ゆる勉 -33ページ目

漢字学習について(2)

【関連記事:漢字学習について(1)の続きです】


 漢字の概念には、他にも重要なものがあります。
 漢字の構造、つまり、“どうやって構成されているか”です。

 、という字があります。

 「かみはーながーいともだちー」

 みたいにして覚えた人もいるのではないでしょうか。(この記事は、増毛の記事ではありません)

 見ての通りではあるのですが、長+ミ(の逆)+友 という部品で構成されています。




 さらに分解すると


 

 は、ヨ(の反対)、イ(の上下反対)、ヒ、などが含まれています。
 友も、ナ+ヌです。
 
 
 
 これがまず、漢字の構成です。LDのうち書字障害の子供が「ひらがなは大体大丈夫だけど、漢字はむちゃくちゃ、カタカナはかなりあやしい」ということが多いのは、習った順番というよりも漢字がカタカナの完全上位として存在するからだと考えられています。
 カタカナの構成を見る、覚える、書く、ということが困難ならば、それを更に組み合わせた漢字は当然困難でしょう。


 そしておなじみのヘンがあり、ツクリがあり、音読みがあり、訓読みがあり、語源があり、元となった中国語があります。

 


 ある程度漢字を覚えてくると、

 月、はにくづき、身体の一部を表す漢字
 シがさんずい、水関連
 イはにんべん、ヒトっぽい
 言はごんべん、コトバに関係してる
 
 こうやって、カテゴリ分類されているはずです。
 なので肺(hai)という字の場合

 「うーん、たぶん、左側は月……」

 というところまでは、まだ習っていなくてもわかるようになるし、読めなくても「たぶん身体の一部だろう」と推測できます。

(漢字の意味が表記からピンとこない場合、この中国語から輸入する過程でイリュージョンが起き、なんだか全然違う意味になっている事が多いです。更に日本オリジナルの字もあったりして違う文字だったものが同じ文字になってしまったり、同じ文字だったものが違う文字になったりしているので、厳密に部首で意味を分類していくと「あれー?」となります。無念)

 


 漢字を覚える、という行為、というか現象は
 

 漢字を漢字として認識し、“漢字というカテゴリ”に収納(インプット)し、それを再構成してアウトプットする

 ということが出来れば、どんな覚え方でもいいはずです。



 そして、どんな覚え方でもいいとは言え『どんな覚え方が向いているか』は、人によってある程度得意不得意があると思います。
 大体、次のような感じです。



 【漢字学習について(3)に続きます】

 

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漢字学習について(1)

[漢字力] ブログ村キーワード

 こんにちは、蕪です。
 冬は好きな季節なのですが、秋はもっと好きなので、終わりそうなのがさみしいです。
 頬を切るような冷たさは好きなんだけど、手が冷たいのには耐えられないー。
 
 
 今回は、漢字について。
 アメブロに誘ったのが私なので、身内紹介的になってしまうのですがこの人が漢字学習について(主に教える側として)書いていたので、私も考えてみたいと思いました。



漢字ドリルについて

 就学前~小学校中学年ぐらいまでは、ある程度必要なものだと思っています。
 ただしこれは『学習の基本を作る教材として』です。
 
 『学習の基本を作る』
 ということは、机に座り(実際に座ってるのは椅子だけど……)、鉛筆を持ち、紙に書く、という

 作業をするための身体(脳)を作る、ということです。

 子供は腹筋、背筋などの筋力が発達していないと、ちゃんと座るのが難しいです(赤ちゃんの首が座ることの延長です)。
 同じように、腕や手が不器用だと、書くことがそもそも苦しい行為です。
 

 見たものを書き写すという行為は、これら身体の発達を促す効果と、『よく見る』ということに繋がると考えます。
 お手本を見て、書いている字を見て……という行為です。
 これは見えている範囲を絞り(カメラのピントを合わせる作業です)、“漢字”を抽出し、それを脳で処理し、手にアウトプットさせる――という『つながり』を作るのに有効だと思います。
 
 他、あまり知識に頼らない学習なので“どの子も褒めやすい”“達成しやすい”という利点があり、「よくできたね」「がんばったね」と声を掛け、花マルをつけ、達成シール表などを貼る、という指導は小学校低学年においてはとても大事な事だと考えます。

 
 
ある程度の年齢(発達段階)に達したら

 少し思い出してほしいのですが、手書きで漢字を書く時、漢字ドリルで学習した漢字しか書けないという人は少ないのではないかと思うのです。
 殆どの人は中学か高校のあたりで、漢字ドリルを止めているのではないでしょうか。
 
 代わりに、たとえば【漢字テストが毎週・毎朝ある】という状況だったと思います。
 これは毎日真面目にやってる人もいれば、前日に必死になる人、直前に暗記する人(範囲がわかっている場合)、といたはずです。
 そしてこの漢字テスト、どうやって対策を立てるべきか、学校の先生はあんまり教えてくれません。
 
 漢字は自分で毎日やってね

 という感じです(……駄洒落だ)。

 なので最初から漢字が得意な人はずっと得意で、苦手な人は苦手なまま。
 
 このテストでだんだん漢字が得意になる人も勿論いるのですが、そういう人は“誰かに教わったか、自分で構築するかして、漢字の覚え方を習得した人”です。
 または、“範囲がわかってる漢字テストは得意だけど、範囲のわからないテスト本番では書けない人”です。
 


 さて、ここからが本題です。
 
 漢字を覚えるという行為は、まず漢字の概念を理解するところから始まると考えます。
 それまで習っていた表音文字(ひらがな・カタカナ)から、急に表意文字で、音訓と読みが変わる、不思議な図形を習うのです。
 
 そのうち、この不思議な図形が“文字である”というルールを認識します。
 大人はひらがなだらけの文章は読みにくいですが、子供は『漢字』は『へんなルールの絵』なので、ひらがなのみで構成された文章のほうが読みやすいはずです。

 漢字=文字

 になり、ひらがな・カタカナと同列に扱えるようになれば、まず『ひらがな・カタカナはそのまま読み、漢字は漢字のルールで読む、という文字のルール』が出来あがります。

 これが“漢字の概念”のうちのひとつです(ひらがな・カタカナとの対比としてのものです)。


 この概念がしっかりしていないうちは、たとえばカタカナの「カ(ka)」と漢字の「力(ちから)」を同じものだと思ってしまいます。
 文脈から判断できるだろう、とか、区別がつきにくい、ということではなく、全く同じものなので

 「きょう、は、か、れー、を、たべ、まし、た、お、、、おとう、さ、ん、は、か、も、ち、なの、で、ナベ、を、かた、て、で、もって、い、ました」

 と、本気で(一生懸命)読んでしまいます。
 (今日はカレーをたべました。お父さんは力もちなので、ナベをかた手でもっていました)
 
 
 この場合、今日=きょう、お父さん=おとうさん、は一対一対応で覚えることが出来ていますが、

 カタカナのカ「(ka)」と漢字の「力(ちから)」を混同している

 ので、先に覚えた(ka)という読み方しかインプットされていない、という例です。


 漢字の概念が出来ていれば「これは漢字なんだよ」と言うだけで理解できますが、漢字の概念が出来ていなければ「だって、おんなじじゃん!」ということになります。
 別に目が悪いんじゃないんです。ネットで表示されているカと力だって、並んで書いてどっちがカタカナのカだか、私にはすぐにわかりません。
 


 漢字学習について(2)に続きます。





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自己評価を上げる

 こんにちは、蕪です。(※田渕さんの影響を受けつつあります)
 blogタイトルも、とりあえず漢字に。
 アクセスや反応を気にするより、出来る事からしていこうと思います。
 


 蕪は「かぶら」と読みます。いわゆる、カブです。
 無という字が入っているところが好きです。
 
 そして、限りなく本名です。
 珍しい名字なのですが、「珍しい名字の本」などで私の本名を見かけたことがありません。うーん、珍しくないのかな、いや、『武者小路』とかみたいにゴテゴテしていない分【珍しい名字】とすら認知されていないのかもしれません。



 今回は、セミナーの提出もなんとか終わったので、それと少し関連した最近の課題である“自己評価”について書きたいと思います。
 私の体験談が中心なので、万人に通じるものがあるかはわかりません。



 
 自己評価というのはそのまま、自己への評価です。

 「私は頭が悪いから駄目だ」

 みたいなやつです。

 逆に

 「私は天才なので不可能は無い」

 みたいなのもそうです(こういうのを繰り返す人は、躁鬱のケがあるかもしれません)。



 似たものとして、“自信”とか“セルフイメージ”とか、色々な言葉があります。
 
 “セルフイメージが自分を決める”とか。

 どこかで見聞きして「その通りだなー」と思う事があったり、「よし、上げよう」とした人も多いんじゃないでしょうか。
 
 
 
 自己評価なので、自分で勝手に評価すればいいのでしょうが、私はこれがうまく出来ません。

 鏡を見ればちょっと残念な人がそこにいるし、
 体重計に乗ればどう見ても多いし、
 履歴書に書ける事がほとんどありません。

 そんな“目に見える現実”を前に、がっかりしてしまいます。
 
 
 自己評価を上げるには、“目の前のことを認識する”だけでは駄目なのですね。
 嫌なところから良いところ探しをしたとして(あ、でも、目はカワイイんじゃない?等と)、その良いところを見て「うん、上がった」というのは、一時的に上がったとしても『だ、だまされないぞ』という声が聞こえます。

 じゃあどうすれば私の場合自己評価が上がるのかな?
 として出た結論として“客観的なデータ・評価が得られるもので上げる”ということでした。

 
 まず、とある知能検査を受けました(とあるもなにも、WAISかビネーぐらいしか無い気もするけど、、)。
  
 これはある意味で、受けて良かったと思います。
 目が悪いのであまり視覚認知能力には自信がなかったのですが、むしろ“得意”と出たことで、学習時の効率がかなり変わりました。


 物事を良く知らないし、暗算もほとんどできないし、1日1回は家の中で何かにぶつけてアザを作るし、冷蔵庫でハサミは冷やすし、どんくさくて頭悪いなあ、という評価から

 “やればできるポテンシャルはあるはず”

 という評価までは上がったわけです。
 (とりあえず、ハサミは冷やさなくなりました……たぶん)


 次に、学力。
 
 漢検、英検、TOEIC、日本語検定、など色々ありますが、これはまず高認を受けました。
 もちろん、高卒資格ないから受けたわけです。
「どうせ勉強して試験受けるなら、意味のあるものにしよう」
 という考えですね。欲だらけです。
 ここで大型二輪免許を選んでいたら、今のblogは無いかもしれません。
 

 結果としては簡単な試験だったわけですが、これに合格出来たことが、とてもうれしかったです。
 家に帰って恐る恐る答え合わせをして自己採点をし、「これはさすがに受かってるな」と思った時、パラダイムシフトが起きました。
 
 どういうのかというと「あ、勉強してもいいんだ」という感覚です。
 私は勉強が嫌いだと思ったことは一度も無いのですが、「もう勉強をしていい年齢ではない」と決めつけていたのです。中卒のほぼニートな家事手伝い・主婦・母として生きて、たまにボランティアをするというような人生を受容していたはずなのに、「いやだ!」と強烈に思ったわけです。

 
 そう思ったら、今まで押し込めてきた“やりたかったこと”がうわーっと出てきて、あっという間にその後の人生設計をしました(どうやら、ずっと考えてはいたようです)。
 最終目標から逆算し、志望分野・志望学部・志望校を絞り、自己採点したその日から受験勉強を始めました。

 (こうして、このblogが始まったのですが、何せ今年の8月の話なので……)



 

 ダイエットやメイク研究などもそうですが、自己評価上げの計画は、まだまだ続いています。
 
 記憶法セミナーに参加したのも、記憶法をマスターすることも勿論ではありますが“1つのことをやり遂げる”ということに挑戦するためです。

 今のところ、これは本当に正解だったと思います。
 毎回の課題があり、それを達成することで、『週1回、大きな達成感を得る』ことができます。
 今後も何かこういったものに手を出してしまいそうですが、記憶法セミナーが終了したら模試や各種試験などを小目標にしていきたいと思います。


 どうも私の場合

 『期限がある』(これを逃すと、あと半年受けられない、など)
 ものを
 『達成する』

 という「できた!」が、自己評価にすごく影響するようです。
 結果に関わらず、「受けることが出来た」だけでも、達成感があります。
 何せ結果はすぐ来ないので。笑



 結果は、ご褒美だと思っています。
 後から来て、「やったー!」と喜んで、ちょっとお祝いしたり。
 「ほめて!」と見せたり(見知らぬ人にやってはいけません)。


 こういうことが重なって、『自信』になるのだと思います。
 根拠がある自信なら、自信満々でも嫌味に見えないんじゃないな? とか。
 


 私のこういった過程が、誰かの役に立つんじゃないかなーと、ぼんやりと思っています。
 少なくとも将来の私にとっては、必ず役に立つ!と確信しています。
 




ついったーやってます
 (ちょっとはまっているようです。でも、今日はメンテです。) 
 

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