僕はカトリック信者の家に生まれ、いままで生きてきた途上で何度となく、神父さんのお世話になった。つい最近も、母の葬儀を三人の神父さん(故郷に帰って新宮の神父さんに50日祭もしてもらったから、正確には4人)にしてもらい、僕のこの世界の意識の始まりから一緒にいてくれた母はついに神のみもと、宇宙の輝く無限の世界、どこかわからないけれども、すばらしいところ旅だった。
母はどこに還ったのだろう。自分自身の死もそこまで来ている。こないだ参加した高校の同窓会からまだ一週間足らずである。同窓会で最初に黙とうをささげた。鬼籍に入られた同級生や恩師のためだ。人は何のために生きているのか、という問いを、中学校のときにY君からきかされ、何も答えられなかった僕が、そのままもうすぐこの意味のわからない生の終わりに来ている。
複数の同級生から、最近病気をして死と生のはざまを経験したから、まだ生きている今は、とにかくやりたいことをやってやるというようなことを聞いた。命に限りがあるということは、人間をして、時間を大切にしようという気持ちにさせる。
昨日、コンクラーベ(邦題 教皇選挙)を見た。興味はなかったが、妻が先に見てきて、とてもいいとやたらというので。ネタバレできないが、最終的になるほどこれはという展開だ。男社会としてのカトリック神父さんの位階制度の頂点の教皇を決めるという事態が、まるでシンクロニシティのように、実世界でも行われたこの時期に、ちょうどこの映画があった。そして、その映画のメッセージは、形を大切にする教会と、形だけでは救われない人間ということだと思った。
以前の記事で僕は、教会のミサとお茶のお点前が似ていると書き、それは形を重んじるという点だと書いた。人間の心はあやふやで頼りないので、盤石な型というものに沿って自分を放下していくことは、一つの解放、あるいは安心、うまくすれば救いに導く道であるかもしれない。道元ののこした曹洞宗の僧侶で、永平寺の修行生活はそんなふうにできていた、と語っている人がいた。こういうことを書いていると、自我をワークの実践に投入することを唱えたグルジェフのことも思い出される。あるいは、僕が筑波でくらしているころ通った松代の教会で、若者を古いしきたりを重んじる東京のほうの教会(なんというところだったか忘れた。神父が囲いの中で信者に背をむけてミサをラテン語でする)つれていく先生(大学の先生だった)がいた。ついて行く若者の一人に、僕はきいたものだ(僕もその時は若者だったのだけれども)
。
ーーーラテン語で昔のミサのやりかたして、それでは意味がわからないで困らないですか
すると、その若者は答えたものだ
ーー いや、カトリックというものは、太古のものを太古の形のまま残してきたというところに価値があるのです
なるほどそうかもしれぬ。人間はバカなので、いろいろ考えて新しいものに変えて余計だめにしていたりもする。あるときから「天にまします我らの父よ」という唱え慣れた主の祈りが「天におられる私たちの父よ」で始まる口語になって、唱えにくくなり、そんなものは般若心経のように意味がわかろうがわからまいが1000年以上も変えないでやっててもいいのにねえと思ったものだ。しかし最近、こっちの口語のほうも母の墓前で祈るためにちゃんと覚えたら、なかなかいい。日本の神父さんたちが、いろいろああだこうだとうなってひねり出しただけのことはあるんじゃないか。天使祝詞はこう変わった。
アヴェ・マリア 恵みに満ちた方 主はあなたと共におられます あなたは女のうちで祝福され
御胎内の御子イエスも祝福されています 神の母聖マリア 私たち罪人のために今も
死を迎えるときも お祈りください
天使ガブリエルが若きマリアの前に、エルグレコの絵のように出現したときの言葉を前半の原型としている祈りが、口語によって本当にガブリエルさんがまぶしく輝きながら、マリア様を祝っているように感じられる。
さてしかし、時代はどうなっていくのか。自分の人生が終わりのほうに来ているから、そう思うのか、それともこの時代に新しき教皇が決まり、なにかこういうと波紋を呼ぶ(ほどこのブログ読まれてないですけれど)かもしれぬが、これが最後の教皇なんじゃないだろうかという感じがしている。たぶん、教会が必要ではなくなるときがくる。いやこなければならない。人間は、神の子だとイエスが言い、天の国は、外のどこかではなく、内面に本当にあると言った。極めて重要なメッセージとして、それは誰の中にでも平等にある。民族、宗教、性別、貧富、身分、地位、性格、を問わず。それを信じられないうちは、おそらく教会があって、古き伝統を遺してまもって継承していくけれど、いつか人間が内面の神と直結しているのがあたりまえの人ばかりが多数になるようなことになったら、それはもう変わるか消えるかしなくてはならないだろう。けれども、その内面の直結した神というものを、カトリック教会は歴史の中で、しばしば異端という言葉で処理してきた面もある。結局わからない。
己こそ己のよるべ、己をおきて 誰によるべぞ よく整えし 己こそまこと得難き寄る辺なりーー
少林寺拳法の聖句であり、釈迦の入滅のときに阿難に語ったことばから作られている(と思う)。