も知識も足りないアホだなと。

 

 政治のこと、トランプのこと、経済のこと、国際社会のこと、なんでみんないろいろ考えて知っているのだろうかと、私はたじたじとなることばかりで、さらにそのうえに、とくにパッとした社会における業績もなく、まったく意識低い系の僕というものを、そういう突っ込んだ話し合いなどで沈黙していると思い知らされるのだけれど、いやまてよと。

  

 

  俺はこれでよいのではないかと、ふと思えた。馬鹿者はいくら勉強しても本質はバカもののままである。

  そんなことよりも。私は、私とはいったいなんなんだということを、永遠に考え続けるように、罰せられているのである(西田幾多郎の善の研究の序文にこういう言い方がある。”われは”哲理を考えるように罰せられている(実はこれを言ったのはヘーゲル))。

 

  明日から郷里に帰り、実家のかたずけし、そのあと高校の同窓会に、今回は参加と言ってあるので、行ってみようと思う。バカの俺のまんまをつれていってやるしかない。

   

 GW談義をまたやろうという誘いが旧友からあって、土曜の晩にどえらく長時間のネットミーティングを今年は三人でやった。

 

 昨年、いまごろは母を施設にあづけて半年ほどになった。僕は足しげく施設に通いながら、それでも、自宅にひきとって面倒を見ていたこよろりは、ずいぶんと精神的にも楽になっていたころで、そのころにGW談義の第一回てものをやったのだった。母をひきとり、やがては去っていく母の命をみつめてくらすようになって、僕は昔の友達に連絡を取ることを始めた。あるいは奇跡のように向こうから連絡をくれた人もいた。そのうち、こういう談義でもしてみようかというように、なにかが再生された。昨年やったときに、再開は30年以上もたってのことだったが、おどろくほど何もなかったように、その間に横たわる無限のような長い時間を簡単に僕らはとびこえて、少年の18の時に出会ったころに戻れてしまうのだった。

 

 今年の僕をふくめて3人の参加者(T君とO君)は、大学の学部と大学院修士を同じ専攻で学んだものどうしだ。

 

 晩の9時から、2時半くらいまで喋っていた。最後は眠くなってもう終わりだというまで、いくらでも話題が尽きない。若いころのあの筑波の生活のころと全く同じそんな雰囲気が復活するのである。

 

 とにかくなんでもかんでも話した。全部は書けないし、断片的なことを羅列するしかない。あのころの若い頭でなにを考えていたのかがよみがえってくる時間である。

 

  キングクリムゾンのこと、YMOのこと。生化学のこと。村上和雄先生のこと。トランプ政権のこと。養老孟司のこと。なぜかあのころの専攻と関係ない光の科学のこと。参加者K君の息子さんは、どうやら理研で今、光のことをやっているらしい。今の僕と分野近いねと言った。

 

  村上和雄先生はおっかない先生だったよと村上研だったTが言う。そのとおり、授業を聞いていても、気合で語っているその迫力が禅僧のようだった。晩年の村上先生は禅僧横田南嶺老師と懇意にしていた(横田南嶺老師は学部が違うけれど、我々の同学年の筑波大生だった)。T君は村上先生がセミナーでGプロテインを知らなかったのが衝撃だと言ったのだけれど、いやあの先生は知らないことを知ったかぶりしなくて若い先生にでも丁寧に質問するのだよと僕は言う。けれども、思いだせば卒論発表会で僕の発表を聴いた村上先生のするどい質問はたしかにおっかなかった。

 

  晩年にサムシンググレートと言って宗教的な人になっていった村上先生の本をいくつも僕は読んだ。、どの本もいろいろなことをよく勉強して、科学の方面から宗教に触れていく深い本だと思う。けれども、大学で指導していた村上先生は、科学の世界は競争の世界と言い切っていた厳しい先生だった。研究室は休み返上で実験していた。O君は、村上先生がその指導力で数え切れない弟子を育てて優秀な人をたくさん輩出したことを讃えた。そういう僕らもしかしもう、定年のころになった。O君は関連会社で経営の任にあたっているし、T君は一足先に大学の職を辞して今は悠々自適である。なんという年月の流れだろう。

 

  こんな話もした。O君は、養老孟司をよく読んでいる。僕は養老先生は宗教的だなと言ったら、O君はむしろ無神論だという。けれども僕には養老先生が宗教的に思えたので、それはどういうことだとO君は言う。それで考えて言った。

 

  ーー人間とは何だろう。自分とは何だろう、を追求しているから。それは釈迦のやったことと似ている。

 

 O君は、それはそうだなと言い、そういう意味では釈迦は宗教家ではなかったのかもしれぬという。神に帰依して、それを恐れ祈ったのではなく、逆に神の与えたこの苦しみの世界に人間がなぜ放り込まれていて、それはいったい何なのか、なぜななのか、どうしたらいいのかを極限まで追っていく、しかなかったという突端のところを、釈迦は妥協しなかった。まったくそうだなと思った。

 

  というような話が通じてしまうO君と、大学に入学して同じクラスで出会ってからもう42年(!)、しかしあの少年から青年のころの何年間かのなにか緊迫したような時間を共有したことが、一つの奇跡にも思えた。

 

  T君はこのブログを読んでいると言った。最近だと三人の神父さんにとても感動したと言った。今の時代にあんな親身になってやってくれる宗教家が実在しているのだなとT君は言う。本当に実在していて、3人そろって神父さんの白い祭服に身を包んで葬儀ミサをしてくれたその姿は3人の天使のように見えた。三人の神父さんの話は、先日宝林寺の奥さんの送別会で出会った人も同じことを言っていた。損得ではないところに人間の意味があるということをはっきりと体現している神父さんたちであった。

 

  そんなこんなで土曜の晩から日曜の明けまでかけて、眠さの限界まで語っているのは、あの筑波の宿舎やらアパートやらで、夜通し議論していた若いころとおんなじでありながら、長年の人生でつちかった現実のデータとともに、よりいっそうリアルになって、それでありながらたぶん若者のようにエッジの効いた発想はもう無理で、それでもまだまだ、僕らは生きねばならないね。それはすばらしいことであってほしい。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

通身手眼と 表札の木に書いてもらったのが1998年だったか。広島忠海の少林窟道場に参禅して、その最終日に老師にこれを書いてもらった。夏だったと思う。

 

井上希道老師。

 

 

 参禅に来ていた古参の人から、だんだんと老師が何を言うかなぜか先にわかるようになるよと言われた。そんなことあるだろうかと思いながら一週間やっていた。ある朝仏間のでかでかと書かれた墨蹟を見せて老師がさてあれは

 

  通身手眼(注)

 

 と書かれていると説明しはじめ、さらにこういった。

 

 そろそろ意味がなんとなくわかるのではないかね?

 

 実はなんとなくわかった。老師はたしかこのように続けた、

 

  この意味はただこの今一瞬ということのなかに、しかし宇宙全体におよぶことが含まれている。ここからが仏法の面白いとこじゃ。。

 

  それをきいたとたんに、なぜか三千世界とかいう仏教用語の意味がわかっ調な気がした。この世界に存在するものすべてつながっている。ここで丁寧に掃除をしていたり皿を洗っていたりする自分は無駄なくちゃんとした働きがこの宇宙の中であるということが、なにかわくわくと輝いて見えてきて、おや?と思ったものだった。

 

ともあれ、最後去るときに老師が、表札の木を出してきて、何と書いてほしい?と言ったので、

 

  通身手眼を

 

と僕は答えたのだった。あれから30年近くになってこようとするけれど、一行に通身手眼ではないような

時間を過ごして働いてきたので、もういちどしっかり丁寧にやっていかねば人生はもうあと少ししかない

ああ、過ぎて行った時間。まあしかし、今は今。生きるしかない。

 

 

   

 

注)通身手眼は google検索したらAIが言うには、”「通身手眼」は、禅の用語で、身体全体が眼の働きをする状態、つまり、身体全体を使い、全体的に物事を理解することを意味します。具体的には、身体の感覚や動作を通して、真実や智慧を見抜くという意図が含まれます。”

17歳の秋から翌春にかけて、ずっと同じ一つの考えが頭を去らずに苦しんだ。今から思えばなぜそれほどに苦しむのか分からない、ばかげた観念である。それは若者特有のホルモンのせいか、大学受験という人生初の関門に怯えた恐怖のせいか、生きたいような生きたくないような、わけのわからぬ、これを称して青春というのか。そういう自分を僕は若者らしくないと思い込んでいて、だからより一層苦しんでいたのではないかという気がする。ほんとはそれでもよかったんたよと、いまの僕はそのころの僕にいってやりたい。若ければ、何をがんばってても、何を悩んでいても様になる。おおいにやりたまえ。とかなんとか。

 

 それで、僕の中に始終住み着いて苦しめ続けたその観念とは。

 

 ーーー神がこの世界を作ったのなら、なぜこの世界には苦しみがあるのか。悪があるのか。

 

 そればかり悩む冬休みを過ごして生きたここちがしなくなり、眠れなくもなり、何の病気なのか、ある晩悩み過ぎてもうだめかな俺はと思ったとき、突然に図1のようなものが心にうかび、なぜかそれで問題が解けたように感じてその晩はぐっすり眠れた。

図1   この世界のわけ

 

 図1の意味を、そのときこう考えたのではないか。 神はたしかに光に満ち溢れた世界を作ったが、人間という特殊存在だけは、まるで傘のようなもので自分の影を作ってしまい、その影の中では苦しみが存在できてしまったのである。幼稚なのだけれど、僕をぐっすり眠らせるだけの説得力が僕自身にだけあったそれが、図1である。

 

  疑念がないでもなかった。人間は神が作ったものなのに、何故に影を作ることができるのか?これはキリスト教でいうところの古典的”自由意志”の問題だ。なぜ人間に悪を犯す力を神は与えた? この図は、長年僕の中にあった。なぜそういう図が苦し紛れの僕に偶然浮かんだのか、ほんとのところわからない。これに深い意味があるのかどうかもほんとうのところわからない。これが僕をその晩眠らせるだけの力があった理由はまったくわからない。ただ疲れて寝たのかもしれない。若者のつまらない妄想であったかもしれない。それでも、ずっとこの老境にさしかかるころまで、図1は忘れ去られずに僕の中にあった。

 

  図2は、今の私の考えである。私はもはや敬虔なキリスト教徒ではないので、図1で”神”と書いたところは記名のしようがなく”?”と記した。けれども、それは”在る”と感じる。どこにあるかというと、私の中奥深くにある(あんまりいうと胡散臭いが、たぶん坐禅のせいでいつの間にかそういうふうに思うようになった。)。思考の始まらない前のところに謎の存在”?”として、それは在る。それは私を長年癒して生きさせてくれた陽光のごときものだ。悟りとかを開いた人がいれば、”?”のところを、明らかに定義してくれるのかもしれないが、私のようなものは、”?”が”謎のまま永遠のようにそびえたっている。

  しかしその”?”からの滑らかな流れを阻害している、”私”というものが、やはりまだ生きている。肉体を持っているかぎりそうなのかもしれない。

 

 歳をとってきた。昨今物価は上がる。もらえる年金はもう計算できてる。貯金ももうあんまり増えないだろう。さて老後?と胸算用する。先を思いやっている。解脱などほど遠い凡夫である。

 

 図1が浮かんだ17のとき、神と人という、自分の外にあるものを考えた。今、図2は、”?”と”私”があって、しかし本体は”?”のほうだと感じ、そのほうがやすらかだ。図1が浮かんだ頃の深刻な青春とは違って、晩年はじたばたできない。それでもいまだ”私”のほうが”?”を自分の手でつかまえたいとしばしば躍起となる。それはうまくいかない。 ”?”が主体だからだろう。これを他力というのか。

図2  今                     

 

  母はもう、母の”私”が消えて、”?”の世界から僕を見ていてくれているのだろうか(図3)。和尚さんは、アダムの罪は”分別ということだ”と教えてくれた。アダムが食べたのは善悪を知る能力を得るための木の実だった。

 

図3  死?

 しかしなぜそんな分離があったのか。 その謎は、他人事としての失楽園の人祖の歴史の研究からは解けない。相変わらず苦しんでいたりもする今の私というものに、その分離のリアルさは毎瞬突きつけられている。歴史とか理由なんかどうでもよく、ただその”?”のほうの声を聞くように聞くように、残された時間を精一杯というか。なんというか。。。

 

 

 

 

 一昨日の朝 宝林寺を訪ねたが、もうすでに出立されていて、いよいよ閉門となっていた。

 この小さな(写真だと大きく見えるのだけれど)駐車場に車をとめて、坐禅に通ったものだったが、もう車は停まっていない。半田先生からπ坐会は無期休会となりますというはがきをもらっていた。29日まであとかたずけして、それ以降は閉門しますと和尚の奥様から連絡もいただいていた。先日大々的な送別会もあり、たくさん集まった。誰もいなくなったここに、一台きりの車をとめてたたずんでいる今というものは、やはり寂しいが、時間の流れのなかでもしかしたらすべての出来ごとは輝いていやしなかったかい?と僕は自分に問うてみる。

 

 駐車場のわきに、看板を作ったのはもう10年以上も前で、何人かでムサシで材料を買ってきてせっせと作ったのを思い出して、なつかしく、それからいくつものことがあり、今に時間はつながっているのだ。看板の中に、今でも和尚の四弘誓願が貼ってある。和尚さんの遷化から何年かたって、この看板にこれを見つけると、僕らが手作りで作ったこれに、和尚さんの言葉が遺されているということに不思議を感じざるを得ない。

  

 

  このお寺はこれからもここにあるけれど、ここに来て坐らせてもらった落ち着いた時間を繰り返すことはできない。そう思うと、和尚さんと奥さんと、ここにいて誰か坐禅にきたら、もてなしてくれて過ぎ去っていった時間というものが宇宙全体になにか大切な働きをしていたのではないかと思えてならなくなる。

 

  僕は家が仏教ではなかったから、高校くらいまでは仏教のことを深く知ることはなかったが、同級生が仏教に深く傾倒している人だったので、仏教のこともずいぶんと深入りしたことになった。青春のころなどとうに過ぎ、齢60となって、明日からは職業も役職定年だそうで(もとよりたいした役についてない)、その時期に、こうして宝林寺が閉門というので、なにか偶然ではないような流れも感じています。

 

  和尚さんは、”ああ おんなじなんだな”と言った。仏教とキリスト教のことである。それは旧約の創世記にある、善悪の実を食べた人間の話である。それを和尚さんは”それは分別ということだ”と言った。

 

  昨年神父さんたちのいつくしみにまもられて、 母が旅立った。人間の寿命。最近は90越えていく人が増えてきたので、母は早かったけれど、いつのころからか、自分の寿命に納得している母がいた。だから、兵庫に連れてくる長いドライブの中で、僕はこの人を最期の場所に運んでいるという苦しみとも哀しみともつかぬものを経験していた。予言のように、母自身がそう言った言葉”あと一年で逝きたい”を守るように母が逝った。

 

  仏教とキリスト教、なんのテーマか、僕につきつけれらた。なぜそんなことにそんなにこだわるのか?自分でよくわからない。宗教二世とかいって、オウムの子供がどうのこうのという話がある。僕も父があるときにカトリックに改宗した青年だったからこうなっているので、いわば宗教2世だこれは。しかしながら、キリスト教徒であること、”神が愛”と言う教えがなかったならば、僕は今まで生きれただろうか? 僕は、ただ自分を救いたい一心で、二つの宗教の間を行き来していただけだったと思う(しかしこの自分を救うということが妙にナンセンスでマンガチックだとだんだん思えてくるのであった)。けれども、今はその二つは、和尚さんとともに坐ったあの時間がつないでくれたように思う。おんなじなんだ。誰かがいや違うと言っても、僕にはおんなじなんだでいい。もはや僕にもそんなじ時間はないので、これは同じという結論で十分だと思う。神がいたら、世界にいろんな宗教が会って反目しあっていたり戦争すらしていたりすることを喜ぶはずはないが、今でもそうやって戦っている。ああなにか、ささやかなれどよきことをこの世にのこすこと。

 

  朝 宝林寺に行って もう出立された後だと知り、LINEでメッセージをのこした、しばらくして和尚さんの奥様から返信がきて、今、豊浜サービスエリアで休憩してますとのこと。やはり今朝立ったのだった。

 

  

 

 茶道のお点前とカトリックの聖餐が似ているという話を初めてしたのは、カトリックのミサに妻(となるひと)を初めて連れて行ったときで、あれは つくばの松代の教会で、私たちは医科学修士の大学院生だった。というその教会でその7年後くらいに、その人のお葬式をすることになるとは 思いもよらないことであったのだけれど僕らは23か4の若者であって、そのつれていった人は高校のとき自分は茶道部だったという。ミサなんてつまんないだろうと思ってあとできいたら、やたら面白いという。神父さんが、祭壇の前で、なにやらお茶のお点前のようなことをしていたのだそうだ。

 

 そんなことを考えたこともなかった。卒業後僕らはともに大阪で就職して結婚して、紆余曲折あって、転職して筑波にもどって子供といっしゅにくらして、やがて妻は病気になり、天にめされ、筑波の教会で葬式をし、僕は新宮市に幼い子供と一緒に帰って仕事を見つけようとしたが、結局は兵庫で働き口をみつけて、今に至る。

  新宮に帰っている間に、故郷のカトリック教会のクリアリ神父様(アイルランド人)にお世話になった。ある日、高校のとき茶を習った茶道の先生(カトリックの信者さんで)が亡くなり、僕はそのお葬式の説教をクリアリ神父と一緒に考えた。先生は、生前、僕が高校生で茶を習っているときに、こう言ったのである。

 

  -----  私は、キリスト教と茶道を学んで、わかりました。イエズス様は、お茶をなさっていたんやと。お茶でも濃茶を回しのみします。最後の晩餐で、ブドウ酒を、やっぱりお弟子さんとイエズス様が一つの器でまわしのみしました。

 

  河田先生(お茶の先生の名前)はそう言い、少年だった僕は、いやそれは違うやろうと思ったものだった。それから15年後くらいに、クリアリ神父と葬式の説教を考えながら、いろいろとこの件について話したのだが、クリアリ神父は非常に面白がって、カトリックには神父用のミサの古典的な教科書みたいな本があって、それには手を上げるときの角度であるとか、杯に手を添えるときの角度とか、やたらと詳しく書かれているのだと。そこが型を重んじる日本の茶道と非常に近いという。まるで型に忠実にすることで我を無くすみたいな。たしかに面白い。そのクリアリ神父も、故人となり久しい。

 

 

  写真は、西村宗斎和尚の遺作となった、”オギャーデいいのだ”の中の、”懺悔のこころ”という章の挿絵である。この挿絵は和尚さんに似ていないと言って洋子さんが残念がっていたのだけれど、不思議なことに、この絵はカリス(聖杯)とホスチア(パン:聖体)を持っている神父さんに見えるのである。そのカリスの前の障子が十字架にさえ見える。この挿絵はこの本の表紙絵にもなっている。

 

  一度、和尚に、カトリックのミサとお点前は似ていると言ったことがある。聖餐はイエスが処刑される前の晩の最後の晩餐なのですと言ったら、和尚と奥さんは、顔を見合わせた。茶道にまつわる話のなかに似たようなものがあるらしい。

 

  そこであの昔、クリアリ神父とした話を和尚さんにし、そして、時代的に宣教師が日本にきていたわけだし、茶道がカトリックの影響を受けていることはあり得ますねという話になった。そういう研究したら面白いんじゃないだろうか、とひとしきり盛り上がり。

 

  しかしあとでネットで調べるに、ミサと茶道が似ているという研究は世にゴマンとあって沢山本も出ていることがわかり、次の坐禅会のときに、和尚さん残念でした、ああいうことはみんなやってましたと言ったら、”ほう”と言って笑った。

 

  時が流れ、病床の和尚とキリスト教の話をしたときに、僕はずっとキリスト教徒の家に生まれたクリスチャンなのに、キリスト教という教えがわからなかった言った。罪、罪、といって人を責め立てているような気がしたからである。しかし、A course in mirachleを読んでいて、キリスト教が本来罪と言ったのは、アダムとイブがエデンの園にあった ”善悪を知る木の実”を食べたということだったと気が付いた。そういうことは教会でもずっと言っていたのだけれど、僕自身が罪ということを別のように思っていた。病床にあった和尚に、そのことを告げたときに、和尚は感動したように、

 

 ーーああ おんなじなんだなあ

 

 と言い、目はつむっているのに、顔の奥底から笑顔がはじけているのがわかった。あのときの、内面から湧き出てくる爆発的な笑顔を僕はおそらく一生忘れることができない。こんなこむずかしい内容の話に、病床にある人が、あんなに残された体力の限りに喜んでいるのだ。そしてそれは、いったいなぜだったのか、この本”おぎゃーでいいのだ”の210ページを読んで、やっとわかった。平成26年にそういう法話をされていた。

 

懺悔文というお経の話である

 

我昔所造諸悪業  昔より作りしおのがもろもろの罪は
皆由無始貪瞋痴  始めもわからぬ古の貪り瞋り痴さによる

従身口意之所生  身体と口と意より生まれたその罪を
一切我今皆懺悔  今こそすべて悔い改めん

 

  私が私だ、と言っていることが罪なのだ、と和尚は語ったのだった。私というものがあると思っていること。私だけの幸せのためになにかを欲しがって生きていること。私が私だという罪。そして私のことを私だと思い込むようになったのは、いつ始まったかわからない太古のむかしにその罪が生まれ、今でもそれが続いているのだ。それを今こそ悔い改めよう。和尚は、旧約聖書はエデンで善悪の判断を始めたのが罪の始まりだと書いてあると言った僕に、驚いたように

 

ーーそれは分別(ふんべつ)ということだ!!!

      あああ おんなじなんだなあーーーー

 

 と言ったのだった。

 

  あの2020年の一月に、床に臥す和尚の心の中では、この法話が思い出されていたのだと思う。私が唐突に話し出したキリスト教の罪の話にあれだけ満面の笑みで答えた和尚は、二つの世界宗教の根源に同一の真理が重なっていることを喜んでいた。懺悔文は、旧約聖書の一番初めの人祖が犯した罪(私が私だ)と同じことをそのまま言っていた(*)。

 

 

 *和尚は四国の名門 愛光学園(カトリック系)のご卒業である。
 

 

 

  

 

 

 

 

 

 このブログを読んでいるという人に出会った。相生ステーションホテルの宴会場で。初対面である。とてもよいと言ってくれたのだけれど、もとより受け狙いは皆無の単なる真面目な書き物であった。しかし読んでくれる人がいるというのは素直に嬉しいものではある。この時代は、世界に何かを伝えていても、自分でもまったくわからない。だから炎上して世界が混乱することもあれば、世界に愛がもたらされることもある。そしてレスポンスが早い時代となったのである。

 

 なぜ相生アネックスかというと、実は昨日、古珠和尚の奥さんの送別会があったからである。和尚遷化の後、宝林寺を守ってこられた奥様が宝林寺を去られることになった。相生ステーションホテルアネックスの宴会場に、40人以上の沢山の人が集まった。 工藤さんの席はあそこ(お久しぶりにお会いした彫刻家 岸野さんがそう言ってくれて)、と言われて席につくと、隣は吉田さんで、そのとなりは、和尚の奥様、その向かいは半田先生というわけで、送別される奥様のずいぶん近くに座らせてもらった。

 

  宴がすすみ、いろいろな方が奥様への送別の言葉ということで、マイクを渡されて言葉を述べた。宝林寺を見守って来たたくさんのかたがたには、弁の立つ人が多いなあと思いながら、そして洋子さん(これが和尚の奥さんのお名前)の人柄に魅されてきた人たちなのだった。半田先生が、宴のはじめに、洋子さんは明るいかたでという話をされた、そのとおりの明るさが、寡黙でまさに禅僧(しかしどこかいたすら小僧のような、しかしなりは完全に禅僧の)の、(横田南嶺老師をして、本物の禅僧と言わしめた)西村古珠和尚となぜかおもしろい組み合わせで、そこにも惹かれて人々は宝林寺に集った。

 

  私にもなにか一言を言われてマイクが回ってきたが、社会的地位のある人間でもないので慣れていないもので、立派な言葉が出てこなくて、気恥ずかしいものだったのだけれど、少しだけ話をした。

 

  ---   初めて宝林寺の坐禅会というものに行ったときに、おはようございますと入り口から叫んだら最初に出て来てくれたのが、なんか綺麗なおばさんで、あれ、こういう方がスタッフをしているのかな、ちゃんとしているところじゃないかと思ったのですが、何回か通っているとそれは奥様だということがわかりました。そして和尚と奥さんだけでミニマムにやっているのでした。まあしかしそんなこんなで、宝林寺さんにはいろんな方が来られ、坐禅をしてお茶をいただきお菓子をいただき、人によってはずいぶんと語るかたがいてべらべらと、それを聞いているわけですが、誰もしゃべらないときは奥さんがしゃべられ、というような感じで、なごやかに淡々と、そんなことをひたすら繰り返していたわけですが、そんなことをずっとやっているだけなのに、いつの間にか人が集まり不思議なことにこんなに大きな広がりになっていたりしたわけで。。ほんとうに、ここはいいところでした。

 

  たわいのない、つまらんスピーチをしてしまったなと反省したのだけれど、そういうたわいのないスピーチをしながらでも、なんとなく泣けてくるのでもあった。話し終えたら、(司会の)半田先生がなにかフォローでもしてくれるように言った。

 

  ーー和尚はそうして”道”をまもってこられたのですよね

 

 そうです。そういうことを僕は言いたかったのでした。あれはにじみ出たものです。和尚の禅風というか、あれは禅風とかいうものではなく、人間風ということばのほうがぴたりときた。会えてよかった和尚だったということ。病床にあって沢山のことを最期でもを教えてくれた。その数年後に、僕が自分の母を看取るとき、人間は去っていかねばならないけれど、生きるということにおいて、純粋にひたむきならば、人生は輝いたのだ、それで完璧だということを、やはり見せられた。つまり誰もみな完璧だ。そうやって、僕も僕自身に〇(まる)をやりなさいと、言われているのだと思う。

 

 -----  山雲海月が、お前は今ここ もう笑ってていんだよって言ってくれてるんです(おぎゃーでいいのだ 西村宗斎著 西日本新聞社)

 

  というような昨夜の宴席で、次、工藤さんですと紹介されて話をさせていただいたものだから、そうかあれが工藤さんなのか、このブログを書いている、ということがわかったため、わざわざ席のところまで話しかけに来てくれた方がいて、それが冒頭の方であったと言う話にこれはつながるのです。ずいぶんと興味を持って読んでくれていて、僕がキリスト教徒であることやら、三人の神父の話にまでちゃんと読んでくれていた。書いとけば誰か読むもんだなと思う。和尚さんが、淡々と坐禅会を毎朝やっていたことが、いつしか大きく広がってこうなったということに相通するもんがある。(と思っておこう。)

 

  水墨画家の平川さんが来ていたので、おひさしぶりとあいさつをした。ちょうど平川さんの隣が、先ほどの僕のブログのファンだなどと言ってくれたそのかただった。その方もまじえて、少し話した。キリスト教の話になり、平川さんは、仏教とキリスト教と相通ずるとこととは、といったことになにか興味深くしていた。相通ずるところ。。和尚さんはあのとき

 

 ーー ああ、おんなじなんだなあ

 

と病床に寝ながら感慨深く言ったのを、いつまでも私は忘れないと思います。イエスが罪の赦しを与えに来たのは、人間が善悪を知る実を食べてしまった罪をゆるしにきたのだったという話を和尚にしたら、ああ、おんなじなんだなと、古珠和尚はそういったのだ。

 

  禅のことは、結局よくわからないけれど、和尚がおんなじだと言ったから、そうなんだろうなあと思う。この世界は善悪が好きだ。トランプも、ゼレンスキーも、プーチンも。僕も。そして苦しんでいる。和尚さんは、あれが正しいとか間違っているとか言って比べて大騒ぎしているいるこの世界をみて、幸せの秘訣は”比べないこと”と言った。世界は今、しかし比べること、善を主張して、相手を悪とののしることがすべての世界なのだった。奇妙なことに、一つの確信として、世界を平和にしていける最短距離がそこにあるとおもえる。善悪の果実を食うのが好きな自分の大騒ぎの嵐の海の船の上で、イエスは

 

  ーー静まれ!

 

と叫び。波は静まった。と福音書にある。宝林寺に集まって、普通の人達が、静まった命のところにある至福にひきつけられた。 碇を下したように座っている和尚のそばにいて、なにか安心して坐っていた。

 

  

 

 

 

  

フォレストガンプの中で、中国から帰ってきたフォレストとジョンレノンの対談がうまいこと合成で作られていて、笑わせてくれる。

 

 二人の会話はかみ合っていない。フォレストは、中国の(当時の)人たちが何も所有せず、宗教もなく、という様子を話すのだけれど、事情を知らないレノンは、中国でユートピア的な分かち合いの世界が実現していると読み取ってしまい、感動したように言うのだ。

 

  ーーーー そうなんだ。できるんだ!!!

 

 レノンはイマジンの中で、別々に分かれた国なんてものが無い世界を想像してみようと歌った。

 

 国が分かれているのは、バベルの塔を作って天国に自分たちの力で達しようとした人間への罰として、神がそれぞれの言葉を話すようにしむけたからだと旧約聖書に書いてある。それまでの人間はきっとテレパシーで通じ合っていたんだろう。

 

  どういう理由でかはわからないが、言語とか文化とか違うことで、国は分かれている。朝鮮と韓国のように、文化と言語が同じでも事情により分かれている国もある。

 

 ところで、最近ロシア国内は景気がいいんだとクローズアップ現代だったかで言っていた。ウクライナ侵攻への報復措置として世界から経済制裁を受けているロシアがだ。それはなぜかと言うと、戦争への特需によるものだという。経済学がわからない者なので、そんな不思議があるのかと思った。実際、好景気に沸くロシア国内の様子がテレビに映っていた。やれパーティーだ、車買うんだとか。戦争のために軍需産業がうるおい、戦争にいった兵士にも家族にも多額の報酬が支払われ、戦死したらまた高額なお金と、遺族のためのいろんな金が支払われ、ある専門家は、ロシアは他人が死ぬともうかる国になってしまったと嘆いた。

 

  ええっとわからんが、自国の中で政府が金人民に払い続けても破綻しないで好景気って本当に続くんですか?素人の僕には不明であるけれど、経済制裁で鎖国のようにされても、景気がいいなんて、さすが資源を持つ大国は違うなあと思ったとき、まてよすると、レノン氏が言っていたことは本当ではないですかという気になった。国境もなく世界が一つの大国だったら、その中では経済の争いもなく、ただ協力だけがあるので、って、本当ですか? いやいやソ連はそれを実験した歴史であったが、それはうまくワークしなかったので、ゴルバチョフがつぶしたんだった。

 

  イマジンなのだ。世界がおおきな一つの国になるとしよう。教会が権威を持つってんでもなく、みんな自由な人間だとしよう。それでもそれは夢想なんだとジョンレノン自身が悩みながらも、難しさを痛感していたのだろう。たぶん、世界が一つの大きな国になっても、人はなにかを争いたくなるのじゃないだろうか。

 

  というようなことを、ジョンを若返らせたような、声そっくりのジュリアン君のValotteを気にながら、ニュースを見ながら考えるのです。ジュリアンを捨ててったジョンとヨーコはひでえやつだなと、時々僕は思うんだけれど、ジュリアン君はすくすくと育ちましたね、それになんていい曲なんでしょう。

 

 ジュリアン1963生まれ、もう僕とほとんど同い年です。父レノンのこと好きなんだろうな。この曲、レノンが作りそうなメロディにコード。きっと聞き倒したんだろうと思います。僕を置いていった父ってどんな人って。その父が夢想したのは、一つの地球のイマジンでした。そしてこの時代にまだ、地球は分裂して戦争もやります。自分の国だけ幸せなために戦い競います。おお神よ。。