母をとても心のこもる神父さんたちによる葬儀で送り出してから、ああして送り出せたことはほんとうによかったと、何度も妻と話をする。

 妻は、大谷派のお寺の娘なので、いくらもお葬式を見て来た人であるけれど、あのような心のこもるお葬式を経験したことがなかったので、これはもうキリスト教徒に改宗しようかと思ったとさえ言う。いやあれは特殊な状況であって、あんな奇跡はあんまりないものなのだと、僕は言う。

 

 僕は葬式に金がかかりすぎる日本の現状が諸外国からみて異常だという話も知っていたし、そんななかで大和会館さんにたのんだので、まあまあ普通くらいにお金のかかるお葬式にはなったのであるけれど、結局、いまはああいうふうにしてよかったと心のけっこう深いところで思っている。妻はよく、お葬式は、遺された人のためのものですと言ったものだ。亡くなった人は阿弥陀様が救い上げてもう浄土に行っている。キリスト教もにたように考えている。

 

 カレン神父を新宮に送る帰路道中、僕は臨死体験の話さえも神父さんとした。なにか多くの人が神のような光を見るというではないですかと。神父さんは、そういう臨死体験ばなしのことはもちろん知っていて、そうですよ、それはあるのだと思いますと、言った。

 

 話は別の方向に飛ぶ。子供のころ絵に描いたようないじめられっ子の僕は、テレジア幼稚園で学んだ、罪もないのにいじめられて殺されてご復活したイエズス様のお話は、心の中心にずばっと入った。なにがありがたかったか?僕は一人じゃないとおもえたからであった。

 

  昔大河ドラマの "信長"を見ていたときに、捕らえられた宣教師が、ものすごい苦しみを知られているときに、二人の宣教師のうち一人が、もう耐えられぬと言ったとき、もうひとりが言ったのが

 

  ---  主の苦しみを思え

 

だった。それを聞いていた、キリスト教でもなかった元妻が、妙に感動し、これを見てキリスト教に入信する人いるんじゃないかなと言ったものだ。元妻は、けれどもその後病を得、4年後に他界するとき、本当に洗礼をうけてカトリックになり、マグダラのマリアという洗礼名をもらった(僕が成田神父に、それにしてくださいと頼んだ。彼女は苦しみを経て来た人だったからと)。そして逝ってしまった。あれから30年。

 

 30年前、妻が亡くなり、故郷に幼き息子を連れ帰って職探しをしていたころに、僕を暖かくむかえてくれた新宮の教会に、19歳の青年となって、これから神父になりますと言っていた田中ヒロト君が今は立派に成長した神父さんになって、こないだ母の葬儀を、先輩のホルヘ神父と、そしてカレン神父ともに執り行ってくれた。神様の導き。19のヒロト君と、楊枝の山中のまだ50代だったカレン神父の家にそのころ遊びにいったものだった。

 

 僕は、ずっと以前から、イエズスさまは人間の罪を背負って死なれたので、人間の罪は許されたというキリスト教の真髄のとこがまったくわからなかった。実は今もわからない。古珠和尚と話したキリスト教の原罪は善悪を知る実を食べたことだったという根源のところ。古珠和尚はそのとき、それは分別ということだ、ああ仏教とおんなじなんだなあと感動しておられたのが、もう何年も前の和尚遷化のころだった。

 

  この話は、結局全部つながっているので、どこからどう切って、僕がイエズスキリストの中を歩いている。

 

  母を送り出して、十字架の意味がすこしだけわかりました。幼稚園でいじめられていた僕が、おなじように苦しんでくれたイエズス様に魅かれたのとおなじことに思える。34歳で、イエスは死んだと言われている。人生で一番輝くくらいの青年イエスは、内奥の父が直観させたことをまっすぐ信じて生き抜いた。自分の中の中心に神がいてくださるイエズスは、誰かと比べなくても至福の人の子だったので、ずっと誰をも愛することができたのだ。自分たちが思い描くことができるいろんな人の形を超えてどんなふうなひとだったのだろうと想像するとき、やっぱり僕は神父さんたちのことを思い出す。ただありがたい話をして天寿を全うした偉人ではなく、イエズスはその成果を自分で甘受することなく、罪人として処刑、葬儀はなく、アリマタヤのヨセフが遺体をひきとって墓に入れたのだった。

 

 そこに、死があった。キリスト教のまんなかに、死があって、十字架についた遺体をあがめる。それはとても悲しくて、ある意味暗い。けれども、母を送ってあらためて思ったことは、人間はかならず死ぬ。プレザンメゾンで一番ベテランの看護師さんが 人には最期がかならず来ますと言った、そのとき僕の目からは涙がこぼれおちた。けれども、そこに十字架に、もう死んだイエスがいる。死はかならずおとずれるけれど、神が神の子としてこの世界に与えたものは、やはりみなおなじように死体になったということをみるとき、幼稚園でいじめられている僕がやはり、イエズスに救いをみたように、母が死んでも、イエズスがもう先に死んでいてくれたことから、なにか安心のようなものを、感じとっている。復活があったかどうか、そんなことはわからない。けれども、イエスが死んだことだけで、なにか癒されて来るものがあった。人がかならず通らなければならない死をイエズスは同じように通って行った。